死生観に関する随想その93 (マーク・ローランズ『哲学者とオオカミ』から) | 飢餓祭のブログ

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 マーク・ローランズは1962年生まれのイギリス人で、ウェールズ出身の哲学者である。「本書は、(米国マイアミ)大学で哲学を教える気鋭の学者が一匹の仔オオカミと出会い、共に暮らし、その死を看取るまでをつづったユニークな読物である。」(マーク・ローランズ『哲学者とオオカミ』白水社 2010年4月20日 p272、訳者あとがき)

 一見すると人間に飼われているオオカミの動物生態学的観察記録のように思われるが、ローランズとしては、オオカミを通して見た人類の生態学的な考察として読んでほしいと思っているようだ。

 ローランズは哲学者らしくサルトルの哲学に言及して書いている。

「かつてジャン・ポール・サルトルは人間を定義しようとして、人間にとってのみ、実存が本質に先立つと書いた。これが実存主義として知られた哲学運動の基本原理である。サルトルは、人間の本質は『自分自身のために存在する』ことである一方、人間以外のものは単に『それ自身のままで存在する』にすぎない、と主張した。サルトルのややこしい表現によると、『人間は自らのあり方を選べる』。つまり、人間は自分の人生をどう生きるかを、自分で選ばなければならないのであって、前もってあたえられた規則や原則(宗教的、倫理的、科学的な法則その他の規則や原則)に、どうすべきか教えてもらおうと頼ることはできないという。特定の原則、たとえば倫理、宗教の基準を採用するのは、こうした自らからの選択の表れである。したがって、あなたが何をしようと、どのように生きようと、これは常に、究極的にはあなたの自由意志の表れなのである。サルトルは、人間は自由の刑を宣告されていると言った。

 これとは反対に、人間以外のすべての事物は自由ではないとサルトルは述べる。他のすべてのもの、生き物すらも、あらかじめ定められていることしかできないというのだ。何千年にわたる進化がオオカミをして、群生活を営んで狩りをする動物にしたのなら、これだけがオオカミにとって現実的な生き方の形だというわけだ。オオカミは自らのあり方を選ぶことはできない。そのままのあり方でしか存在し得ないのだと。こうしてみると、先述の『あなたは、どうしてブレニン(ローランズが飼っているオオカミの名前)にそんなことができたのですか』という問いは、オオカミの本質はオオカミの実存に先立つ、という前提にもとづいていることになる。」(ローランズ同書p48)

 「先述の『あなたは、どうしてブレニンにそんなことができたのですか』という問い」とは「何千年にわたる進化がオオカミをして、群生活を営んで狩りをする動物にした」のであるが、その当のオオカミという種であるブレニンはローランズに飼われ、彼の訓練を受けることで、人間と共生しているイヌと同じくらいによく訓練されたことを指す。ローランズは四つの命令(go on、stay、here、out)をブレニンに覚えさせたという。ローランズはサルトルの自由論を批判しているが、もともとサルトルの自由論は『存在と無』で明らかになっているように、単独の人間存在である「対自存在」の自由は他者と出会うことによって「対他存在」としての人間存在となるのだ。人間の対自存在としての自由はサルトルの言葉で言えば「齧られ」るのだ。人間集団(共同体)における「状況」の中で変容してしまう。そしてサルトルが述べた「人間の自由」というものについて歴史的に考えた場合、人間諸個人が自由に処刑されるという自由の概念はそもそも実在したことはなく、人間の社会的なあり方が自由を「状況の中の自由」へと制約してきたのである。

 ローランズは『存在と無』ではなく、サルトルがパリのカフェで行った講演を本にした『実存主義はヒューマニズムである』(邦訳は『実存主義とは何か』)を翻訳で読んだのかもしれない。

 オオカミのブレニンも、彼の特異な状況に適応することによって「群生活を営んで狩りをする動物」であることから脱してしまっている。つまり、「ブレニンはとどのつまり、一万五千年前の祖先の足跡をたどっただけである。この祖先たちもまた、文明の呼びかけに答えて、大型サル類の中でももっとも力強くて残忍なサルとの、共生的かつ、おそらくは決して壊れることのない関係へと引きずりこまれた」(ローランズ同書p50-p51)のである。

 ローランズは「人間であるということは何なのか」(ローランズ同書p53)をオオカミのブレニンから学び、オオカミとサル(パンツをはいたサル)の比較動物学的な考察をしたのである。

 哲学者ローランズはカントについて次のように書いている。

「十八世紀のプロイセンの哲学者、イマヌエル・カントはかつてこう書いた。『それについてはしばしば思いを馳せ、かつ、その状態が続けば続くほど、常に新たに、そして、一層の感嘆と畏敬の念を持って、心を満たすものが二つある。すなわち、我が頭上なる星繁き天空と我がうちなる道徳法則がそれである』。カントは当時としては、決して変わり者ではなかった。人間の思考の歴史を調べると、わたしたちが二つのことを他の何よりも評価していることがわかる。まず、自分たちの知能を高く評価している。たとえば、頭上の星空で起こっていることを理解させてくれる知能である。第二に自分の道徳心を高く評価している。正しいことと不正に対する感性、善と悪に対する感性、道徳法則の内容を明らかにしてくれる感性である。この知能と道徳心こそが他のすべての動物とわたしたちを区別している、とわたしたちは信じている。これは正しい。

 それでも、合理性と道徳心はアフロディーテーのように、完全に発達した形で(海の)波からやって来るわけではない。わたしたちの論理的な能力は驚くべきもので、他に類を見ないが、これもまた、暴力と快楽を得ようとする衝動の基礎の上に築かれた建物である。」(ローランズ同書p91)ローランズは、人間の道徳心は人間の祖先であろうサルの中の暴力と邪悪さ(謀略や騙し)という「最悪のものから生じた」とチンパンジーの生態観察から推測している。人類の祖先であるサルは、言葉を使うことで生存のためにあらゆる謀略や騙し、残忍な殺害などを通して知能を進化させたとローランズは推察している。悪に染まったサルの中から人間の道徳心は芽生えていったと考えている。サルの知能はヒトに至って、知能から理性へと進化した。ローランズの推察は間違ってはいないと思う。

 ヒトの邪悪さについてローランズは次のように書いている。 

「人間の善が、力をもたない者との関係でのみ表現されるのとまったく同じように、弱さ、あるいは、少なくとも相対的な弱さは、人間の邪悪にとっての必要条件である。そして、ここにこそ人類の根本的な誤りが見られると思う。人間は弱さをつくりだす動物だ。人間はオオカミを捕らえて、イヌに変える。バッファローを捕らえて、ウシに変える。種ウマを去勢ウマに変える。わたしたちは物を弱くして、使えるようにするのだ。この点では、わたしたちは動物界の中でとてもユニークである。性的虐待を受けた子どもはもともと無力だった。それに対し、ソロモン、カミン、ワインのイヌは、一万五千年に及ぶ社会的かつ遺伝的な操作の産物であり、この操作が最終的には冷酷にも、イヌたちを電流が通るシャトルボックスへと導いたのである。」(ローランズ同書p117-p118)

 ローランズの「性的虐待を受けた子どもはもともと無力だった」というのは、実の父親による実の娘に対するおぞましい事件のことを言っている。

「ある若い娘が小さな頃から性的児童虐待の犠牲となった。何年もの長い間、父親によってくり返しレイプされたのだ。読者はこれを読むと、当時のわたしと同じように愕然として、母親はそんな事態の中でいったい何をしていたのだ、と問うだろう。何が起こっているのか、気がつかなかったのだろうか、と。これに対する少女の答えは、骨の髄まで凍るようなもので、今でもこのことを考えると、心が凍る。父親が酔って帰宅し、悪態をつき、喧嘩ごしになると(彼女の家では頻繁に起こる出来事だった)、母親が少女に『お父さんのところに行って、なだめてきておくれ』と命令したというのだ。わたしは、人間の邪悪のイメージを心にしっかり留めておかなければならないときには、この女性、娘に父親の部屋に行って父親をなだめろと命令したこの女性のことを思い浮かべることにしている。」(ローランズ同書p108)

 そして「ソロモン、カミン、ワインのイヌは、一万五千年に及ぶ社会的かつ遺伝的な操作の産物であり、この操作が最終的には冷酷にも、イヌたちを電流が通るシャトルボックスへと導いたのである」というのは次のようなことである。

 ソロモン、カミン、ワインはいずれもイヌを使って電撃実験をする研究者だった。彼らはイヌをシャトルボックスという拷問装置の中に入れて拷問を繰り返した。シャトルボックスとは電気による電撃回避のために、一方の部屋から他方の部屋に移動することを要求する二つの仕切りのあるボックスのことである。

「ソロモンたちはイヌを片方の区画に入れて、足に強い電流ショックをあたえた。本能的にイヌは仕切りを飛びこえて、隣の区画に入った。通常の実験では、この過程が数百回もくり返された。けれども、仕切りがだんだん高くされたので、イヌは回を追うごとに、高くジャンプしなければならなかった。最終的にイヌは跳びこえることができなくなり、電流の流れている床に落下した。息を切らし、体を痙攣させ、泣き叫ぶボロボロのイヌとなって。別のタイプの実験では、両方の床に電流が流された。イヌはどちらの区画にジャンプしようと、電気ショックを受けた。それでも、痛みがあまりに激しいので、無駄な試みではあっても、イヌはショックを逃れようとする。つまり電流が流された両方の区画の一方から他方へとジャンプしつづけたのだ。

 研究者たちはこの実験について書き、イヌが『先を見越したかのように鋭いキャンキャン声』を出し、『電流の流れる格子に着地したときには、その声は金切り声の悲鳴になった』と描写している。最終結果はいつも同じだ。イヌは、尿と糞をたれ流し、悲鳴をあげ、ふるえ、消耗しきって床に横たわるのだ。このような実験がさらに十日から十二日も続けられると、イヌはショックにもはや抵抗しなくなる。」(ローランズ同書p104)

 ハーバード大学においてこのような残酷な実験が30年以上も続けられたという。そして、研究者たちは「学者としての成功」を勝ち取り、「快適な生活、気前のよい給料、学生たちからの尊敬、大学の同僚たちからの嫉妬など、イヌの拷問によってキャリアを積み、これをまねる者たちの大きな一派をつくりだした」という。(ローランズ同書p104-p105)

 この実験はWikipediaに学習性無力感 - Wikipediaの研究として掲載されている。そこにはその歴史が次のように書かれている。

《心理学者のマーティン・セリグマンが、1960年代にリチャード・ソロモンの元で学生生活をしていた時期に思いつき、それ以来10年間近くの研究をもとに発表した。抵抗や回避の困難なストレスと抑圧の下に置かれた犬は、その状況から「何をしても意味がない」ということを学習し、逃れようとする努力すら行わなくなるというものである。》

 ローランズはこの「学習性無力感」の研究に関して次のように書いている。

「なぜ、このような拷問が許されたのだろう。なぜ、これが貴重な研究とされたのだろう。この実験は、いわゆる『学習性無力感』という鬱病モデルを構築するために考えられた。これは、鬱病が学習で習得されることがある、という仮定にもとづいている。しばらくの間、心理学者たちはこの実験結果が大きな意味をもつと考えていた。ただし、これらの実験は人間にはまったく役に立たなかった。三十年にわたって、イヌその他さまざま動物が電気ショックの死刑を受けた後、この鬱病モデルは慎重な吟味に耐え得ない、という結論が下された。

 だが、このような実験からは、人間の邪悪を理解するのに役立つ認識が得られるように思われる。」(ローランズ同書p105)

  

 「人間の邪悪」に関して、性的虐待を受けた子どもに対する父親と母親の邪悪さと「一万五千年に及ぶ社会的かつ遺伝的な操作の産物であり、この操作が最終的には冷酷にも、イヌたちを電流が通るシャトルボックスへと導いた」人類の邪悪さとを二つ並べたことについて、ローランズは次のように弁明している。

「もしわたしが、先のソロモン、カミン、ワインの実験を性的虐待を受けた少女のケースといっしょに述べたら、多くの人はショックを受けるかもしれない。まるで少女の苦しみが、なんらかの形で縮小されるみたいに思うかもしれない。けれども、こういう反応は論理的に何の根拠もない。これら二つのケースはお互いに並行している。両方とも、非常に悪いこと、わたしたちのほとんどが想像もできないような規模の痛みと苦しみの存在を特徴としている。そして、このような非常に悪いことは、実行者の側による、ある種の不履行の結果として起こったのである。その不履行は、究極的には義務の不履行である。ただし、ここには二つの異なった不履行が関わっている。」(ローランズ同書p111)

 一つ目は、「(自分で自分の)身を守ることができない者を守る」という道徳的義務の不履行である。そして二つ目は、「哲学者が認識的義務と呼んでいるもの」だという。それは「入手できる証拠をもとに、自分の信念が正しいかどうかを検討し、その正当性を無効にするような証拠がないかどうかを、少なくとも確かめようとする義務」だという。(ローランズ同書p112)

 道徳的義務と認識的義務の不履行について考えると、先の二つの「並行した」別々の事件、すなわち、性的虐待を実行した父親とその虐待から少女を守らなかった母親、「ソロモン、カミン、ワイン、そしてその模倣者たち」には、これらの義務の不履行が認められるという。

「ここから重要な結論が出てくる。すなわち、わたしたちが想像したり認めたりする以上に多くの邪悪な行為があり、邪悪な人間がいる、ということだ。」(ローランズ同書 p112-p113)ローランズはこれに付け加えて、犠牲者が無力でなかったら、これらの不履行は起こらなかっただろうという。

 

 ローランズはブレニンの死をきっかけにして死とは何かという問題を考え始めた。そして人間が持つ未来とは何か。

「死が生命の限界であって、生きている間に起こることではないのなら、それが起こるまではわたしたちはまだ(死から)何も剥奪されてはいない。欲望も目標も計画も剥奪されていない。それでも、欲望、目標、計画は、エピクロスの問題提起にとって決定的な何かを共通してもっている。これらはみな未来に方向づけられている、と呼べそうなものなのだ。これらは本来の性格からして、わたしたちを現在を越えた未来に向けている。わたしたちが欲望、目標、計画をもっているからこそ、わたしたちには未来がある。未来は、わたしたちの誰もが現在の時点でもっているものだ。死は、未来をわたしたちから剥奪することで、わたしたちに害を及ぼすのである。」(ローランズ同書p220)

 私たちはよくよく内省してみると、常に今現在よりも前後のこと、未来のことを考え、また過去のことを想起している。過去を記憶していないと、未来を考えることはできない。私たちの未来とは、ローランズがいうように、「欲望、目標、計画」なのであろう。明日の予定を考えない人はいない。予定とは行事や行動を前もって定めることだ。死はその「欲望、目標、計画」の予定を剥奪してしまうから、悪いものなのだ。

 ところが、ローランズは未来について次のように書いている。

「未来を失うというのは、考えてみればとても奇妙な考え方だ。この奇妙さは、未来という概念の奇妙さからくる。未来はまだ存在していない。それをどう失うというのだろう。そもそも、何らかの意味で未来をもっていてこそ、未来を失うことができる。けれども、まだ存在していないものを、どのように失うことができようか。このことは少なくとも、未来に関しては所有と損失の考え方が、もっとふつうの脈絡で起こる場合とはまったく異なった意味をもつ、ということを示している。未来をもつことは可能かもしれないが、幅広い肩とかローレックスの時計をもつ、という意味で可能なのではない。それに、殺人者が人からその未来を奪うとすれば、そこに含まれる剥奪の意味は、加齢が膂力を奪ったり、強盗に時計を奪われる場合とは、まったく異なる。

 死が未来を奪うから、死はわたしたちの誰にとっても悪いと言うなら、未来はわたしたちが現在もっているものでなければならない。わたしたちに未来があるのは、わたしたちを未来へと方向づけたり、未来へと結びつける状態に、わたしたちが(本当に今)あるからだ。このような状態が欲望、目標、計画である。わたしたちの誰もが、マルティン・ハイデガーが指摘したように、未来へ向かっている存在だ。誰もが本質的には、まだ存在していない未来に向けられている。それで、この意味では少なくとも、わたしたちは未来をもっていると言える。」(ローランズ同書p221)

 ローランズは欲望、目標、計画と未来の関係について次のように述べている。

 何かを欲するときにその欲求を満たすには時間がかかる。同じように目標と計画を立てるとしても、それを実行、実現するには準備のための時間がかかる。「欲望は満たされるかくじかれるかのどちらかで、目標と計画は達成されるか、達成されないかのどちらかだ。」(ローランズ同書p222)これらの三つに共通していることは、それらの実現・達成は未来(時間の経過を要する)であるということである。「わたしたちは二つの意味で、未来をもつことができる。一つは暗黙の意味でのそれだ。自分は欲望をもっているが、それを満たすには時間がかかるという意味で、わたしたちには未来がある。もう一つは、明示された意味でのそれだ。未来がこうあってほしいというヴィジョンに合わせて、自分の人生を方向づけたり、計画したりするのだ。」(ローランズ同書p223)「人間は未来について考え、自分が望むような未来に合わせて現在の行動を律し、計画し、方向づけ」、自分の未来のために自分の「時間、努力、エネルギー、情熱」(ローランズ同書p224)をそそぐ。この自分の人生への「投資」を死は奪うから、死は悪いと言うことができるとローランズはいう。

 しかし、ローランズは、それだからといって人間の生命はあらゆる動物よりも重要で優秀であるということが論理的に言えるわけではないと警告している。

 ローランズは時間概念の「時間の矢」(「リニア(直線)時間」的な捉え方)に対して次のように書いている。

「時間の矢」的なメタファー(隠喩)でわたしたち人間は「時間を、過去から現在を通って未来へと飛ぶ矢として考える。(中略)(これは単なる)メタファーでしかない。おまけに、どれも空間的なメタファーだ。カントや他の多くの人が注目したように、わたしたちは時間を理解しようとするといつも、空間とのアナロジーへと押し戻されてしまうようだ。それだけでなく、これらのメタファーは人生で重要なこと、すなわち生きる意味についての一定の理解をもいっしょにもたらす。

 これらのメタファーは、生きる意味を見ることがわたしたちがめざすべきもの、わたしたちが向かうべき方向だと示唆している。現在は刻々と飛び去っていく。時間の矢は絶えず、ある地点を抜けて次の地点へと飛びつづけている。だから、もし生きることの意味が瞬間、瞬間に結びつけられているのなら、生きることの意味もまた絶えず飛び去っていく。人生の意味は、わたしたちの欲望、目標、計画と結びつけられているべきだ、これらの機能であるべきだ、とわたしたちは思っている。人生の意味は、わたしたちがそこに向かって進むもの、成就されるべきものなのだ、と。そして、あらゆる重要な成就と同じく、これは今起こることができるのではなくて、はるか後になってやっと起こるものなのだ、と。

 けれども、はるか後に見られるのは意味ではなくて、意味の欠如であることも、わたしたちは知っている。時間の線を十分遠くまでたどっていくなら、そこに意味ではなくて、死や腐敗に突き当たる。すべての矢が飛んでいる途中で切断される。そうした地点にたどりつく。そこに意味の終わりを見つけるのだ。わたしたちの誰もが、未来に向かっている存在である。そしてここに、人生が意味をもつ可能性も見つけられる。けれども、わたしたちは死に向かっている存在でもある。時間の矢はわたしたちにとって救いと呪いの両方であり、わたしたちは矢の軌道に引きつけられもすれば、嫌悪もする。人間は物事に意味を与える生き物だ。わたしたちの人生は、他の動物の生命がもつことができない(とわたしたちが思っている)意味をもっている。わたしたちは死と結びついた生き物だ。他の動物ができない(とわたしたちが思っている)ような形で死をたどることができる生き物だ。しかし、わたしたちの人生の意味と終わりは、時間の線をさらに進んだどこかに見つけられる。だから、この時間の線にわたしたちは魅惑されるし、恐れもする。これは根本的には、人間の存在がもつジレンマである。」(ローランズ同書p226-228)

 ローランズが言っているように、「わたしたちは人生の時間を一本の線だと思っている」(ローランズ同書p229)。このリニア時間概念(時間の矢)に従って時間の矢を辿れば、私たちは私たちの欲望と目標と計画が実現される可能性、「人生が意味をもつ可能性」を見つけられる未来を持つことができる。これは私たちのとって救いとなりうる。

 しかし、他方で、その時間の矢の終わりには終点としての死が想定されている。その終点は、いつ到来するかわからない終点である。死は常に不意打ちであって、私たちの諸可能性の外から、私たちの欲望と目標と計画が実現される可能性を、「人生が意味をもつ可能性」を台無し(無化)にする。それゆえ、死は呪いでもありうるのだ。

 

 ローランズはここで、リニア時間概念(時間の矢)に対する強力な反論をニーチェに見出した。それはニーチェの「永劫回帰」説である。ニーチェの説それ自体についてローランズは「永劫回帰についてのこのような考え方は疑問である。これは宇宙が有限で、時間が無限だという仮定にもとづいているからだ。もしこれを否定するなら、つまり、たとえばもし時間が宇宙の創造と共に創造され、この同じ宇宙と共に死ぬと考えるのなら、この説は機能しなくなる。」(ローランズ同書p231)と書いている。

 しかし、ニーチェのこの説にも良い点があるという。

「永劫回帰の観念にはもう一つ別の効果、わたしがもっとも重要だと思う効果がある。時間を線だとする観念が暗示する、人生の意味の観念を覆してしまうのだ。わたしたちが時を線だと考えるなら、自ずと、人生の意味は自分が目指すべき何かだと考える。この線のはるかかなたで果たすべきものだ、と。一瞬一瞬は絶えず消え去るので、人生の意味も瞬間の中では見出せない。それだけではない。それぞれの瞬間の意義は、その瞬間がこの線の上で占める位置から導き出される。瞬間の意義は、それが以前に起こったこと、すなわちまだ記憶の形で存在していることと、これから起こること、つまり期待の形で存在していることに対して、どのような関係にあるかにもとづいている。それぞれの瞬間は、常に過去と未来の亡霊の影響を受けているのだ。したがって、それ自体で完結した瞬間はない。それぞれの瞬間の内容と意味は、時間の矢の線に沿って繰り延ばされたり、繰り上げられたりし、分散される。

 ところが、時間が線でなくて輪だとしたら、人生が際限なく永遠に繰り返されるとしたら、人生の意味は、線上のある決まった点へと向かう進捗の中に存在することはできない。そのような線はないから、そのような点もない。瞬間は消え去らない。その逆で、瞬間は無限に何度も何度も自分を主張する。それぞれの瞬間の意義は、ある線の上の位置から導き出されはしない。時間の線上でその瞬間の前後(過去と未来)にあるものとの関係から導き出されるのではない。過去や未来の亡霊の影響も受けない。それぞれの瞬間はそれ自体のままである。それ自体で完結しているのだ。

 そうなると、人生の意味はまったく違ったものになる。線上のどこか決まった区間に見られるのではなくて、瞬間の中に見られる。もちろんすべての瞬間ではないが、いくつかの瞬間に見られる。秋の収穫時にノックダフの畑に散らばる大麦の粒のように、人生の意味は生涯を通じて散らばっている。人生の意味は最高潮の瞬間に見られることもある。これらの瞬間のそれぞれはそれ自体で完成していて、意義や正当化のためにそれ以上の瞬間を必要とするわけでもない。」(ローランズ同書p234-p235)

「時間が線でなくて輪だとしたら、人生が際限なく永遠に繰り返されるとしたら」という仮定は

実のところ、ありえないことは誰でも知っている。「毎日毎日、同じことの繰り返しで嫌になる」とよく私たちは愚痴をこぼす。千篇一律のように思える日常生活が嫌になる。月曜日から金曜日までの単調に見えるルーティンワークの終わる金曜日の終業時間の後は輝いて見えるものだ。

 しかし、厳密に考えると、中島義道が『後悔と自責の哲学』で指摘したように、一日として同じ日はない。毎朝の通勤の途上は毎秒ごとに昨日とはことごとく異なっている。私たちは、その差異を捨象し、類型化することで、つまり、無数に起きる変化に富んだ事象を「同一のもの」という観念に変換することで「毎日が同じことの繰り返しだ」と誤って思い込むのである。

 誤って「毎日が同じことの繰り返しだ」と思うことによって人間は毎日の単調な繰り返しに飽き飽きしてしまう。そうすると、今度はその繰り返しからの逸脱を求めてしまう。その顛末をローランズは次のように書いている。

「わたしたちは時間の矢への魅惑と嫌悪を交互に感じるので、時間の矢への拒否がわたしたちに、目新しいもの、違ったもの、つまり時間の矢を逸脱したあらゆるものの中に幸福を求めさせる。けれども、時間の矢の魅惑というのは、時間の線からのどのような逸脱も新しい線をつくり出すだけだ、という意味である。だから、わたしたちの幸福は次には、この線からも逸脱するように求める。したがって、人間による幸福の追求は、退行的で無益である。そして、どの線の終わりにも見られるのは、『二度とない』ということだけだ。二度と顔に(同じ)陽光を感じることはない。二度と愛する人の唇に(同じ)微笑みを、その目に(同じ)輝きを見ることはない。自分の人生や生きる意味についての観念は、喪失幻想をめぐって打ち立てられている。だから、時間の矢にわたしたちが魅惑される一方で恐れもするのは、不思議ではない。新しくて物珍しいもの、どんなに小さくてもよいから、時間の矢の通り道からそれるものに幸福を求めるのも、不思議ではない。わたしたちの抵抗は無駄な痙攣以外の何ものでもないが、理解できるのは確かだ。わたしたちの時間の理解がわたしたちの永遠の罰なのだ。ヴィトゲンシュタインは、微妙にではあるが決定的にまちがっていた。死はわたしの人生の限界ではない。わたしはこれまでも自分の死を常に抱えてきたのだ。」(ローランズ同書p235-p236)

 ローランズはオオカミの時間は線ではなく輪ではないかという。オオカミにとっての幸福とは「あらゆる喜び」を永遠に望むこと、それは「同じことの永劫回帰」を望むことなのであろうという。「同一のものという観念」(それはつまり言語である)を持たないオオカミは、確かに無数の出来事を「同一のものという観念」に変換することができない。だから、毎日の出来事は常に喜びであり、新鮮であったのかもしれない。毎日が新鮮な喜びに満ちた毎日であれば、その毎日を一度二度三度というふうに数えることもないだろう。それならば、逆に「『二度とない』という感覚」自体もないにちがいない。回数を数えるということは同じものという観念を作って、その同じものの数を数えるということだから、オオカミにとって、新鮮な一日が別の一日に変わったとしても、前の一日が失われたという感覚自体もないかもしれない。ブレニンの新鮮な一日に対する喜びは、次の日もその次の日も続く。飽きるということはないようだ。しかし、それは人間にも具わっているのではないか。大好きなこと、好きで好きで堪らないことを「三日にあげず」大きな喜びを持って味わうこと、それも飽きもせず味わうこと、こういったことは人間にもある。 

 ローランズは瞬間という時間概念に関しての人間とオオカミの違いを次のように書いている。

「わたしたちは瞬間を透かして見るので、瞬間は逃げてしまう。オオカミは瞬間を見るが、瞬間を透かして見ることはできない。だから時間の矢は逃げてしまう。これが人間とオオカミの違いだ。わたしたちの時間との関係は、オオカミとは異なっている。人間はオオカミやイヌとは違った形の、時間的な動物である。ハイデガーによると、彼が時間性と呼ぶものこそが人間の本質だという。だが、時間とは本当は何なのかという問題には、私は関心がない。この点では、ハイデガーもそうだ。時間とは本当は何であるのか誰も知らないし(一部の学者は、知っていると興奮して発表しているが)、知ることはないだろうと思う。わたしたちにとって決定的なのは、時間をどう経験するかである。」(ローランズ同書p238)

「オオカミは時間の動物であるだけでなく、瞬間の動物でもある。人間はオオカミとくらべて、より時間の動物であり、オオカミほどには瞬間の動物ではない」(ローランズ同書p239)

 年老いたオオカミのブレニンは癌を患っていたが、癌が自分の身体にどのような影響を及ぼすのかを自分が死ぬまで知らなかった。ローランズは人間なので、癌を患うことの意味を知っていた。時間の動物であり、科学的客観的な認識を有するローランズは、もし自分が癌に罹患していたらと想像して概略次のように書いている。

 ブレニンにとって「癌は瞬間的に訪れる苦痛」であって、その苦痛は強かったり弱かったり、なかったりするが、その瞬間と瞬間には何の関係もなく、調子が良ければ、ブレニンは健康なときのように行動した、と。

 しかし、人間であるローランズにとっては、「癌は時間の苦痛であって、瞬間の苦痛ではない」。そして「癌への恐怖、人間にとって深刻なあらゆる病への恐怖は、時間を貫いて広が」る。癌による死の恐怖は「わたしたちの欲望や目標や計画の矢を断ち切」ってしまう。それはすべてその癌の進行過程を知っているからである。(ローランズ同書p243)

 何も知らずにブレニンのように一つの瞬間、瞬間を生きて、癌が全身に浸潤して、生を終えることと、人間のように死への恐怖、「わたしたちの欲望や目標や計画の矢」が否応なく死によって断ち切られていくという恐怖の死の予期に怯えながら、しかも無理に諦念を持たざるをえないようになって、自分ではどうにもできない事態をただただ眺めていくこと、これらのどちらがよいのだろうか。

 

 ローランズはこの後の文章において シーシュポスの神話 - Wikipedia を引き合いに出して論じる。私たちの人生の意味とは何か、人生には目的があるのだろうかという問題を論じるのである。

 ローランズは、シーシュポスが苦役として課せられた岩を山頂に押し上げるということを人間の人生の目的の寓話として捉える。岩は私たちの人生の目的だという。「もし人生に意味をもたらすほど偉大な目的を見つけるべきなのだとしたら(中略)、わたしたちはいかなる犠牲を払ってでも、その目的が達成されないよう心がけなければならない。」(ローランズ同書p253)という。なぜなら、「人生の意味が目的にあるなら、意味をもち続けるために必要な人生の条件は、目的達成に失敗することにある。わたしの見解では、これによって人生の意味は、決してかなえられない希望へと変貌する。だが、決してかなえられない希望にどんな意味があるだろう。見込みのない希望は人生に意味をもたらさない。シーシュポスは、山頂に置いた岩がいつかそこに留まるだろうという、無益な希望を抱いていたに違いない。しかし、この希望はシーシュポスの人生に意味をあたえはしなかった。人生の意味は、ある最終地点や目標に向かって進むことには見出せないと結論すべきだ、とわたしは思う。最終地点には何も意味はないのだ。」(ローランズ同書p253-p254)人生の意味を与えてくれる目的はかなえられたら終わりなのだ。目的が達成されると人生の意味も消失する。だから達成されないようにしないといけない。

 そもそも「人生で一番大切なもの(人生の意味)」(ローランズ同書p255)とは何だろうか。ローランズは「私たちが所有できないもの」(同)だという。つまり、「人生で一番大切なもの(人生の意味)」とは、彼によれば、手に入れられるもの(所有できるもの)ではないという。サルトルは「『持つ(知る)』『為す』『ある』は、人間存在の基本的なカテゴリーである。人間のあらゆるいとなみは、この三つのいずれかに包摂される。」(サルトル『存在と無』第三分冊 人文書院 昭和45年12月20日 p11)と書いている。ローランズも「為すことと在ること」が大切だと言いたいのだろうか。

「人生の意味は所有できる何かだ、という考え方は、わたしたちがサルの魂から受け継いだものではないかと思う。サルにとっては、所有はとても重要だ。自分が何をもっているかで自分を評価する。一方、オオカミにとって重要なのは、何かをもつことではなく、存在することである。オオカミにとって生きる上で一番大切なのは、あるものや量を所有することではなく、ある一定のタイプのオオカミであるということなのだ。しかし、たとえわたしたちがこの点を認めるとしても、わたしたちのサル的な魂はすぐに、所有が一番重要であることを新たに確認しようとする。一定のタイプのサルであるということは、わたしたちが目指すことができるものだ。一定のサルであるということは単に、わたしたちがもつことができる、もう一つの目的でしかない。自分が一番そうなりたいと願うサルというのは、それに向かってわたしたちが進捗できる目標だ。これは、わたしたちが十分賢く、十分に勤勉で、十分に幸運なら、達成できるものなのだ。こうサルは考える。

 けれども、人生において学ぶべきもっとも重要で困難な教訓は、物事はそうしたものではない、ということである。人生でいちばん大切なものは、わたしたちがいつかは所有できるようなものではない。人生の意味は、まさしく時間的な動物が所有できないもの、すなわち瞬間に見出されるのだ。だからこそ、自分の人生にとって納得できるような意味を認めるのがこうまでもむずかしい。瞬間は、わたしたちサルが所有できないものの一つだ。物事の所有は瞬間の消去にもとづいている。瞬間というのは、わたしたちが 欲望の対象を所有するために、通り抜けるものだ。わたしたちは自分がすばらしいと評価するものを所有したがり、その所有権を主張する。つまり、わたしたちの人生は大きな土地収奪である。そして、だからこそ、わたしたちは時間の動物であって、瞬間の動物ではない。瞬間はつかもうとする指の間から絶えずすり抜けてしまうのだから。

 人生の意味は瞬間に見られる。そうは言っても、『瞬間を生きなさい』と説く、よく聞かれるお手軽で小さな説教をここで繰り返しているわけではない。不可能なことをするように勧める気はまったくない。そうではなく、すべてでは決してないにしろ、いくつかの瞬間があり、こうしたいくつかの瞬間の陰の中にこそ、人生で一番大切なものを見つけ出せる、と言いたいのだ、つまり、最高の瞬間というものを。」(ローランズ同書p255-p256)

 その「最高の瞬間」とは一体何か。

 最高の瞬間とはまず第一に「人生の絶頂ではないし、自分の存在の目的でもない」。(ローランズ同書p256)第二に、「強烈な喜びの、一種涅槃的な状態」でもない。(ローランズ同書p257)

 ではどのようなものなのか。

 最高の瞬間とは、「楽しいものではない」し、「想像しうるかぎりもっとも不快な瞬間、人生でもっとも暗い瞬間」であり、「わたしたちが最良である」ときに、また「しばしば真に恐ろしいこと」と同じときに起こるという。(ローランズ同書p257)

 ローランズのいう最高の瞬間とは、実は、11年間共に過ごし、人生で出会った最良の兄弟であるオオカミのブレニンを癌でなくしたときの辛い体験のことを指していると思われる。それはローランズにとって絶望のどん底に落ち込んだ瞬間だった。その最悪の瞬間が最良(かつ最高)の瞬間でもあったのだと彼は今改めて回想しているのだ。

「わたしが最良だったのは、フランスで暮らし始めた頃に、ブレニンの死に対して『ノー』と言ったときだと確信している。当時、わたしは睡眠不足のために、気が狂いそうだった。自分が死んでいて、地獄にいるのかと思った。自分の人生で起こっていることを見て、テルトゥリアヌスの霊魂論は良い意味で理性にかなっているように聞こえた。病院に送り込まれたほうがいいほどに心神を喪失していた。それにもかかわらず、この時期はわたしの人生における最高の瞬間だった。シーシュポスがいつの日にか理解したのは、このことだ。これ以上続けることが無益なとき、行為を続ける目的となる希望がないときに、わたしたちは最良の状態にある。希望というのは、わたしたちを時間的な動物にする欲望の一つの形だ。希望の矢が、未来の未発見の土地へと弧を描くのだ。だが、時には希望の出しゃばりをたしなめて、元の薄っぺらい小さな箱に戻すことも必要だ。こうして、わたしたちは何とか続ける。そして、こうすることで試練に耐える。(中略)このような瞬間瞬間に、わたしたちはオリンポスの神々に向かって『コン畜生』と叫ぶ。この世の神々やあの世の神々、わたしたちやわたしたちの子孫に、永遠に岩を山までころがし上げさせようとする計画に向かって叫ぶ。最良であるためには、何の希望もなく、続けることから何も得られないような窮地に追い詰められなければならない。そうなっても、わたしたちはとにかく進み続ける。

 死が自分の肩にのしかかって、もはやできることが何もなく、自分の時間はほとんど終わったときに、わたしたちは最良の状態にある。わたしたちは『コン畜生』と人生の(リニア時間)線に向かって言い、線の代わりに瞬間を歓迎する。わたしは死のうとしているが、この瞬間は気分が良いし、強いと感じる。そして、わたしは自分がしたいことをしようとしている。こうした瞬間はそれ自体で完結しており、過去や未来の他の瞬間において正当化する必要はないのだ。」(ローランズ同書p258-p259)

 (注) テルトゥリアヌス - Wikipedia は《神の子が死んだということ、これはそのまま信ずるに値する。何故ならそれは不条理だからだ。そして、墓に葬られ、彼は復活した。この事実は確かだ。何故なら、それは不可能だからだ。》と言ったという。信仰は理性を犠牲にしなければならないのだという事実を端的に示している。ローランズは単に皮肉を言っているように思われる。

 

 ローランズはブレニンが死んだ後、よき伴侶を得て、息子も授かった。米国マイアミ大学に行き、順調に自らのキャリアをアップさせた。本物のオオカミのブレニンが死んだとき、オオカミであったローランズも死んだのだ。彼は「かつては自分がオオカミだったのだが、いまや愚かなラブラドール・レトリバーでしかない」(ローランズ同書p265)と自虐的に述懐している。  ローランズの中の破天荒なオオカミ気質は死んだ。そして、彼は生まれた長男にブレニンと名づけた。