『僕の・忘れ得ぬ同志』も、 第3回を迎えましたが果たして最終回となるのか・・・、
僕自身も疑心暗鬼のなか、記事を書いています・・・(笑)
僕の記事を読んで下さっている皆さんは、僕が下書きをしていても、
とても横道に逸れる人間だということを、イヤ(笑)というほどご存知でしょう・・・。
出来るだけ要点をまとめて理路整然と書いて行きたいと思います・・・。
どこまで出来ますことやら・・・(笑)
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桜台本部?桜台支部?の大運動会まで書いてきましたが、当時の組織は
桜台本部・桜台支部・桜台北地区・青砥(あおと)ブロックだったと思います・・・。
桜台支部は、住所で練馬区桜台1~3丁目までがそのエリアでした・・・。
僕が住んでいたのは、東京都練馬区桜台3-20で、同じ番地に
ブロック長の青砥さんの家があり、ブロック長の名前から青砥ブロックになって
いたように思います・・・。
同じ番地の青砥さん宅が、ブロック拠点で地区拠点(個人会場)だったので、
他の会員さんよりも、近くてとても楽をさせていただいていたなぁと思います・・・。
青砥さんの家は、地元の市場的な複合小売店で、青砥さんはパン店と菓子店を、
他には食品雑貨店、精肉店、青果店、鮮魚店が入っていて、
ほとんどの食材は手に入る状況で、地元住人はとても助かっていました・・・。
コンクリートの床の店を通り過ぎて左奥へ行くと、鮮魚店の脇に扉があり、
各店の人々や来店客、青砥家の人々が使うタイルのトイレがありました・・・。
そこを過ぎると多数の人が使える下駄箱と2階への階段が・・・。
この階段を上ると青砥さんの自宅兼広い会場です・・・。
今考え思い出しても、青砥さんの家族はどこで寝ていたんだろうと思う位、
自宅のほぼ全てを座談会場として提供されて、とてもご迷惑をおかけしていた事
今更ながら、感謝の気持ちで一杯になりました・・・。
池田先生がいつも個人の会場提供者への敬意を払われていること、
思い出しながら、強く感謝の気持ちを感じることが出来ました・・・。
この青砥さんの市場・・・、「南町市場」から「桜台3丁目ストアー」と僕が生まれた時から
あった地元の市場が・・・、今Googleマップで見たら、全てマンション風の建物に変わり、
もうなくなっているのを知り、とても残念な気持ちです・・・。
5~6年前のGoogleマップでは、あったのにね・・・、そうなんだ・・・orz
青砥さん宅に電話をしてみたけれど、電話番号は他の人に変わったみたい・・・。
その市場から4~5mの小道を挟んだ3階建て?のビルに、羽部さんは居住・・・。
たしか3階だったかな・・・?2階には、壮年部になりたての村田さんが住み、
素敵な奥さんとかわいい女の子がいました・・・、人見知りしない子でした・・・。
残念ながら、名前を忘れてしまいました・・・。
羽部さんは一人暮らしでしたが、外食はあまりせずに自炊をしていたようです・・・。
そのため、隣の青砥さんの市場はとても便利だったのではないでしょうか・・・?
そんな時、1982年9月18・19日に『第2回世界平和文化祭』が西武球場で
行われましたが、男子部の拠点になっていた羽部宅は、練習に頑張る男子部員の
活動拠点ともなっていたのです・・・。
練習のない人は唱題会を開いたり、練習で疲れた部員達のために何かしてあげようと集まり、、
カレーライスやシチュー・伝統のトン汁も準備して、頑張りを手助けしたり体力付けたり、
本当に皆の心がひとつになった、素晴らしい時間でした・・・。
羽部さんの仕事は、教育教材を販売する会社の営業社員・・・。
僕も営業だったので、気も合ったし話も分かり合える部分が多かったみたい・・・。
出張で地方に行くと、そこからわざわざ手紙を送ってくれるというぐらい
マメな人で、それだからこそみんなが慕うんだろうなと思いました・・・。
ただお気付きになった方もあるかもしれませんが、羽部さんの勤めていた会社は、
それほど評判の良い会社ではなく、羽部さんは顧客のために頑張って働いていたようです・・・。
そんなこともあり、別の会社への転職を考えていたようです・・・。
その様子を僕には率直に話してくれました・・・。
信頼できる上司の下で、まともな仕事に就きたいと強く思っていたのではないでしょうか・・・?
そこで面接したのが、冷凍食品会社「シーホース」という会社だったのです・・・。
関係者はご存知だと思いますが、山崎正友が経営していて倒産した会社・・・。
羽部さんの面接は、山友(山崎正友の略称)のマンションで行われたようですが、
羽部さんは、室内にとても違和感を感じたらしいです・・・。
というのは、室内に仏壇はあったものの、周囲は掃除もされずに仏壇の中にも綿ぼこりが・・・。
普通の学会員なら、勤行・唱題が終わった後は表面の扉を閉めて中にホコリが
入らないようにするのが当たり前なのに、開けっ放しはおかしいし、ホコリなんてあり得ない・・・。
やはり信仰心なんて全くなく、ただただ創価学会を利用しようと考えていたんだなぁ~~と
すぐに応募を取り消したとのことでした・・・。
僕が、妻の実家の後を継ぐために秋田へ移る時期と前後して、羽部さんも
仙台の支店に転勤しました・・・。
この転勤は、羽部さんが会社に色々改善を提案したことに対する左遷だったのかも・・・。
仙台からの手紙では、仙台でも男子部の拠点として家を提供しているにもかかわらず、
第一線で戦うことが出来ないのが、残念だともらしていました・・・。
東京で「部長」として頑張っていたのですから、通常ならそのまま「部長」として、
もしその立場に空きがなければ副役職の「副部長」で活動できるようになるのですが、
ただの部員として、引っ張られる立場になったことに、とてもガッカリしていたようです・・・。
ただの通りすがりでいつかまた居なくなる会社員として、扱われてしまったのでしょうか・・・?
仙台でも、よそ者に対する感情が違うらしいのですが、その時は何も感じずに
過ごしてしまいましたが、居住が長くなれば長くなるほど「そういうこともあるんだ」と
思うようになりました・・・、今考えると、東北人の劣等感なのか・・・?
排他的・閉鎖的になってしまい、自分達先住民を守ろうとすることに一生懸命になるのかな・・・?
これじゃ、騎兵隊とアメリカインデアンが争った、アメリカ開拓時代と同じじゃないか・・・。
この劣等感が吹っ切れれば、東北ももっともっと発展できるんじゃないだろうか・・・?
羽部さんのことで、もうひとつ忘れられないのは、 出張の時のことです・・・。
出張で泊まりの時、わざわざ近くの創価学会の会館を探して、ご本尊様の前で、
勤行唱題をするという純真な姿勢は、僕も泊り出張の時にはマネさせてもらいました・・・。
今考えてみると、羽部さんが身近で包み隠さずに話せる人間は、僕しかいなかったのかも・・・。
考えることも、信心に対する姿勢も、現状に満足しないという前向きさも・・・、
二人は良く似ていたのではないでしょうか・・・?
以前に書いた数珠のかけ方・・・、「中指の第1関節に・・・」も、羽部さんの受け売り・・・。
さらに御書に出てくる語句の中で、「等」という文字に関して話した言葉が忘れられない・・・。
「等」は、御書の色々なところに書かれているけれど、使い方によって読み方が違うんだ・・・。
前に人間が来る場合、たとえば「大臣・公家等」の場合は、「ら」や「など」と読んで、
前に物が来る場合、たとえば「米や麦等」の場合は、「とう」や「など」と読むのだそうです・・・。
要するに、前が人間の場合は「ら」で、物の場合は「とう」、どちらにも使えるのが「など」なんです・・・。
だから、「大臣・公家等」を「だいじん・くげとう」と読むのは間違えなんです・・・。
また法華経二十八品の名前も、それぞれ「HON」「BON」「PON」と違うのは知ってましたか・・・?
「方便品第二」「如来寿量品第十六」・・・方便PONと寿量HONと読みます・・・。
PONと読むのは、方便品第二と従地涌出品第十五の2つだけ・・・。
BONと読むのは、観世音菩薩普門品のただ1つだけです・・・。
それ以外の25品は、全てHONなんですね・・・。
羽部さんは、教学に対しても、真摯に研究していました・・・。
そんな羽部さんをうまく利用できなかった仙台は、まだまだだなぁ~~と思います・・・。
↑ ↑ ちょっと上から目線過ぎたでしょうか・・・?
ここ秋田と比べると、 仙台は東北のけん引役であり、頑張ってもらいたい中心地・・・。
今改めて考えてみるとその仙台も、今から30年も前からこんな状態だったのを痛感しました・・・。
秋田はもうだめなんでしょうか・・・?ブロック五勇士、全国版には、一つも載せられていないし・・・。
求道心(最近あまり聞かなくなった言葉だけど)が、なくなってしまった結果なのだろうか・・・?
求道心があれば、仮にも中央で部長をやってきた人間に対して、自分達の受けたことのない
指導を聞きたいと思うのは、信仰をする者、特に創価学会員には当然のことだと思うのです・・・。
===ここからは、8月25日夕方に実際に起きた出来事===
今何年ぶりかで、地区部長が来ました・・・。
第一声が「(地元の)本荘文化会館が出来るの知ってるかい」って・・・(笑)、
聖教新聞で見たけど知ってるかどうかに答えず、「地区部長が、連絡くれないから・・・」と答えた・・・。
この本荘文化会館の建設に関しても、聖教新聞に建設が発表されていないのに、
聖教新聞の「今日の発心」で、噂話大好きな地元本荘大勝県の遠山県婦人部長が、
建設を発表してしまった・・・、その後しばらくしてから、聖教新聞紙上でも発表・・・。
その後しばらくは、建設も進まず、現会館の隣の建設用地は荒れ野原・・・、
どうなっていたんだろう・・・?1年後位かな?遠山県婦人部長も、総県副婦人部長に・・・。
何も聞かなかったからわからないが、年内には完成するのだろうか・・・?
出来たら聖教新聞に載るからいいか・・・(笑)聞いたからどうなるわけでもないし・・・。
=== ここまでが、書いている時に起きた出来事でした ===
何か、また脇道に迷い込んだみたいで、最終回にはなりませんでした・・・m(_ _)m
では、今日はこの辺で・・・、出羽股之介・・・。