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今日も花曇り

読んだ本や考えたこと、仕事について。

書きたいのに、なかなか(うまく)書けないスピッツのこと。今回はアルバム『とげまる』12曲目の『若葉』です。

 

 

 

 

最初聴いたときは正直「地味な歌だなー」と、あまり印象に残りませんでした。

ただ私はいつもそうで、だいたい時間が経ってから「こんなにいい曲だったなんて!今までごめんなさい!」となります。

 

『若葉』も、なんとなく歌詞は頭に残っていて、生活の中でふと「つなぐ糸の細さに気づかぬままで」とか「今君の知らない道を歩き始める」といった歌詞を思い出し、いい歌だな、もう一度聴いてみようと・・・。

そして今は大好きになり、大変な名曲だと思っています。

 

卒業の歌は世の中にたくさんあって、『若葉』も若者の別れの歌のように思えます。

でもこの曲のように、2つの季節を歌うことで時間の経過を感じさせる作品は多くない気がします。

「花咲き誇る頃」と、それを振り返る「若葉の繁る頃」の歌です。

 

この曲は歌詞の繰り返しがほとんどなく、同じメロディが、違う歌詞で何度も歌われます。

そのたびに思い出される景色が移り変わり、古いアルバムをめくっているような気持ちになります。

 

ひとつの曲で草野さんの歌詞がたくさん読めるのも、単純に嬉しい。

草野さんも、たくさん歌いたい言葉があったのでしょうか。

 

この曲はたぶん若者の歌なのでしょうが、すっかり大人になってから若い頃を振り返った自分の気持ちにもとても近いです。

今思えば私も、将来なんて霧の中で何も見えず、でもなんとなく、いつまでも今が続くのだと思い込んでいました。

そして、「つなぐ糸の細さに気づかぬまま」、たぶんもう一生会うことはないだろう人たちのことを思い出します。

 

サビの後ろのギターのロングトーンがとてもいい。

『ありがとさん』もそうでしたが、スピッツの曲はこういうロングトーンがすごくいいなと思います。

ギターのアレンジはテツヤさんが考えるんでしょうか?すごいなー

 

メロディもゆったりとしてシンプルなので、合唱曲にして卒業式で歌ったらみんな泣いちゃうだろうなーなんて思っていたら、やっぱり同じようなこと考えるんですね。

 

 

実際歌っている学校あるのかな?

合唱にしたらすごくいいと思う。

 

曲では最後に、季節が「花咲き誇る頃」から「若葉の繁る頃」となり、思い出に鍵をかけて歩き始めるという歌詞で終わります。

「君を忘れない」とかではなく鍵をかけちゃうところがスピッツだなあと思います。

振り返りつつ独り歩いていく感じが、『テクテク』を思い出させます。


草野さんの詞は、深く共感できるところもあるけれど、「あるある」ではありません。

そういう感情もあるのか、そうだったかもしれないと、自分も気づかない気持ちに言葉が与えられることにいつも驚きます。


ボブ・ディランにノーベル文学賞が与えられるのなら草野さんにもあげるべきだ!

シューベルトの歌曲が教科書に載るのならスピッツの歌も載せるべきだ!

と本気で思います(教科書にはもしかしたらもう載っているかもですが)。


草野さんとスピッツは本当にすごい。

いつも同じこと書いてますが。


令和元年の芥川賞受賞作です。

 

 

今村夏子は、『こちらあみ子』をきっかけに、疑問を感じつつ気になる作家。

芥川賞受賞作ということで、やはり読まねばと思い読みました。

 

 

『むらさきのスカートの女』は、とにかく、めちゃくちゃに面白い。

そして笑える。

今村さんはすごい笑いのセンスがあると思いました。

 

「私」が「むらさきのスカートの女」に突撃してショーケースに激突したり(これが実は物語を動かす重大な要素だとは・・・)、唐突に「むらさきのスカートの女」と友達になりたいと宣言し、頓狂な作戦を練りまくったり、ピンチに陥った「むらさきのスカートの女」の前に突如現れ、逃走作戦を滔々と説明し出したり・・・

思わず笑ってしまいます。

主人公の行動はどれもこれもヘンなのですが、なんともおかしい。

 

そして読み終わり、今度は疑問ではなく確信しました。

この作家は、描きたいものやテーマは、特にないのではないか。

 

確かに面白いです。

この内容で全く飽きさせずに読ませる長編(中編?)に仕上げる筆力はすごい。

 

ただ、人生の折々に「あの本にはこんなことが書いてあった」と思い出して糧にする、という本ではないと思います。

 

レビューサイトの感想も「不気味」「不穏」「怖い」みたいなものが大半で、この物語が描こうとしたものに言及しているものはほとんどないようです。

それも当然で、この作品の興味はかなり技巧的な点にあるからだと思いました。

 

おかしな女を観察しているはずの女自身が、どんどん「おかしな女」になっていき、最後は入れ替わる、というその構成。

それをいかに面白く描けるか、というテクニカルな興味です。

何か作者が切実に訴えたいものがあるわけではなく、文章による技巧が純粋に追及されているように感じます。

 

スタイルは『こちらあみ子』や『星の子』と同じです。

登場人物の主観に徹し、読者が得る情報を強く制限することで、読者は「どこかおかしい」と違和感を抱き始め、それが物語を進める動力になる仕組みです。

 

そこを目指したという意味では、ほとんど完璧な作品だとも思うのですが・・・

 

私自身は、そういうのはどちらかというとエンタメ的な面白さで、真剣に文学を読みたいと思っている人にとってはどうなんだろう?と思ってしまいます。

芥川賞ってこういう作品にも与えられる賞なのかと、意外な感じがしました。

 

間違いなく面白い作品を書く作家と思うのですが、いったん、今村夏子氏の作品はここで一段落でいいかな・・・と思いました。

 

私は本が好きです。そして書評を読むのも好きです。

他の表現手段についてもそうです。

音楽や映画が好きで、その批評を読むのも、やはり好きなのです。

 

他の人はどんなふうに感じたのか、知ることができるのはおもしろい。

何より、自分より鋭敏な感覚でとらえられたものが、自分より真実味のある言葉で表現されているのを読むことが嬉しい。

自分の感覚が押し広げられる気持ちがします。

 

私は評論から作品に入ることも少なくありません。

例えばショパンやモーツァルトはそこまで好きではなかったのですが、遠山一行氏の『ショパン』や、小林秀雄氏の『モオツァルト』を読んで、改めて作品を聴いてみようと思い、そこからその作曲家がとても好きになりました。

(評論でイメージができてしまってから作品に接するのは危険でもあるとは思うのですが・・・。)

 

そんなわけで書評が読みたいのですが、よい書評に出会うことは結構難しい。

 

レビューサイトには膨大な感想が投稿されています。

でも投稿者はやはり素人なので、レビュアー自身の言葉が未熟だったり、独りよがりだったりして、読んでもかえって不満がたまることも多いです。

中には素晴らしいレビューもあるのでしょうが、レビューの数が多い本の場合、砂浜に埋められた宝石を探すようなものです。

 

プロの書評としては新聞や雑誌に載るものもありますが、紹介や解説に重心が置かれるうえ、分量にも制限があるため、やっぱり物足りない。

私は解説や分析というより、読み手がその作品とどんな対話をしたのか、どんな変化を促されたのかを知りたいのですが、そこを正面にした書評は多くないと感じます。

いわゆる評論家の、「作品をダシに自分のすごさを他人に知らしめたい」書評は、とてもニガテです。

 

何かいい方法ないのでしょうかね・・・。

 

今まで読んだ評論で、「自分もこんなふうに作品に向き合えたらいいのに」と心を動かされたのは、本についてだと『式子内親王・永福門院』(竹西寛子著)、『詩歌の待ち伏せ』(北村薫著)、『打ちのめされるようなすごい本』(米原万里著)などです。

 

こうしてみると結局、よい書評を読むには、そのためにまた別の本を読まないといけないようですあせる