逮捕された日(幸運) | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

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自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ

11年前の今ごろは取り調べ室の中にいた。


深夜に実家で家族を巻き込んで大暴れ。


空が青くなり始めた頃に警察署に連行され、今の時間(10:19)になっても釈放されなかった。


『流石に様子がおかしい…』


幼い頃から家のなかで親父が暴れて暴力を振るうことが当たり前だった俺にとって、


“たったそれだけの事”でまさか自分が逮捕に至るなど予想外の事だった。


『南無大師遍照金剛…、南無大師遍照金剛…、南無大師遍照金剛…』


今でも思い出すとその矛盾と自己中心的な思考におかしくなるが、俺は他人に暴力を振るいながら自分の身だけを案じ、


あろうことか自分が精神的な病からの回復を願って必死に続けていた遍路で覚えたお経を、大量の酒と精神薬で酩酊した心のなかでずっと読んでいた。




『お大師さん、薬師さん、助けてください』




今なら『何が助けてだ…、本当にイカれている』と感じる。




そして、流石に置かれた状況を理解する瞬間が訪れた。


きっと苦しみながらも何とか這い上がることを諦めていなかった今までがそうさせたのだろう。


『俺が空海だとしたら、逮捕(反省)されることが俺を救うことだと考えるだろう』





その瞬間、取調室のドアが開き、テレビで何度も見かけたシーンが我が身に起きた。


逮捕状を目の前に突きつけられた俺は直ぐに手錠と腰縄をつけられ、


警察署の地下にある暗い部屋へと連れていかれる事となった。


厳重に管理された扉を何枚も越えた先に、俺の鉄格子の部屋があったと言うわけだ。


俺は鉄の扉が閉まると同時に、


『やっと人生の底に辿り着けた。もうこれ以上落ちる(苦しむ)ことは無いのだ。ならば後は這い上がるのみ。ここから酒も煙草もギャンブルも暴力も断って人生をやり直そう』


今まで虐待の記憶(による鬱や不眠)に散々苦しんできた俺はこんな場所で安堵感に包まれ、


その日から俺の人生は少しずつではあるが向上を続けている。




11年前の今日が俺にとっての転機。


人生が良い方向へ向かった日。


逮捕という幸運、その後に起きた精神病院幽閉だって、アルコール依存症の病名だって、


心に強く誓った誓いが伝わらなかった離婚だって、


全てが俺に必要だった薬。



今朝、目覚めて目に入った事件は偶然ではなく必然なのだろう。


ガールズバーと言うのを抜きにすれば、これは俺の姿であり、


意外にも土下座した彼の姿は警察署や検察で何度も泣いて後悔した“粋がっていたのにダサい”俺そのままの姿だ。


しかし、酒や薬やトラウマの心神喪失によって記憶が飛んだ瞬間に罪は無いのではないか。


感情的なことは置いといて、そう感じる俺がいる。


必要なのはどんな失敗でも経験を活かし、原因を見直す(断つ)こと。


他人なら罰したい気持ちも解るが、精神を病んだり、精神科医がニコニコと出してくれる大量の処方薬やアルコールによって人間の脳が誤作動を起こすことは誰にでも起きることだ。


果たして我が身にそれが起きた“まさか”という人生最大のプレゼントに、その時の自分は気付けるのだろうか。


それが“魂の叫び”、その人の持っている真の強さなのだろう。


牢屋の中で、その後、家も失い、離婚もしながら、それでも『このまま終わってたまるか!!!!』と叫び続けた俺、ではなく、俺の魂はきっと強かったのだと思う。


今日はそんなことを考えながら仕事をしていると、四国のとある風景を思い出し、この日記を書きたいと感じた。




このブログの読者なら、俺がどれ程までに精神的にも知能的にもおかしい(劣っている)か御存知だろう。


だからこそ、身に沁みる(府に落ちる)言葉や体験もあり、


それは体験した者にしか解らない事だろう。



徳島県にある5番札所地蔵寺に正しく参拝するとしたら、この石碑を目にすることになるだろう。

“百薬に優る遍路に出でにけり”

上に書いたように俺は酷く精神を病み、人間性としても人に暴力を振るうことを肯定していた程、荒んだ人間だ。

一応、大切なことを添えると、

この世には「女に暴力を振るうなんて最低」とか言うチンパンジー達が多く存在するが、

俺は“女に暴力を振るう”のではなく、“全ての生き物や物体に暴力を振るう”のであり、

相手が強かろうが、弱かろうが、大統領だろうが、ヤクザだろうが、何人居ようがそこに差別はしなかった。

そもそも俺の周りには女性からDVを受ける人の話などゴロゴロあるし、それを堂々と話せる女と、堂々と話すことが出来ない男(加害者だろうが被害者だろうか)という差別も問題だ(因みに俺は一昨日、顔面に石を投げつけられた)。

今の時代、男よりも強い女性も多く、強い男もいれば弱い男いるし、弱い女もいれば強い女もいて“性別を武器に甘えんな”という話だ。

先日も弟夫婦のアルコール依存症の相談に来た姉に「奥さんは困っていないですか?」という聞き飽きた医療支援者の質問に対して、

「奥さんは気が強いので逆に弟を殴ったり、罵倒しています」と返答があったが、女性がいつも困っている“か弱い”被害者でありたい妄想と偏見は置いといて話を戻すと、

ここまで頭がぶっ飛んだ俺だからなのか、

“百薬に優る遍路に出でにけり”を目にする度に深く「う~ん…」と唸る。

今まで自分を自己治療しようとアルコールも精神薬も沢山飲んで来たし、

たった1日で逃げ帰った初の四国上陸遍路や山籠りの日々もあった。

しかし、俺に一番効いた薬があるとすれば、

それは“遍路”でしかない。

有り難くも本日で断酒11年を迎え、12年目に入ることが出来たが、

一年、一年と断酒道を歩けば歩くほど、その増えていく年数に意味がないことを痛感し、身の引き締まる思いをする。

しかし今日“百薬に優る遍路に出でにけり”を思い出しながら(つまり自宅で遍路をしながら)気付かされたのは、

年数(時)以外にも積み重ねることがあると言うことだ。

俺には回復を重ねると同時に続けている遍路がある。

四国の約1,200kmを歩いた途中に5番札所があり、ここに次訪れるのはいつなのか全く解らない。

しかし、継続の先に必ずここは訪れ、

俺は“百薬に優る遍路に出でにけり”の前で『うーん…』と深く唸り、自分の回復を実感する。

年数(時)よりも、再びここに健康な心と身体の俺で来れることが大切だ。

現在ここの前を通るのは4回目だ(2月28日に通った)。

断酒は12年目とかならず一年、一年同じ時を刻むが、こうして時とは違う刻むものもあって良いのでは無いか?と感じた。

悩む(病む)全ての人にこの“百薬に優る遍路”を勧めたいと思う。



あの頃とは違って今、俺の読む「南無大師遍照金剛」におねだりは含まれない。

と言うか、俺は空海を信仰していないし、“おんころころせんだりまとうぎそわか”を読んでいるが、何れにしても神社仏閣で一切のおねだりをすることはもう辞めた(病めた)。

全ての人が、

いつからでも、どこからでも変われる。

それをするのは自分であって他人では無いし、

自分は変えられるが、他人は変えられず、

過去は変えられないが、未来は変えられる。

言葉の独り歩き時代に、

実際に経験して見ろよと喧嘩を売るスタイル。