先日、栄養療法で著名な新宿溝口クリニックで受診してきた。まずは血液検査ということで、結果は4週間後。費用はビタミンDの血中濃度についての追加検査を含め、約15,000円。安くはないが、自分の病気に関するヒントが得られるのではないか、期待してしまう。

診察の時、担当医から、多くのアレルギー疾患でビタミンDの欠乏が報告されているということで、ビタミンDに関する検査も勧められた。

私のアトピーは毎年寒い時期に悪化し、暖かくなると症状が和らぐサイクルを繰り返していた。私はそれを「冷え」のせいと解釈していた。でもビタミンD(紫外線により皮膚で光化学的に合成される)という視点からするなら、日照時間が短くなる季節に悪化するということも説明できそうな気がする。ただし、日本くらいの緯度なら、冬季の日照時間でも一般的には十分なビタミンDが合成できるということらしいので、どうなのだろう・・・
 機械的にお祈りの文句を口にするとき、両手の指をひとつに組み合わせるとき、彼女は意識の枠の外で神を信じていた。それは骨の髄に染み込んだ感覚であり、論理や感情では追い払えないものだ。憎しみや怒りによっても消し去れないものだ。
 でもそれは彼らの神様ではない。私の神様だ。それは私が自らの人生を犠牲にし、肉を切られ皮膚を剥され、血を吸われ爪をはがされ、時間と希望と想い出を簒奪(さんだつ)され、その結果身につけたものだ。姿かたちを持った神ではない。白い服も着ていないし、長い髭もはやしていない。その神は教義も持たず、教典も持たず、規範も持たない。報償もなければ処罰もない。何も与えず何も奪わない。昇るべき天国もなければ、落ちるべき地獄もない。熱いときにも冷たいときにも、神はただそこにいる。

『1Q84』(村上春樹 著)第14章(青豆)私のこの小さなもの より
和歌(やまとうた)は、人の心を種として、万の言の葉とぞなれりける。世の中にある人、事(こと)業(わざ)しげきものなれば、心に思ふ事を、見るもの聞くものにつけて、言ひいだせるなり。花に鳴く鶯(うぐひす)、水に住むかはづの声を聞けば、生きとし生けるもの、いづれか歌をよまざりける。力をも入れずして天地(あめつち)を動かし、目に見えぬ鬼神をもあはれと思はせ、男女のなかをもやはらげ、猛(たけ)き武士(もののふ)の心をもなぐさむるは、歌なり。