Roots to Roots | Turtlewalk

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亀の歩み。遅てもええやん。自分のペースで歩いたらええやん。

ことの始まりは、母がテレビを見ていて山形県が映るといつも口癖のように言ってた

「おじいちゃんが(母にとっては父親、以後 武則と呼ぶ)山形の朝日村出身でねえ

私はそこを見たことがないから一度で良いから行ってみたいんよ」

まあいつか叶えられたとは思ってたけどなかなか実行できずにいたんですが

今回思い切って行ってみることに。

調べてみたら、ピーチで仙台まで3000円とか5000円とかでいけそうで

レンタカーで東北を横断して山形に入ればさほどお金もかからずにいけそうだと分かりました

 

予約したのは8月でしたが運よく地域割とクーポンが始まって対象にしてもらえたので

予約した旅館も安く泊まれることになりました

 

さて、Xdayは10月17日

飛行機は9時過ぎの出発で母と二人、関空第2ターミナルへ到着

1時間と少しで初めての仙台空港に着いた

とりあえず一旦外に出て写真撮ってから空港併設のレンタカー屋さんへ

そこで渡されたのはVits。慣れないカーナビを触りつつ行き先を設定

「山形県あさひ」と検索すると、あさひ町というのが出て

そこの役場に行き、武則の戸籍にある住所(昔の住所)の今の住所を教えてもらおうという

企みです

 

東北道から山形道をひた走る。蔵王、月山、湯殿山と聞き馴染みのある山々が

車窓に映る(実際はどれが何山か全くわからない)

ナビ通り寒河江(さがえ)という町で降りてさらに走る

大江町という小さな町の小さな道の駅で名物らしきそばを啜った

焼いたお餅が入っていたのが特徴であろう

腹ごしらえが終わって目的の役場まではそう遠くなかった

役場直前には、あさひの道の駅があり、なんならこっちで食べた方が思い入れがあったのにと少し後悔もした

道路の左側、丘の上にはあさひ中学校、もしやここに通ったのではと母と興奮しながら話した

道を下り、右に大きくカーブして少し行った左に目指す役場はあった

 

「すみません」

「はい」近くにいた女の人が対応してくれる

「あのう、僕達、和歌山から来たんですけど、なんというか僕のお爺さんが山形出身で

ここの住所に昔住んでたみたいなんですけど。(僕は戸籍謄本のコピーを見せる)

ここの今の住所を教えてもらって、そこに行きたいと思ってるんです」

「はあ、少々お待ちください」

若目の女性は少し離れた席の男性に声をかけ連れてきた

目の前に座ったのはいかにも役所勤めという感じの色白の細身の男性

僕らが来た趣旨を再度説明すると

「こちら同じ山形県でも群が違うんですよと、僕らを宥めるように説明してくれた

今いるここは『なんとか群あさひ町』戸籍に載っている『朝日村』は今は鶴岡市というところになっています」

とのこと。要するにここではないよと教えてくれて

更に鶴岡市の役場の電話番号をメモして渡してくれた

”ここじゃなかった!!!”

ということで早速車に戻り、検索し直したら鶴岡市はそこからまだ40数キロ先でしたw

揚々とやってきた道をやれ急げと走る

途中感慨深くみていた中学校も道の駅もなんの縁もない場所っだったことに鼻白みながら。。

 

夕暮れが近い。月山を過ぎたあたりから降り出していた雨脚が次第に強くなってきた

鶴岡市は雨雲もせいもあって少し暗い陰鬱な色をしていた

市役所で同じことを尋ねた。

今度は年配の女性が教えてくれる。

この住所は今も健在ということ、「六針」とあるが何かの間違いで

「大針」であるいうこと。

大針仲屋敷。そこを目指して車は田園地帯を走った

両脇の山々が更に迫ってきて山間の谷間の集落なのだとわかった

役所からはそう遠くなく一本道で大針に到着した

 

冷たい雨がしのつく中、集落をゆっくり車で流す

道沿いに見えていた川に橋がかかり対岸へ行けるようになっていた

渡った先に見えたのは「ナンバ建設」の文字

母の旧姓は「難波」だった

「え!ナンバって書いてる」二人は興奮気味に周辺を見回す

人気のない民家がポツンポツンと立っている

少し戻って道端に停車していると乗用車がやってきて少し先の車庫に車を停めた

僕は降車してその車に近づいていった

車から降りてきたのは高齢の女性だった。第一町人発見の瞬間である

「こんにちは。少し道を尋ねて良いですか?」と僕

「道ぃ?」と言いながらおばあさんは歩み寄ってきてくれた

「昔。僕のお爺さんがこの辺りに住んでまして・・」と役場での説明を繰り返した

「仲屋敷ねえ、私のところは仲村だからもうちょっと戻ったあの青い屋根の家の辺りかなあ」

と親切にざっくり教えてくれた。

道を戻ってみるとその先にこれもまた「理容ナンバ」というのを見つけた

あいにくの月曜日で定休日のようだが、僕はその家の呼び鈴を押した

二度、三度押してみたが壊れているのか鳴っている気配はなく玄関に人影も現れなかった

その家の表札には住所があり「大針小松川」となっていた

少し進むだけで細かく集落が変わるようだった

更にその数件手前に小さなガソリンスタンドがあり

給油の車を送り出したお兄さんを見つけた

そこにも聞き込み。どうやら若過ぎて全くわからんという感じ

通りを挟んだお向かいの雑貨屋に僕を誘ってくれた

60代くらいの女性が出てきてくれて少し親身に話を聞いてくれたがやはり「武則」のことはわからなかった

「私はここの生まれじゃないからねえ。床屋の隣の家に聞いてみたらどう?」と言われ

また理容ナンバまで戻り右隣の家のベルを押した

70代くらいの元気なお爺さんが応対してくれた「難波武則」を探しているというと

「隣の床屋は聞いたかい?」と言われ

「ピンポンを押したけど誰も出てこなくて」返事すると

お爺さんは玄関のつっかけをサッと履いて隣の家に向かった

「いるかい?」声かけが先か玄関を開けるのが先か

その引き戸は難なく開いた。お爺さんはそのまま玄関を上がり

奥の襖を開け住人に僕のことを話してくれている

「どこどこの爺さんは90だけど耳が遠いから話が聞こえないべ」

などと言っているのが薄暗い玄関先まで漏れ聞こえてきていた

ややあってお爺さんは玄関を出てきた川の方をおもむろに指差すと

「この下によお、『難波』って家が2軒並んであるのよ。片方が本家なんだけど、そこで聞いてみいや」と言った

「そうですかありがとうございます。この辺は難波さんって多いんですか?」と頭を上げながら聞くと

「ここらは難波多いのよ」と笑って答えてくれた

その時点で僕はここは確かに僕のルーツの場所だと確信していた

 

県道を川に向かって少し降りたところに並んで立つ2軒の家

どちらが本家か分からなかったが僕は比較的玄関が開放的な右の家を選択して

声をかけた

玄関先の表札には7人ほどの名前が並びおそらく孫であろう今時の名前がしんがりに名を連ねていた

「御免ください」暗い土間で呼ぶと左からお爺さんが顔を出した

「道をお尋ねしたくて。少しいいですか」と聞くと

お爺さんは寄ってきてくれて

「どこの道かね」と僕の目の前に腰を下ろした

実は先ほどの表札。その住所は仲屋敷になっていた

少し雨に濡れてしまった武則の戸籍謄本のコピー。それを渡して説明した

「この辺に僕のお爺さんが住んでいたんですが、もう家は無いんです。でもここは仲屋敷ですよね?

この住所も仲屋敷なんです。この番地がどの辺りなのか分かりませんか?」

お爺さんは考えながら記憶を探ってるようだったがやはり分からないようだった

隣の家には90のお婆さんがいるというがコロナだし会わせられないという

ちなみにその難波さんは聞いたら昭和16年生まれ。僕の父が18年生まれなので

明治41年生まれの武則のことは知らなかった。生きていれば114歳。

幼馴染や同級生たちも死に絶えるほど歳月は経ってしまっている

僕は礼を述べて難波家を後にした

 

もしかしたら遠い親戚かもしれないその難波さんと話せてなんだか嬉しかった

山間の夕暮れは早い。どんどん暗くなって来て、雨もまだ続いている

母を車から下ろし、おそらくここだろうと話しながら、集落の何にもないところで記念の写真を撮った

母も僕も気が済んだという感じで大針集落を出た

 

次の目的地は酒田市。毎年さつまいもが取れたと送ってくれる佐藤さん家に向かった

その道すがら、母は母が知ってる武則の生い立ちを語ってくれた

実は武則は10歳の時に朝日村を飛び出していたのであった

武則の父、重次郎は後妻をもらう。そして先妻の子であった3人兄弟のうち

なぜか一番下の弟だけを夫婦は可愛がった。武則と真ん中の妹はほったらかしのようだった

それである日、武則は思い立って郷を出た。

大正時代。あんな農村では当時もさほど整備された道はついてなかったろうと思われる

そこを武則少年は50キロも歩いて酒田という町にある山形の1級河川、最上川に着いた。

当時は川に橋がかかっておらず、渡し船が主流だった

渡船に乗ろうとしたが、武則少年はお金を持っていなかった

そこにたまたま居合わせたのが佐藤家の大お婆さん。

事情を聞き、武則少年を自宅に連れ帰り、そのまま彼をその家で育ててくれたのでした

この人との出会いが無く、彼がどこかでのたれ死んでいたら

母も僕もこの世には存在していなかったというほどの恩人です

 

そんな佐藤家に向かいました。親戚では無いけど家族同然の佐藤家

今いるお婆さんは86歳。武則は10代をここで過ごし漁師の仕事を覚え

どういう経緯か知らないが北海道に渡り、オホーツクで漁師をして

僕のお婆ちゃんと知り合ったのだそうです

このお婆さんも平成6年に武則が亡くなった時には北海道まで駆けつけてくれて

うちの母ともその時以来の対面で大層喜んで二人は話していました

お婆さんのキツイ山形訛りが少し分からなかったのはご愛嬌

 

そんな東北の旅1日目。観光というよりルーツの旅がメインだったので

雨降りでしたが人生でとても有意義な時間を過ごせたと思いました