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maple8cinnamonのブログ

メープル・エイト・シナモンです。
テレビやWebで見たことをキッカケに、ふと昔のことを思い出したり、
今、自分のすべきことを思い付いたりする年金暮らしの日々。
お暇な方だけお付き合いいただければ幸いです。

前回の記事で、小さい頃から足が遅くてコンプレックスだったことを告白した。

 

己を知ることによって少しずつヒントを集め、引け目を感じていた「走り」にかすかな光明を見出しつつ、私は東京都心に近いビルに四方囲まれた都立高校に進学した。

 

入学当初の体育の時間は、やはり先生が生徒たち個々の運動能力を把握するためか、いきなり50m走とか基本的なメニューを一律的に行うといった内容だった。

 

いよっ、来た!

50m走来た。

まだお互いよく知らない同士が集まってる中で、あまり無様な姿は晒したくない。

大学あたりになると、「こんなの本気でやれねーよ」みたいなポーズも通用するが、高校1年15歳だとそうはいかない。

今の言葉で言うと、今後3年間の高校生活を賭けた「マウンティング」の幕開けだ。

 

高校でも2人並走での計測だった。

相手は入学式の日からただ一人我が家に押し入り、晩飯を食っていった男、T君だ。

当然付き合いは短いが、もうかなり話し込んだ仲だったので、ここで負けたくない。

ただ外見が細身で結構速そうだったので、無様な負け方だけは避けようと思った。

そして、中学終盤で手応えを感じていた自分はイケる、と思っていた。

そこが既に中学とは大違いだ。

 

また、コイツは中学のA君と違って、俺にブレーキを掛けさせることは無さそうだ。

前の記事に書いたが、私は並走相手にスピードを合わせてしまい、抜き切ることが出来ていなかったのだ。

念のため「君、速いの?」と聞いてみた。

案の定、「まあまあだよ」とはぐらかしてきた。

『こりゃ、遅くないんだな。どっちかっていうと少し速いんだな』と思った。

すぐに僕らの番が来た。

 

ホイッスルが鳴った。

前半はほぼ並走していた。

ところが、25m付近で差が付き始め、T君がリードを広げていった。

4・5mくらいの差だったか。

彼が7秒3、私は7秒8だった。

 

やはりT君は速かった。

でも、私も、中学の私とは大きく違っていた。

中学最後の計測の時から、短距離走の練習など特別なことを一切せずに、私は意識を変えただけで50m走のタイムを2秒縮めたのである。

イメージトレーニングでもない。

大袈裟だけど、「意識改革」と言った方が適切なんだと思う。

実はこういう経験、エピソード、意外と私はあるんだよね…。

 

実は、これだけでは済まなかった。

こちらはこの50m走での成功の言わば副産物だ。

こっちは体育の授業でもあまり目立たず、大きく評価されないので気にしていなかったのだが、私はなんと中学を卒業するまで、鉄棒の「逆上がり」が出来なかったのである。

 

小学校の頃から頑として、少しも惜しがる余地が無いほど、失敗を重ねてきたのである。

でも、体育の時間では『なかなか出来ないな』とモタモタしている内に、すぐに「逆上がりコーナー」は終わってしまう。さほど気にする必要もなかったのだ。

とは言え、私は正真正銘の男子でありながら、生まれてから一度も「逆上がり」を成功させないまま中学校を卒業した、ある意味、選ばれし高校1年生だった。

 

それは50m走のあと、すぐにいきなりやって来た。

『逆上がりかあ、これがあったかあ!』てなもんだ。

これは中学在学中にまったく手応えを得てないし、やれる気もまったくしなかった。

ただ、ここでも何となくやってれば時間がきてオシマイだ、ぐらいに思っていた。

 

それは予想通り、誰も関心を向けることなく粛々と始まった。

私は出来ないくせに一応鉄棒の高さにはこだわりがあったので、他の同級生がどくのを待って、ここでは何の欲も持たずにしっかり逆手に鉄棒を握った。

 

まさに無心、虚心坦懐に足を蹴り上げた。

クルっと、回って着地した。

 

『あれ?出来たぞ!』

一回目で出来た!

私はもの凄く驚いていた。

ただ、それを周りの同級生たちに気付かれないように、『俺は今まで逆上がりがずーっと出来ていて、今またいつものように出来たにすぎない』という表情を必死で装っていた。

 

これも意識の変化による成果、と言うべきか。

ただこっちは意識もしていなかったことだからなー。

ちなみに、以後高校在学中、逆上がりを失敗することは一度も無かった。

でも、大学以降はやった記憶もない!

 

 

昔から走るのが苦手でねえ。

短距離も長距離も。。。

 

小中、特に小学校高学年くらいの時は、運動会は無くていいぐらいに思ってた。

当時は1960年代だから小学校の運動なんかカケッコかドッジボールしかないから、そこでダメだった私はダイレクトに「自分は運動神経が悪い」と思って、どちらかというと外で遊ぶより室内で読書や勉強することを自然に受け容れていたようだ。

足の速い遅いは、生まれつきのものと思い込み、足の速いヤツには陰ながらコンプレックスがあった。

今思えば、辛抱強く座学を受けられる素地がその時に作ることができたかもしれない。

 

それが、中学校3年の間に少しずつ変化した。

中学校から体育の時間に50m走のタイムを測るようになったが、実にまったく人に言えるような数字ではなかった。

そこを敢えて言うと、ほぼ3年間9秒台後半で変わらなかった。

女子並みだろう。

確かに、元々苦手意識があって走る前から乗り気でない、という悪条件は揃ってはいたが、それを裏切らない結果を出し続けていた。

 

ただ中学校の3年間に、私もいろいろと経験を積んだ。

まず中学校に入ると、小学校には無かった部活でいろいろなスポーツに参加できたり、そうでなくてもたまたまボールに触る機会もある。

他の競技をやってる人間の話を聞くこともあり、急に自分の前に様々なメニューがズラーっと並ぶ。

 

それと小学校時代と大きく違うのは昼休みの過ごし方だ。

中学校では昼休みにバレーボールやバスケをやるようになった。

それで気付くことができたのが、自分のバレーボールの才能だった。

ほぼインドア派だった小学校高学年で、立派な肥満児に成長していた私は多少必要性も感じてバレー部に入部した。

今となっては他の部員のスキルがどれ程のもので、対外試合を経験したのかさえ思い出せないが、そこで、自分は「人より素早くボールの落下地点に到達し、かなり正確に次の選手にパスが出来る」ことを知った。

 

ただ、相変わらず足は遅かった。

それでも、次に運動会でもかすかなヒントを得ることができた。

 

中学校では障害物競走や騎馬戦など、走力以外の運動能力を試せる競技が増える。

その中で、私は障害物競走においてはある程度善戦できているのではないかと密かに思い始めていた。

走るだけなら断然最下位のところが、障害物競走では真ん中くらいの着順で入れる。

 

3年生の後半には、またひとつ気付くことがあった。

それは休み時間に遊びで友達を追いかけてる時は、そこそこ速いヤツに追いつくことができる、ということだ。

それだけではなかった。

更にもうひとつ発見したのが、50m走の時は二人並走で測るのだが、いつももう一人と同着だったのだ。

1年次は分からないが、2・3年はたまたま同じA君だった。

A君も遅かった。

元々争いごとが嫌いな私の性格か、同調性が強く働いたのかと思った。

何しろ、商店街のお店に生まれた私は、母から人とかち合ったら「どうぞ」と言って譲れ、と言われていたのだから無理もないだろう。小さい時から「街を歩いてる人もウチのお客さんかもしれないんだから」と、いい子スイッチはいつでもどこでもONのまま。

 

それから私は、「自分はひょっとしたら、もっと速く走れるのかもしれない」という予感を抱きながら、高校に進学した。

 

ちょうど一カ月くらい前、ベーシックインカムに関わるニュースがたまたま2つ、ほぼ同時期にネット上で報じられた。

ひとつはアメリカの出来事だ。
カリフォルニア州のストックトン市で、今年中にある社会実験がスタートする。
市民約100人に対して、毎月500ドルの現金を無条件で支給するという。
期間は1年から1年半程度。

期間中、受給者の健康、育児、教育、ウェルビーイングの状況を調査し、このタイプの経済支援が受給者の生活の質にどのような影響を与えるかを評価する。

【毎月500ドル】米国でベーシックインカムの検証がスタート。その課題と可能性とは?
http://hosyusokuhou.jp/archives/48817712.html


 

同市は貧困率が25%に達するとされ、こうした社会実験のスタート時の対象としては、相応しいのかもしれない。
ただ100人というサンプル数はやや少ないようにも思う。
いろいろなステイタスの人間が網羅されているのだろうが、一家平均3人だとしたら所帯数にして30~35程度だ。

または、これはこれで良しとして、さらに出資できるのであれば当市とはまた別の社会的階層にある自治体で同様の調査を行う方が得られるものは大きいかもしれない。

ちなみに各国の貧困率は2015年でアメリカ16.8%、日本は16.1%でアメリカより僅かながらマシだ。参考に韓国はというと13.8%で日米に比べて数段良好なデータが出ており、混乱してしまう。

また調査対象として、受給者の特に教育、ウェルビーイングの状況を見るのであれば、もう少し長い期間見守る必要があるのではないだろうか。

まあ、いろいろ言ったらキリがないが、とにかくベーシックインカムへのひとつの試みが実施されることは喜ばしい。


そして、もうひとつは今春その事実が発覚し、話題となった年金関連ニュースの、その後の話。


【企業】年金データ入力で大量ミス、「SAY企画」解散
http://blog.livedoor.jp/rbkyn844/archives/9142829.html


私がベーシックインカム制度に賛同する幾つかの動機の内の、大きなひとつはこの我が国の不甲斐ない年金行政の絶望的なお粗末さにある。

 

このSAY企画の事件は、もともと「仕事できない」認定されていた日本年金機構(旧・社会保険庁)が、さらに仕事を外部委託することも満足にできないことが判明してしまうキッカケとなった。
上記のアメリカでの社会実験の報道も相まって、よりベーシックインカムへの思いが募った。

いっそ、全力でマイナンバー制度を完璧なものに近づければ、ベーシックインカム導入の環境が整うことになる。
日本もアメリカの例に倣って特定の地域でやってみるといい。

 

または福祉制度1個分(例えば失業給付とか国民年金)の行政組織を解体し、その制度に掛かっていた分を初期段階のベーシックインカムとして充てるというのはどうだろう。
最初は少額でもいい。
うまくいったら、さらにもう1組織を解体して再分配すれば、今のような不毛な行政コストを国民に還元することが可能になる。

 

とにかく何かトライしてほしい。
 

 

前の記事で、70年代以降のアマチュア相撲界では学生があることによって強くなっていったと述べた。
 
早速その「あること」について書こう。
それはいたって単純なことなのだ。
 
各大学相撲部の中で、一部の強豪チームがプロである大相撲の部屋で稽古を付けてもらうようになったのだ。
プロ野球選手はアマチュアに指導することを禁止されているが、相撲は別のようである。
 
例えば日大相撲部などは当時阿佐ヶ谷にあった花籠部屋の隣に合宿所を置き、日常的にプロ力士の胸を借りられる環境が整っていたのだ。
これはさすがに社会人相撲の世界では不可能なことだ。
その効果からか、横綱輪島、関脇荒瀬、関脇出羽の花と、日大出身者は幕内の土俵を賑わすようになっていった。
 
そこで噂されているのは、日大相撲部の選手がプロ入りする際に巨額の金が動いているのではないかという疑いだ。
もちろん、金銭が相撲部屋から選手側に動くのだ。
選手には支度金など名目はいろいろあるだろうが、それが田中理事長の懐にもあっせん料のような形で渡っているのではないか、というのだ。
 
真偽のほどは分からないが、他大学でも多少似たようなことがあったとしても不思議ではない。
それでも相撲界では、このような話が田中理事長を主語として知れ渡っているという。
 

明日、週刊文春では田中理事長の「カネ」について報じるらしいが、そこで語られる事実が気になる。
 
 
今回の悪質タックル事件で、かのアマチュア相撲界最強横綱だった田中英寿氏が日大理事長になっていたことを知り、驚いた。
 
私は、昭和40年代ベースボールマガジン社「月刊 相撲」を毎月購読していたが、当誌史上アマチュア力士で、この人ほど長期に亘り、そこそこ大きな誌面で取り上げられ続けた人はいないと思う。
その当時は、大袈裟でなく10年近い間に、廻し姿の田中氏が首から優勝メダルを下げ、トロフィーを抱いて蹲踞している勇姿を、私はデジャブのように何度も目撃した。
 
「月刊 相撲」でアマチュア力士が全1ページグラビアで載るのは、アマチュア横綱・学生横綱が優勝した時、彼らが入門(就職)先が決まった時に親方とツーショットぐらいなのだが、それを一人で何回も登場する選手など田中氏をおいて他にはいない。
 
現在テレビでは「学生横綱にまで上り詰めた」と紹介しているが、当時の学生横綱は概して社会人横綱には敵わず、結局その年のアマチュア横綱の称号を得るのは社会人横綱であった。
学生時代の田中氏をもってしても、アマチュア横綱には届かなかった。
但し、田中氏がただ者でなかったのは、卒業後にアマチュア横綱の栄冠を3度勝ち取ったことだ。
 
なので、マスコミが田中氏の経歴の凄さを語る際、アマチュア横綱のことに全く触れず、学生横綱のタイトルを強調していることには、少し違和感を覚える。
これは他競技、確かラグビーでしたっけ、学生チャンピオンと社会人チャンピオンがシーズン終わりに戦って雌雄を決するでしょ?
あれは今でも学生が勝つことはなかなか難しいようだが、それと同様だ。
ただ、アマチュア相撲界はその後学生があることによって強くなり、その様相は変化している。
その背景は、また別の機会に述べていきたい。
 
プロの大相撲力士が大型化している今じゃ、少し見劣りするが、当時の田中氏の体は130kg台はあったと記憶している。
これは当時の大相撲では幕内力士でも平均的な体重である。
私を含め、当時の相撲ファンは「なぜプロ入りしないのだろう」と誰もが疑問を感じたものだ。
 
つまり、田中氏は間違いなくアマチュア相撲史上、実績・実力とも最強の選手だったのだ。
 
それだけに、今回このような形で田中氏が注目を集めているのは非常に残念だ。