↑ここから本題
長崎市のマンホール蓋の、いくつかあるうちの2つ☆
長崎市の市章はほぼ「☆」
長崎市の花は「アジサイ」
他にもアジサイを市花としている市はあります
そして長崎市名物、
「3つの『か』」の内の1つ
「坂」
(後の2つの「か」は「墓」と「馬鹿」)
勿論坂の町と言うのも長崎市だけではありません
↑そんな坂道を登り下りしていると
玉泉神社がありました
公民館と地蔵堂もありますね(^-^)
長崎市寄合町花月の近くです。
↑寄合町地蔵尊
(以下:大岡さばき考察)
説明書きによると
ある時長崎で二木金衛門を被告とする冤罪事件が起きました。
時の長崎奉行大岡備前守清雄は、それでもその二木金衛門を罰せねばならない…!
しかし地蔵尊の暗示のお陰で、
大岡備前守は金衛門の冤罪を解き、裁きに成功
人々は「さすが大岡越前の再来よ」と大岡備前守を崇敬したとか
そして五体の地蔵菩薩像を作り、
そのうちの一体がこちら(右側)の地蔵菩薩像だそうです。
(どんな事件だったのかは犯科帳を見ていないので解りませんが…。)
オマケ:この「二木金衛門」さんは元「林」さんだった可能性があります。
長崎奉行に「林」さんと言う人がなれば、他の林さんは名字を変えなければなりませんでした。「久松」さんが奉行になれば他の久松さんは「松永」に変えたり。
さておき説明書きの
大岡越前の再来よ
はですね…
ドラマでも有名な大岡越前の事だと思いますが、
Wikipediaを見たら大岡越前守は、
この長崎奉行大岡備前守が亡くなった後に
江戸町(南町)奉行になっているので
地蔵尊の暗示を受けた大岡備前守の冤罪解決裁きを
「大岡越前の再来よ」
と言うのは「?」と思いました。
(順番が違う。備前守が先)
説明書には
「明治の過去帳による文書の写し」
とあるので…
あぁ納得。
その納得の理由は
明治期の書物は根拠なしの口伝とか、テキトウな事が書かれている事が結構あるからです
(明治期に限りませんが…)
昔話、飴屋の幽霊の話もこの時期に「盛られ」ています。
大岡越前守が、江戸町奉行になる前から
「大岡さばき」をしていたのであれば
この疑問は解消されますけど(?)
私はあまり大岡越前には詳しくないので
もし詳しい方いらっしゃいましたら教えてください
ちなみに大岡越前守と大岡備前守は
血縁ではありません。
しかしどちらも頭の良いお奉行様だったようです。
↑神社を後にし
近くには、長崎検番がありました。
建物は昔の遊郭「松月楼」のものだそうです。
検番は昭和初期にはいくつかありましたが統一されています。
芸者さんの派遣事務所の様なところで、
この日は三味線などの練習の音色が聞こえて来ていました。
風流~
↑今更ながら長崎の丸山遊郭は
日本三大遊郭(三場所)の1つです。
(他は言わずと知れた京都の島原、東京の吉原)
井原西鶴をして
「長崎に丸山と言う所無くば、上方の金銀無事に帰宅すべし…」
と言わしめる程の賑わいだったようです。
他の2つの遊郭と違う所は
唐人やオランダ人をも相手にしていた所です。
↑最後に花月の史料室にあった古い古賀人形「おいらん」
(古賀人形ぽくない気がしますが…。この右上に古伊万里人形、右下に青貝細工が有ったので…)
今回、歴史談議過ぎて眠くなってしまったらゴメンなさい(*^ー゚)
※そして前回のブログの端々に
「長崎は今日も雨だった」の歌詞を忍ばせたのですが(替え歌含む)
マニアック過ぎたかな~(^o^;)
我こそは長崎好き!
と言う方いらっしゃいましたら是非探してみてください
読んで頂きありがとうございました