昨年末から、持病のアトピーが急激に悪化した。

こんなにひどくなったのは、14年前に脱ステロイド以来のこと。身体の調子全体が完全に狂ってしまった。症状としてはアトピーが一番ひどく出てはいるものの、それは身体の不調のひとつの現れにすぎず、とにかく「具合が悪い」としか言いようがない状態になった。常に寒く、熱があり、体重は46キロ台に落ちた。皮膚は全身が赤紫の炎症で覆われ、病変部から浸出液が多量に流れ出た。側頭部がアトピー性脱毛症になり、耳の周りともみあげの部分は毛髪がなくなり、なんだかコボちゃんみたいだ。

症状が激烈だったのは1ヶ月間くらいで、その後はほんの少しずつよくなった。半年が経った今、ようやく普通どおりに仕事をしたり食事をしたりできるようになった。それでも強いかゆみが残り、皮膚はまだ破けやすく、掻くとすぐに血液や浸出液が出る。体重はまだ47キロ台までにしか戻っていない。 側頭部の髪も薄いままだ。

いままでは、何かの原因で悪化しても、それはたいてい冬の間で、2、3ヶ月して暖かくなってくると回復するというパターンだった。でも今回は、もう夏なのにまだ悪い。もう半年だ。そうこうしているうちに、あと数ヶ月でまた涼しくなってきてしまう。こんなのは、初めてだ。

どうしてこんなことになったのだろう?
もう長いことステロイド剤を使っていなかったのに、今回の症状は脱ステロイドの時の離脱症状そのものだ。そうすると、離脱症状はステロイド剤の長期使用によって副腎の機能が落ちていることによるのだから、今回は別の原因で副腎の機能が低下してしまったと考えるのが一番素直だ。

では副腎の機能が落ちたのは、どうしてなのだろう。
今回みたいなことになって、改めてアトピーに関する複数の本を読んだり、インターネットで情報収集したりした。その中で、副腎疲労症候群という言葉に出会った。いろいろ読んでみると、「いったん起きた炎症を制御できない」というアトピーの側面は、この副腎疲労という考えがかなりいい説明を与えるように思う。

10章 心の物理学はどこにあるのか?(後半)


5 「心(物理的世界)とプラトン的世界の関連」いかに可能か


意識の発展、すなわち脳神経の成長と収縮も何らかの問題の解であり、ありうる神経状態の複素線形重ね合わせの選択肢の中からどれかを選び出すことと結びついている。そして、それがどのように選び出されるのかは、波動関数の収縮であるRの構造を知る必要がある。


また、意識の指標が非アルゴリズム的であることだとするペンローズからすれば、このような脳神経の配列の解を導く過程は非アルゴリズム的でなければならないはずだ。ペンローズは、一般的なタイル並べがアルゴリズム的解を欠いている(第4章)ことを指摘し、脳神経の配列の選択過程は非アルゴリズム的であり得るとする。


なお非常に鋭い指摘と思われるのは、次の点だ。強いAIの立場、すなわち意識は十分に複雑なアルゴリズムが実行されるときに必然的に現れるものと考える立場では、アルゴリズムを実行する物体は電流だろうが水流だろうが関係ない。


すると、「特定のどの物理的実体化とも無関係にアルゴリズムが『存在』するためには、数学に対するプラトン的な見方が不可欠なように思われる。」(485頁)


強いAIの立場は、意識などというものは、脳内だろうが電子回路内だろうが、アルゴリズムが実行される際に偶々発生する現象にすぎないと主張するもの。こう書くと非常に即物的な印象を受けるが、少し注意して考えると、強いAIの立場は、物理的存在に全く依存しない何らかの存在を主張することであり、かえって、プラトン的存在を主張することになるのではないか。これがペンローズの指摘だ。なお、同様の指摘は既に第1章でもなされている(25頁)。


6 意識と時間


脳科学の啓蒙書でも紹介されることが多い、脳に関する2つの有名な実験について述べられる。

ひとつは、1976年にH.H.コルンフーバー(Kornhuber)らが行った実験。任意のタイミングで指を曲げる人の脳波を測定したことろ、意識が指を曲げる1秒から1秒半も前に、脳内では運動のための活動が既に始まっていることがわかったというもの。


もうひとつは、1979年にベンジャミン・リベットらが行った実験。皮膚に刺激を与えられた人が意識的にその刺激に気づくまでにほぼ半秒もかかること等がわかったというもの。にもかかわらず、被験者の主観的な印象では、刺激に気づくのに何の遅れも起きていないのだ。


この2つの実験結果を併せて考えると、外部の出来事に人が反応して意識に基づいてする際に1秒半から2秒もかかってしまう。しかし、現実には人は外部の出来事にもっと機敏に反応しているように見える。ここから、その1秒半から2秒の間、人は完全な自動機械として振舞っているのであり、意識は後からそれを観ているだけなのだ、との解釈もできる。


これはもちろん、ペンローズにとっては容認できない解釈である。


ペンローズは、ここでもびっくりするような考えを提唱する。

「現代物理学における時間の取り扱われ方は、空間の取り扱われ方と本質的に異ならず、物理的記述の中の『時間』は実際には少しも『流れ』ていない。あるのは実は、静的に見える固定した『時空』であり、われわれの宇宙の事象はその中に繰り拡げられているのである。(中略)われわれが知覚しているように『見える』時間的秩序は、われわれが知覚内容を外部の物理的実在の一様な前向きの時間進行に関連づけて理解するために、われわれがそれらに押しつけたものなのである、と私は主張する。」(501頁)

つまりペンローズは、時間の流れというものがそもそも意識の働きによって生じるものだとし、「物理的現象に対する意識の遅れ→意識は自動機械」という図式に揺さぶりをかけようとする。


そして、意識の現象が「正しい」量子重力論(CQG)に「依存しているのだとすると、意識自体が目下われわれがもっている慣習的な時空記述にさっぱり適合しないのは当然だろう。」(504頁)と述べる。ペンローズは、CQGが備えているはずの性質は「従来の時空記述からかけ離れたものとなる」と予想しているからだ。


しかしペンローズは、CQGが、実際には「どのように」従来の時空記述からかけ離れているのか、また、その場合にコルンフーバーとリベットの実験をどう解釈すべきなのかについては何も述べていないため、これはひとつの示唆にとどまっているというべきだろう。


以上で、意識と計算可能性及び時間についての考察が終わった。


7 終わりに


本章の最後には、「結論:子供の見方」という短いコーダ(終結部)ともいうべき文章が置かれている。ペンローズの科学と哲学に対する姿勢が簡潔に書かれていて、感銘を受ける。中でも私が好きなのは、次の一文だ。

「意識はあまりにも重要な現象であるので、それが複雑な計算によって「偶然」でっち上げられたものであるとは、私には思えない。意識はそれによって宇宙の存在そのものが知られるようになる現象である。意識の存在を許さない法則に支配された宇宙は、全然、宇宙ではない、と論じることもできる。これまでに得られた、宇宙の数学的記述はすべて、この基準を満たしていない、とさえ私は言いたい。推定上の「理論的」宇宙から現実の宇宙を呼び出すことができるのは、意識という現象だけである。」(506頁)
ペンローズと共に、テューリングマシンから宇宙の終わりまでを巡った長い旅も、ここでようやく終点にたどり着いた。

10章 心の物理学はどこにあるのか?(前半)


1 本章はつまらない?


長かった本書も、これが最終章。ペンローズが言いたかったことも、この章に凝縮されている。


ところで、松岡正剛「千夜千冊」 は、こんなふうに書いている。

「こうして終章『心の物理学はどこにあるのか』にたどりつく。ここも三分の二はつまらない。」


私には、どうしてそんなことを感じるのかわからない。

松岡氏のものも含め、この終章については、まともに論じた書評を読んだことがない。


確かに著者自身にもある程度の責任がある。書かれている内容がややとりとめがないうえ、これまでのどの議論と関連するのかがわからいにくい。しかし一番の理由は、ここで扱われている主題が正しく哲学的だからだと思う。哲学的な疑問というものは、その問題に実際につまづいたことがある人間でなければ、読んでも「つまらない」ものだ。


私にとっては、この終章が最も興味深い。なぜペンローズが本書を書かなければならなかったのか、その切実さが最もよくわかる部分だからだ。


この章の目的は、心(意識)とは何のためにあり、その性質を科学的にどう説明できるのかを検討することだ。

冒頭で、さらりと「心身問題」という言葉が(ようやく)使われている。結局、本書が扱うのは哲学上の古典的な問題であることを、ペンローズも当然に前提としているのである。


2 意識の役割


ペンローズは意識の役割について、


生物が入手できる「データの山から必要なものを抽出して適切な判断を形成する過程には、明確なアルゴリズム的過程が存在しない―あるいはあっても実際的ではない―かもしれない。(中略)意識はこのような状況下で適当な判断を作り上げる手段として出現したのだろう、と私は推測している。」(465頁)


と述べている。これは、数学の問題の中には、そもそもアルゴリズム的には解けないものや、原理的にはアルゴリズム的に解決可能ではあっても、「受容可能な長さの時間内では解決可能」でないものが存在するとの、第4章「真理、証明と洞察」での説明に対応する。


3 アルゴリズムの淘汰


では、仮に脳の活動がある非常に複雑なアルゴリズムの実演にすぎないとするならば、このような異常に効率的なアルゴリズムはどうやって生まれたのか。


最も普通の応えは「自然淘汰によって」というものだろう。

ペンローズはこうした考えに疑問を呈する。理由は以下のとおり。


すなわち、まず、アルゴリズムの妥当性に関する判定それ自身はアルゴリズム的過程ではない、ということ。テューリング機械が実際に停止するかどうかは、アルゴリズム的に解決できないからだ(第2章「アルゴリズムとテューリング機械」)。かといって、アルゴリズムによらない、何らかの種類の自然淘汰過程(例えば突然変異)によるとは信じ難い。そうした自然淘汰はアルゴリズムの出力にしか作用できず、基本的にアルゴリズムの過程を改良することはできないからだ。またペンローズは、アルゴリズムのごく小さな「突然変異」でさえアルゴリズムの機能を全く損なってしまいがちであり、ランダムな「突然変異」がアルゴリズムを改良するとは考えにくいと指摘している。これは程度は違えど進化論全般に妥当する批判だろう。


4 プラトン的世界


ここで、ペンローズの考えの核となる考えが示される。


「私の考え方によれば、進化は依然として謎をはらんでおり、未来のある目的に向かって『手探り』で進んでいるように見える。事態は少なくとも、ただ盲目的な偶然の進化と自然淘汰にもとづいているとした場合に『あるべき』ものに比べて、いささかうまく組織されるぎているように見える。このような外見がまったく見せかけのものだとうことも大いにありうる。物理法則の働き方には何かがあって、そのために自然淘汰はそれが単なる恣意的な法則である場合に比べて、はるかに効率的な過程になっているらしい。」(469頁)


意識の発展は、単なるランダムな偶然の積み重ねではなく、物理法則自体に進化を方向付ける何かがあるのではないかというのである。


ペンローズは、物理学上の「最高理論」すなわち古典力学や一般相対性理論は、ランダムなアイディアの中の生き残りにすぎないというには「あまりにもいいアイディア」であり、これは、心がプラトン的世界に接触できるためだという。


こういう書き方をすると、拒絶反応を起こす理科系の方も多いだろう。しかしペンローズが言いたいのはオカルトではなく、次のようなことだ。(後半へ)