池田先生の著書をマネて、「僕の・忘れ得ぬ同志」の題にしました・・・(笑)

今はもう既に亡くなっている、先輩の「羽部清」さんのことを書きます・・・。

本題に行く前に、僕の生い立ちから書かないと理解してもらえないと思うので、

以前のブログとダブるところもあるかと思いますが、書いていきます・・・。

僕の入信記念日は、おふくろに連れられて昭和35年2月28日・・・。

時は池田先生が戸田先生からバトンを受け指揮を取られて2回目の2月・・・、

それも最終日・・・、向かいの家の木田さんが、頑張った成果でしょうか・・・?

こういう学会員の頑張りを見て、この年の5月3日池田先生は会長に就任されます・・・。

その御授戒の日・・・、反逆児の本性を現した僕は、池袋常在寺の本堂の

大きな柱にしがみつき、頭の上にワラの棒みたいな物を載せる儀式(御授戒)を嫌がり、

駄々をこねたみたいです・・・、御歳6歳、幼稚園中退後・・・(笑)

おふくろの強盛な信心のおかげで、留守番させておくと何をするかわからない

僕たち三兄弟は、おふくろに連れられて、学会の会合へ・・・。

会場は、豊島公会堂・中野公会堂など・・・、出席幹部は、辻先生、和泉先生、

柏原先生、北条先生など草創の大幹部の人々・・・。

その頃は、池田会長先生をはじめ、幹部には皆先生という敬語が付いていました・・・。

さらに今のように会館もなかったので、公共の施設利用が大半・・・。

そんな大きな会場内を、僕6歳、弟4歳・2歳の3人は、会合の意味など知らずに

走り回るのですが、草創の幹部から怒られた記憶がないんです・・・。

それは、池田先生の後継者、特に未来部を育成される真剣な姿を近くで見られた

幹部だからこそ、未来部が大切だとの配慮ではなかったのだろうか・・・。

その頃は「信心は毛穴から入る」と言われていて、新来者や子供をとにかく

会合に参加させようという思いで連れ出す人がたくさんいました・・・。

自分には説明できるだけの教学もないけれど、「何とか信心の道を歩かせたい」

と思う愚直な人が多かったのも、この昭和の時代だったんでしょうね・・・。

そんな僕なんですが、熱心なおふくろの押し出しもあって、大石寺で開催された

夏季講習会や、初登山会にも代表として参加させてもらいました・・・。

そんな中、池田先生のご配慮により、「五年会」のメンバーにもなりました・・・。

     ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

その後、高校・大学受験を経験するのですが、勉強嫌い・本嫌いの僕が、塾にも

行かずに受験して合格なんて、無理のように考えられました・・・。

習い事と言えば、小学校4・5年頃に基本の筆の使い方「トン・スー・トン」を習っただけの

習字教室だけでした・・・。

そんな僕ですが、何とか学校だけは卒業したいと、必死に唱題だけはしました・・・。

しかし高校受験は、都立と創価高校と私立城北高校の3校を受験したのですが、

すべて不合格となり、中学の担任の先生に相談したら・・・、

「前川君は、不良と付き合っていたけれど感化されずに、しっかり勉強したので

受験では落ちたけれど、城北高校に入学できるように話してあげる」との話・・・。

当時僕の通う公立中学の開進第三中学校には、城北高校から非常勤講師が

赴任していたので、話をしてくれたみたいで、補欠で入学できました・・・。

大学受験も唱題だけで臨み、本命・拓殖大学、滑り止め・亜細亜大学でした・・・。

最初に受験を向かえたのが亜細亜大学、受けた結果は補欠合格・・・。

その権利を確定するには学費納入が必要で、その日は拓殖大学受験日の前日まで・・・。

「補欠でも入れないよりは・・・」と思い、亜細亜大学への入学を決意しました・・・。

受験料を払い込んだんだからというのんびりとした気分で、受けた拓殖大学は、

高倍率の貿易学科に正規合格・・・。そんなものだよね・・・(笑)

これから受験する人は、早い時期に捨て受験(受験の経験をするだけの入試)が

あった方が落ち着いて受験できるかもしれませんよ・・・。

その頃貯めた題目貯金が、底をついてしまったのが今の僕の現状かも・・・(笑)

      ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

そんな経緯(いきさつ)で入った高校では、クラス分けでは準優秀クラスのJ組・・・。

最初の中間試験では、クラス52人中16位、受験に受かってもいないのに

こんな成績ならと、勉強もあまりせずに、クラブ活動ばかりの毎日・・・。

そんなことしていれば必然的に成績は下がりますよね・・・。

でも、学会員としてはそこそこ頑張っていました・・・。

高等部に入ってからは、「第73部部長」の命を受け、当時タテ線だったので、

部員は埼玉県から東京都にわたる広い地域に住んでいました・・・。

まだ携帯電話のない時代、電話連絡や直接の家庭訪問で会合への参加を訴える・・・。

その高等部の時には、ほぼ毎年のように夏季講習会と初登山会には参加してました・・・。

そうしている中、組織はタテ線からヨコ線に・・・。


     ※※※※※ 語 句 の 解 説 ※※※※※

創価学会の草創期は、紹介者から新入信者という「親から子へ、子から孫へと」いう、
つながりだけで組織を広げて行ったのです・・・。
組織が大きくなると、連絡するにも、会合に出るにも、遠くて大変な人も出ます・・・。
そこで組織を変更したのですね・・・。
この切り替えの時期が、僕の高校生の時期だったみたいです・・・。

タテ線==紹介者から新入信者へと、綿々と続く折伏ライン・・・。弘教の繋がり・・・。

ヨコ線==居住地域をエリア別に区切った地域重視の組織・・・。

タテ線は、友人関係での繋がりが多く、組織としては強固だが、活動は

困難を極めることが多い・・・、特に距離的な時間と資金の問題・・・。

ヨコ線は、地域に協調の輪を築くという意味では理想的ですが、繋がりが

やや薄いというマイナス面もあります・・・。

タテ線からヨコ線になってから56年、地域の繋がりをもっともっと強固なものに

していかないと、地域の理解も進まないし広宣流布も進みません・・・。

そのためのヨコ線なんですから・・・。

     ※※※※※ こ こ ま で ※※※※※


高等部では、今までの拠点となっていた中野区の「東京第五本部」「中野会館」が、

練馬区の「練馬文化会館」「桜台会館」「華王寺」へと変わり、地元になりました・・・。

この時期僕は、地区の「少年少女部責任者」も兼任していました・・・。

その時の少女部員が、のちに聖教新聞社の受付になり、全国少女部書記長にもなったのです・・・。

僕は高等部部長として、そのまま地元で活躍することになりましたが、その中で

同じ高等部部長として活躍していたのが、現・練馬区総合長の有田修さんです・・・。

信心の姿勢は、その頃からしっかりしていてぶれていなかったように感じています・・・。

高校生の頃から彼の信心はずば抜けていたように思います・・・。

彼はのちに、潮出版社に勤務し学会の中枢で仕事をすることで、身近に池田先生の

指導を聞く機会が多かったみたいで、信心の基本を色々と教えてくれました・・・。

     ※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※

その頃は高校3年になると、「受験部」と言う組織があり、受験に専念するため

学生部の担当者が、受験に至るまでの色々をフォローしてくれるのです・・・。

僕はこの受験部で知り合った学生部のいい加減さに、反逆児の本性が

頭をもたげ、退転の道をひた走り・・・。

大学では全てが新たな付き合いの始まりで、ウキウキしていました・・・。

さらに、入部した「FDC」にのめり込み、勤行もしない完全退転状態・・・。

「FDC」==フォークダンスサークルの略称。日本語では、民族舞踊研究会・・。

大学に入学後も、学生部のいい加減さをさらに痛感して、退転続く・・・。

だって、学術文化連合会というクラブの取りまとめ組織の大掃除の時に、

創価学会・学生部の「第三文明研究会」は、誰一人も参加せず、協力体制なし・・・。

FDCは、いやいやながらも学文連の一員としての責任を全うしたのに・・・。

こういういい加減なクラブでは、池田先生もさぞガッカリするだろうとさらに批判的に・・・。

それ以来学生部出身の幹部は信頼していない・・・。未来部出身幹部は尊敬・・・。

学生部担当出身の幹部とは、原田会長、西口浩さん、谷川佳樹さんなど・・・。

未来部担当出身の幹部とは、正木正明元理事長、松本正さん、上田雅一さんなど・・・。

大学では、FDCの活動が全てでしたね・・・。

亜細亜大学は、男子中心であまり女子はいなかったため、パートナー校として

近くにあった武蔵野女子学院と一緒に活動していました・・・。

註:武蔵野女子学院==略称:武女・女学(年配者)、現・武蔵野大学(現在は共学)

練習は、武蔵野女子学院の林の中のプレハブの物置小屋風の建物。

すぐ向かいには、お化けでも出そうな全和式の水路式水洗トイレ・・・(笑)

註:全和式の水路式水洗トイレ==女子校なので、全部和式の個室で、
  下には、常に水が流れているので、排泄物が流れる仕組み・・・。
  林の中のトイレなので、夕方から夜間は電気が点いていてもちょっと寂しい・・・。

FDC男子会員は、みな顔写真付の入門証を発行してもらい、警備員に提示して

入校することになっている・・・。女子校のため、警備は厳重・・・。

僕は、両校で4~50人いるクラブ員の中で、約10人ぐらいの指導部員に選ばれた・・・。

指導部員は、週2回の練習会で、輪の中心に出て新練習曲を指導する花形・・・。

男女5人ずついたので、カップル曲は順番にカップルを決めて前に出て指導します・・・。

シングルサークルやソロダンスは、みんなが中央に出て指導します・・・。

日曜日には、どこかの大学が公共や大学の体育館で、パーティーを開いているので、

みんなで参加するのが恒例でしたが、女子の持ってくる昼食も楽しみの一つです・・・。

僕が一番心に残っているのが、同級生の女子指導部長が作って来た「肉味噌にぎり」・・・。

その子は、とてもいい奥さんになってます・・・。たまに、OB・OG会で会いますが・・・。

こんな楽しいことをしていると、常識のない「第三文明研究会」には、足が向きません・・・。

さらに、活動の資金にと、アルバイトを頑張っていました・・・。

そのアルバイトは、観光バスの車掌・・・\(^-^)/

ガイドは出来ないので、車掌です・・・、バスの誘導と掃除とアナウンスの・・・。

1回出ると4,000円と、当時のアルバイトでは高額の方・・・。

夜行日帰りだと、2日分になるので8,000円・・・(◎ー◎;)ビックリ

クラブとアルバイトの楽しい4年間は、アッという間でした・・・。

このクラブで知り合ったミニスカートの似合う背高い後輩が、後に妻となりました・・・。

卒業後すぐに結婚したのですが、卒業前から彼女の実家のケーキ屋を継ぐ予定だったので、

卒論も書かずに卒業して、ケーキ屋修行に頑張ったのですが、チーフとぶつかってしまい

修行は止めて、妻の実家の秋田へ直接乗り込む・・・。

お姉さんのご主人が既に工場で仕事をしていたので、「家に二の主あれば其の家必ずやぶる」

(報恩抄 294ページ)とあることから、僕は身を引いて東京に戻り、営業の仕事に就く・・・。

最初は、アロエの化粧品の会社だったがそこの女性社員から「営業学ぶなら大きな会社が良いわよ」

と言われ、外資系のカミソリメーカーの「ジレット」で営業社員として色々と学ぶ・・・。

そんな時に、地元組織の男子部部長の「羽部清」さんと出会うのです・・・。

このブログでは、もう少し「羽部清」さんに触れられると思ったのですが、

僕の自己紹介で終始してしまいました・・・。

本題は、「第2回」に書くことにしますので、ご期待下さい・・・。


                今日はこの辺で・・・、出羽股之介・・・。