今日も花曇り -16ページ目

今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

私の学生時代は、インターネットの黎明期でした。ブログもTwitterもなく、ネットで何かを発信したい人は自分でHTMLを書く人も少なくなかった時代です。


そのうちに、ネットには匿名掲示板やブログというものが出現しました。


それに接して、非常に驚いたことがありました。ショックを受けたという方がいいかもしれない。


何かを世の中に向けて発言したい人が、これほどたくさんいたのだということ。

そしてその裏返しとして、ネット以前、これらの言葉は一体どこに向けられていたのだろう、またはただ溜め込まれていたのか?


ネットがそうした言葉をすくい上げることで救われたひともいるかもしれませんが、せっかくのそうした言葉が、現実の行動や人間関係に結びつかずに、ただのつぶやきとして、ネットの大海に沈んでしまうのがもったいないとも思います。


自分を表現する言葉が、家族や友人ではなく、知らないどこかの誰かに向けられる。家族それぞれ、本音はネットに書き込む。

知らない誰かのいいねやコメントという、人間関係というのはあまりに細い糸を励みに生活する。

人間がこんな状態に置かれたのは、歴史上初めてではないでしょうか。


もうひとつネットについては当時驚いたことがあります。

ネットに書き込まれる言葉が、あまりに粗雑で暴力的で厚顔無恥なことです。戦慄しました。

多くの日本人の表面上の穏やかさの内側にはこんな言葉が詰まっていたのかと思うと、寒気のする思いがしました。


いまは私の神経もすっかり鈍麻してしまい、こんなものだと諦めてしまってもいます。

それでも、たまにYahoo!掲示板や様々なレビューサイトの類を見ると、その言葉のひどさに今でも絶望的になります。

もちろんこうしたものは、ごく一部の人たちの頭の中のことに過ぎないとは思うのですが・・・。


インターネットができたことで、言葉や社会や他人についての私の信頼は、少し不安定なものになりました。


寝たきり生活中、アマプラで観た2作目。

非凡な作品であることはもう間違いない一方、大きな問題点があるようにも感じられ、正直、観終わったあとどうとらえてよいのかわからなくなりました。

 

 

 

 

 

よく映画評を参考にするライムスターの宇多丸さんが絶賛していたので、いつか観たいと思っていました。

 

 

 

 

 

 

 

内容は、あみ子という、おそらく発達障がいと思われる女の子の行動がきっかけで、家族が崩壊し、最後あみ子はひとり祖母の家に預けられて終わるという、かなり悲惨な物語です。

 

なお公式サイトなどでは、実際と全く異なる、無垢な少女のほのぼのストーリーのように紹介されており、映画自体の作りと相まって、かなり問題だと感じました。

 

私は宇多丸さんの映画評はいちばん信頼しているといっていいのですが、今回は大きく異なる感想を抱きました。

 

あみ子は、流産してうつ状態の養母に繰り返し死産した子のことを思い出させる言動をして、完全にうつ病に追い込みます。

その結果、兄は非行に走って学校を退学、父は疲弊して育児放棄状態になってしまいます。

悲惨極まりないです。

 

しかしこの映画は、それをあみ子の元気いっぱいの演技と、のどかな田舎の風情、優しく温かな音楽などで、なんとなく、上の状況はあみ子があまりに無垢でまっすぐだからであり、あみ子はそれでも元気に生きていける、みたいな明るい雰囲気で描いています。

 

象徴的なのはラストシーンです。

なんの支援も受けられずに田舎の祖母の家にひとり置いていかれたあみ子が、早朝の海辺で足を水に浸していると、それを見かけた通りすがりの住民が、まだ水が冷たかろうと声をかけたのに対し、あみ子が明るく「大丈夫じゃ!」と叫んで終わる。

 

もう思わず「全然大丈夫じゃないから!!」と突っ込みたくなりました。

 

この映画は原作にかなり忠実らしいので、映画の作り手が観客に伝えたいことは、物語自体よりも演出から読み取りやすいと思います。

そして、その「なんとなく前向き」の演出に、それでいいのかと、どうしても感じてしまいます。

 

あみ子の置かれた状況は悲惨です。

なのに映画が明るいのは、もしかしたら監督は、「あみ子自身は悲惨だと感じてはいない、それは大人の決めつけだ。あみ子は自分で力強く生きていける」と言いたかったのかもしれません。

しかし、周囲の状況を理解できないことこそ発達障がいの苦しみのもとなのであって、本人がその不幸を認識すらできないならそれで幸せ、では絶対にないと思うのです。

 

また、あみ子の問題を、「子どもの頃はみんなそうだった」みたいに、定型発達者の成長過程と地続きであるかのような共感を促す作りは危険だと思います。

 

「特別なことじゃないよ、子どもなんてみんなそういうところあるよ」と考えることで、発達障がいに大人がきちんと対応しない危険につながる気がするのです。

そして、まさにあみ子の状況もそれだと思います。

 

映画の公式サイトでは、こんな紹介文があります。

 

いつも会話は一方通行で得体の知れないさびしさを抱えながらも、まっすぐに生きるあみ子の姿は、常識や固定概念に縛られ、生きづらさを感じている現代の私たちにとって、かつて自分が見ていたはずの世界を呼び覚ます。観た人それぞれがあみ子に共鳴し、いつの間にかあみ子と同化している感覚を味わえる映画がここに誕生した。

 

いや、そういう問題じゃないでしょうと言いたくなるのですが・・・。

 

内容に添っていないこうした紹介文も、いつもなら「宣伝のためには仕方ないんだろうな」と同情するのですが、この作品では、作り手はまさにこの紹介文のように考えているのではないか、と感じてしまいます。

 

この映画は非凡な、間違いなく「すごい映画」です。

たぶん、映画としては完璧に近いと言える気がします。

宇多丸さんの評を読むといっそうそれがわかります。

これが監督の長編デビュー作というのだから本当にすごい。

 

ただ、考えれば考えるほど、このようなシビアなテーマも、作り手にとっては結局は「すごい映画」を作るための素材に過ぎなかったのか?という疑問にとらわれてしまいます。

 

監督は本当のところ、どのような物語として原作を受け止めたのでしょうか。

それが結局、よくわからないままでした。

 

6日前から発熱し、なかなか治らんなと思っていたら、3日前にいきなり39.9度まで上がり、その後は37度から39度台を行ったり来たり。

検査してもインフルエンザでもコロナでもなく、医者は解熱剤をくれただけ。


私は呼吸器が弱く、過去に気管支炎を一度、肺炎を三度ほどやっています。

今回も、大流行しているらしいマイコプラズマ肺炎とかでなければいいのですが。

明日からまた仕事だというのに、これでは・・・。


そして、ふと気づいたのですが、発熱してから、アトピーの調子はとてもいい。

普段カサカサの顔も、少し皮脂がのってテカリが出るくらい。

身体中、ほぼどこもかゆくないのです。


思い返せば過去にもこういう経験はあり、やっぱり何か関係がありそうです。

思いつくとすれば、


・感染症という、免疫に対する別の刺激により、どうかしてアトピーの原因になる免疫の暴走が一時的に矯正される?

・発熱により身体が温められから?

・寝込むことで仕事などのストレスから一時的に隔離されるため?

・入浴できず、常に布団に入っていることで適度に保湿されるため?

・高熱で掻きむしる体力がなくなるため、皮膚のダメージが少なくなる?


こんな事実にもヒントはあるように思うのですが、自分一人の経験ではなかなかわかりません💦