10章 心の物理学はどこにあるのか?(前半)


1 本章はつまらない?


長かった本書も、これが最終章。ペンローズが言いたかったことも、この章に凝縮されている。


ところで、松岡正剛「千夜千冊」 は、こんなふうに書いている。

「こうして終章『心の物理学はどこにあるのか』にたどりつく。ここも三分の二はつまらない。」


私には、どうしてそんなことを感じるのかわからない。

松岡氏のものも含め、この終章については、まともに論じた書評を読んだことがない。


確かに著者自身にもある程度の責任がある。書かれている内容がややとりとめがないうえ、これまでのどの議論と関連するのかがわからいにくい。しかし一番の理由は、ここで扱われている主題が正しく哲学的だからだと思う。哲学的な疑問というものは、その問題に実際につまづいたことがある人間でなければ、読んでも「つまらない」ものだ。


私にとっては、この終章が最も興味深い。なぜペンローズが本書を書かなければならなかったのか、その切実さが最もよくわかる部分だからだ。


この章の目的は、心(意識)とは何のためにあり、その性質を科学的にどう説明できるのかを検討することだ。

冒頭で、さらりと「心身問題」という言葉が(ようやく)使われている。結局、本書が扱うのは哲学上の古典的な問題であることを、ペンローズも当然に前提としているのである。


2 意識の役割


ペンローズは意識の役割について、


生物が入手できる「データの山から必要なものを抽出して適切な判断を形成する過程には、明確なアルゴリズム的過程が存在しない―あるいはあっても実際的ではない―かもしれない。(中略)意識はこのような状況下で適当な判断を作り上げる手段として出現したのだろう、と私は推測している。」(465頁)


と述べている。これは、数学の問題の中には、そもそもアルゴリズム的には解けないものや、原理的にはアルゴリズム的に解決可能ではあっても、「受容可能な長さの時間内では解決可能」でないものが存在するとの、第4章「真理、証明と洞察」での説明に対応する。


3 アルゴリズムの淘汰


では、仮に脳の活動がある非常に複雑なアルゴリズムの実演にすぎないとするならば、このような異常に効率的なアルゴリズムはどうやって生まれたのか。


最も普通の応えは「自然淘汰によって」というものだろう。

ペンローズはこうした考えに疑問を呈する。理由は以下のとおり。


すなわち、まず、アルゴリズムの妥当性に関する判定それ自身はアルゴリズム的過程ではない、ということ。テューリング機械が実際に停止するかどうかは、アルゴリズム的に解決できないからだ(第2章「アルゴリズムとテューリング機械」)。かといって、アルゴリズムによらない、何らかの種類の自然淘汰過程(例えば突然変異)によるとは信じ難い。そうした自然淘汰はアルゴリズムの出力にしか作用できず、基本的にアルゴリズムの過程を改良することはできないからだ。またペンローズは、アルゴリズムのごく小さな「突然変異」でさえアルゴリズムの機能を全く損なってしまいがちであり、ランダムな「突然変異」がアルゴリズムを改良するとは考えにくいと指摘している。これは程度は違えど進化論全般に妥当する批判だろう。


4 プラトン的世界


ここで、ペンローズの考えの核となる考えが示される。


「私の考え方によれば、進化は依然として謎をはらんでおり、未来のある目的に向かって『手探り』で進んでいるように見える。事態は少なくとも、ただ盲目的な偶然の進化と自然淘汰にもとづいているとした場合に『あるべき』ものに比べて、いささかうまく組織されるぎているように見える。このような外見がまったく見せかけのものだとうことも大いにありうる。物理法則の働き方には何かがあって、そのために自然淘汰はそれが単なる恣意的な法則である場合に比べて、はるかに効率的な過程になっているらしい。」(469頁)


意識の発展は、単なるランダムな偶然の積み重ねではなく、物理法則自体に進化を方向付ける何かがあるのではないかというのである。


ペンローズは、物理学上の「最高理論」すなわち古典力学や一般相対性理論は、ランダムなアイディアの中の生き残りにすぎないというには「あまりにもいいアイディア」であり、これは、心がプラトン的世界に接触できるためだという。


こういう書き方をすると、拒絶反応を起こす理科系の方も多いだろう。しかしペンローズが言いたいのはオカルトではなく、次のようなことだ。(後半へ)