怨んでいた相手に謝罪した経緯 | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

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自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ

昨日、俺は3人の人に謝罪をした。


自分自身の棚卸しをするなかで、どうしても謝りたい存在と感じたからだ。


数年前からずっと『謝罪したい…』と心に引っ掛かっていた相手は、


中学から二十歳前まで俺に酷いことをした相手だった。


自分の棚卸しを続ける上で、俺の最もな負債である“恐れ”が見えてきた。


俺はまだまだどんな人でも怖いし、


人生に安心を感じていない(裏返すと恐れている)。


その根っこは常に最悪な状況を見せ、常に最悪を想定させた両親にあると思うが、


人を恐れるようになったのは父からの虐待や否定よりも、


先に書いた同級生から長年受けた裏切りの毎日だったような気がする。




しかし、俺は数年前から“自分の落ち度”に気付いてしまった。


彼がそうしたのではなく、俺も彼にそうさせていたのである。


勿論、虐めや暴力は肯定するわけにはいけない。


しかし、俺が父から叩き込まれた上下関係(つまり見下す)が、


俺の中学時代に起きたトラウマの発端であったことに気がついたのだ。


恐らく多くの人が未だに犯す失敗である“良かれと思って”という自己中心的、利己的な発想が俺と他者の間に大きな歪みを作っていたと思う。




彼は集団のなかにいた。


偽りのリーダー的存在に見えていた。


ここにもヒントがあった。


彼と上手くやっていた人は大勢いるのに、何故俺にはそれが出来なかったのかというヒントだ。


やはり俺には謝ったプライドや、欠点が多くあり、他人と調和することが出来なかったのだろう。


今でも俺は一匹狼をずっと生きている。


そこにはやはり父から受け取ったマイナス要素が強く働いていた。




そんな俺でも人は“カリスマ”と認知していてくれたようだ。


一匹狼がそうさせたのかもしれないが、本音を書けば、人と接することが出来ないという欠点だった。


彼は俺のカリスマにとても嫉妬しているように見えた。


だからいつも集団で俺を押さえ付けることにしたのだろう。


彼は俺を恐れていた。




しかし、


今朝、祈りと黙想を終えたあと、コーヒー豆を挽く俺にひとつの気付きが落ちてきた。




『もしかして、彼が俺に嫉妬していたのではなく、俺が彼に嫉妬していたのだろうか?』




彼は俺に嫉妬していただろう。


しかし、まさか自分にそんな気持ちがあるとは夢にも思わなかった。


俺は常々、自分の弱さや汚さを見ろと、このブログで書いているが、


嫉妬であったり、ズルい考えであったり、弱さ、汚さから気付かされることは本当に多いし、


その物凄く人間的な部分を理解することによって、他人の気持ちが少しは解るようになった経験がある。


彼に対する嫉妬について、


もしかすると俺は、自分と対局にいる彼に嫉妬していたのだろうか?


人と上手く接することが出来ない一匹狼な俺と、いつも人と“群れて”いる彼の差を受け入れられず更に孤立し強がっていたのだろうか?


それが彼に対する反発心として現れて、彼にそうさせていたのではないか?


俺のなかで人と群れることはダサいという認識で、一人でいることは寂しさも伴うが強さとも思っていた。


そのどちらもが完全には間違っていないだろうが、


大切なのは、俺は彼に嫉妬していたかもしれないという事実だった。




本当によくある例として、


男よりも群れを作り、パワーゲームに取り憑かれる女性たちのトラブルのひとつ、


本当は“女の子”らしくきゃぴきゃぴと振る舞いたいのに、そうできない自分と、


可愛く、実に女の子らしい振る舞いをする女性を比べて、


あざといとか、女を武器にしていると、陰湿な虐めを聞くことが多いが、


これもまた“そうできない自分をそうできる相手に投影して”、嫉妬しているのだろうと思う。




今更だが、俺を留置場や精神病院に辿り着くまで病ました原因は、


この両親や友人達の暴力………、ではなく、それを恨み、呪い、怒り切った自分の自己破壊によるものだった。


だから俺はあんなにも酒や薬物の力を借りて、そして、暴力を震って、威嚇して、弱い自分を隠すしかなかったのだと思う。




何はともあれ、長年謝罪したいと思っていた憎き相手に謝罪できたことは本当に良かったし、


恨みが謝罪へと繋がる貴重な経験をさせて貰ったことは俺の今後の人生、今後の依存症支援活動に大きな一歩を踏み出すことになったと思う。


20年近く会っていない彼と再び会うことは簡単ではなかった。


しかし、やれば出来ることも本当は知っていた。


そして、俺の願いは、やはり自分なりに理解した神に届いたのだろう。


チャンスは突然やってきた。


俺は用事があって向かった先の店が営業終了していた時点で、


『これはボスのところに行って、アイツと連絡を取って貰えと神が言っているのではないか?』と感じ、


これまた疎遠となっていたボスの店で本来の用事を済ませると同時に「謝罪をしたいから、ボスや相手が迷惑でなければ連絡を取り次いで欲しい」と頼み、


その場で涙を流しながらボスと相手に「本当に申し訳なかった」と過去の自分の見下した態度を謝罪をした。


ボスも相手も「もう俺たち40歳だし良い大人だよ」と何も気にしていないと許してくれた。


次いでにもう一人、逮捕数年後の俺に唯一ばったり会ったときに、


「元気そうで良かった」と言ってくれた、これまた俺が凄く傲慢な態度で接していた同級生にも謝罪をさせて貰うことが出来た。


「また会おう!」


今でいう半グレだった凄くエネルギーのある仲間達との縁が再び繋がった不思議な感覚を感じた。


だから彼らとは幼い頃に出会い、あんなにも強く結びついていたのだ。




もしかすると、俺は対人トラウマの基礎までやっと、やっと…、やっと、たどり着くことが出来たかもしれない。


根本の修正が叶うところまで、やっと来れたのかもしれない。


もし、俺のこの断酒後12年間で行ってきた生き直しが間違った方向に向いていなければ、


昔は上手く築けなかった仲間達との関係性が、今度は上手く築けるかもしれない。


それは俺の対人認知の修正に大きな影響を与えるだろう。




後、残るのは、あくまでも現時点の話ではあるけど、


兄かな。


彼も物凄く俺に嫉妬をしていた。


その一世一代の憂さ晴らしが、牢屋から出てきて憔悴しきっている俺を支配し、精神病院に幽閉して母からの愛(称賛)を得ることだったと思う。


とは言え、これは俺の主観である。


彼は俺にどんな気付きを与えてくれるのだろう。


そして、謝罪の叶わない元妻や3人の子供、父に対しては、


その失敗を今悩んでいる人達への貢献として埋め合わせをさせて貰いたい。


俺は罪が多すぎる人間だ。


過去は変えられないが、今から、そして未来は変えられる。


更に、


過去は変えられずとも、過去に対する認識は変えられるのだ。


間違った過去を生きたとしても、あの時はそれが必死にやった結果だ。


同じ失敗を繰り返さないように、経験を活かし、勉強と治療を続けて、


失敗を、ピンチを、欠点を、


チャンスに変えていくんだ。


これは誰にだって出来ることだ。


だが、まずは俺がやる。