たべたい。おなかがすくのは、とても可愛い。とても愛おしい。おなかが、ぐーと鳴る。健康に、生きているということ。おなかがすいているのは、不幸なことだけど、もし人間が何も食べなくても生きていられるのなら、それは幸福をひとつ失うということだ。ひとつのものをわけあう。家族や友人や恋人と食卓を囲む。おいしいね、と言い合って、胃袋と心が比例する。あくまでも、飽食な国の人間に限って、だけれど。幸せとは、満たされるということ。今日のごはんは、何にしようか。
男女はいつも、相容れない村山由佳の、ダブル・ファンタジー がすごい。まだ途中だけど、女という生き物を、べったり貼り付けたような小説だ。女なら少なからず、この小説の主人公はわたしだ。と、思うことだろう。仕事中に読むにはいささかスリリングな官能小説。男なんてセックスのときにしか役に立たないって、ビョークもいつか言ってたけど、それは核心をついている。女の人は本当は、心のどこかで男をばかにしてる。優しいから態度には出さないだけだよ。男がもし滅びたら、さみしいわねって言いながら、女はみんな笑って暮らすだろう。整然とした思いやりと秩序とコミュニケーションの中で。男性器を模したキーホルダーをちゃらちゃらいわせたりしながら。でもわたしはやっぱり、男の人が可愛い。馬鹿でも鬱陶しくても、男の人と関わって生きているのが楽しいと思うのだ。
ギリシャ語の時間 感想視覚を失って、聴覚を失って、大切な恋人や友人や子どもを失って、そんな、多くを失った人同士が、古代ギリシャ語を通して、また繋がる。即物的な、意味や理解を超えたものの中で。もう死に絶えた言語の中で。適切な意味や五感が、しんどくて、悲しいときがあること。よくわかる。そういうとき、もう死んでしまったものの中で、穏やかに息ができることがあるよね。そんなふうに、人を救うのは人ではないかもしれないけれど、でもやっぱり、人は人と生きていこうとするのだと思った。問題が何ひとつ解決されていないとしても、希望がないわけじゃない。物事は側面だけではなく、捉え方で形が変わっていく。心の中だって、そういうものだから。仕事からの帰り道。空が黄昏ているのを見て、とても、とても幸福な気持ちになる。
つれづれーる殺し屋に追いかけ回されるという、ドラマチックな夢を見た。ハンガンの、ギリシャ語の時間。仕事中なのに、もう少しで泣いてしまいそうだった。体は悲しい。まさにわたしもそう思ってきたから。詩的な文だと思ったら、詩を書く人らしい。腑に落ちる。何度もあなたの名前を呼ぶ。返事が返ってくるのが、嬉しくてありがたいから。今日が終わって、明日にゆるゆると踏みだしている。昨日より、今日はもっと、楽しく優しくしていよう。眠くて仕方がない。今日は、誰が夢に出てきてくれるだろう。
現実も、夢見心地のままがいい。丈夫な体と精神を持っていて、何不自由なく生きさせてもらえたけれど、子どもの頃からずっと、生を信じてなどいなかったわたし。近ごろは特に、もう、すぐに人生が終わってしまうような気がしている。そう書くと、メンヘラちっくに聞こえてしまうが。わたしはメンヘラではまったくない。刹那主義ではあるけど、そこにネガティブな感情などいっさいなく、毎日とても楽しくて、仕事もうまくいってて、お給料も上がって、しかも今モテ期で色んな男にちやほやされて、恋人も家族もいて、どうだ。こんなもん、メンヘラになるわけない。笑いがとまらんぜ。ただ、単に。ただ、純粋に、人生がすぐに終わるなあと、そういう気がしているだけなのだ。子どもの頃からずっと。ひとりでぽつんと家にいるとき、今ここに生きていることが不思議で仕方がなくなる。そしてあなたが生きていることはもっと不思議だ。不思議だし、心配だ。あなたはきっと、わたしより命が弱い。だから自分の生より、あなたの生を大切にして生きていこうと、いつもそう決心する。でもあなたが帰ってくると、この不思議な感覚は雲散霧消して、たちまち現実に切り替わるから、何だか何もかもがよけいに見えなくなって、いらいらしたり、どうでもよくなったりしてしまう。愚かなのだ。自分のことを、とてもばかだと思う。あなたはわたしを賢いと言う。自分のほうが比べようもないほど賢いのに。あなたもばかだねえ。刺々しい現実にのみこまれることなく、わたしはばかのまま、ふわふわ、地に足なんてつけずに、あなたを死ぬまで笑わせてあげられたらいいなあ。