飲茶は「力への意志」と芸術との関係について次のように解説している。
「『力への意志』とは、「自分にとって『よいもの』を目指したいという精神的な欲求」である。そして、「芸術=自分にとって『よいもの』を目指してそれを表現する行為」である。((飲茶『飲茶の「最強!」のニーチェ』水王舎 2017年12月10日p241)
力への意志は自分にとってよいものを目指す欲求であり、それを表現する行為が芸術であるという。ということは、飲茶にとって芸術とは力への意志を具現化したものだということができるだろう。
「力への意志と芸術にはもうひとつ似ているところがあって、前に、力への意志は失敗しても不幸にならないという話をしたと思うけど、実は芸術もそうなんだ。もっと言えば、芸術は、うまくいこうが失敗しようがどうでもよく、結果を問わないものなんだ。」
「え、芸術って失敗してもいいんですか?」
「うん。これはさっきの『楽しみながら横断歩道を渡る子供の話』を思い出してもらえばわかると思う。横断歩道の白いとこだけを踏んで、より華麗に、よりファンタスティックに道を渡ろうという子供の行為……。これは、その子供が『自分にとって美しい、面白い、チャレンジングだと思うもの』、すなわち自分の『美意識』を表現しようとして生み出された行為であるわけだから、一種のアート、芸術であると言える。」
「で、アキホちゃんも同意すると思うけど、この行為自体に意味はないし、結果なんてどうでもいい。たとえ失敗してたからってその子が気に病んだりなんかしないよね。そんなことより大事なのは『彼が、したい(美しい、面白い)と思うことを自分なりに追求し、その行為を心から楽しんだ』ということ。つまり、現実として『彼の生が高揚(充実)したこと』が重要なんだ。
さて、この話を踏まえれば、『したいこと』が『できない』……、の『できない』という問題は解決する。なぜなら、『したいこと』を芸術として捉えるなら、もはや『できるかどうか』は関係なく、とにかくただ『したいこと』をまっすぐに目指し、生を高揚させられれば、それでよいということになるからだ。だから、僕(飲茶)の『伝えたい』も、ごまかしたり、空想で慰めたり、うまくできるかを気に病んだりするんじゃなく、『芸術』に昇華して人生を楽しめば良かったんだ。」(飲茶同書p244)
「陶芸家がひたすら自分が美しいと思うコップを山奥で作る続けるように……、子供が画用紙に好きな絵を夢中で描いて楽しむように……、数学者が何の役にも立たない数式の証明に全人生を費やして挑み続けるように……(中略)大事なのは、『自分が美しい、面白いと思うもの』を『今この瞬間』において感じとり、それを表現することを楽しみながら生きることである」。(飲茶同書p245)
「行為自体に意味はないし、結果なんてどうでもいい。たとえ失敗してたからってその子が気に病んだりなんかしないよね。そんなことより大事なのは『彼が、したい(美しい、面白い)と思うことを自分なりに追求し、その行為を心から楽しんだ』ということ。つまり、現実として『彼の生が高揚(充実)したこと』が重要なんだ。」という部分が私にはわかりにくい。行為の意味とは「『彼が、したい(美しい、面白い)と思うことを自分なりに追求し、その行為を心から楽しんだ』ということ」ではないのか。美しい、面白いという、主観的な、個人の趣味・嗜好は、他人はそうでなくとも、その人自身にとっては有意味で価値があるのではないか。飲茶は子どもが横断歩道の白線だけを踏んで歩くという行為自体には何の意味もないという。その子を見ている大人も「ぐずぐずしないでさっさと渡ればいいのに」と思うかもしれない。端から見たら、特に大人ならば、「その子」の行為は無意味であるように思うのかもしれない。しかし、当のその子は面白いと思っている。その子にとっては意味があるのではないか。
また、ここで飲茶が言っていることは、理想ではあっても現実では実現困難なことのように思われる。「自分が美しい、面白いと思うもの」を感じ取り、「それを表現することを楽しみながら生きる」ということが間違っているわけではない。しかしながら、自分の人生のほとんど全部を使って、自分の好きなことを楽しみながら生きていくのは、簡単ではない。趣味の域を出ず、休日にやるのなら問題はない。しかし、飲茶は休日の趣味を勧めているようには見えない。
飲茶自身も無理なことを言っている自覚はあるだろう。なにしろ、飲茶は吃音症によるコミュニケーション障害のために普通の職業生活ができなかった。おそらく生活に困窮していたと推測される。彼は大学院に進学し、哲学を猛勉強したに違いない。いろいろあって、哲学の分野において一般人のための解説をネットで書いたり、本を出版したりしてようやく経済的に自立することができたように見える。彼自身は自分がやりたいこと、自分が面白いと思うことをすることで収入を得ることができたが、それは彼に能力があったのかもしれないし、かつ、めぐり合わせがよかったのかもしれない。
しかし、大部分の他の人たち、あるいは彼の本やブログの読者たちはどうだろうか。飲茶の言うような生活、「自分が美しい、面白いと思うもの」を感じ取り、「それを表現することを楽しみながら生きる」生活を自分の全生涯を通じて実現できるだろうか。
予備校の某講師はかつてこう言った。「社会に出て、自分が好きなことを仕事にできる人は少ない。人は、やりたい仕事をすることはできず、やりたいわけでもないが、自分ができることをして仕事にして生活していくものだ」と。多くの人は好きなことを仕事にしているわけではない。やりたいわけでもなく、その仕事が面白いわけでもないが、自分ができるから、生活のためにやっている人がほとんどであると思う。
陶芸家が毎日一日全部を使って「ひたすら自分が美しいと思うコップを山奥で作る続ける」ことが可能になる条件は何だろうか。数学者が朝から晩まで毎日一日全部を使って「何の役にも立たない数式の証明に全人生を費やして挑み続ける」ことが可能になる条件は何だろうか。その条件とは、しっかりとした経済的な基盤(収入、資産)があることである。
陶芸家を目指す、数学者を目指す。好きな絵を描いて人生を送る。芸術家になって、美しいもの、面白いものを作る。表現を楽しみ、人生を楽しみたい。画家になりたい、小説家になりたい……。しかし、志望者はしっかりとした収入があるのか、何かの資産があるのか。これは極めて重要な条件である。
中島義道は書いている。
「画家を志望しながら、小説家を志しながら、志を達成できなかった者は『身のほど知らずの夢を見ていた』という反省、いや懺悔をしなければ、『まともな世界』に戻ることを許されないのだ。
なぜなら、『まともな世界』に属する少なからぬ者が、みずからの才能を存分に開花させて自由自在に生きる者を引き摺り下ろしたいからである。俺たちが毎日こんなに苦労して無味乾燥な仕事をしているのに、好きなことをしてやすやすと金を稼ごうと企む者を許してはおけない。こうして、膨大な数の画家志望、小説志望の青年が、芽が出ないまま数年、十数年を経た後、自己反省して『まともな世界』に戻っていく。」(中島義道『差別感情の哲学』講談社 2015年2月10日 p134)
これは残酷な話であるが、一般の人の現実である。では、ちょっと頭のいい人たちはどうか。
飲茶は東北大学の大学院で哲学を専攻したという。飲茶と同じように哲学の勉強をして、大学教授を目指そうとした中島義道は10年以上学生を続けたうえに、大学の職にありつけず、ウィーン大学に親からお金を出してもらって私費留学し、努力を重ねてようやく大学に職を得ることができた。飲茶も大学の職を得ることは難しかっただろう。(もし飲茶が大学の職にありつけたなら、今も続けているだろう。)
「哲学の世界も同様である。有名大学の大学院を修了し、数編の論文や著書まであっても、大学の職にありつけない、とはいえいまさら『転向』もできない膨大な数の知識人がいる。
先に検討した『人間としての誇り』に比べて、それほどの極限状態に陥っているわけではないが、高学歴を有し、小説家や評論家や大学教授などの知的職業を目指しながら、志を遂げられない人々の群れが最も自尊心を抱きやすい。彼らはかつて学校秀才であり、仲間たちのうちで明らかな優位に立っていたが、いまやその多くの者にも後れを取り社会的には劣位に立つことを余儀なくされている。」(中島『差別感情の哲学』p135)
この本の最後のほうで、アキホという架空のOLが次のように語っている。
「どのような不条理で呪われた人生であっても、現実から目をそらさず『これが自分の人生なのだ』と向き合い、自らの意志で、その生を肯定してしっかりと生きていく。そういう前向きな生き方が私にもできるのだと、最後に気づけて本当に良かった!
ああ、ニーチェの哲学とはこういうものだったのですね!
ならば、よし、もう一度!
どうか、あなたにもあなたの昼がおとずれますように……。」(飲茶同書p249-p150)
これがこの本の末尾の言葉である。これを読んだ読者はどう感じるだろうか。「そうだ、俺(私)だって、できる」と思うだろうか。読者の人生を変えることはできるだろうか。今の会社で「毎日こんなに苦労して無味乾燥な仕事をしている」アキホだが、この無味乾燥な仕事をどのようにして「『これが自分の人生なのだ』と向き合い、自らの意志で、その生を肯定してしっかりと生きていく」のか。ぜひとも教えて欲しいものだ。しかし、そうした肝心なことは書かれてない。このままこの本は終わっている。
翻って飲茶のニーチェの読み方は正しいのだろうか。
飲茶は「力への意志=自分にとって『よいもの』を目指したいという精神的な欲求」と書いた。(飲茶同書p241)本当に「力への意志」とはそういう欲求なのだろうか。
中島義道は『過酷なるニーチェ』において次のように書いている。
「力への意志とは徹底的没落への意志にほかならなかった。それは、全生命をかけて誠実を守り抜こうとする意志である。その『誠実』は、キリスト教の殉教者のように神に対して向けられているのでも、カントのように理性に対して向けられているのでもない。まさに自分自身に対して向けられている。自分が誠実でない自分が赦せないのだ。
力への意志がめざす第一のもの、そして最も困難なものは、権力を握ることではない。他人を支配することではない。まさにパウロのように『肉体に刺さった棘』を絶えず全身で感じていること、まず不誠実な自分自身を絶対に赦さないことである。これには絶大な意志の力が必要である。ともすれば消え去りそうな『力』の絶え間ない補給が必要である。これが、誠実を保持する『力』が枯渇せずに、常に全身にみなぎっていることを渇望する意志、すなわち『力への意志』である。」(中島義道『過酷なるニーチェ』河出文庫 2016年11月20日p174-p175)
「『力への意志』とは、腕力や軍事力や権力にものを言わせて、弱者や弱小民族を支配する意志ではない。(中略)最もレベルの高い力への意志とは、『神が死んだ』ことを正視し、それに代わって無意味なものが無限回繰り返されるという『永遠回帰』の真理を受け容れることなのだ。」(中島同書p179)
「没落」の意味とは何かと中島は問う。それは『ツァラトゥストラ』の物語に書かれていると中島は言う。
『ツァラトゥストラ』の物語はツァラトゥストラが「太陽を仰ぎ、ワシとヘビのみを友として生きていた洞窟生活から別れを告げるところから始まる。彼は、――荒野での修行を経て人間たちのもとに行くイエスのように――人間たちのもとに行くのだ。これがツァラトゥストラの没落である。『没落(Untergang)』はさしあたり三重の意味を含んでいる。
(1)洞窟のある山の高みから人間たちの住む低地へと文字通り『下っていく』こと。
(2)低いところに安住している人間たちに理解されないことを予感しながらも彼らに『高い真 理(永遠回帰)』を伝えようとすること。すなわち、――イエスのように――まさに人間 たちから排斥され殺されることを知りながら、人間たちのもとに赴くこと。
(3)修行の最終段階としての『根拠に(zu Grunde)に至る(gehen)』(中島同書p156-p157)
この飲茶と中島の説く力への意志についての解釈の違いは大きい。おそらく、ニーチェの遺した言葉や短い警句に対する飲茶の読み方は飲茶自身の成功体験に引き寄せられている。つまり、飲茶のニーチェ解釈は、そしてニーチェを読む者全員も、我田引水が過ぎるように感じる。ニーチェの文章は多義的で、かつ、比喩が多く、様々な解釈を生むのだ。なおかつ、ニーチェ自身が解釈は読者のそれぞれの価値関心からの解釈でいいと言っているようなのだ。
中島はニーチェの言説の危うさを私たち読者に注意する。(その1の引用文を再掲する。)
「一つの宣言から本書を開始する。ニーチェの言説は、ほとんどの者にはまったく役に立たない。いや、誤解しない限り、ただただ有害である。なぜなら、もし人が誠実にニーチェの言葉を読解するなら、自分自身の卑小さを自覚して絶望するはずであるから。とうていかなわない高みを眺めて溜息をつくだけであるから。あるいは、『すべては馬鹿げている!』と鼻先で笑って打ち捨てるだけであるから。よって、ニーチェの言葉から『人生の意味』を汲み取ることはできない。それは、あまりにも異様であり、あまりにも『力』を必要としているからである。」(中島義道『過酷なるニーチェ』河出書房新社 2016年11月20日 p7)
また、永井均は『これがニーチェだ』の序文に次のように書いている。
「私は、これまでニーチェについて書かれた多くの書物に不満がある。それらはたいてい、ニーチェという人物とその思想を、何らかの意味で世の中にとって意味のあるものとして、世の中の役に立つものとして、描き出している。私には、そのことがニーチェの真価を骨抜きにしているように思える。ニーチェは世の中の、とりわけそれをよくするためには役に立たない。どんな意味でも役に立たない。だから、そこにはいかなる世の中的な価値もない。そのことが彼を、稀に見るほど偉大な哲学者にしている、と私は思う。」(永井均『これがニーチェだ』講談社 1998年5月20日 p7)(永井はこの本のニーチェの著書からの引用について、「訳文は私自身のものである」(永井同書p15)と書いている。)
また、ニーチェの翻訳を多く手がけたドイツ文学者の西尾幹二は次のように書いている。
「私は本稿(「光と断崖」という論文。文芸月刊誌『新潮』1987年10月号に掲載された)叙述の必要上、『アンチクリスト』(ニーチェの著作)の内容紹介をも実行してきた。ところが、原文祖述の展開に際して、私はいつも原著者(ニーチェ)からなぜかからかわれているような気がしてならなかった。原著者自身が、自分の書いている言葉を果たしてどこまで信じているのか。原著者の用いた概念や論旨を私がまともに扱うと馬鹿をみるような不安が、一度ならず心を掠めた。
このような不安を読者の心に惹き起こしやすい点こそ、言葉と真実、虚偽と真理をめぐって、いかなる固定化=絶対化をも拒むニーチェのきわどい自我の不確定性の運動がある。神を求めながら、あらゆる形態の神を否認してやまない彼の流動的活力の源泉があるともいえる。」(『西尾幹二全集』第五巻 国書刊行会 平成23年10月12日 p50)
永井の「力への意志」の解釈も飲茶とは全く異なっている。
そもそも「力への意志」とは何か。何の力であり、意志とは何か。この言葉はニーチェが使った言葉として有名になったが、実のところ、それらの言葉はどういう意味なのか。
永井は次のように解説している。
「『力』という概念は、『観点(パースペクティヴ)』と『解釈』という二つの概念と関連している。自分の観点(パースペクティヴ)から他のすべてを解釈し、意味づけ、位置づけてしまえる場所に立てるというのが、『力』の原イメージであろう。そして、人間はつねにそのような解釈視点に立つことを求めて生きている、というのが『力への意志』説の根底にある直観であろう。何かを欲求し、意志し、目指すこと、それはすべて力への意志の発現である。存在するのは、じつは力への意志という一種類のものだけなのである。」(永井同書p115)
ニーチェのいう「力への意志」とは「何かを欲求し、意志し、目指すこと」なのだ。そして存在するのは「力への意志という一種類のものだけ」だという。
「ニーチェは、あらゆる道徳的価値評価の背後に生理学的原因をさぐり、そこに隠された力への意志を発見した。だから、力への意志は生理学的現象である。ニーチェにおいて、力への意志はしばしば生物としての人間が持つ欲求(Bedürfnis)、欲望(Begierde)、衝動(Trieb)、欲動(Affekt)といったものと同一視されることになる。
前節の最初に引用した7[60](グロイター版ニーチェ全集第7巻の断章番号60という意味である。以下同様)には、唐突に登場する『パースペクティヴ主義』という語のすぐ後に、こう書かれている。『世界を解釈するのはわれわれの欲求だ。われわれの衝動とその衝動のおこなう受容と拒絶だ。すべての衝動は一種の支配欲であり、それぞれの自分のパースペクティヴを持ち、自分以外のすべての衝動に対してそれを規範として押しつけたがっている』。さらに次のようなこともしばしば言われる。『誰が解釈するのか?――われわれの欲動(Affekt)である。』(1885年秋―86年秋に書かれた遺稿、2[190])。衝動や欲動はときには欲求や欲望とも言い換えられる。
もう少し慎重な言い回しをする場合には、力への意志が欲動等のかたちをとって現われるといった表現になることもある。『『誰が解釈するのか?』と問うてはならない。力への意志の一形式としての解釈行為それ自体が、欲動というかたちをとって(しかし『存在』としてではなく過程として、生成として)現われるのだ』(1885年秋―86年秋、3[151])。
しかし、欲動や欲望は、世界の中に存在するある種の特殊な存在者(生き物)に生じるある種の特殊な現象にすぎず、それが世界そのものを構成することなどできるわけがない。もしできるとすれば、ここでもまた、その、『欲動』や『衝動』といった概念そのものは、あるいは特殊な存在者である『生き物』という概念そのものは、誰が何をどのように解釈した結果として構成されたのか、という問いが生じてしまう。それらは世界内にありながらも世界を超越した超越者の身分を与えられることになる。総じて、世界内のある存在者やある現象が世界全体を解釈的に構成しているという発想は哲学的に幼稚である。カント以来の超越論哲学の伝統はこの難点を克服するための努力だったのである。
他方でしかし、もし力への意志が世界の背後にあってそれを構成している(ときに欲動等のかたちをとって世界に顕現する)隠れた実体なのだとすれば、それは文字通りの悪しき形而上学そのものとなるだろう。 」(永井同書p128-p130
なるほど、力への意志とは、要するに、「生物としての人間が持つ欲求(Bedürfnis)、欲望(Begierde)、衝動(Trieb)、欲動(Affekt)」であるという。ならば、人間の行為を直接支配するところの、物質的(外的・経済的)な利害関心と観念的(内的・心理的及び社会的な地位や威信をめざす)な利害関心、利害得失の打算の欲望だということになる。
「そもそも、力と意志との関係はどのようなものだろうか。ニーチェのいう『力』は、機械的・物理的なものではなく――つねに意識的であるとは限らないが――欲望的・意志的なものであるから、力=意志といえる一面があることは否定できない。だが『力への意志』はあっても『意志への力』はない。この相違は、意志と違って力には発揮されず蓄えられる可能性があることに基づいている。だからこそ、ひとは力を持つことを意志する。もちろん、その意志もまた力の発揮ではあるのだが。
だが、金づかいのあらい者が金持ちであるとは限らないように、力を発揮している者が力ある者であるとは限らない。また、金を欲しがる者、『金への意志』が強い者は、金持ちよりは貧乏人であることは、むしろ常識に属するであろう。たとえその『金への意志』が、なけなしの金を使ってしか発揮できないような意志だとしても、そんな風に金を使いたくなってしまうのは、どちらかといえばやはり貧乏人の方であろう。
ここでわれわれは一つの大きな疑問に突き当たる。そもそも力への意志とは、力の現象、力の現われ、力の働きなのであろうか?確かにそれは広い意味での力の現象ではあろう(それ以外のものはないのだから)。しかし狭い意味での力の現われ、つまり力の強さの現われではないのではあるまいか。それは貧乏人のなけなしの金づかいに類するものなのではあるまいか。充溢した力は現われる必要がない。満ち足りた者、自分の内部に欠如を感じない者、自分の外部に自分を否定する敵の存在を感じない者は、強い力をもっていてもそれを強く発揮する必要がなく、それゆえ自分の持つ力を意識しない。力を意識する者、力を発揮せざるをえない者は、力の弱い者である。力への意志は、満たされなければ満たされないほど、さらに強く発動し続ける。つまり『より強くなろうと意志すること(das Stärker-werden-wollen)』(1888年春、14[81])としての力への意志を持つ。発動のこの持続的な力強さは、発動主体の力弱さの指標ではあるまいか。
するとやはり、およそニーチェ哲学の全体を統括するはずの『力への意志』という概念が、じつは弱さの指標であるという奇妙な逆説が、払拭しきれない疑念となって迫ってくるだろう。力への意志が本質的に弱さの現象であるとしたら、力への意志によって世界全体を説明しようとする思想は、弱者の思想だということになる……。」(永井同書p136-p141)
永井によれば、力への意志とは弱者の思想である。弱者であるからこそ、自分には何もない、何も与えられていないという現状、「生物としての人間が持つ欲求(Bedürfnis)、欲望(Begierde)、衝動(Trieb)、欲動(Affekt)」が満たされていない現状からの脱却を強く欲するのだろう。だから、パースペクティヴ主義などを唱えて、例えば、価値観や規範における価値の基準を勝手に変えたりする。
「各パースペクティヴは『こうあって欲しい』というおのれの欲望と願望を世界に投影し、そこが世界そのものの『真の』あり方だと言い張る。」(永井同書p139)
しかし、「こうあってはならない、こうあって欲しい、という不満と願望を出発点にした世界把握、憧れを出発点とした現実把握は、否定性を出発点とした現実把握、弱者の現実把握であり、それをモデルとする以上、パースペクティヴ主義もまた、弱者のものの見方を一般化した世界観であるといわざるをえないだろう。欲動、欲求、欲望といった種類の精神のあり方はすべて、不満を起点として世界へ向かうネガティヴな精神のあり方である。それをモデルとした力への意志説とパースペクティヴ主義は、金への執着が人一倍強い貧乏人にとって世界がどう見えているかをモデルとした世界観が本質的に貧乏臭いのと類比的に、本質的に弱い、奴隷的な世界観であらざるをえないのではあるまいか。」(永井同書p139-p140)
「自己を力への意志による解釈の主体とみなし、世界を力への意志による解釈の相克の場とみなすかぎり、すべての力の中心点たる自己は、つねに欲望と願望の起点であり、どこまでも満たされることのない虚無なる中心点であらざるをえない。このような者の織り成す世界は、本質的に虚しい。ニヒリスティッシュな世界であるほかはない。これに対して、力への意志がかなりの程度において満たされている場合、あるいは逆に満たされることをあきらめた場合、あるいは何らかの理由で、そのどちらでもないにもかかわらずあたかもどちらかであるかのような精神のあり方に立てた場合、その精神のあり方は、落ち着きとある種の無関心として現われるはずである。」(永井同書p140-p141)
そして永井は力への意志は「胡乱な性格」(正体が怪しく疑わしい性格)を持っているという。
「つまり(ニーチェによれば)力への意志は、最も弱い者においては『自由』への意志として、中間の者においては『公正』への意志として、そして最も強い者においては『愛』として現われる!力への意志は『最も強い、最も富める、最も独立的な、最も勇敢な者たち』(1887年秋、9[145]グロイター版ニーチェ全集第9巻の断章番号145)においてさえ、『同情』や『自己犠牲』のごとき、極端に肥大した卑小な行為としてしか現われない!最も強い者とは、畜群を圧倒し、その心を奪う牧人(つまり僧侶!)でしかないのだ。最高の力への意志といえども、あまりにも卑しく、あまりにも弱い。」(永井同書p142)
「それにしても、ニーチェ哲学の中核に位置すると見られる『力への意志』説が、このような胡乱な性格を持ってしまうことは、意外なことのように思われるかもしれない。だが、じつは、そうではないのだ。われわれはすでに、ニーチェが『すべては力への意志である』という見解をほかならぬキリスト教的ニヒリズムの研究から得たことを知っている。無を欲するという力への意志のニヒリズム的逸脱の研究からこそ『力への意志』説が学ばれたことを知っている。ニーチェの意図は、元来、キリスト教がじつは力への意志の歪んだ現われであることを示すことによって、その神秘のヴェールをはがすことにあった。彼が、この文献学的背後解読と暴露心理学から得られた知見を全体に押し広げ、すべてが力への意志であるという形而上学的原理を確信した理由は、自己自身とその活動のなかに、自分が対象としているものと同種の力のあらわれ方を感じとったからだと思う。自分のなかで働く力への意志を誠実に認めたとき、その誠実さが普遍的な形而上学的原理の錯覚を作り出したのではないだろうか。疑うべきはその誠実さそのものなのだ。
今日、なぜニーチェ思想やそれに類するものに救いを求めるニーチェ的弱者が生まれつつあるのかという問いは、もしそれが今日の社会現象に関する問いなら、むしろ社会学者に解明してもらいたい問いだ。だが、もしそれがニーチェ哲学に関する問いなら、答えはもう出ているであろう。すなわち、力への意志に基づく世界解釈が僧侶の力をモデルにした本質的にニヒリスティッシュな世界解釈だからなのである。それは、贋金造りをモデルとして貧乏人向きにつくられた偽りの貨幣論なのであり、その悪しき本質だけが剥き出しにされた、抽象化されたキリスト教なのである。ニーチェは『キリスト教は『大衆』向きのプラトン主義である』(『善悪の彼岸』序言)と言ったが、それならば、ニーチェ主義は俗人向きのキリスト教であると言えよう。
僧侶は単なる卑小な弱者ではない。が、もちろん高貴な強者でもない。僧侶の力は弱さから生まれる特殊な強さ、つまり世界を別様に解釈するという仕方でのみ有効な特殊な力である。これは本当の力ではなく、金の比喩で言えば、いわば贋金である。僧侶とは、本当の金を持たない貧乏人に偽造貨幣を作って与える、贋金造りの専門職人である。それゆえ、ニーチェの力への意志説は贋金をモデルにした貨幣論なのである。それは何かを――じつは自分の必要から――真理であると信じ込むことなしには生きていけない弱者の存在様式をモデルにした世界解釈なのである。だからこそ、その人間理解と世界解釈に基づく力への意志説が、強くなりたい人々の、自分を強者だと思い込みたい人々の、つまり力への意志が強い弱者たちの、心をとらえるのである。
金持ちが贋金を必要としないように、強者は自分に合わせて世界を解釈しようとはしない。むしろただ真理を知ろうとするはずである。それだけの精神の余裕を持つはずである。ただ真理を知ろうとする者と、自分に合わせて世界を解釈しようとする者と、どちらが強く高貴で、どちらが弱く卑小であるかは、明らかだと思う。なんら力への意志のあらわれではない。たんに力のあらわれにすぎないような、真理への意志というものがあるはずなのである。」(永井同書p143-p145)
このニーチェ的弱者とはどういう人間だろうか。コミュニケーション障害で生きる気力を削ぎ続けられた飲茶を思い浮かべてしまうのは失礼だろうか。
これは「ニーチェ哲学の中核に位置すると見られる『力への意志』説」の永井による強烈な批判である。そうして永井は力への意志説は「他のすべての世界解釈をその内部に包み込んだ超越(メタ)的世界解釈として君臨することになった」という。(永井同書p145)
「ニーチェ主義は、すべての他者を自分の解釈空間の中に収めることに成功した。すべては『力への意志』という一種類のもののあらわれであり、しかも自分はその真理を――すべては力への意志という一種類のもののさまざまなあらわれ方にすぎないというその真理を――知っているのだから、自分のパースペクティヴから理解し価値評価できない他者など存在するわけがない。ここに評価基準の独占という事態が成立する。ニーチェ主義は、その基準によって森羅万象を裁断する『力』を手に入れた。だが、その『力』は明らかに僧侶的な力なのである。だから、それは本物の力ではなく、いわば贋金なのである。
キリスト教が『罪』という超越的な解釈空間を捏造することによって、その内部で救われたい(と思わされてしまった)畜群のうえに君臨したのと同様に、ニーチェ主義は『力』という超越的な解釈空間を捏造することによって、その内部で強者でありたい(と思わされてしまった)畜群のうえに君臨することになった。この解釈空間それ自体を拒否する者は、この解釈空間の内部で最も低い位階に――位階秩序の存在をルサンチマン的に拒否する最弱者として――位置づけられることになった。罪なるものの存在それ自体を否定する者が、そのことによって最も罪深い者とされるのと同じことが起こったのである。
貧乏人のパースペクティヴからは、すべての人間がもっと金持ちになりたがっていて、それには例外がないように見える。人間の行動のすべてはそれで説明がつくように見える。そう見えるのはじつは自分が貧乏であるからにすぎないという真理は、そこからは見えない。同様に、力なき者のパースペクティヴからは、世の中のすべては『力への意志』で説明がつくように見える。そこからは、その外に別の空間があることが見えない。別の可能性を見るためには、その外に出なければならない。だから、『強―弱』の空間自体が、その空間の特権化自体が、最終的に突破されなければならない。
(中略)
最後に、この章で述べてきた力への意志説に対する批判的な諸視点のすべてを、一括してひとことでまとめるなら、それはこうなるだろう。――力への意志は力を語る、力はただ示される。
もしニーチェがこのことに気づいていたら、彼の力の哲学は超越論哲学の伝統を、その神髄において受け継いだ、本格的な哲学説になりえたように思う。そうなれば、三つの空間の連接の意味も、はるかに深遠な、えもいわれぬほどに素晴らしいものになりえたように、私には思われるのである。」(永井同書p145-p148)
永井のいう「三つの空間」とは次のような空間である。
「ニーチェの第一空間とは、(中略)真理とか虚偽がではなく、誠実さと嘘が対立する空間である。」(永井同書p37)「第一空間においては、自己に対する誠実さ(嘘をつかないこと)だけがニーチェ的文献学の唯一の武器であった」。(永井同書p38)
「第二空間では、力への意志説やパースペクティヴ主義の方が、逆に、真理への意志や誠実さを包み込むことになる。」「第二空間では、その誠実さそれ自体が、力の徴候として自己解釈される」。(永井同書p38)そして、力への意志説やパースペクティヴ主義は胡乱な説であることが永井によって解明される。
そして最後の第三空間とは永遠回帰が襲来(永井同書p168)してくる空間である。この永遠回帰説に関する解釈は二つあるという。
一つは永遠回帰の意志による受容である。しかしその意志は弱い意志である。弱い意志は「超越的外部」(永井同書p178)を求める。「意志によって選ばれるかぎり、永遠回帰思想もまた、一回かぎりのこの人生に、外から与えられる超越的意味になってしまわないだろうか。それは外部に救いを求めるよりも、もっとたちの悪い『悪い意味での開き直り』」である。(永井同書p178-p179)
では、もう一つの解釈とは何か。
永井は次のように書いている。
「永遠回帰思想の最大のポイントは現実肯定にある。この世界を、外部からの意味づけによってではなく、現実であることそれ自体によって、この瞬間を、過去や未来の視点からの意味づけによってではなく、今であることそれ自体によって、この人生を、他者や外部の視点からの意味づけによってではなく、自分であることそれ自体によって、そのまま肯定することを、それは教えるのである。だからその肯定は、この世界を、この瞬間を、この人生を、それ自体として、奇跡として、輝かしいものとして、感じるがゆえにおのずとなされる肯定でなければならない。
つまり、意志の力によって強く肯定されてはならないのだ。」(永井同書p180-p181)
ここで強い肯定(肯定に固執すること)はいけないと永井は言う。どういうことか。永井は強い肯定をするということは、過食症を治すために拒食症になれということと同じだと言う。病を治すために別の病に罹れと言うのはおかしい。確かに馬鹿げている。だから、強い肯定はだめだという。
強い肯定とは詭弁による自己欺瞞をもたらすということかもしれない。永井はニーチェの『ツァラトゥストラ』における嘘を批判する。この有名な一節をここまで批判した人は永井だけだと思う。
「『君たちはかつて何か一つの喜びに対して『これはいい』と肯定したことがあるか。そう言ったとすれば、君たちは一切の苦しみに対しても『これはいい』と肯定したことになるのだ。一切の事物は鎖で、糸で、愛でつながれているからだ』(『ツァラトゥストラ』「酔歌」)。こんなふうな嘘を作り出してまで一切を肯定しようとするのは病気である。同じ病気の二つの症状である。」(永井同書p181)ここは「過食症を治すために拒食症になれ」という詭弁と同じだという。
「肯定に固執することは、否定を否定することに固執することである。たとえ否定意志の否定であっても、何かを否定する意志への強力な固執は、つねにある対象に対する反芻された憎悪をその出所とするだろう。否定と肯定というこの空間の中にいるかぎりは、自己とその世界を真に肯定した場所に立つことはできない。一つの空間内で相手の対極を強調すると、そのことで空間そのものを強化することになる。」(永井同書p181-p182)