何故いつも女性が哀れみで見られるのか | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

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自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ

4月1日に書いてた日記。




女性は男性全てを変態だと思いたいだろうし、女の身体に興味があると決めつけたいだろうけど、LGBTQを除いても決して全てがそうではない。


それと同じ様に、ここで俺の書く女性についても勿論例外があるだろう。




俺は普段から心理を考えたり、原因や矛盾を紐解くものの考え方をしているのかもしれない。


先日、男の産後鬱や更年期障害について少し書いたが、この話に少し進展があったので何故この世の多くは“いつも女性目線(大抵哀れみ)でしか語られないのか”について書いてみたいと思う。




その答えは実に簡単だった。


皆さんも女性という生き物について聞いたことがあるだろう。




ただ私の話を聞いて貰いたいだけなの。




聞かされる立場が迷惑なのはそれには条件があって、 


答えはいらないから、黙って聞け、という条件だ。


つまり、女性とは自分の思いを吐き出さないと気が済まない生き物であり、


だからこそ女子会やランチ、いにしえから井戸端会議などがあったのだろう。


うちの嫁もよく「自分だけ言いたいことを言ってスッキリして!」と言うが、


俺はその度に「俺は言うことで発散する嗜癖はもっていないし、その言葉にお前の欲求を感じる」と答える。




少し話が変わるが先日、春休みに入り調理場の片付けを終わらせて職場のメンバーで昼食に行った。


開店と同時に満席になった店内を見ながら俺は『まだまだ女性のいう“男女平等”は遠い世界だ』と感じた。


旦那が仕事をしている時にこんなにも沢山の女性が外食をしている光景に、俺は今の世の女性自ら訴える男女平等に違和感を感じたのであった。




話を戻そう。


女性が自分(だけ)の話を一方的に聞いて欲しい生き物に対して男性は?と言うと、


女性に対して自殺率が4倍というほど自分の気持ちを外には出さずに死んでいく。


俺は先月、隣町の保健所で援助職に向けて講和した時も“自殺とは究極の孤立”であると話したが、身近な人にすら相談せずに一人で抱えてあの世に持っていく。


それほどまでに男は死ぬ程のことでも一人で抱え込む。




女性はいつも自分だけが被害者だと思いたいだろうが、俺がこの場で男女問題を書く一番の理由として、


女性を否定したい訳ではなく、俺も“男”であったことが酷く差別(虐待)を受ける理由になったから気持ちが解るのである。


男には男の苦しみがあることを知り、女には女の苦しみがあることを知るのが男女平等ではないか?


ところが昭和から、特に昨今は一方的に女が苦しんでいるらしい(自称)し、男は過去(昭和以前)の負の遺産を現代に持ち出されて困惑している(まるでお隣の国みたい)。


だからこそ一方的な“ワガママ(駄々・自我の暴走)”は止めて欲しい、その理由は見苦しく、自身の課題に気付いて貰いたいのだ。


男性が外に気持ちを吐き出さない理由の1つが恐らく“男のくせに”と育てられたことだろう。


男は泣いてもいけないし、弱音を吐いてもならない。


少なくとも俺は泣けば泣くほど殴られたので、途中から泣くことすら、いや、解離して痛みを感じることすらやめた。


だから男は相談もせず死んでいくのだ。


そう、男女の心理を見ていくと今日の話、何故いつも女性目線(哀れみ)ばかりで語られるかの真実が見えてきた。


それは自分の気持ちを外に出す生き物か、


内に込めて死んでいく生き物かの違いなのだろう。


分りやすく言えば、主張の激しい人達か、主張をしない人達かであり、


日本人と中国人の違いのようなもので、どちらが図太く、図々しく生きているかを考えたら現状もよく理解できるだろうと思う。


それを証明するように昨今、男の産後鬱や更年期障害にも問題の目が行くようになった。


そうなった理由は簡単で、この場のように自分の気持ちを吐き出せる環境(主に匿名で)が整ったからなのだろう。


男も我慢せず匿名ではあるが、自分の悩みや弱音を出せるようになったのだ。


勿論、産後うつに関しては新たな命が体内に宿ることによるホルモンのバランスの変化はあるだろう。


しかし以前、新たに保護犬クウを迎えた時に先住犬のカイが精神バランスを崩したように、


これは幼い兄弟間でも起きるし、うちのバカ養子のように配偶者が妊娠、出産して自分を向いてくれなくなったからと浮気してバレて離婚に至ったように、


産後は男にも、子供にも色々と影響が出るわけで、何も女性ひとりの話ではないと思う。


ここの部分で違和感を感じる人も多いと思うが、ならば“産後うつ”に関して明確に区切って貰いたく、現状では何から何までを産後うつとしているように感じる(つまりホルモンの乱れ限定にしろよ)。




これも以前書いたことだが、


自分を縛り上げているのはあくまでも自分(の価値観)である。


女性は女性としての立場を男性の責任にしたがるが、そういう生き物であることは置いといて、これもまた自分の価値観が自分を縛り上げているのだ。


嫁姑問題と言えば古く感じるかもしれないが、具体的に今その存在は薄れつつあっても、その影響や流れが完全に途絶えた訳ではなく、


笑話の、いや昭和の“良妻賢母”や“聖母”神話などにあるようにまだまだ“女性とは”とか“漢とは!”的な笑話の、いや昭和の負の遺産は自分達の心理に強く刷り込まれている。


女だって沢山の人が育児放棄をして子供を棄てたり殺す(しかしそれについて女性は蓋をするが…)。


良妻賢母も聖母も誰かがつくりあげた理想像であって、この世に生まれた人間がなれる存在ではない。


そもそも笑話の良妻賢母など子供を破壊する自分が無い共依存症ロボットである。


結局、紐解くと女性を理想の女性として縛り上げているのは自分の母や姑の教育(いつの間にか自分の価値観になっている)であり、ここも負の世代間連鎖。


「男が!男が!」と何もかも男に依存する世代間連鎖に巻き込まれていることに気付いて欲しい。


悪いが、俺はここ10年ほど“女性らしい”女性を見たことないし、実に身勝手で顔にお絵描きした画用紙が歩いているのしかみたことない。


人が並んでいても平気で目の前を通過したり、横入りをするし、公衆の場で子供がYouTubeやゲームなど大音量で流していても配慮もなく、その割りには酷く汚い言葉で子供の鈍さを罵る。


飲食店では、その店の料理の香りよりも自分に塗ったくった臭いを振り撒く。


いかに画用紙に綺麗な絵を書くかと、その額を綺麗に飾るかに必死なようだが、額の裏は酷く汚れたままで掃除されることは無いし、絵も湿度管理されることはない。


しかしこれは画用紙であることを除けば男もしていることであり、結局、男、女ではなく、人としての問題であり、他人の責任ではなく、自分の問題なのである。


そもそも男、女以前に、そろそろ“私”に戻る必要がある。


俺は“男(長男、しかも上には養子の男がいる)”に生まれたから親父のコンプレックス(人生のやり直し)を背負わされ、酷く虐待や拷問を受けて、親父の求める“男とは!”に苦しんだ。


それの責任を女性には向けないし、親父にも向けない。


俺が出来ることは親や“笑話”に刷り込まれた自分の汚れを、自分で勉強と経験を重ねて取り除いていくことだ。


大根は漬物になれるが、一度漬物になるとまっ白な大根には戻れない。


しかし俺は、自分で自分の人生を楽しむために自分で自分を治して行く必要があり、


誰かから刷り込まれた“自分以外”を取り除くことこそ、本当の自分を見つける作業なのだ。


女性の多くはまだまだ“誰か・何か(主に旦那・男)”の責任にする嗜癖(依存症)があるが、


そうしている内は絶対に楽になれないし、自分を生きれない。


だから女性には女性特有の関係依存症という病気が見られるのだと思う。


因みに関係依存症ついでの話題で、男は浮気をするものと言いたいだろうが、圧倒的に女性がしているもの、それを隠したいからそう言うのだろうか?


疑問に感じるのは、そもそも一般的に生活をしていて、実体験として口に出せるほどの浮気の話題や現場を知ることがないのに何故こんなにも“男は浮気をするもの”と自信を持って言えるのだろうか。


尾ひれはひれ、自分が無い話もいいところである。


感覚や、人の言っている話ばかりでものを言っているのだろうが、依存症の分野に色んな形で関わっている俺が日常的に見かける“男女間”はかなりの確率で女性側が仕掛人だ。


それとは別にしても女性の好むドラマは“私に対して沢山の男”が多いと言う。


頭の悪い俺がいつも理解できないのは、人口比率や未婚率を考えても、


また“浮気”というものが同性同士で行うこと(一般的に)で無い限り、どちらか一方が極端に行えるものでは無いと思うのだが、


話を戻して、俺がここまで病んだ理由も親の責任にして生きてきたからであり、それを止めたからこの先に回復(自分の人生)があったのである。


女性もそろそろ自分の責任を自分に取り戻してみれば?


いちいち男の指示や判断を求めずによ。


因みに俺の認識で、


責任=選択肢の多さであり、


選択肢の先が=失敗とは決まっていない。


責任=罰や、責任=失敗、または行動=失敗と勘違いしている人多すぎや。



それにしてもやっぱり桜って汚いよな。

まるで俺の16年間の人生を破天荒に暴れまわり、勝手に死に、後遺症に苦しまた親父のようで、

俺は桜の散らかした後(痕)を見るたびに親父の散らした汚れを、1つずつ片付ける自分を想像する。

桜って本当に汚ねぇよな。