生と死についての随想その107 (ファラルシッド・ジャラルヴァンド『サルと哲学者』から) | 飢餓祭のブログ

飢餓祭のブログ

ブログの説明を入力します。

 ファラルシッド・ジャラルヴァンドはスウェーデンへ移住したイラン人である。プレジデントオンラインには彼の略歴が次のように記載されている。 

「1984年イラン・テヘラン生まれ。3歳のときに家族とともにスウェーデンに移住し、マルメで育つ。微生物学者、ワクチン研究者。朝刊紙のエッセイストでもある。」

 ジャラルヴァンドという生物学者は日本では知られていないが、スウェーデンでは著名なエッセイストのようだ。

 プレジデントオンラインのローマ帝国滅亡の原因についての記事はジャラルヴァンドの『サルと哲学者』の内容を紹介したもので、その本の184ページ以降にある。

《なぜローマ帝国は滅亡したのか。スウェーデンの分子生物学者、ファルシッド・ジャラルヴァンド氏は「その答えは気候変動とパンデミックにあった」という。ジャラルヴァンド氏の著書『サルと哲学者』(新潮社)より、一部を紹介する――。》

 ローマ帝国の滅亡は気候変動とパンデミックにあったというジャラルヴァンドが解説している内容は後述する。

 

 ジャラルヴァンドは、その本の初めのほうで21世紀の学問について次のように書いている。

「今のわれわれは科学において超専門化された時代に生きている。全員の知識を集めれば、極めて高いレベルに達し、研究者には分子微生物学者とか生物物理学者、理論素粒子物理学者、システム免疫学者といった複雑な肩書きがつくようになった。科学がそれほど発展した今、海洋生物学と天体物理学の最新レベルの研究を同時に行う人はいない。アリストテレスはかつてそれをやってのけたが、普遍の天才が存在した時代はとうに終わったのだ。

 もっとも、学問の超専門化のせいで時として、あらゆる思考は実は同じ一つの試み――つまり現実や知識を、命を、自然を説明しようとしていることだというのを忘れてしまった。そもそもはどれも哲学なのだ。私自身がそのことに気づいたのは、研究の傍ら新聞の文化欄に寄稿するようになったときだ。科学的な発見を広い視野で見つめようとすると、いつも何かが欠けているような気がしていた。前後の繋がり、話の流れ、より大きなイメージとでも言おうか……それが足りない。いったい何なのだろうか。何らかのアイデアを追究しようとすれば、必ず哲学にぶつかる。神経生物学は意識哲学、人間の進化は道徳哲学や政治哲学、多細胞性は存在論、遺伝学は倫理学、量子物理学は自由意志……といった具合だ。」(ファラルシッド・ジャラルヴァンド『サルと哲学者』新潮社 2023年12月15日 p9-p10) 

 かくして、ジャラルヴァンドは哲学を、ギリシャ以来の哲学を猛然と勉強したようだ。

「哲学、それは知識を構造化し、論理的な証明によって普遍的な結論を導くという学問であり、人間が物事に説明を探そうとしたことから生まれた。」(ジャラルヴァンド同書p12)

 ギリシャを淵源とするこうした科学的、学問的な手法は、呪術の園に暮らすこの世の人々とは対極的な手法だったという。そもそも「人間というのは不充分な数の観察結果から極論を下しがちな生き物」だからだ。「主張にヒビが入っているのに気づいていても、異論を唱えるよりは賛同しておきたいと思う、群れで暮らす動物なのだ。これが真実だと決めたら、その世界観が認められ維持されることを望み、不都合な事実や矛盾した事実を見ないふりをしてしまう。自分の評判を重視し、主張が間違っていたことを認めるよりも、頑なに(間違った主張に)固執してしまう。」(ジャラルバンド同書p16)

 ジャラルバンドは、古代ギリシャの自然哲学者たちが問い続けた問い(現代では地球物理学的・進化生物学的な問いである)を次のようにまとめた。

「宇宙はいかにして生まれたのか。世界は何でできているのか。生命はどのように繁殖するのか。人間はどこから来たのか?」(ジャラルバンド同書p17)

 ジャラルバンドのこの本は、「人生の意味とは?」、「人間の道徳はどこから生まれるのか」、「自己とは何か」、「人間は形成可能なのか」、「何が社会の興亡につながるのか」の5つの章で構成されている。この本は、おそらく新聞の文化欄への寄稿文の中からいくつかのエッセイを選び、加筆して一冊の本にまとめたものなのだろう。哲学とは無縁のテーマではと思われるものもある。哲学と社会の興亡との関係については直接的に結びつけて論じることは難しいと思う。また、「人間は形成可能なのか」という章のスウェーデン語を英訳した原題は Are human malleable?である。malleableという言葉の含意について私のイメージを言えば、原料の砂鉄を製鉄し、美しく、切れ味の良い日本刀に作り上げていくプロセスを思い浮かべる。

日本刀の作り方(作刀方法と鍛錬)/ホームメイト には日本刀の作り方が掲載されている。

 malleableという言葉の意味は、この日本刀を作り上げるときのように鍛造可能な、可塑的なという意味であると私は思っている。ジャラルヴァンドが思い浮かべているものも、人間を人間の手で一から作り上げることができるだろうかということだ。単純に「形成可能」という訳語を当てることが適切なのかどうかは疑問である。

 ついでに言えば、この本の邦訳者久山葉子は「観念論」を「理想主義」と訳している。哲学用語の訳語で、唯物論と対比される用語としての Idealism を「観念論」と訳さずに「理想主義」と訳す久山に対して、新潮社の編集者や校正者は了承したのだろうか。久山は哲学には素人のように思われる。

 

 第一章の「人生の意味とは?」では、ギリシャ哲学以来の何人かの哲学者の考えをわかりやすく解説している。ジャラルヴァンドは生物学者なので、現生人類である私たちの「人生の意味」を進化生物学の知見から次のように書いている。

「進化は盲目的で、目的のないプロセスだ。特定の有機体を „ 王冠を戴く創造物 “ にするべくして進むわけではない。有機体が変化するような突然変異は自然発生的に起きるものだ。(中略)進化には目標も思想も設計図もないあくまで偶発的で無目的なのだ。」(ジャラルヴァンド同書p52-p53)

「あらゆる種は、動物でも植物でも、無限に近いような偶然の連続から生まれてくる。(中略)…人間にとっての人生の意味など、探求しようとしても進化にぶつかって行き止まりになる。スピノザの言う„ 神あるいは自然 “ は人間など気に留めない。ここでわれわれは孤独だ――ニーチェが述べたように。かといって存在意義を感じないわけではない。進化には目的がなく、自分は偶然の産物だと認識したからといって、あきらめて死ぬわけでもない。実際、われわれは意味のある現象に囲まれている。それに哲学が長年関心を寄せてきた現象――すなわち退屈だ。」(ジャラルヴァンド同書p53-p54)

「退屈の発生も解消も、つまりは人間共通の現象だ。そして人間共通のものはたいてい、われわれの中で生物学的にコード化されており、要は進化によって生じたものだ。なぜ退屈が進化に組み入れられたかというと、次のような理由ではないだろうか。無慈悲な自然の中で生き残るのは困難なことで、やることがない状態でも満足して楽しめる、あるいは仕方なくとはいえ、やることがないまま過ごすような生物は、熱心に活動し続けるライバルに負けてしまう。やることがなくて退屈だという不快さ、それから活動する意味に心地良い感覚を得られる神経生理学的特性をもった有機体は、生存競争において優位だったのだ。この心理的なアメとムチのシステムにより、人間は新しいアイデアを思いつき、新しい場所を探検し、新しい手段を試し、新しい知識を学び、社交を求め、そのおかげで社会的な絆も強化された。つまり退屈と意味のシステムが、祖先が生き延びるために有利に働いていたという明確な説が生まれる。われわれは存在意義を感じられることを進化――すなわち偶然と選択――に対して感謝しなければならないのだろう。」(ジャラルヴァンド同書p57-p58)

(注)生物学的な用語で使われるコードとは「特定のタンパク質を作り出すための遺伝子の塩基配列」のことである。特定のタンパク質を作るための情報を持つことを「コードする」というようだ。退屈の発生と解消という作用と反作用のシステムが遺伝子の塩基配列に書き込まれているのだとジャラルヴァンドはいう。

 すべての人に普遍的に該当する、客観的な人生の意味=価値は存在しない。換言すると、すべての人間に共通に存在する人生の意味=価値はない。進化生物学的に言えば、「無限に近いような偶然の連続から生まれてくる」人類にとって、それらの生の意味はないだろう。無限に近い偶然の現象(無作為で無秩序な現象)に意味を見出すのは不可能であるにもかかわらす、人類は人類だけが有するに至った「自己意識と自己超越の能力」によって意味や価値を観念的に作り上げた。

 トマス・ネーゲルはもしネズミが人間と同じ「自己意識と自己超越の能力」があったら、そのネズミはどうなるかということを次のように書いている。

 寿命が3年しかないクマネズミは自分の生に何の疑問も持たないで、与えられた短い生を全うしようと日々本能に従って生存している。「彼らは生きていくために努力しなければならない。それでもネズミの生が無意味でないのは、彼らには自分が単なるネズミにすぎないことを知るのに必要な自己意識と自己超越の能力が欠けているからである。もし彼らにそうした能力が備わっていたとすれば、彼らの生は無意味で馬鹿げたものとなるはずである。というのも、自己認識(それ自体)は彼らがネズミであることをやめさせてくれるわけでもなく、また彼らをネズミとしての努力を越えた高みに立たせてくれるわけでもないからである。自己意識が与えられたことによって、ネズミは、答えることのできない疑念に満ちた、しかもまた捨てることのできない目的にも満ちた、貧弱でしかも狂わんばかりの生に戻っていかなければならないのである。」(トマス・ネーゲル『コウモリであるとはどのようなことか』(原題Mortal Questions)勁草書房1989年6月20日p34-p35)

 ジャラルバンドも次のように書いている。

「意味というのはどの時点で生まれるのだろうか。われわれの大半にとって、何かを打診された瞬間に生まれるのではないだろうか。ある任務を進んで引き受けた時や、大切な人に助けを求められた時だ。自分で個人的な目標を設定した場合にも生まれるだろう。もっとも、その人にとっては意味あることでも、他人には無意味に見えるボタン学かもしれない。私の場合、研究者としては  „ 細菌の小胞形成 “ であり、作家としてはこの本を執筆することだ。意味とはすなわち、脳が魔法のように物事に意味を刻み込み、われわれを活動へと駆り立てるさいに生じるものだ。

 意味はまた、自分の道を示してくれるようなアイデンティティを受け入れることでも生まれる。そのアイデンティティを維持するために努力を続けること、特定のルールに従ってこの世界で生きていくこと。意味は社会的なインタラクション(相互作用)からも生まれる。他の人が新たな洞察を得たり、高みに達したり、深い洞察を得たりして充実感を覚える時にも生まれる。

 では、意味の根源は?それがどうやら退屈のようなのだ。そして退屈とは偏在するものなので、健康であるかぎり、ありがたいことに意味は常に生まれる。われわれがうまく機能するように、人間の脳はそんなふうに進化したのだ。」(ジャラルヴァンド同書p59-p60)

 ジャラルヴァンドは、「進化は盲目的で、目的のないプロセス」であって「人間にとっての人生の意味など、探求しようとしても進化にぶつかって行き止まりになる」、つまり人間の人生には意味は存在しないという。「目標も思想も設計図もないあくまで偶発的で無目的」な進化の現象においては、偶然の産物である人間の人生に意味などあるはずもないだろう。進化生物学の観点から見れば、個々の人間というものは、「目標も思想も設計図もないあくまで偶発的で無目的」に、生まれさせられ、さしたる理由もない偶然の事故やその他の原因で死んだり、子孫を残したり、残さなかったりして、寿命が尽きて死ぬ生き物である。そこには不条理と無意味以外には何もない。

 そう言いつつ、ジャラルヴァンドは人間の人生に退屈という意識が付与されてしまった結果、人間が自らの人生の退屈さを解消させるためのツールとして「存在意義」とか「意味」とかの観念が人間自身によって恣意的に作られたと考えた。

 現代における哲学の難問は古代ギリシャの時代に出尽くしたと言われる。古代ギリシャの哲学者たちは、あらゆる労働を奴隷にさせることによって、有り余る余暇を手に入れた。「有閑階級」こそが文化と文明を創造してきたのかもしれない。別の言い方をすれば、有り余る時間を持て余してしまうこと=退屈が人間をして今日のような高度の文化・文明を創造させたのかもしれない。退屈の発生が意味(価値)・存在意義・行為の意義を求めさせる心理的起動力となり、そして退屈の解消のために意味(価値)や存在意義のある行為がなされると快を感じ、充実感と満足感を得られるようになったということなのだろう。これが「退屈と意味のシステム」というものかもしれない。

 

 そうすると、人間以外の動物は確かに飽きたり退屈を感じたりしないかもしれないと思い当たる。マーク・ローランズが書いた『哲学者とオオカミ』という本に出てくるオオカミのブレニンは決して飽きることも退屈を持て余すこともない日々、それも寸分たがわない同一の日々を過ごしても、その都度新鮮な喜びを感じていたらしい。このことは、以前の記事で私は次のように書いた。

《ローランズはオオカミの時間は線ではなく輪ではないかという。オオカミにとっての幸福とは「あらゆる喜び」を永遠に望むこと、それは「同じことの永劫回帰」を望むことなのであろうという。「同一のものという観念」(それはつまり言語である)を持たないオオカミは、確かに無数の出来事を「同一のものという観念」に変換することができない。だから、毎日の出来事は常に喜びであり、新鮮であったのかもしれない。毎日が新鮮な喜びに満ちた毎日であれば、その毎日を一度二度三度というふうに数えることもないだろう。それならば、逆に「『二度とない』という感覚」自体もないにちがいない。回数を数えるということは同じものという観念を作って、その同じものの数を数えるということだから、オオカミにとって、新鮮な一日が別の一日に変わったとしても、前の一日が失われたという感覚自体もないかもしれない。ブレニンの新鮮な一日に対する喜びは、次の日もその次の日も続く。飽きるということはないようだ。しかし、それは人間にも(わずかに)具わっているのではないか。大好きなこと、好きで好きで堪らないことを「三日にあげず」大きな喜びを持って味わうこと、それも飽きもせず味わうこと、こういったことは人間にもある。》

https://ameblo.jp/naturalleaf2006/entry-12796362354.html?frm=theme

 確かに、人間は退屈する。また、同じことを繰り返すと、飽きてしまう。飽きるとは退屈してしまうことに他ならない。しかし、人間も繰り返し食事をすることや生殖行為をすること自体に飽きる人はほぼいない。しかしながら、人間の食事も生殖行為も人間にとって必要不可欠ではあっても、それらがあまりにも同一で単調なパターンだけである場合、その形式には飽きてしまう場合がある。それらの行為はおそらく人類の遺伝子に生物学的にコード化(食欲、飢餓感、性欲)されているからなのだろう。

 そもそも「飽きる」という言葉の意味は、国語辞典によると「同じことの繰り返しでいやになる、退屈する」とある。飽きるとは退屈することと類似している。ただ、何もせずにいることで退屈するときもあるので、飽きることと退屈することは全く同じ意味ではない。同じことの繰り返しと何もしないでいることは人間に同じ効果を与えるようだ。同じことの繰り返しや無行動や無行為を耐え難いと感じることは、やはり人類の遺伝子にコード化されているのかもしれない。人類は退屈と飽きることから逃れられないように思われる。「無聊を慰める」という言葉もある。無聊とは「退屈なこと。心が楽しまないこと。気が晴れないこと。また、そのさま。」という意味で、「無聊を慰める」とは気晴らしをすることだ。 

 退屈と倦怠の中で、人間は「生の意味」を問おうとする。そして「生に貼りついている」死の意味を問おうとする。人間の理性はそういう解けない問いを問うものなのだとカントは言った。退屈だと感じることと意味を問うことは人間の自然本性なのだろう。ただし、生命維持(主に食べること)と生殖には退屈や飽きは来ない。人間はそのときだけ思う存分「生に没入」することができる。というより、そういうふうにできている。

 人間の「この世の人生舞台にすっかり想いを吸い取られ、夢中になり没入して生きるすがた」(古東哲明『ハイデガー=存在神秘の哲学』講談社 2002年3月20日 p103)をハイデガーは『存在と時間』という著書で Verfallen と書いた。邦訳では「頽落」と訳されるが、その訳語では堕落のように受け取られるので、古東は「耽落」と訳すほうがいいと言う。ハイデガーもVerfallenには道徳的にマイナスの意味を込めたわけではないと断っている。私は「生に没入すること」と訳すのが適切な訳だと思う。

 そして、生に没入していないとき、つまり、退屈を感じたとき、人は「気晴らし」をする。パスカルは、この気晴らしという言葉を次のように定義した。「気晴らし。――人間は、死、悲惨、無知を癒やすことができなかったので、自己を幸福にするために、それらをあえて考えないように工夫した。」(パスカル『パンセ』河出書房新社 昭和49年9月15日 p86)

 気晴らしはなんでもよいのだが、それが終わると、「虚しい」という気持ちが襲いかかる。中島義道は、生に没入できたときの「幸せだなあという感じ」は10分くらいしか持たないと告白したことがある。

 ボタン学という言葉が出てくるが、それはスウェーデンのヨハン・アウグスト・ストリンドベリの短編小説『幸せな人々の島』という風刺小説に出てくるという。スウェーデンの辞書にはボタン学について「ボタンに関する学問。ふざけて、あるいは侮辱的に、(科学だと負い思い込みで)取るに足らないものを体系化すること」と解説されているそうだ。(ジャラルバンド同書p31-p32)無意味なものを権威づけて学問の一分野に格上げすることを痛烈に皮肉って、「ボタン学」とストリンドベリは言ったのだ。

 

 第二章の「人間の道徳はどこから生まれるのか」について、ジャラルヴァンドは次のように書いている。

「人間の進化の初期に生まれた道徳的行動は、自然がわれわれに優しくあってほしかったからではなく、それが生き延びるために有利だったからだ。同情、向社会的な行動、不正に対する憤り、共感、自制心や罪悪感といった本能は、有益に協力できる群れになることで個人の生存をも促した。反社会的、支配的、あるいは攻撃的な行動を示した類人猿はコミュニティから締め出され、餓死するしかなかった。つまりいちばん優しい人たちがいちばんたくさん子供をもてたのだ。

 ラスコーリニコフ(ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公)が質屋の老婆を殺したことに罪悪感を覚えたのはつまり、200万年前にサバンナから果樹が消えたせいなのだ。」(ジャラルバンド同書p102)

 道徳が宗教から生まれたわけでなく、宗教以前から存在したと言ったのはカントであるが、ジャラルヴァンドはもっと踏み込んで「われわれ人間のほうが神(諸宗教)に道徳を与えたのだ」とまで書いている。(ジャラルヴァンド同書p99)そして、道徳的行動の主要な要素は利他的行動である。進化生物学者ドーキンスの主張、すなわち利他的行動こそが究極的には自分の遺伝子を持った子孫を多く持つことができるという主張と同じことをジャラルヴァンドは言っている。ラスコーリニコフに罪悪感=道徳心が芽生えたのは、「200万年前にサバンナから果樹が消えた」からだというのは次のような事情のことである。

 ジャラルヴァンドは マイケル・トマセロ - Wikipedia の理論を紹介している。マイケル・トマセロという人はウィキペディアには認知心理学者と記されているが、ジャラルヴァンドはトマセロについて次のように書いている。

「人間が単独で生きられるなら、道徳など必要なかった。一方で、群れで暮らしていても人間が言うところの道徳的行動をとらない動物の種も数えきれないほどある。つまり、この科学的謎は二段階になっている。人間には生まれもった道徳的本能があるのか。(ないの)だとすればなぜ進化の過程で発生したのか。

 マイケル・トマセロはこのテーマに研究キャリアを捧げた進化心理学者で、彼の理論は非常に説得力がある。進化のプロセス、つまり自然が多様なバージョン(特定の型)を生み、(周りの自然)環境ではどのようなバージョン(を持つ動物)が生き延びて繁殖するのかを決定づけるのであるが、(その特定のバージョンが)人間という種の本能としての道徳観をもたらしたとしているのだ。」(ジャラルバンド同書p85)

 そうして、ジャラルヴァンドはトマセロの進化心理学理論を次のように解説している。 

「進化の背景に関するトマセロの説は非常に興味深い。われわれの祖先でもあり、人間に似た類人猿はもともと、現在チンパンジーやゴリラが形成している社会のように、ヒエラルキーによる支配の中で暮らしていた。しかし約200万年前にアフリカの気候が変化し、類人猿が暮らしていた環境内にある一部の樹木の成長にとって不利になってしまった。木に実る果物が彼らの食生活の主食だったのに、それがサバンナから消えてしまったのだ。そこで非常に強い選択圧力、つまり自然選択を促す条件が生まれてしまい、大多数が死滅したはずだ。生き残るための唯一の方法は、グループでより大きな獲物を狩るか、ライオンなど大型の捕食動物から獲物を盗むことだった。しかしそれは複数で効率的に協力した時にのみ可能で、トマセロはここで、相互依存理論と名づけた理論を提示する。われわれの祖先はチンパンジーとは異なり、食べ物を手に入れるために完全に相互依存するようになったというものだ。

 ヒュームが仮定したように動物の本能的な行動は感情に突き動かされていて、大型動物の最も強い生物学的衝動の一つに子孫に同情を示すというものがある。もっとも、他の特性もそうであるように、この能力にも同じグループ内で個人ごとに自然なばらつきがある。われわれの祖先である類人猿のグループでも同情が混乱を起こし、脱線し、他の大人や他人の子供、同種の仲間など、広範囲に同情を向け始める者がいたようだ。進化心理学者が考えるに、そういった個体のほうが生きるために集団で協力しなければいけない新しい生態系においてもうまくやっていけた。食べ物を手に入れるために、依存する相手と感情的な絆を築いておくことで、困窮した時に助け合える。怪我をした友人を放置して死なせない、というように、感情でつながることによりグループは強くなり、集団としてレベルが上がることで個人が生き残る可能性も高まる。つまり同情を強く感じる人こそ子供を多くもつことができたのだ。」(ジャラルヴァンド同書p88-p89)

 古生物学者の更科功によれば、二足歩行を始めた人類は一旦は危険な草原からサバンナの樹木での生活に戻り、そこで豊富な果物を食べて、樹上生活をしていたらしい。ジャラルヴァンドが書いているように、200万年前に果樹が消えて、否応なく危険に満ちた草原で暮らし始めた人類は二足歩行だったから、捕食動物から見れば、速いスピードでは走れなかった。人類は四つ足の捕食動物の走る速度にはまるで敵わないのだ。だから、いつも腹をすかせている捕食動物にとっては、二足歩行の人類こそ、見つけたらほぼ100%捕食できる美味しい獲物であったことだろう。大量の人類が捕食されたであろうことは想像に難くない。人類は相互依存(助け合い)と出産数の増加で生き残ってきたのだ。このような過酷な自然環境の中では「人間の道徳(心)の発展」(ジャラルヴァンド同書p93)こそが人類の滅亡を防ぐことができた主要な要素だった。

 

 第三章の「自己とは何か」である。

 自己とは何かという問いは、自分とは何かという問いであるが、それは曖昧な問いである。 ジャラルヴァンドはカフカの小説『変身』という荒唐無稽の物語に言及している。そもそも哺乳動物としてのヒトがある日昆虫=「巨大な虫」に変身するなどという設定を真面目に受け取ることは新聞の読者へのウケ狙いの「つかみ」であるのは確かだろう。ジャラルヴァンドは、小説『変身』の主人公グレーゴル・ザムザ(グレゴールではないのか-引用者)は、昆虫に変わっても人間としてのザムザのままなのかと問う。現実には起こりえないが、仮にそうなったら、ザムザは昆虫であって人間ではなくなったということは自明なことではないだろうか。

 それから、デカルトの哲学をおさらいし、トマス・ネーゲルの所説をほんの一行ばかり紹介し、ジョン・ロックの説を紹介し、ヘーゲルの『精神現象学』の中の「主人と奴隷の弁証法」を紹介した。そして自分の専門分野、微生物学の話に戻っていった。

 ジャラルヴァンドは微生物を研究していて、「生物学を深く学べば学ぶほど、単細胞生物と多細胞生物の境界が明確ではないことを思い知らさ」れたという。(ジャラルヴァンド同書p125)

 それはなぜかというと、次のような事情からだという。

 大腸菌などの細菌はコロニーを作るという。この細菌コロニーは「何十億という数の細胞で、どれも同じ細胞から生まれ」る。コロニー内の細菌は、あたかも多細胞生物の生体活動のように活動しているらしい。

「しかも細菌種の多くはバイオフィルム――協力的な細胞が集まり、生体由来のバリアに包まれたもの――を形成する。そこでは一部の細胞が自らを犠牲にして、コロニーの他の細胞の栄養になる。つまりこれは共同生存戦略で、ある意味多細胞生物に見られる利他的な行動に似ている。むやみに共食いをしたり、敵対的にお互いの成長を止めたりしない。それどころか完全に調和しているのだ。

 では細菌コロニーとは、単なる単細胞細菌の集まりで、拡張の時間が限られていて、どれも自分のペースで進化していくものなのか?それとも生き延びるという闘争のために団結した、一貫した単一の存在なのか?コロニーは単一の有機体なのか、たくさんの有機体の集合なのか。私自身はどちらとも言えると思う。」(ジャラルヴァンド同書p126-p127)

 なぜジャラルヴァンドはこうしたことを書いたのかと言えば、ことほどさように、有機体を定義するのは難しいのだから、有機体としての人間を定義するのは難しいと言いたいからなのだ。

 では、自己とは何だろうかという自分の設問にどう回答するのか。

 ジャラルヴァンドには明快な回答はないが、その代わりにデレク・パーフィットの所論を検討している。パーフィットは人間を「光速で地球から火星に転送できる装置」、「転送装置」があったとしたならば、果たして私たちは転送される時点で、同一の私たちとして存在できるのかという思考実験を考えた。地球から転送されるのは「私たちの人格のすべて」のコードだけであり、地球で転送が終わると、当人は大量の放射線を浴びたせいで死ぬ。火星に到着した転送装置では全てのものがレプリカとして再形成されるという。身体も意識の記憶もあらゆる情報(ソフトウェア)が一切コード化されて、電磁的に送られる。(ジャラルヴァンド同書p132-p133)

 そうすると、転送されて火星で再作成された人は同じ人なのかという疑念が湧く。ここで、「われわれの人格(記憶、経験、感情パターン)」と有機体としての身体とが分離されてしまうわけだ。  

「自然科学者であるパーフィットはつまり、250年近く前にヒュームが『人間本性論』で導き出した結論に達したのだ。個人のアイデンティティ、つまり自己は具体的な形では存在しない。永遠の自己など幻想に過ぎない。われわれが今ここに存在し、それが次の瞬間へとつながっていくが、その一連の出来事は切り離されもするし、拡大されもする。唯物論者のパーフィットにとってこれは霊的なまでの気づきだった。

„ 人生というのは私にとって、ガラスのトンネルの中を運ばれていくようなもの……今やそのガラスの壁がなくなった……他の人たちとの距離が近づいた。私はもう残りの人生をあまり心配してはいない。他の人の人生のほうを心配している。 “

 自己が隔離された檻の中に閉じ込められているわけではないとわかれば、それぞれの人生が親密になるのだ。」(ジャラルヴァンド同書p134) 

 パーフィットはデカルト的な魂と身体の二元論的な観念論に近づいている。パーフィット自身は、ジャラルヴァンドによれば、「自然科学的唯物論者」(ジャラルヴァンド同書p132)なのだが、しょせん、唯物論には魂と身体の問題を扱うときの分析用具(方法論、ノウハウ)がないように思われる。 

 第四章「人間は形成可能なのか」において、ジャラルヴァンドは次のように書いている。

「人間はどのように形成可能なのか――その答えは周知のごとく、„ 遺伝と環境によって “ だ。本章(第四章)と道徳の起源に関する章で見てきたように、良くも悪くも外的要因が人間の行動に大きな影響を与えることがある。スパルタはアゴーゲーという過激な制度を用いて、国家の利益になるように行動を抑制し強化することで国民を形成しようとした。それほど過激ではないにしても、今でも世界中の学校が同じ目的で機能しているとも言えるだろう。われわれの思考、発想、反応や行動は、育った環境や身を置く環境に大きく影響される。自分自身を理解している者はそのことを知っているはずだ。しかし本当の形成可能性、見方によっては危険性とも言えるそれはハードウェア、つまり生体を変化させるところにある。

 人間は真核細胞でできた生物だ。その細胞は無限の種類のプログラムを実行できるコンピューターのように、あらゆる遺伝子を発現できる。しかし今までは有性生殖によってアクセスできる遺伝子プールが限定されてきた。他の人間との間にしか子供をつくることができないので、突然虫の遺伝子を組み込んで新しい能力を手に入れたりすることはできなかった。

 しかし遺伝子編集技術を使えば、自然本来の種との間の壁を打ち破ることができる。」(ジャラルヴァンド同書p163)

 だからといって、「赤外線を感知する器官をもった人間。光合成できる人間。人間と鳥の遺伝子を半々もつ空飛ぶハイブリッド(混合)生物」(ジャラルヴァンド同書p164)が出現することはおぞましい。

 

(注1)スパルタ教育 - Wikipedia によれば、「 古代ギリシアポリススパルタで行われていたとされる教育。古代ギリシア語ではアゴーゲー(アゴゲ、古希: ἀγωγή)という。」とある。

(注2)真核細胞でできた生物、真核生物 - Wikipedia

 

 第五章「何が社会の興亡につながるのか」において、ローマ帝国崩壊の原因、その「興亡」について近年の研究に基づいて書かれた著書、カイル・ハーパーの『ローマの運命――気候、疫病、帝国の崩壊』という著書が紹介されている。その概要はプレジデントオンラインで内容が少し抜粋されている。ただし、一部しか読むことができないようだ。  

「ハーパーによれば、帝国の決定的な崩壊の裏には、もう一つ気候変動があったのだ。

 研究者らは近年、氷床コアと年輪の調査により、ローマ帝国崩壊の直前に極めて異常な気候現象が起きていたことを突き止めた。古代後期小氷期と呼ばれるものだ。六世紀に三回連続して起きた大規模な火山噴火により、大気に硫黄粉塵が充満し、それが数年にわたって太陽光を跳ね返していた。それに加えて太陽活動も弱いサイクルに入った。(中略)そして過去2000年で最も寒い冬がやってきた。寒波と同時に、一説によればまさにその影響で、世界的に腺ペストが流行し、ローマの人口の半分が死に絶えるという信じられないような人口変動が起きた。労働力の不足に加えて日照量も減少したことで、数世代にわたって農作物の収穫量が大幅に減少することになった。

 今や帝国は弱体化し、皇帝の税金庫は長いこと空っぽのままだった。ローマはもはや有能な軍隊を維持したり、住民に無料で穀物を配布したりすることができなくなった。それが国家安定の二本柱だったのに。 „パンとサーカス “ のコンセプトを覚えているだろうか。今やその方程式からパンが消えてしまい、社会の安定は空洞化した。そして最終的に近隣民族の侵略によって崩壊したのだ。」(ジャラルヴァンド同書p187-p188)

 ジャラルヴァンドは、このあと、中世西欧のペスト(黒死病)のパンデミックや1550年から1800年の間に西欧に起きた気候変動の「中世の小氷期」などの諸原因から西欧が世界史のチャンピオンになっていく過程を叙述している。 

 ジャラルヴァンドのこの本の表題は『サルと哲学者』となっているが、その由来は次のようである。サル(実は現生人類)にいつも同伴してくれた仲間がいた。それは「好奇心と創造性」を象徴する哲学者だった。一方で、サルのもつ邪悪な同伴者もまたサルを追い詰めてきた。「利己主義、強欲さ、自己満足、視野の狭さなど」を持つ邪悪な同伴者は「優生学、全体主義、疑似科学的な人種差別、搾取の正当化といった恐怖」をサルたちに与えた。(ジャラルヴァンド同書p211)

 サルは常に「向上する可能性と後退する可能性」の両方を持つという。「一つ確かなことは、結果がどうであろうと、人は自分の行動に意義を感じるだろうということだ。どこにいようとも、(無知の)井戸を登り続ける。好奇心と創造性が彼女を支えるだろう。そしてサルは哲学的な思索に耽り続ける。そう考えれば、不確実な未来に目を向けても心強く感じられるはずだ。」(ジャラルヴァンド同書p212)