うーん、四国 | ひきこもり、お遍路へゆくAmeba版

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自身のアルコール依存症や引きこもり、アダルトチルドレン問題により、生き方を見直す切っ掛けを手に入れ、その舞台に四国八十八ヶ所の遍路を選んだ男のブログ

今は四国旅3日目の朝6時。

高知県にある道の駅南国で車中泊をして目覚めたところだ。

昨日、四国を旅しながら心がスッキリしている自分がいた。

その理由は毎度のことだが、地元宮崎でのお役目から離れられたことにあるだろう。

俺が精神病院に幽閉されていた時に、俺の担当看護師がこんなことを言っていた。

「他の病棟(認知症)は体力的にキツいけど精神的には楽、しかしココ(依存症病棟)は肉体的には楽だけど、精神的にはボロボロになる…。」

認知症病棟と一言に言っても数階に分かれ、寝たきりもあれば、終末期の病棟もある。

またアルコール依存症や共依存症などのストレスや薬物作用の強制的な脳萎縮により狂暴化して暴力を奮ったり、便を食べたり、投げたり、80歳を超えてながらも病室でセックスをしていたりと動物園の様な病棟もあった。

そんな看護師の言う「ここは精神的にはボロボロになる場」から回復をして、その経験から無償でそんな人達の回復のサポートや管理をするわけだから、当然俺も精神的にボロボロな毎日を過ごしている。

まだ対価を貰っている看護師達は良いだろう、『黙って仕事しろ』とすら思うほど、確かに内科ではなく“精神科”の人達を相手にするのは本当に辛い思いをすることが多すぎる。



よく依存症者を「アルコールを飲まなければ“普通の人”」と表現するバカがいる。

そもそも“普通の人”も例外無く、何らかの部分で狂っている(変わっている)のだからそれは間違ってはいないが、

しかしそれでも“精神科”(師匠は常々“鍵のかかる部屋にいた人達”と表現していた)にまで行き着いた人達なので、一癖も二癖もある変わり者(曲者)なのは自分を含めて否定は出来ない。

俺はそんな人達との日々の無償の係わりに本当に疲れ果ててしまう時期が一年の多くを占める。

そこからほんの一時だけ解放されるのが、地元宮崎から避難出来る3ヶ月に一度の旅なのだ。

最近だけで5名ほど立て続けに状態が悪くなった。

“状態が悪くなった”とは断酒していた人の再飲酒のことだけの意味ではなく、そうなることによる性格の激変、嘘、裏切り、今までの関わりを真っ向からぶち壊すような酷い接し方に俺は疲れてしまうのも当然なのである。



昨晩はグッスリとは眠れたものの、こんなことで目覚めるのだから良い目覚めとは言えない。

思いの外、道の駅南国は良い環境だった。

『さて、出発の準備をするか』と、支度を済ませ出発して200mも走らないうちに見慣れた看板が目に入り、

『ああ…、そうか、あなたを素通りするわけにはいかないよな。分かったよ…』と、

そこから2kmと案内のあるお馴染みの所へと向かった。





早朝の29番札所国分寺、

酒断地蔵尊におはようさん。

再び“状態が悪くなる”こともなく、ココに来ることが出来ました。

ここで“状態が悪くなった”人達を思い出しながら読経をしていると涙が込み上げて来た。

飲まずともあんなに性格が激変する、まさに“精神科”。

それとも外面は良く俺に接していて、それが本当のあなたなのか?

その後、


これだけ四国に来ていて初めてとなる桂浜へ。


龍馬よ、土佐勤王党の志士達よ、

あなた達は何を考え、何を見て、何を生きたのだろう。

日本を今一度洗濯いたし申し候う。



自分が肉体という乗り物に乗っている“魂”であることを忘れ、

心を置き去りにし、

我が肉体を酷使して、

それでもまだ心を置き去りにして、

肉体を酷使する。

人の心よりビジネスが優先され、

宝である子達の未来よりも金を優先し、課題を先送る今の世の中。



なぜ、今日はあそこで、あんな目覚め方をして、



今日はここを辿ることになったのだろうと考えれば、嫌な運命しか頭を過らない。

今一度、日本人の病んだ心を洗濯いたし申し候う?



大根がたくあんになることはあっても、

たくあんは大根には戻れない。

人の心に染み込んだ色々を“洗濯いたし申し候う”が可能なのだろうか?

これを読む全ての人に共通するのは、

自分(だけ)の“普通”を否定されると不快に思い、他人の“普通(異常)”には敏感なことだろう。

その自分に染み込んだ“自分だけの普通”をろ過し、透明にすることこそ、

この世に生まれた意味なのでは無いだろうか?

日記をアップしないまま時間は進み、


旅4日目の九州へ帰る船へ向かう今、



遂に見つけた高群逸枝の辿った“大窪越え”に満足する反面、

久し振りの再会を喜び、手を差し伸ばして来てくれた四国の母の手を、握り返せなかったことをずっと後悔している。

断酒して以来、幼い子と親のやり取りを見るたびに、

俺はいつから親に手を広げ寄って行くことを諦めたのだろう?と、

受け入れて貰えるのが当然とばかりに親の胸や膝を独占して“ふてぶてしい顔”をする幼子の“受容”と、


自分の受容されなかったトラウマについて考えさせらる。



うーん、

四国。

やはり四国。

遍路無くとも四国。



今度来るときもまた“状態が悪く”ならず、

来るも、去るも、成長出来ますように。



どうせ、また来月末来るわ。

あばよ。