「生まれてから一度も絵を描いたことがない子どもや、色を知らない子どもがいっぱいいるんです。クレヨンや色鉛筆、絵の具、ノート、画用紙を届け、絵を描くことで夢と希望を持ってもらいたい」。
アフガニスタンの子どもらにクレヨンを送るボランティア活動をしていたころの後藤健二(ごとうけんじ)さんの言葉である。紛争、難民、貧困下に生きる人々の姿を伝えるジャーナリストとしての活動はこの間、広く世に知られた。およそ人間ならばだれでも分かるその善意だった。
あまりの非情への怒りに目がくらみそうである。多くのイスラム教徒をふくむ世界中の人がその無事を祈った後藤さんの殺害を示す映像が公開された。テロリストがどんな連中であれ、後藤さんに何の敵意もないことは少し話を聞くだけですぐ理解できたはずである。
この間、人質となった湯川遥菜(ゆかわはるな)さんと後藤さんの身を気遣うすべての人々の心をほんろうしてきた犯人たちだった。実際、血の凍るような映像を用い、解放の条件やその期限をくるくると変えて人々の同情や善意をもてあそぶ手口は、とても人間の仕業とも思えない。
命をいつくしみ、他人を思いやる人の心の最も柔らかな部分に恐怖と憎悪の毒を流し込むテロリストである。しかし彼らにどんな冷酷な成算があろうと、罪もない人を惨殺するさまを誇示するような集団が生きのびる場所など、21世紀の世界のどこにもありはしない。
「地球上の困難の中で暮らす人々に寄り添いたい」とはジャーナリストとしての後藤さんの言葉だった。テロリストがどんな毒をふりまこうと、たじろがずに引き継ぎたい強(きょう)靱(じん)な善意である。(毎日新聞 余録 2015年2月2日)
私はこの文章に共感します。ただ一方で、言論や正義が何の力も持てない場所が間違いなくあるという、動かせない事実を改めて突きつけられて、こうして言葉を重ねることの非力さに、深く落胆しています。