献血サボりマン59回目 | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

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自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ

ブッタの教えを見ていたら過去を思い出した。


と言うより、過去を思い出そうとしても思い出せなかった。


俺はアルコールと薬漬け(にならなくては保てない)だった頃、本当に地獄を生きた。


だから地獄とは何も別次元の事ではなくこの世、いや、我が心に存在しているとよくよく理解しているのだけど、


地獄を生きた記憶はあっても、その苦しみを思い出そうにも“苦しかった”としか思い浮かばず、


具体的にどんな苦しみだったのかを忘れてしまっている。


例えば、男性だと堪えきらないと言われている出産の痛みを果たしてどれだけの人が「大変だった」ではなく具体的に覚えているのだろう、そんな感じでは無いだろうか。


人間は上手く出来ていて“病気”になる程の苦しみでない限り、忘れたり、癒されたりされるものだ。


“時間が薬”


“回復は螺旋階段(堂々巡りのようで少しずつ昇っている)”


上の2つは俺の回復を随分と支えてくれた言葉だ。


“病気”に入る部分としては“解離”など、本人すら思い出さないように自己防衛本能として蓋をしているもの(しかし悪さをする)だろう。


例えば“トラウマ”と人は簡単に口に出すが、トラウマとは個人では対処できない圧倒されるような体験によってもたらされる心の傷とあり、間違っても失恋がトラウマになることなど存在しない。


そういう意味では俺の受けた虐待は生死に関わる生きていたことが不思議なほどのことであり、


複雑性PTSDの症状の1つ不眠や対人恐怖など挙げたらキリがない生き辛さにより依存症まで行き着いたわけだ。


それでもあれほど拭いきれなかった両親に対する怒りや恨みは、長年吐き出したり、勉強した結果癒され、


あとは“誰に”ではなく“人間に受けた外傷や心の傷”の後遺症を死ぬまで自分と向き合いながら背負って行くものだと感じている。


確かに地獄はこの世にあるが、


それと同時に気付かされたのは、人間はどんな環境に居ても幸せを見つけ出す力を持っていて、


俺は苦しんでいた時も遍路やアルコール、薬というものに光を見つけ、どうにか自殺せずバランスを保っていたし、


留置場に居た時も、そこに周りから丸見えの便器があることすら有り難く感じていた。


人間のどうにかバランスを取ろうとする本能には驚かされる。


あれ程、殴り、殴らればかりの人生を生きた俺にとっても、人は強く簡単には死なないし、


毎日のように見聞きする「あの人は死ぬだろう」と思われているアルコール依存症者達も確かに死んではいくが、結構しぶとく生き残るものである。


過去の辛かったり、苦しかったりの経験の殆ども忘れたり、自分なりにバランスを取ろうと理解する強さもあるし、本当に人間は強いと思う。


しかし、それは肉体や心理の話であって、


魂として強く“生きて”いる人がどれ程存在しているのかは疑問だ。




さて、サボりにサボった献血を今日思い切って再開した。


2ヶ月(成分献血4回分)はサボっただろうか。


俺はいつも年度末になると鬱に影響され、全てを投げたしたくなるのだ。


再開に至るまでも『もういいのでは?』と思うこともあったが、


やはり基礎に戻って、アルコールと処方薬漬けから回復させて貰った身体のリサイクル(御返し)もしないといけないし、社会に何らかの貢献もしたいと思う。


ところで、以前ドナー候補に外れてしまったままとなっているアレはどうなるのだろう。




断酒10年経ったら再開なのだけど、その期限を2029年(断酒16年なるねん)とされているので再開するか、それまで待つかは迷っているところです。


しかし、ドナー体験してみたいよね。


向こうから29年とされた運命の流れのようなものがあるんやろか?


台湾に募金もせんないかんし。


念のため申し上げますが、


俺がこの場で献血や募金などを取る扱うのは、宣伝(幸せの連鎖に巻き込む)為です。


そもそも“クソ野郎”筆頭である俺のいい人アピールではありませんし、


俺は新鮮になってもアル中バツ1前科持ちで、腐った鯛に失礼なほど、腐りきっております。



血祭りにするぞ。