思い出の詰まる土地での災害や事故は心配になる。
何より震度の割には被害も少ないようで安心しました。
ここで「大丈夫ですか?」と気の利いた言葉を言えない俺ですが、
一応、嘘つきで有名な日本のメディアやネット情報で被害の有無は確認しております。
さて、この世には言って良いことと悪いことがあるのは承知しているつもりですが、
俺は最近某県で起きた災害に複雑な感情というか、無関心でいました。
俺の断酒と東日本大震災の関係は強く、
それに加えて、人の役に立ちたいと聞けば聞こえの良いことですが、
答えは“共依存症”という病気(除く日本)の俺ですので、この前の台湾地震なども心配になるし、力になりたいと思ってしまいます。
しかし、某県の災害に関しては本当に無関心。
その理由は、観光に行った時の苦い思い出がそうさせていました。
その県には、かなり珍しい有名な道路があり、俺はそこを車で走ることを楽しみにしていました。
ところが現地に辿り着くとコロナを理由に封鎖していたのです。
コロナに対するお馬鹿な対応を繰り返す日本にウンザリしていた俺にとって、
道路まで封鎖したその県のリーダー達のお馬鹿さに言葉を失ったのを今でも覚えており、
その県にもう2度と行かないことを決めた(と言いながら名城スタンプを回収しなくては)のです。
その時は、要するに“来るな”と受けとりますし、そういう時期でもあったのは理解できます。
では説明してください。
道路を走っていてコロナウィルスは拡大するのでしょうか?
答えはどう考えてもNOです。
しかし、そこは有名な観光地で、そこを目的に集まった人達によって県内で感染拡大することは予想できます。
では、他にもそういう例があったでしょうか?
例えば九州には阿蘇という、とてつもなく走っているだけで気持ちの良い観光地がありますが、
俺の知っている範囲で道路を封鎖した情報はありません。
俺にとって“道路まで”封鎖したことの意味が全く理解できませんでした。
それなら全ての道路を封鎖するなり、県境を国境のように封鎖すれば良いし、
県境まで車で5分という環境にすむ俺にとって、あの時期の行動制限は本当に理解に苦しむものでありました。
そんなお馬鹿な県に俺がしてあげられることは無いし、
こんな偉そうなことを書いていながら俺の出来ることは観光でお金を落とすとか、募金とか、そのどちらもは雀の涙程度なので影響も無いでしょう。
コロナ中、
「来ないで下さいー。道路封鎖しますー」
震災復興後、
「観光に来て震災復興に協力してくださいー」
俺「知るかボケぇー」
最近でこそ少し落ち着いたように見えますが、東日本大震災後“絆”とか“頑張ろう◯◯”と称して震災復興ボランティアという名のお祭り騒ぎが起きる傾向がありますが、
震災=お祭り復興ではなくて、自分で協力出来る場所、したくない場所を考えるのも大切です。
話を四国の地震に戻すと、
昨今、南海トラフの不安が高まると同時に地震も増えてきました。
ここ数年ずっと頭の隅っこには四国の被害が気になっています。
四国を歩いて4周目に入りましたが、徳島県の後半から高知県にかけて、
やはり津波の被害を伝える江戸時代などの古い石碑を見かけます。
きっと札所が高台にあるのもそうした歴史と無縁では無いでしょうし、
寺では無く、遍路道をこよなく愛する俺にとって、四国の土地や風景、住民の受けるダメージは本当に辛いものです。
お寺は見事なまでにぶっ潰れて貰って全然構いませんが、
故郷である宮崎県よりも俺は四国を故郷だと思い、大切に思っておりますのでただ事ではありません。
四国を歩きながら、必ず訪れる地震被害を考えることも多く、その時はいても立ってもおられず飛んで行くだろうといつも考えています。
取り敢えず今回は被害が少なくて良かった。
寺は見事なまでにぶっ壊れて構いませんが、
“遍路”に関わる全て、道、風景、家、住民が被害に合うことないことを祈っています。
きっと俺が有名人だとしたら、今日書いたことは炎上するでしょう。
「能登のことだ!なぎさドライブウェイの事だろう!死者まで出ているのに何てやつだ!」とか推測する人達が湧いてくる話です。
一応、否定も肯定もしませんし、
固有名詞を使うことは今回だけ避けておきます。
カルマというものを重要視している俺にとって、“死”や皆さんが“不幸”と勘違いしているものに対しての考え方は大きくズレていると思います。
ただ言えることは、ロシアとか北朝鮮や以前イスラム国と呼ばれた人達が被害に合ったとして悲しめない人達も多いはずだし、
俺の主観でものを言えば、
そもそも多くの人って口は出すけど“無関心”でしょ?という結論です。
自分で物事を考えないけど、誰かが考えて発言したことに対しての“反応”は得意ですよね。
俺は実際に、発生して数年後ではありますが宮崎県から東日本大震災の跡地に2度足を運び、現地で感じたこともありますし、
熊本地震での色んな人の対応や発言を経験しております。
結論、結構皆さん、俺より酷い。
能登、熊本、東日本大震災、新潟中越地震、阪神大震災と、
まだまだ西日本豪雨、広島もだっけ?と災害は沢山ありましたが、何か出来る範囲のこと1つでもしましたか?
無理にしろとか、するのが正義と言っている訳ではなくて、俺の見てきた人達のなかには「儲かるぞー!」と人の不幸を喜んでいる人が大勢いましたし、
俺は全くそう思えないのですが、普通の人って“人の不幸は蜜の味”と言うらしいのです。
何より、何もしないなら黙っとけと思います。
因みに酒をやめることの無いアルコール依存症だって『やめたいんだけどなぁ…』と思うまではしますし、
『可哀想だなぁ…』とか、『力になりたいんだけどなぁ…』と思うまでは誰でも出来ることなんです。
『変わりたい』と思うまではしますが、行動には移さないのが人間です。
お馬鹿なコロナの話題ついでに今だから言えること。
コロナって本当に馬鹿な時期でしたね。
俺は最初から今になることが予想できたので、本当に『馬鹿だなぁ…』と見てました。
そのうちの1つ、旅行支援について。
あれは正にコロナをばら蒔く我が身を守れない人達への支援でした。
本当に優秀なら、その時、その状況に人は変化して、その時の行動に変えることが出来ます。
しかし、それが出来ない人達(移動、宿泊と以前のスタイルのまま)の為に支援して、金を大量にばら蒔いて、一部の人達の利益に繋げて、
漏れなくコロナをばら蒔いてまた自粛を求めると、本当にお馬鹿な時期でした。
依存症者である俺は健常者と自称している人達に“自立”という言葉を嫌ってほど叩きつけられ、只でさえ追い詰められていたのに、更に追い詰められた経験があります。
ところがあの時期に旅すら自立出来ない人達に支援金を出して県境(笑)を跨がせたおアホな政策は失敗だったし、
あの時期に変化出来た俺にとって、あの時に身につけたスキルが今でも自分の旅の役にたってます。
皆さんはあの時の経験って何か1つでも生きてます?
お陰様で、我が家は何度も旅を重ねながら一円も“支援金”をいただくことなくコロナを終えました。
“お得”な発想のチンパンジーは除いて、あの時期にばら蒔かれたもののツケを払うのは俺達というのは解りきっていた迷惑な話ですが、
あの時期に皆さんが優秀であれば、想像も出来ないような大金が無駄に必要となることは無かったでしょう。
snow peak…。
先日、
6653億円分のワクチンが廃棄されるようです。
それでもまだ俺とは比べ物にならないエリート達は“無駄だとは思わない”と言っているそうです。
ところで皆さん、ワクチン打ちました?
それって今でも必要だったと思えます?
因みに俺は先も述べたように“今”が来ることが簡単に予想できていたので一度も打ってません。
あの頃、自分で考えましたか?
それとも国の政策に対して“反応”しただけですか?
この意味、わかりますか?
国から「ワクチンを打て」と言われて、
1、打つ
2、打たない
と準備された二択に反応(考えた)したのか、
そもそもそれ以前にワクチンの必要性や意味を自分で考えたか?と聞いているのです。
義務教育から高校、大学、専門学校とか、
まぁ、俺は中学もまともに出ていないので他をしりませんが、
少なくとも俺の受けた7年間の教育と自称されるものは、
算数、国語、理科、社会など、色んな科目はありましたが、
俺にとって“誰かに出されたものに対して答える”という1つの科目しかなかったと感じています。
その結果が生き辛さにより牢屋と精神病院という結果でしたから、
そこから俺は自分の頭で考えるということを覚えたのです。
恐らく俺は小中学校など行かずに自由研究が出来る“らしい”大学に行くべき人間だった(知能レベルではなく教育スタイルとして)。
最近、俺の身の回り(依存症の世界、援助職含む)で“私は普通なのだろうか?”と当然の不安に今更怯える人が増えています。
依存症からの回復とは育った環境を見直して行くことがとても重要なことなので、
そこに触れた援助職(にはアダルトチルドレンが多いのもある)ですら、自分の生い立ちに不安を覚えることはあるのです。
今まで誰かに出された問いばかりに答えてきた人達にとって改めて考えさせられる“普通”とは、恐怖や不安を感じるものでしょう。
俺は俺の考えてきたことを信じているので、不安もありませんし、
こうしてお前らに嫌われるようなことを書いて嫌われようが何とも思いません。
そもそも、俺はいつも日本人が表面に出さない心理を見てその人と接していますから。
俺が“ハッキリ”しているのではなく、日本人は自分が無い。
利己的で自己中心的な人に溢れているのに、自分主体な生き方の人は少ない。
他人軸で世間体などと人の視線ばかりを気にして生きているのに他罰的。
他人の目を気にするほど大した人間でもないのに。
自分のとんでもない失敗の数々からとても感じることがある。
本当の頭の良さって、
1546+85426×7851÷2(756×355552)-512=
とかを答えられることよりも、
『何でだろう?』と素直に感じれることだって。
それにしても今日のタイトル
現代バージョンのどちらを聞いても“要求”ばかりに吐き気がする。
この曲を聞きながらここ数年、自分でも気付いている書く文書の荒れが、前妻や今妻、依存症の世界に身を置いているからこそ当たり前のように目にする女性の関係依存症、共依存症に対するストレスであることに気付かされる。
俺は何故ここまで女性が嫌いになってしまったのだろう。
鶏が先か、卵が先かは置いといて、
女性の関係依存症→旦那(彼氏)や子供と状況によって依存先を変化して最終的には子供をすり潰し、
その子供が依存症者として依存症者(母)から育て上げられ、
その子供が◯◯依存症となったり、
◯◯依存症の配偶者を見つけ出して結婚して、
無意識にトラウマ(例 親とは違って明るい家庭を作ろうとか、暴力を奮わず育てよう→過干渉、通称優しい暴力)を乗り越えようと、親とそっくりな家庭を築き、
100%失敗して、
◯◯依存症の配偶者に愛想をつかし、
子供に依存先を変えて、子供をすり潰し、
その子供が依存症者として依存症者から育て上げられ、
その子供が◯◯依存症となったり、
◯◯依存症の配偶者を見つけ出して結婚して、
無意識にトラウマを乗り越えようと、親とそっくりな家庭を築き、
100%失敗して、
◯◯依存症の配偶者に愛想をつかし、
子供に依存先を変えて、子供をすり潰し、
その子供が依存症者として依存症者から育て上げられ、
その子供が◯◯依存症となったり、
◯◯依存症の配偶者を見つけ出して結婚して、
無意識にトラウマを乗り越えようと、親とそっくりな家庭を築き、
100%失敗して、
◯◯依存症の配偶者に愛想をつかし、
その子供が依存症者として依存症者から育て上げられ、
その子供が◯◯依存症となったり、
◯◯依存症の配偶者を見つけ出して結婚して、
無意識にトラウマを乗り越えようと、親とそっくりな家庭を築き、
100%失敗して、
◯◯依存症の配偶者に愛想をつかし、
子供に依存先を変えて、子供をすり潰し…
明治、大正、昭和、平成、令和と、
果たしていつになったら人は進化し、正しい知識を持って依存症の世代間連鎖(伝播)に気付いて断てるのだろう。
いや、無理だ。
そもそもこの世の摂理が輪廻転生だから。
「俺(私)がこの家庭を支えている」と自負する人ほど、
“良かれ”という自己中心的な凶器で家庭を破壊するマシーン。
本当にもう2度と関わりたくない生き物だ。