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飢餓祭のブログ

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 中島義道は書いている。

「人生の折り返し点を過ぎた人の多くは、自分に与えられた『小さなもの』あるいは自分の獲得した『小さなもの』を黙々と守るだけの生活を続けている。そして、まもなく――高々三十年後に――死んでゆくのだが、そのことはひたすら考えないようにしている。たしかに時折無性に虚しくなるが、そんな落とし穴に落ち込むほど青くはない。思考をぐっと現実的な対象に向け変え、気持ちを整える。今自分が考えるべきこと、それは息子の大学入試であり、娘の結婚であり、自分の昇進であり、もっと広いマイホームを手に入れることだ。あるいは、会社の再建であり、新製品の開発であり、新しいプロジェクトの成功だ。だが、その後はだって?年金はいくらもらえるのか、老後の世話は誰がしてくれるのか、たしかに心配は残るさ。それは二十一世紀の大きな問題だなあ。地球温暖化という大問題もあるし……。

 ごまかすのはやめなさい!あなたはまもなく死んでしまうのだ。あなたをまもなく襲う『死』をおいてほかにもっと大切な問題があるのだろうか?あなたは『死』とともにまったく無になってしまうかもしれないのだ。そして、何億年たっても二度と生き返らないかもしれないのだ。もうじき終わってしまうこの人生が、あなたに与えられた唯一の生きる機会、考える機会、感じる機会なのかもしれないのだ。もうすぐ死んでしまうあなたが、必死に日常的な問題にかかずらっていること、それはたぶん最も虚しい生き方である。『死』を目前に控えて震えている死刑囚よりも虚しい生き方である。キルケゴールとともに言えば、日常に絶望していないことこそ絶望的なのだ。」(中島義道『孤独について』文藝春秋 平成10年(1998年)10月20日p11-p12)

 中島義道による「ごまかすのはやめなさい!どうしてわからないんだ!」という叫びのような文章は、1998年、彼が52歳のときに書かれたものだ。中島は去年(2023年)の3月21日に脳梗塞で倒れ、左半身不随となったという。76歳のときのことだ。昭和21年7月生まれなので、中島は今年(2024年)の7月で78歳になった。彼はリハビリを経て、去年のうちに「哲学塾カント」に復帰を果たしたようだ。

 彼の26年前の文章を読んで、「そうだ、ごまかさずに考えよう」と思った人も多いかもしれない。

 しかし、「必死に日常的な問題にかかずらっていること、それはたぶん最も虚しい生き方である」というところに私はひっかかる。日常的な問題とは衣食住のことで、そうした問題にかかずらう必要がない人とはどういう人か。それができる人は、お金に苦労しない人、生活資金が豊かな人である。そして、睡眠時間や衣食住、人とのコミュニケーションに関わる時間を除いた時間はかなり少ない。純粋に自分の時間を確保して「私の死と生の問題」に当てる時間ができたとして、では何をどうしたらいいのか。

 中島が想定している「人生の折り返し点を過ぎた人」とは自らも含めた50歳を過ぎた人で、30年後には徐々に余命を終えて死んでゆくことになる人々である。現代日本では大方の人は65歳まで働き、その後は年金生活に入るか、もう少し70歳くらいまで、あるいは体が続くまで、何かしらの仕事につくかもしれない。もし退職金がそれなりにあり、今までの貯蓄があり、マイホームがある人ならば、贅沢をしなければ、そこそこ悠々自適の生活ができるだろう。

 そうでない人はなかなか中島の推奨する生活をすることはできないかもしれない。そもそも、どんなことに関心を持つかについては人それぞれであって、人の、自分の100年足らずの生、その生とは何だったのかということについて中島のように考えることなど思いも寄らない人がほとんどではないだろうか。

 そうだとしても、日常生活にかかわるときには、その人なりに日常生活において起きてしまう問題について、問題の原因の究明、その問題の解決の方法、解決後の展望を考えていかなければならない。日常生活で生じる問題は、人間関係が原因で起きることが多い。中島が言う「最も虚しい生き方」とされた日常的な問題の対処方法としても応用ができることを中島は書いている。 それはニーチェの「運命愛」のことである。

「ニーチェの不可解きわまる思想のうち、私がごく最近了解し始めたことがある。それは『何ごとも起こったことを肯定せよ。一度起こったことはそれを永遠回繰り返すことを肯定せよ』という『運命愛』と名づけられている思想である。つまり、私に起こったことすべてを『私の意志がもたらしたもの』として捉えなおすことだ。(中略)誰のせいでもない、ほかならぬこの俺(私)が自分の身にもたらしたものなのだと――無理矢理にでも――考えてみる。この意味で、孤独(あるいは起きてしまった状況)を完全に肯定することだ。すると孤独(あるいは起きてしまった状況)の苦痛ははるかに軽減する。やせ我慢ではない。こうした状況はまさに自分が望んだのだ、と思ってみることである。そして、それまでの自分の行動を点検してみるがよい。いかに、自分はこの状況をつくることに加担してきたかがわかってこよう。

 ここで重要なことは、いかなる状況もそれ自体として善でも悪でもないということ。いかなる状況も、当人の考え方によって善にも悪にもなりうるということである。」(中島前掲書 p14-p15)

 まさしく、「いかなる状況もそれ自体として善でも悪でもないということ。いかなる状況も、当人の考え方によって善にも悪にもなりうる」のだと受け取ることが重要なのだ。

 中島は孤独になることを例にとって言う。孤独になったのは自分の意志であり願いでもある。私は孤独になることを選んだのだと考えよ、と。

 これは孤独に限ったことではなく、一つの起こった状況、事態として一般化したほうがわかりやすい。すなわち、起きてしまったことを「百パーセント肯定しなさい」、それは「あなた自身が選び取ったものだということを認めなさい」(中島同書p15)と無理矢理にでも思いなさいとニーチェ=中島は言う。起きてしまったことが「他人に押しつけられたもの」と考えると、それが苦痛になった場合、人は「脆く崩れてしまう。だが、自分が選び取ったもの(ならば、それ)がたとえ自分に苦痛を与えるとしても、耐えられる」(中島同書p15)と中島は言う。人から押しつけられたものは、人のせいにして恨んだりするが、自分で選んだものは人のせいにできないし、無理矢理にでも肯定するしかないではないか。

 また、物事の性質上、どのように考えても「私の意志がもたらしたもの」ではない状況もある。その場合はどう受け入れたらよいのだろうか。加藤諦三がニッポン放送の「テレフォン人生相談」でよく繰り返す言葉がある。

「変えられるものは変える努力をしましょう。変えられないものはそのまま受け入れましょう」

 変えられるものと変えられないものの線引きが難しいことをさておいても、これが一番優れた答えかもしれない。また、これも運命愛のひとつであるように思われる。

 そうは言っても、静まらない感情もある。中島は高ぶる感情を鎮める言葉を書いている。

「笑っている人も泣いている人も、驕り高ぶっている人も、恥辱にまみれている人も、みんなあっという間に死んでしまう。人生とは不幸の連続であり、自分がたとえ今たまたま不幸でなくとも、周囲には膨大な不幸な人がひしめいている。いかに渾身の努力を傾けてもいかに誠実のかぎりを尽くしても、明日ポックリしんでしまうかもしれない。何を試みても、努力とは別の運不運がつきまとう。われわれは他人を軽蔑し、嫉妬し、差別し、嘘をつき、他人から軽蔑され、嫉妬され、差別され、嘘をつかれ……くたびれはてて最後は死ぬ。しかもこうしたことを繰り返しながら、たぶん百万年もしないうちに(いや数千年かもしれない)、人類は滅びてしまうであろう。宇宙にはその後人類の記憶をもつものはひと雫も残らないであろう……。」(中島同書p16) 

『孤独について』の序章で上記のように書いた中島は自分の「ぶざまな人生をいくぶん詳細に」書いていった。どんな家で育ったのかという家庭環境によってその人の基本となる価値観が決まってくると中島は言う。その家において中島自身がどのように育てられ、育ったのか、どういう人間に育ったのか。

 ただし、中島は別の本(『愛という試練 マイナスのナルシスの告白』)の短いあとがきにわざと小さな活字で「(中島自身が書いた事柄の)この全てが『真実』であるとは限らない」と書いている。つまり、事実関係において実際に起きたことが忠実に事実に即して書かれているわけではなく、脚色されている可能性が述べられている。すなわち、あくまでも中島の主観的な視点から書いているということだ。そうすると、都合の悪いところは改変されているかもしれない。

 中島は小説を一つだけ書いている。『ウィーン家族』(2009年)というものだが、彼の妻がこの作品を読んで、事実とはかなり違うと言ったらしい。

 中島は自分は「虚栄の家」で育ったと次のように書いている。

「中島家と吉武家(中島の母親の実家)の虚栄をたっぷり吸いながら私は育ったのだ。虚栄心は私の身体の隅々にまで沈殿し、それは私の『からだ』を支配し、人間の基本的価値観をたたきこんだ。私はつねに他人を家柄・学歴・職業・社会的地位あるいは容貌によって細々と採点し、自分と比較し『上か下か』判定することをやめることができない。これら外形的なものを無闇に重視してしまうことをやめることができない。こうした態度はいかにも下品で卑劣で寂しいことであると頭では判っているが、もはやそう計算しつつ生きている自分の『からだ』を変えることはできない。私はそう育ったからだ。それが『私』だからだ。」(中島同書p59)

 上記にあるような、人を外形的なもので採点・格付けすること、人を序列化することで自分の位置を定めるようなことはほぼすべての人がやっていることだ。一方で、そうした格付けと対立するもう一つの評価基準もある。

 それは、つまり「家柄・学歴・職業・社会的地位あるいは美しい容貌があっても性格が悪い、人格が最悪」というような人柄、気遣いの能力からする評価基準である。こうした規準も厳然として存在する。いかに能力があり、いかに物事を俯瞰することができ、いかにその言動が優れていても、性格や人格、人柄に欠陥のある人は駄目なのである。

 中島はそれでも、子どもの頃から植えつけられたものの見方が身体に染み込んでいるという。頭ではわかっていても、身体が言うことをきかないのだ。まさしく「虚栄の家」の住人なのだ。「いかにも下品で卑劣で寂しいことであると頭では判って」いながらも、人一倍そうした採点とか格付けで人を値踏みし、内心では侮蔑し、蔑むということをやめることができないのだ。

 また、中島のもう一つverrückt(ズレた、狂った)な点を自ら書いている。

「……私は、自分が『ナルシス』であると思う。だが、ナルシスにはプラスのナルシスとマイナスのナルシスがいる。自分のことだけしか基本的に興味がない。関心が他人や世界に向かってゆかない。それは、水に映るわが身にうっとりしているからではなく、水に映る自分の姿を見て猛烈な嫌悪を感じているからだ。自分がなぜこれほどまでに『問題児』なのか、なぜこれほどまでに『生きるのが下手』なのか、それにこだわり続けるからだ。そして、それを後悔してもしかたないと悟るとき、こうした自分を受け入れるほかないと悟るとき、ある人はマイナスのナルシスになる。

 『自虐』とか『マゾヒズム』という空疎な言葉は慎もう。マイナスのナルシスとは自分が嫌いであるがゆえに好きであるという構造がくっきり浮びあがった人のことである。彼(女)は、自分の『生きにくさ』の原因を探ろうと渾身の力をふり絞る。幸福になるためではない。不幸から抜け出すためでもない。そんなことは、自分が自分であるかぎりありえないことなのだから。そうではないのだ。不幸を確認するためなのだ。自分の『醜さ』を水面に映して隅々まで点検し認識するためなのだ。なぜか?それが『私』だからである。」(中島同書p155-p156)

 中島は「自虐」とか「マゾヒズム」という言葉は「空疎」であると書いた。中島はそうした言葉は自分の心理状況を正しく説明していないと言いたいのかもしれない。中島は自らの心理的状況は「自分が嫌いであるがゆえに好きであるという構造」を持つ愛憎の絡まった心理構造なのだというのだ。

 では、そもそも自虐=マゾヒズムというものはいかなる心理的構造を持つのだろうか。

 サルトルの主著『存在と無』には他者との具体的関係の一つとしてマゾヒズムの心理分析が展開されている。

「マゾヒズムは、サディズムと同様、有罪性の引き受けである。事実、私は、私が対象であるというただそれだけの事実からして、有罪者である。私は私自身に対して有罪である。というのも、私は私の絶対的な他有化に同意するからである。私は他者に対して有罪である。なぜなら、私は、自分が有罪であることの機会を、すなわち自由としての私の自由をあたら取り逃がす機会を、他者に提供するからである。マゾヒズムは、私の対象性によって他人を魅惑するための試みではなくして、むしろ、私の『対他-対象性』によって自分で自分を魅惑させるための一つの試み、すなわち他者によって私を対象として構成してもらうための一つの試みである。しかもその際に、私は、私が他者の眼に提示しているこの即自の現前において、私の主観性を、一つの『無いもの』として、非措定的にとらえるわけである。マゾヒズムは、一種の『めまい』として特徴づけられる。すなわち断崖絶壁を前にしてのめまいではなく、他者の主観性の深淵を前にしてのめまいである。」(サルトル『存在と無』第二分冊 人文書院 昭和46年8月31日 p348-p349) 

 マゾヒストは自分が自分の自由を放棄し他者への「絶対的な他有化に同意する」ことで、自分の有罪性を認め、自らの罪の責任を認めている。その贖罪意識が自らの身体に対する責め苦を承諾する理由でもあるようだ。自分の肉体がただの物(即自)として扱われ、荒々しく取り扱われることを「自分で自分を魅惑させるための一つの試み」として喜ぶ傾向もあるという。

 しかし、サルトルは「マゾヒズムはそれ自身一つの挫折であり、また、挫折であるのでなければならない」(サルトル『存在と無』p349)として次のように結論づけている。

「マゾヒズムは、他人に自己の主観性をふたたび同化してもらうことによって、自己の主観性を絶滅させるための、一つのたえざる努力である。この努力は、やるせなくも心地よい挫折の意識によってつきまとわれており、結局、最後に、自己がその主要な目標として求めるものは、挫折そのものである。」(サルトル『存在と無』p350)

 サルトルの上記のマゾヒズムに関する記述を見る限り、中島がマゾヒストであるという兆候は顕著には認められない。ただし、皆無とは言えない。

 また、ナルシシズム - Wikipedia   にはナルシシズムの諸類型が記述されているが、マイナスの自己愛性人格なる記述は見当たらない。  

 そうすると、やはり、中島は自己陶酔的自画自賛的自己愛性格を有するナルシシストもどきであるとしか思われない。中島は「私はつねに他人を家柄・学歴・職業・社会的地位あるいは容貌によって細々と採点し、自分と比較し『上か下か』判定することをやめることができない」と告白しているように、自分が優位性を持つ分野においては傲慢尊大なナルシシストであり続け、後でこっそりと、自分の「態度はいかにも下品で卑劣で寂しい」と激しく自分を責め後悔する。このあたりは、彼が「挫折と贖罪のマゾヒスト」である可能性の片鱗を示すものかもしれない。

 また、「不幸を確認」し、「自分の『醜さ』を水面に映して隅々まで点検し認識する」ことで、今度はこれほどのマイナスの要素を膨大に持つ自分はすごいと自画自賛できる。「マイナスの天才」、「不幸と苦難の巨人」として自画自賛できる人間なのかもしれない。マイナスの要素までも自己愛的に自己陶酔できるというのはすごいように思う。

 ところで、魯迅の 阿Q正伝 - Wikipedia には「閑人たちに罵られたり、日雇い仲間との喧嘩に負けても、結果を心の中で都合よく取り替えて自分の勝利と思い込むことで、人一倍高いプライドを守る」阿Qという愚民が登場する。中島は阿Qのような手荒い扱いを常時受けているわけではないし、いじめにあったその都度、阿Qのように自己欺瞞によって自分を慰めていたわけでもない。しかし、中島は、自分の過去の惨めな出来事を何回も何回も反芻していたという。そうするうちに、阿Q的自己欺瞞で過去を取り繕わなかった保証はない。過酷な苦難の人生を正気を保って生きていくには、マイナスをプラスに強引に思い込むことも必要だったのかもしれない。

だから、中島が阿Qに似ているところも少しはあると思う。

 中島は「マイナスのナルシス」について5年後に書いた『愛という試練 マイナスのナルシスの告白』で次のように書いている。 

「病的な自己愛に身体のすみずみまで手のほどこしようのないほど侵され、そのあげく他人を自然に愛することができない男あるいは女を『マイナスのナルシス』と呼ぼう。

 彼(女)は水に映る自分の姿に見とれているのではない。自分の姿はむしろ振り払いたいほど厭である。あるいは、恐ろしいから顔を背け、努めて見ないようにしている。だが、自分の視線は他人に向かっていかない。視線は折れ曲がって、常にこの自分を見つめているのだ。とすると、生きていくためには、この惨めな自分を愛するほかない。そこに楔を打ち込んで、生き抜くほかない。

 マイナスのナルシスの一つの典型は、プラスのナルシスと180度異なって、(私の父のように)自然にしていると、誰をも愛さないで人生が過ぎてゆく人である。しかも、それが当人にはまったく苦痛ではなく、むしろ自然であるような人である。」(中島義道『愛という試練 マイナスのナルシスの告白』紀伊國屋書店 2003年7月23日 p12)

 この本は愛について考察した本である。だから、『孤独について』のテーマとは少し異なっている。そして、人間の愛について考察するにあたって、一つの例証として中島を育てた実父と実母との夫婦関係を描いたものである。中島の家族のプライバシーの暴露が甚だしい。

 

 中島の実父もマイナスのナルシスだったらしい。しかし、中島の描写した彼の父のあり様を読んでいると、単に淡白な人に過ぎなかったのではないかと思われる。明治生まれの人間には割合にこういう人はいたような気もする。

 中島は『愛という試練』において、愛の諸類型について次のように書いている。

「愛にもさまざまな種類があることは先刻承知である。ギリシャ語に沿うと、次の三つに区分される。

(1)自然(に見える)親子や夫婦や兄弟姉妹の愛であるフィリア

(2)異性(あるいは同性)の性愛であるエロス

(3)イエスが『自分自身を愛するようにあなたの隣人を愛せよ』と言うときの無償の愛である   アガペー」(中島『愛という試練』p10)

 類型学 - Wikipedia という方法論がある。「人間行動を類型を用いて、その個人を全体的に把握しようとする方法論」である。そしてドイツの社会学者マックス・ウェーバーが駆使した方法概念に 理念型 - Wikipedia という概念がある。

 上記ウィキペディアに次のように書かれている。

《一般的に理念型は帰納法演繹により得られず、一種の発想概念であると考えられている。自然科学定理が実験で確認される経験事象からの飛躍を含んでいるように、理念型も社会現象の目的と動機から飛躍を伴って導き出されている。これをウェーバー自身は、「意味適合的」方法と呼んでいる。この理念型を定規のように社会現象の断面に添えて眺めることによって、側面的に社会現象を性格づけることができる。これにより具体的事象の発展過程や将来的な見通しをある程度までこの理念型に沿って性格づけ、予測することができる。方法的には分析的に社会現象の要素を一定程度まで分解し、その主要な部分を使って性格が明確に観察できる段階まで構築した概念が理念型であり、理念型はそれ自体で理論的に完結した原子的存在で時系列も含んでいると考えられる。

一般的な社会現象は単一の理念型に基づくのではなく、もろもろの理念型の影響が考えられ、理念型からの逸脱度合いによってその性格把握ができる。一度理念型を設定すると、それを使って作業仮説や理論構築に必要な要素を抽出することが可能である。しかしながら理念型は方法概念であり、本質概念の把握のために仮設された仮象的な概念であるため、理念型そのものが社会現象の本質を捉えているということは保証されていない。》

 最後の文章にあるように、理念型という類型概念は「仮設された仮象的な概念」であるから、「理念型そのものが社会現象の本質を捉えているということは保証されていない」のだ。

 同様に、複雑で多様な人間行動の中から愛の行動を強引に三つの類型に押し込めるのは極めて慎重に行わなければならないだろう。中島は哲学者で、かつ、欧米の哲学的思潮の影響を受けているので、ギリシャ的な愛の諸類型を書いてみただけに過ぎないと思う。そして、この類型論は成功していないように思う。 

 普通の自然な感情の成長経路を歩んだ人間にとって、(1)と(2)は自然に、何の作為もなく自然に獲得できるものかもしれない。問題は(3)である。中島は(3)も自然に備わる感情だと言いたいようであるが、「無償の愛」という概念は愛の類型としては抽象的に過ぎるように思う。「無償の愛」といえば、親の子への愛こそが典型であるように思う。日本人の世間的気遣いを言い表した「情は人の為ならず」(他人にかける情けは、その人のためになるだけではなく、めぐりめぐって、やがて自分のためにもなる)とか「相身互い」(同じ立場のものは、互いに思いやりをもって助け合うべきである)という格言は「無償」であるかどうかは微妙である。つまり、無担保手形のようなもので、情も思いやりも相互性が保証されたものではなく、無償となるかもしれない行為である。しかしながら、このような日本社会において顕著に見られる美質は、子どもたちが小さな頃から、親や親族、学校や地域などの「世間(環境世界)」の中で培われてきたもの(学習)ではないだろうか。

 中島が言うには、中島の父も中島自身も、上記の愛に基づく行為は、理性による吟味を経た「義務としての行為」になっているという。外形的に同じ2つの行為、つまり、自然の感情の表出による行為と理性による義務的行為の動機を明確に区分して見分けることは難しい。行為者当人の心理面においても、いろいろな場面での自分の諸行為の一つ一つについて心理的機動力の要素に遡ってまで検討し、どういう心理的な動機によって行われたのかを詮索していく者がいるだろうか。「あたかも愛から出たかのような行為」(中島『愛という試練』p38)と自然な感情からの無我夢中の愛の行為」とを直ちに見分けることができる人間はいないのではないか。真の愛情からの行為と「ひとを愛する技術」に長けた人間の行為とを正確に弁別できる人間はいるだろうか。

 すべては、中島の偽悪的な暴露、中島の「おまえのことを愛しているのかなあ」(中島『愛という試練』p43)という暴露が彼の妻を絶望のどん底に追い込んだ原因なのではないか。偽善を潔しよしとしない、自己欺瞞と全く見分けのつかない、自分にとってだけ誠実であるような行為、どれが嘘でどれが偽りなのかの弁別ができない中での形式的な嘘偽りを拒否する行為が元凶ではないのか。中島はそれを自己愛のなせる業だと言うのだ。 

 中島は彼の人生において、数多くの人からひどい目に合わされてきたらしい。つまり、いじめられてきたようだ。いじめられっ子体質なのだ。なにしろ普通の人間ができることが全くできないのだから。例えば、球技においてボールをまともに投げることができなかったという。まさかと誰しも思う。普通両手足があれば誰でもボールを投げることはできる。

 どういうことなのか。中島は書いている。

「私はスポーツがまるで駄目なのだ。というより、恐ろしいのだ。運動能力が特別劣っているというわけではない。小学三年生のある日、コロコロ転がってきたボールを投げ返すと上級生から『それ、女の投げ方だ』と笑われた。私はそれから、まったくボールが投げられなくなってしまった。」(中島『孤独について』p76)

 これはつまり、人から笑われたり、嘲笑されるのが嫌で、中島の身体が硬直してしまったということらしい。それ以来、チームスポーツのときにはそれこそ「除け者」扱いされてしまっていたという。つらかっただろう。

 また、中島は、男子便所においてみんなで一斉に陰茎を出して小便をするのが「グロテスクでとても嫌」(中島同書p74)だったという。そのために、陰茎を押さえて見えないようにして小便」をしていたら、「隣の少年がそうした私の恰好をまねしてはやし立てた」。(中島同書p74)そのことが原因でトイレに行けなくなったという。かといって大便用の個室に入ることも大便をするようで恥ずかしくてできず、小便を我慢するようになった。とてつもなく不可能なことである。そのために時折小便を漏らす少年になってしまったらしい。おそらくクラスのみんなは中島がスポーツが駄目で小便を我慢してときどき漏らすことを知っていただろう。それが残酷ないじめに発展しなかったことは奇蹟のような気がする。ただ、中島は成績がいつもトップであり、学級委員であり、全校生徒の前で話したり、お芝居の舞台でセリフを言うことが上手な生徒だったから、それで中島の運動音痴と奇行については周りのみんなは許容してくれていたように思う。クラスの子どもたちは概ね優しい子どもたちだったのだろう。そして、クラスメイトたちは勉強のできる中島を勉強面でのリーダーとして認めていたようだ。中島は小学生のときのエピソードを次のように書いている。

「私が手を挙げると、クラスのみんなが一斉に手を挙げる『決まり』になっていた」。(中島義道『孤独な少年の部屋』角川書店 2008年3月31日 p98)そして、中学生になると、「テストが終わるたびにクラスのみなが私の机を取り囲んで『正解』を知りたがった。」(中島義道『孤独な少年の部屋』p133)中島はテストの模範解答を体現していたのである。

 中島がときどき漏らす小便のついた椅子や床を掃除したのはクラスメイトの子たちではなかったのか。小便を漏らしたときのクラスメイトたちの反応が書かれていないが、中島はクラスの子どもたちの優しさを感じる余裕はなかったかもしれない。

 それにしても、中島をつけ狙ういじめっ子は少数はいただろう。つらい少年期・青年期について次のように書いている。

「自分の過去を思い起こし、しばしば気がおかしくなりそうになる。だが、フッと正気に戻る。誰も悪くはない。これが自分に与えられた人生なのだ。これが『私』なのであり、これが私なのだから大切にしなければならないと思った。あのとき私をだましたあの人も、あのとき私を嘲弄したあの人も、あのとき私を軽蔑したあの人も、あのとき私を罵倒したあの人も、あのとき私を苦しめたあの人も、あのとき私を無視したあの人も、あのとき私を滅ぼそうとしたあの人も……私の人生をさまざまに彩る宝石の輝きである。

 以前は復讐しようとの気持ちに燃えたこともあった。だが、今は彼らを私の人生のために活用しようと思い立った。私の豊かな人生を彩る『素材』として再利用しようと思い立ったのである。私は彼らが私になしたことを細部に至るまで憶えている。そして、それを何度でも反芻する。そして、それをいかに利用しようかと思いめぐらす。そうしているうちに、私のうちで彼らを『憎む』気持ちが――消えてしまうことはないが――限りなく薄くなってしまうのだ。」(中島同書p156-p157)

「彼ら(敵?)がいなかったら、私の人生はなんと単調なものだったことだろうか。彼らは私に人生の豊かさを教えてくれた。病的な虚栄心に満たされた親戚の人々、小学校時代から助手時代まで、私のすぐ側にいて『自分たちのようになれ!』と私を引きずり回し、けっして孤独を許してくれなかった膨大な人々、こうした他人たちのただ中にいて、私は死を恐れ、離人症に似た体験を繰り返し、そして大学に入学してからは教授に罵詈雑言を浴びせらる……というように、授業料は相当高かったけれど。」(中島同書p158)

 人生の豊かさ、と中島は言うけれど、その現実においては、ある人は中島をだまし、ある人は公然と嘲弄し、ある人はあけすけに軽蔑し、ある人は皆がいる面前で罵倒し、ある人は公然と無視したのだろう。ということは、中島の人生の豊かさとは、人生において、さまざまな人々の悪意と攻撃を受けたということだ。普段は、人は彼の悪意と攻撃性を慎重に隠蔽しているものだ。世間的には悪意や攻撃性は恥ずべきものとして隠蔽しなければならないにもかかわらず、中島にはむき出しにしたのだ。ここで使われた豊かさという語の意味とは、本当は人間の持つ多様性、とりわけ、暗黒面の多様性のことなのだろう。人間は誰にでも暗黒、暗闇があるからだ。

 中島はあとがきに次のように書いている。

「いつか、自分のぶざまな人生について書いてみたいと思っていた。なぜ、周りの者たちがスイスイと進んでゆくところを、自分ひとりだけ転倒するのか?なぜ、こんなにも他人とうまくいかず、なぜこんなにも生き方が下手なのか?要領が悪く、不器用なのか?なぜ、こんなにも自分が嫌いなのか?そして他人はもっと嫌いなのか?なぜ(自分を含めた)人間の嫌なところばかりが見えてしまうのか?……つまり、なぜこんなにも『生きるのが困難なのか』書いてみたいと願っていた。」(中島同書p197)

「自分だけなぜこんなに苦労するのだろう?自分だけなぜこんなに失敗ばかりするのだろう?自分だけなぜこんなに人から嫌がられるのだろう?これらは至極真っ当な問いである。人間が発する問いのうちで、最も真剣な問いだとさえ私は思う。こうした問いを大切に抱えて、ごまかすことなく考え続けてもらいたいのだ。そうすることによって、あなたはきっと自分固有の人生の『かたち』を探りあてることができるだろう。ぶざまな生き方そのことが、あなたにとってかけがえのない『宝』であることがわかるだろう。」(中島同書p198)