今回で終わることが出来るんでしょうか・・・?

僕がどうしても忘れることの出来ない人のことを書いてきましたが、果たして今回が最終回と

なるのでしょうか・・・?僕自身も、自信がありません・・・(笑)

羽部さんが仙台に移ってから間もなく、僕達夫婦も秋田に移り住むこととなりました・・・。

秋田県本荘市の和・洋菓子製造販売の老舗?「とみや菓子舗」の後継者として一緒に住むことに・・・。

戦後におじいちゃんが立ち上げた和・洋菓子店・・・、「老舗」と言えるかどうかわからないけれども、

市内では、1・2を争う和・洋菓子店であることは間違いなかったのです・・・。

今は後継者もなく、支店をやっていたお姉さんのご主人も店を閉めてしまい、

もう「とみや菓子店」は、残念ですがなくなってしまったそうです・・・。

銘菓「影鳥海」や「イチジクせんべい」「イチジク甘露煮」「黄金饅頭」「長崎カステラ」など・・・、

たくさんの銘菓を生み出して、そこで修行したたくさんの職人を輩出した名店であり、

今は秋田県内各地に散らばり、店を開業したり老舗の職人になったりと活躍しています・・・。

人間的に魅力のあったおじいちゃんを慕っていた人が多かったようです・・・。

そのおじいちゃんも、昭和62年2月20日に前日まで仕事をして、眠るように亡くなりました・・・。

享年83歳、朝起きて来なかったという大往生といっても良いような穏やかな亡くなり方でした・・・。

お寺に頼んで付けてもらった戒名は、佐々木富造だったので「壽道法富信士」でした・・・。

その店に勤務するようになったある日・・・、羽部さんが仙台から僕を訪ねてくれました・・・。

一緒に駅前の居酒屋で、久しぶりに杯を交わしました・・・。

池田先生が好きだと言われたことのある「一献歌」や「武田節」「荒城の月」などの歌も研究し、

風流を愛する人でしたし、熱い血潮のみなぎる人でした・・・。

そんな人だから、自分も大変な状況なのに、妻の実家に移り住んだ僕の状況を気に掛けて、

訪ねて来てくれたんだと思います・・・。

昭和59年12月に移り住んでから間もない、昭和60年の春だったと思います・・・。

東京にいた頃は、よく飲みに行っていたのですが、別の地で飲むのはとても新鮮でした・・・。

それと秋田に住んでから知ったことなのですが、こちらでは春の来るのがとても待ち遠しいということ・・・。

厳しく辛い冬が過ぎ、桜花爛漫、新緑がまぶしい春を迎え心も舞い踊るような時期・・・、

そんな時期の再会がとても嬉しかった・・・。

「これからもこんなことが続くんだろうなぁ~~」と思いながら飲んでいたものでした・・・。

それからしばらくして、羽部さんは体調を崩して、実家の愛知県に戻ったことを聞きました・・・。

実家に戻ってからは、夜勤で警備員をやっていたようです・・・。

そんなことで時は過ぎ、夏の行事は全て終わり、秋の繁忙期に備えて準備をしていた時のこと、

東京から連絡が入りました・・・、「羽部さんが愛知県で亡くなったそうだ」と・・・。

連絡先を聞いて直接電話したら、お兄さんだったかが出て死因は急性心不全だったとのこと・・・。

夜勤で警備員の仕事中の出来事だったそうです・・・、時間も深夜1時頃・・・。

すぐに香典を送って、弔意を示しました・・・。34歳は・・・、早過ぎるよね・・・。

こうやって考えてみると、羽部さんの人生の後半は、退転状態の僕を立ち上がらせることが、

「もっとも大きな使命だったのかな?」と思えてならないのです・・・。

日蓮仏法では、永遠の生命を説きます・・・。

その点から言うならば、亡くなってから今年で32年経ちますので、どこかに生まれていても、

不思議はないと思いますが、そうだとすれば20代後半から30歳位でしょうか・・・?

青年部でしょうか?男子部?女子部?それともまだこの教えを知らないのでしょうか・・・?

そんなことを考えると、わからないことだからこそとても不思議な感じがしますよね・・・。

何回かお見合いしたそうだけれど、羽部さんの良さをわかってくれる女性には出会えなかったみたい・・・。

僕もおふくろに、

「あなたの良さをわかってくれる人にはなかなか出会えないだろうけれど、諦めずに探すことよ」

って言われたことがあるんです・・・。羽部さんと良く似ているのかも・・・。

香典のお返しのものに、戒名の書かれた紙が掛けられていましたので、それを保存してあります・・・。

戒名は「清涼院法布信士」。  何だかとても羽部さんらしい戒名・・・。命日は、昭和60年9月9日・・・。

 ← 戒名の書かれた紙

今日が32回目の祥月命日・・・。

この戒名の書かれた紙を、過去帳に挟んで毎月9日に回向しています・・・。

遅れないように、本日この記事ををアップしました・・・。

ちなみに今日9月9日は、「ロールケーキの日」だそうです・・・。

9がロールケーキをまいている途中のような形だからなんでしょうね・・・。

やっと「僕の・忘れ得ぬ同志 ~羽部清編~」は、4回で最終回を迎えることになりました・・・。


今日は、この辺で・・・、出羽股之介・・・。

現在の僕は、バツイチ独身独り暮らしの超・貧乏人です・・・(笑)

30年位前には、とりあえず結婚していて外から見ると幸せな生活を送っていました・・・。

僕は以前にも話したように、ぎりぎりの成績で亜細亜大学に入学しました・・・。

亜細亜大学は、1955年(昭和30年)僕の生まれた翌年に設立された、比較的新しい

大学なのです・・・。 ← 僕はこの記事を書くまで、設立年度を知りませんでした・・・(笑)


建学の精神は・・・、『 自助・協力 』

詳しくは・・・、  http://www.asia-u.ac.jp/   まで・・・。


その亜細亜大学は、亜細亜学園の大学でほかに日本経済短期大学があり、

僕の嫁はその日本経済短期大学に秋田の女子高から推薦で入学していました・・・。

その女子高校は、秋田県立の女子高校で後に共学になりましたが、僕が見る限り

郡内(本荘由利地域)ではもっとも品行方正な生徒の多い学校のように見えました・・・。

ちなみに、現在日本経済短期大学の名称は消え、亜細亜大学短期大学部となってます。

彼女は、どのクラブに入るかを悩んだ末、入学ガイダンスの時に知り合った友人と共に、

僕の入っていたFDC ( フォーク・ダンス・サークル、日本語では・民族舞踊研究会 ) に

立ち寄ったらしいのです・・・。

彼女は太い太もも(笑)を露わにした超ミニスカートの、田舎のお嬢ちゃんでした・・・。

しばらく女性に縁のない男子高校生だった僕が、そんな1歳下の女性に

恋心を
抱くのにそれほど時間は掛かりませんでした・・・。


でも、しかし・・・、


当時僕は、ダンスパーティーで知り合った東京家政大学の1歳年上の女性と半同棲の

付き合いをしていました・・・。

その半同棲をしていた女性は、沖縄出身のまじめで清楚な女性でした・・・。

僕はそれまで、南沙織や早見優などの南方系の顔立ちの女性が好きでした・・・。

この人も、ちょっとタイプは違うけれど南方系の顔立ちでした・・・。

この女性の下宿は、男子禁制のアパートだったのですが、僕は家で入浴を済ませた後、

彼女の家に向かい夜を過ごすという生活をしていました・・・。← だから「半同棲」・・・(笑)

この女性の家に行くと留守で、下駄箱に「銭湯に行ってきます」との置手紙・・・。


僕もその銭湯に行き女性が出てくるのを待つと言う、その頃流行のフォークソング

「神田川」さながらの光景でしたが、裏に神田川はなく実際はちょっと違ってましたが・・・。

その頃僕は、伯母さんの知り合いから譲ってもらった、日産ブルバード(実はボロバード)に

乗っていて、彼女の家に行く時は比較的多く利用していたのです・・・。

でも彼女のアパートには駐車場もなく、路上駐車で一晩過ごしました・・・。

その道路は、色々とニュースで騒がれる朝鮮中高級学校の前の道で、通常でも警察官の巡回が

とても多い所だったのですが、僕はそんなことよりも彼女に会えることの方が大切で、

後先を考えずに駐車してました・・・。

翌朝帰ろうと思って車の所に行くと、ボンネットのミラーには鎖の付いた黄色のアクセサリーが・・・、

そう駐車違反告知票・・・(笑)そのままでは恥ずかしくて走れないので、駅前の交番で外してもらう・・・。

あっ!すみません、今から40年も前のことなんで、今はこの告知票は使っていないのかも・・・。

そんなことが2・3回ほどあっただろうか・・・?家庭裁判所から、呼び出し通知が・・・。

おふくろと一緒に家庭裁判所へ・・・、1回の違反に対して出頭したのですが、

その他にもあることを伝えたら、あきれ顔の指導員(女性)が調べて書類を持って来た・・・。

ありました・・・、これも一緒に今日審査しましょうということで、処理してくれました・・・。

結果は、未成年ということで罰金はなしで、点数の減点だけで全ての事件が終了しました・・・。

おふくろには迷惑をかけたと思っています・・・。帰りに、新宿の三平食堂で、

食事をして帰りました・・・、懐かしい思い出です・・・。

その後彼女の家に行く場合には、バスを使うことにしました・・・。

大学に行く時には、環状7号線羽沢バス停から高円寺駅までバスで行き、

高円寺-武蔵境間は、JR中央線という経路で通学してました・・・。

このバスは、国際興業・関東バスの交互運転路線で、高円寺北口-赤羽駅東口間となっています・・・。

この記事を書いていてはじめて知ったこと・・・、路線バスで、何で2社が入っているんだとの

疑問を持ったまま、現在まで来てしまいましたが、今日初めてわかりました・・・。

運行される路線が長く営業エリアが二ヶ所に渡ってしまうため、一社だけでは営業が出来ず、

苦肉の策として2社での相互運転になったみたいです・・・。

南側は関東バスのエリア、北側は国際興業バスのエリア・・・。

この路線のうち、僕が住んでいた場所の近くの環7・豊玉陸橋の写真を載せておきます・・・。

 ← 環7豊玉陸橋の関東バス


関東バスは、写真の赤白のツートンで、国際興業バスは、緑と白の3トーン・・・???

国際興業のバスは、秋田・秋北バスや岩手県交通のボディと同じで見覚えのある方も・・・。

これは、国際興業系の会社だからなのかも・・・。

 ← 国際興業バス


子供用のページもありました・・・。リンクしましたので、画像の使用お許し下さい・・・m(_ _)m

http://5931bus.com/kids/download/

都内の路線バスの中でも比較的長い部類に入り、今も同じだと思いますが全線均一料金で、

通学定期も全線買うことが出来ましたので、彼女の住む家まで徒歩5~6分のバス停まで

同じ定期券で行けるのでとても便利でした・・・。同棲=通学・・・???

急いで行きたい時には、同じルートを走る都営バスの、新宿駅西口-王子駅線を使いました・・・。

こちらの路線は、都内で1番に長いかも・・・。

彼女のアパートは男子禁制なので、鉄製の階段もあまり音を立てずに登り、靴はすぐに

下駄箱に入れるという、秘密裏に行動する芸能人のアイドルのような状況でした・・・(笑)

2階の部屋は僕の記憶では3つだったのですが、他の2人は男性が夜な夜な来るのを、

知っていても知らないフリをしていてくれていたようです・・・。

彼女の人望なのか、他の二人の優しさだったのでしょうか・・・?感謝です・・・。

その彼女から学んだこと・・・、「沖縄の不良は、怖いということ」と「ワイヤー入りブラジャー」

信州旅行なども行き、楽しい思い出を残しましたが、全て頭の中そっと仕舞ってあります・・・。


二人とも写真があまり好きではなかったので、小さく写る1枚だけが今も残っています・・・(笑)

でも、徐々に心が離れていき、秋田の女性の出現により決定的に・・・。

別れる時には、それまで送った手紙をコタツの上の灰皿の上で焼かれました・・・。

僕の一方的な恋だったのでしょうか・・・?彼女からの手紙は、1通も残ってません・・・。

また今回も、1回では書ききれなくなりました・・・orz


今日は、この辺で・・・、出羽股之介・・・。


 


『僕の・忘れ得ぬ同志』も、 第3回を迎えましたが果たして最終回となるのか・・・、


僕自身も疑心暗鬼のなか、記事を書いています・・・(笑)


僕の記事を読んで下さっている皆さんは、僕が下書きをしていても、


とても横道に逸れる人間だということを、イヤ(笑)というほどご存知でしょう・・・。


出来るだけ要点をまとめて理路整然と書いて行きたいと思います・・・。


どこまで出来ますことやら・・・(笑)

 

     ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

 

桜台本部?桜台支部?の大運動会まで書いてきましたが、当時の組織は

 

桜台本部・桜台支部・桜台北地区・青砥(あおと)ブロックだったと思います・・・。

 

桜台支部は、住所で練馬区桜台1~3丁目までがそのエリアでした・・・。

 

僕が住んでいたのは、東京都練馬区桜台3-20で、同じ番地に

 

ブロック長の青砥さんの家があり、ブロック長の名前から青砥ブロックになって

 

いたように思います・・・。

 

同じ番地の青砥さん宅が、ブロック拠点で地区拠点(個人会場)だったので、

 

他の会員さんよりも、近くてとても楽をさせていただいていたなぁと思います・・・。


青砥さんの家は、地元の市場的な複合小売店で、青砥さんはパン店と菓子店を、

 

他には食品雑貨店、精肉店、青果店、鮮魚店が入っていて、

 

ほとんどの食材は手に入る状況で、地元住人はとても助かっていました・・・。

 

コンクリートの床の店を通り過ぎて左奥へ行くと、鮮魚店の脇に扉があり、

 

各店の人々や来店客、青砥家の人々が使うタイルのトイレがありました・・・。

 

そこを過ぎると多数の人が使える下駄箱と2階への階段が・・・。

 

この階段を上ると青砥さんの自宅兼広い会場です・・・。

 

今考え思い出しても、青砥さんの家族はどこで寝ていたんだろうと思う位、

 

自宅のほぼ全てを座談会場として提供されて、とてもご迷惑をおかけしていた事

 

今更ながら、感謝の気持ちで一杯になりました・・・。

 

池田先生がいつも個人の会場提供者への敬意を払われていること、

 

思い出しながら、強く感謝の気持ちを感じることが出来ました・・・。

この青砥さんの市場・・・、「南町市場」から「桜台3丁目ストアー」と僕が生まれた時から

あった地元の市場が・・・、今Googleマップで見たら、全てマンション風の建物に変わり、

もうなくなっているのを知り、とても残念な気持ちです・・・。

5~6年前のGoogleマップでは、あったのにね・・・、そうなんだ・・・orz

青砥さん宅に電話をしてみたけれど、電話番号は他の人に変わったみたい・・・。

 

その市場から4~5mの小道を挟んだ3階建て?のビルに、羽部さんは居住・・・。

 

たしか3階だったかな・・・?2階には、壮年部になりたての村田さんが住み、

 

素敵な奥さんとかわいい女の子がいました・・・、人見知りしない子でした・・・。

 

残念ながら、名前を忘れてしまいました・・・。

 

羽部さんは一人暮らしでしたが、外食はあまりせずに自炊をしていたようです・・・。

 

そのため、隣の青砥さんの市場はとても便利だったのではないでしょうか・・・?

 

そんな時、1982年9月18・19日に『第2回世界平和文化祭』が西武球場で

 

行われましたが、男子部の拠点になっていた羽部宅は、練習に頑張る男子部員の

 

活動拠点ともなっていたのです・・・。

 

練習のない人は唱題会を開いたり、練習で疲れた部員達のために何かしてあげようと集まり、、

 

カレーライスやシチュー・伝統のトン汁も準備して、頑張りを手助けしたり体力付けたり、

 

本当に皆の心がひとつになった、素晴らしい時間でした・・・。

 

羽部さんの仕事は、教育教材を販売する会社の営業社員・・・。

 

僕も営業だったので、気も合ったし話も分かり合える部分が多かったみたい・・・。

 

出張で地方に行くと、そこからわざわざ手紙を送ってくれるというぐらい

 

マメな人で、それだからこそみんなが慕うんだろうなと思いました・・・。

ただお気付きになった方もあるかもしれませんが、羽部さんの勤めていた会社は、

それほど評判の良い会社ではなく、羽部さんは顧客のために頑張って働いていたようです・・・。

そんなこともあり、別の会社への転職を考えていたようです・・・。

その様子を僕には率直に話してくれました・・・。

信頼できる上司の下で、まともな仕事に就きたいと強く思っていたのではないでしょうか・・・?

そこで面接したのが、冷凍食品会社「シーホース」という会社だったのです・・・。

関係者はご存知だと思いますが、山崎正友が経営していて倒産した会社・・・。

羽部さんの面接は、山友(山崎正友の略称)のマンションで行われたようですが、

羽部さんは、室内にとても違和感を感じたらしいです・・・。

というのは、室内に仏壇はあったものの、周囲は掃除もされずに仏壇の中にも綿ぼこりが・・・。

普通の学会員なら、勤行・唱題が終わった後は表面の扉を閉めて中にホコリが

入らないようにするのが当たり前なのに、開けっ放しはおかしいし、ホコリなんてあり得ない・・・。

やはり信仰心なんて全くなく、ただただ創価学会を利用しようと考えていたんだなぁ~~と

すぐに応募を取り消したとのことでした・・・。

僕が、妻の実家の後を継ぐために秋田へ移る時期と前後して、羽部さんも


仙台の支店に転勤しました・・・。

この転勤は、羽部さんが会社に色々改善を提案したことに対する左遷だったのかも・・・。


仙台からの手紙では、仙台でも男子部の拠点として家を提供しているにもかかわらず、

 第一線で戦うことが出来ないのが、残念だともらしていました・・・。

東京で「部長」として頑張っていたのですから、通常ならそのまま「部長」として、

もしその立場に空きがなければ副役職の「副部長」で活動できるようになるのですが、

ただの部員として、引っ張られる立場になったことに、とてもガッカリしていたようです・・・。

ただの通りすがりでいつかまた居なくなる会社員として、扱われてしまったのでしょうか・・・?

 

仙台でも、よそ者に対する感情が違うらしいのですが、その時は何も感じずに

 

過ごしてしまいましたが、居住が長くなれば長くなるほど「そういうこともあるんだ」と

 

思うようになりました・・・、今考えると、東北人の劣等感なのか・・・?

 

排他的・閉鎖的になってしまい、自分達先住民を守ろうとすることに一生懸命になるのかな・・・?

 

これじゃ、騎兵隊とアメリカインデアンが争った、アメリカ開拓時代と同じじゃないか・・・。

 

この劣等感が吹っ切れれば、東北ももっともっと発展できるんじゃないだろうか・・・?

羽部さんのことで、もうひとつ忘れられないのは 出張の時のことです・・・。

出張で泊まりの時、わざわざ近くの創価学会の会館を探して、ご本尊様の前で、

勤行唱題をするという純真な姿勢は、僕も泊り出張の時にはマネさせてもらいました・・・。

今考えてみると、羽部さんが身近で包み隠さずに話せる人間は、僕しかいなかったのかも・・・。

考えることも、信心に対する姿勢も、現状に満足しないという前向きさも・・・、

二人は良く似ていたのではないでしょうか・・・?

以前に書いた数珠のかけ方・・・、「中指の第1関節に・・・」も、羽部さんの受け売り・・・。

さらに御書に出てくる語句の中で、「等」という文字に関して話した言葉が忘れられない・・・。

「等」は、御書の色々なところに書かれているけれど、使い方によって読み方が違うんだ・・・。

前に人間が来る場合、たとえば「大臣・公家等」の場合は、「ら」や「など」と読んで、

前に物が来る場合、たとえば「米や麦等」の場合は、「とう」や「など」と読むのだそうです・・・。

要するに、前が人間の場合は「ら」で、物の場合は「とう」、どちらにも使えるのが「など」なんです・・・。

だから、「大臣・公家等」を「だいじん・くげとう」と読むのは間違えなんです・・・。

また法華経二十八品の名前も、それぞれ「HON」「BON」「PON」と違うのは知ってましたか・・・?

「方便品第二」「如来寿量品第十六」・・・方便PONと寿量HONと読みます・・・。

PONと読むのは、方便品第二と従地涌出品第十五の2つだけ・・・。

BONと読むのは、観世音菩薩普門品のただ1つだけです・・・。

それ以外の25品は、全てHONなんですね・・・。

羽部さんは、教学に対しても、真摯に研究していました・・・。

そんな羽部さんをうまく利用できなかった仙台は、まだまだだなぁ~~と思います・・・。

↑ ↑ ちょっと上から目線過ぎたでしょうか・・・?

ここ秋田と比べると、 仙台は東北のけん引役であり、頑張ってもらいたい中心地・・・。

今改めて考えてみるとその仙台も、今から30年も前からこんな状態だったのを痛感しました・・・。

秋田はもうだめなんでしょうか・・・?ブロック五勇士、全国版には、一つも載せられていないし・・・。

求道心(最近あまり聞かなくなった言葉だけど)が、なくなってしまった結果なのだろうか・・・?

求道心があれば、仮にも中央で部長をやってきた人間に対して、自分達の受けたことのない

指導を聞きたいと思うのは、信仰をする者、特に創価学会員には当然のことだと思うのです・・・。

===ここからは、8月25日夕方に実際に起きた出来事===

今何年ぶりかで、地区部長が来ました・・・。

第一声が「(地元の)本荘文化会館が出来るの知ってるかい」って・・・(笑)、

聖教新聞で見たけど知ってるかどうかに答えず、「地区部長が、連絡くれないから・・・」と答えた・・・。

この本荘文化会館の建設に関しても、聖教新聞に建設が発表されていないのに、

聖教新聞の「今日の発心」で、噂話大好きな地元本荘大勝県の遠山県婦人部長が、

建設を発表してしまった・・・、その後しばらくしてから、聖教新聞紙上でも発表・・・。

その後しばらくは、建設も進まず、現会館の隣の建設用地は荒れ野原・・・、

どうなっていたんだろう・・・?1年後位かな?遠山県婦人部長も、総県副婦人部長に・・・。

何も聞かなかったからわからないが、年内には完成するのだろうか・・・?

出来たら聖教新聞に載るからいいか・・・(笑)聞いたからどうなるわけでもないし・・・。

=== ここまでが、書いている時に起きた出来事でした ===

何か、また脇道に迷い込んだみたいで、最終回にはなりませんでした・・・m(_ _)m


では、今日はこの辺で・・・、出羽股之介・・・。