生と死についての随想その106 (中島義道『純粋異性批判』によるカント『純粋理性批判』入門)4 | 飢餓祭のブログ

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 中島は『純粋理性批判』の解説において、最初に置かれている「超越論的感性論」の章の解説ではなく、「超越論的論理学」の章の解説を先にしている。その理由は、そもそもこの本は「女性には理性があるのか」という非常に刺激的な、ややもすれば「女性差別」と受け取られかねないテーマなので、とにかくまず「女性の論理」を際立たせたいという意図があったからだという。もう一つの理由は、感性論を女性一般の感受性論として分析したかったからだという。

 中島は、カントの「超越論的感性論」について次のように書いている。

「カントが時間・空間という形式を『直観形式』すなわち『感性の形式』と呼び、われわれ人間が時間・空間における対象(個物)をとらえる能力を『感性的直観』と呼んだのは、日常的用法とはずいぶんかけ離れている。 „ Sinnlichkeit  “ というドイツ語は„ Sinn “ に由来し、これは科学のように、対象を時間・空間的に観察しとらえるという能力ではなく、むしろ『感受性』さらには『官能』という意味である。」(中島義道『純粋異性批判』講談社 2013年12月10日p139-p140)

 感受性、さらには官能とは日本語的にどう解釈すればよいのだろうか。

 感受性とは、感受性(かんじゅせい)とは? 意味や使い方 - コトバンク によれば、《 外界刺激を受けとる能力対象からの触発によって印象を受容する感性の働き。感受力。〔哲学字彙(1881)〕》とある。この言葉はカントの「感性的直観」とほぼ等しい。

 それでは、官能という言葉はどうか。官能(かんのう)とは? 意味や使い方 - コトバンク によれば、次のように6つの意味が記載されている。

《〘名〙① 動物の感覚器官の働き、または諸器官の働き。肺臓の呼吸作用、耳の聴力の類。

※医範提綱(1805)題言「其中より全身諸物の名及び官能の綱領を述べ(以下略)」

感覚を起こさせる感覚器の働き。理性の働きのまじらない心の作用。感能。〔哲学字彙(1881)〕

③ 肉体的満足、特に性欲享受、充足する働き。

邪宗門(1909)〈北原白秋父上に献ぐ「ここ過ぎて官能の愉楽のそのに」

④ 機能。〔哲学字彙(1881)〕》

 カントが使った「感性的直観」という言葉の意味としての「感受性」と「官能」とは何だろうか。それらの言葉の意味としては、「② 感覚を起こさせる感覚器の働き。理性の働きのまじらない心の作用。感能。〔哲学字彙(1881)〕」という項目が該当するように思われる。私たちは「官能」という言葉からは「肉体的満足、特に性欲享受、充足する働き。」という意味だけをすぐ思い浮かべてしまうが、「感能」と表現したほうが誤解が少ないかもしれない。

 残念ながら、中島の「超越論的感性論」についての解説はほぼこれだけである。おそらく、カントの『純粋理性批判』の「感性論」についてはわざわざ解説するまでもなく、読めばわかる部分だと思っているからかもしれない。

 

 次に「純粋女性理性の倫理学」という題での解説について、中島は次のように書いている。

「本来『実践理性批判』の領域であるが、『実践理性批判』は『純粋理性批判』第二版の一部であったものを、カントが後に分離したものである」(中島同書p143)から、『純粋理性批判』の解説に『実践理性批判』の解説が含まれて当然だということなのだろう。

「カントの倫理学には、はっきり敵がいて、『功利主義(der Utilitarismus )』と呼ばれ、有用性を善とする強力な立場である。カントはこの倫理学説に真っ向から反対し、勢い余って、彼の倫理学において『道徳的善さ』には一滴の有用性も混じってはならないことになってしまった。

 カントは道徳原理に対立する二つの原理(指定)を挙げている。それらは『熟練(die Geschicklichkeit )の原理』と『賢明(die Klugheit )の原理』であり、功利主義からすると大幅に善の原理になりえたものなのだが、カントはこれら原理を倫理学から放逐する。言いかえれば、『よい』という言葉の意味するもののうちきわめて狭い『道徳的善さ』だけを残して、あとはありとあらゆる『よさ』を切り捨てたのである。『熟練の原理』とは『よい板前』とか『よいピアニスト』とか『よい医者』というように、特定の技術が優れていることである。これは道徳的善さとはまったく関係ない。次に『賢明の原理』とは、人間関係において、外形的に適法的に動くこと、すなわち法を守り、社会規範を守り、ルールを守り、逸脱行為をしないこと。これも、カントによれば、直ちに道徳的に善いとは言えない。なぜなら、道徳的善さは行為の外形にあるのではなく、その行為を遂行する人の内面(動機)にあるから。法を守る人は、犯罪者になりたくないから、社会から爪弾きにされたくないから(法を守るの)であろう。交通ルールを守る人は、そうしないと事故に巻き込まれる、あるいは事故を起こすからであろう。約束を守る人は、そうしないと信用を失うからであろう、他人に迷惑をかけるからであろう。

 つまり、賢明の原理とはルールに従って自己利益を最大にすることであるが、煎じ詰めれば、(西洋型)近代社会においては総体的に考えてそれが一番トクだからである。

 カントの倫理学は、こうした膨大な『よい』領域を見限ることによって成立している。いかに外形的に『よい』ことをしようと、一片の道徳的価値もない。どんなに多くの人を救っても、そんなに眼前の哀れな人に親切にしても、それらの行為が動機のよさに裏打ちされていなければ、道徳的価値はゼロである。

 ここであえて個人的趣味を語ると、私はこういう倫理学がとても好きである。反省してみれば、世の中の人が称賛する事柄の九九パーセントが、熟練の原理と賢明の原理に基づく『よいこと』である。人々はモーツァルトやレオナルド・ダ・ヴィンチ、ニュートンやアインシュタインを褒め称える。しかし、彼らは単に特定の技術において優れていただけであって、道徳的善さとは何の関係もない。 

 おうおうにしてこういう天才を人間的にも尊敬する人がいるが、それは大いなる錯覚である。もちろん、アリストテレスであろうが、カントであろうが、ヴィトゲンシュタインであろうが、その行為がとくに道徳的であるわけではない。リンカーンであろうと、ガンジーであろうと、マザー・テレサであろうと、カントの基準からすれば、とくに道徳的ではない。彼らはある信念のために戦ったのであって、これは厳密には道徳的善さの条件を充たさないのである。」(中島同書p152-p154)

 カントはどういう人が道徳的であるとしたのか。それは「道徳的完成」(真実性=誠実性を貫くこと=首尾一貫性を持って貫くこと)を「人生最高の(第一の)課題として求め」、「いかなる外的圧力にも屈せず、みずからの信念(絶えず訂正に向けて開かれた柔軟な信念)を貫く」(中島同書p216)人である。しかし、そんなイエス・キリストのような人はいない。

 

 カントが熟練の原理に対してよりも強く糾弾したのは賢明の原理であったようだ。賢明の原理とはウェーバーが定式化した人間の行為の動機を直接的に支配するところの物質的・観念的利益最大化の原理のことである。

「賢明の原理はさらに『世間的(weltlich )賢明』と『私的(privat )賢明』に分かれる。前者は、その場その場で最大に自分の利益を求める原理であり、後者は『長い目で見て』自己利益を求める原理である(一見『世間的』と『私的』との意味が逆転している感があるが、これこそカントの意図するところであった)。カントの鋭いところは、後者こそ本来の賢明の原理であると洞察していることである。むき出しのエゴイストは、周囲のほとんどの者に嫌われるがゆえに、かえって自己利益の追求がうまくいかなくなる。われわれが本当に賢明なら、あたかも自己利益を求めないようなさまざまな工夫をして穏やかに、他人の利益も配慮しているふりをして、長い目で見て自己利益を求めるのではないか。『信頼』はその一例であろう。姑息な手段で人を出し抜く者は一時的には利益を得るかもしれないが、長い目で見ると多くの者の信頼を失い退散するであろう。商売をするにしても、事業をするにしても、人間関係においても、広く人々の信頼を得ることこそ、長い目で見ると一番確実な自己利益に達する方法である。

 そして、まさにこういう賢明な者、信頼を得ている者こそ、カントにとって、道徳的善さから最も遠い人間なのである。なぜであろうか?そういう人間が『約束を守る』という適法的行為を実現する動機こそ、カントにとっては、汚れ切ったものだからである。

 以上のことは『義務にかなった(pflichtmäßig )行為』と『義務からの(aus Pflicht)行為』という区別によって明らかにしている。『義務』とは、約束を守るとか、他人に親切にするとか、刻苦精励するとか、漠然と自然法的に理解されている『よいこと』であるが、それにかなっている行為が『適法的(legal)行為』であり、それにかなっていない行為が『非適法的(illegal)行為』である。

 カントは約束を守ることが適法的行為であり、『義務にかなった行為』であることを一瞬も疑っていない。しかし、(私的)賢明な人はまさに『信用を失いたくないために』言いかえれば『信用を維持したいために』約束を守るのではないか?すると、約束を守るということ自体に価値を置いていないことになる。

 信用を維持するために約束を守る人は、約束を守っても信用を維持できない場合、あるいは、約束を守らなくても信用を維持できる場合は、約束を守らないかもしれない。信用を維持することのほうが、約束を守ることより優先する義務となっていて、これはカントの眼には到底道徳的に善くは映らない。道徳的に善い行為とは、まさに約束を守ることそれ自体に道徳的価値を置き(義務とみなし)、それゆえ(義務から)約束を守る行為である。

 では、なぜ約束を守ることは義務であり、信用を維持することは義務でないのか?」(中島同書p154-p156)

 信用、信頼を維持することがなぜ義務ではないのか。

「『信用を維持するために約束を守る』という格律(自分だけが実践する自分が自分に課した原則・規則)を持っている人は、これをそのまま(世の中のすべての人々の間に)普遍化できそうである。しかし、そうではない。なぜなら、そういう動機から約束を守る人は、もし信用を維持できなければ約束を破るかもしれないからだ。約束を守ることが普遍的法則であるためには、『もし~ならば』という仮定をことごとく排除した『約束は守るべきだから守るべきである』という定言命法の形でなければならないのである。

 これは、なぜ成立するのか?まさに理性が自己利益を完全に排除した動機までも含む『誠実性』を命じるからである。だが、ここで注意が必要である。誠実性がとりわけ価値を持つのは、それが生命・身体・財産などの利益と衝突する場合である。偽証を強要され、それに従わないと身の危険がある場合でも本当のことを言うこと。これは古代ギリシャ以来『パレーシア』と呼ばれ尊重されてきたものだが、カント倫理学の核心をなす価値観となっている。

 私見では、カント倫理学はただこのことを主張したいだけなのだと思う。その場合、断じて生命・身体・財産のほう(すなわち『幸福』)を選択してはならない、という絶対的確信に基づいている。」(中島同書p159)

 つまり、カントが言いたいことは、仮言命題で語られる義務は義務ではない、ということである。換言すると、条件つきの義務は条件が充たされないなら、義務ではなくなるのだから、義務とは言えないということなのだ。条件をつけるという態度は「誠実性=真実性」を重んじるカントにとっては実に不誠実な態度にしか見えないのだ。 

 

 中島は、カントの『純粋理性批判』並びに『実践理性批判』の解説の最も核心的部分の解説に入る。それは神の問題である。カントは実は神を信じてはいなかったかもしれないと私は思っている。それは、神の存在証明についての議論を見ればわかる。しかし、カントの心底はもっと複雑で、不可解である。「いないけれども、いることにしたい」という気持ちだったようにも思う。

 カントは、四つある神の現存在の証明のうち、三つだけを『純粋理性批判』において批判した。しかし、神の存在証明 - Wikipedia によれば、四つ目の「神の道徳論的証明」については批判していない。それはカント自身が唱えたものだからだ。

 Wikipediaの「神の存在証明」には次のように記載されている。

《カントは理論理性によっては神の存在を証明することはいかなる方法でもできないと考えた。この点でまずデカルトやアクィナスの存在証明とは質を異にする。カントの証明の特質は、たとえ理論理性では神の存在の証明が不可能であるとはいえ、道徳的実践の見地からすると、実践理性の必然的な対象である最高善の実現のためにぜひとも神の実在が“要請”されねばならない、とした点にある(『実践理性批判』)。カントによれば、道徳法則に従うことが善である。道徳法則に従った行為をなしうる有徳な人間は最上の善をもつ。しかし、有徳であるだけでは善は完全でなく、善がより完全であるには有徳さに比例して幸福が配分されねばならない。徳とそれに伴う幸福との両立が完全な善としての最高善である。しかし、まずもって不完全である人間が最高善を実現するためには無限な時間が必要である。永遠に道徳性を開発せねばならないことから、魂の不死が要請される。また、この徳と幸福の比例関係は神によって保証されねばならない。そのため神の存在は道徳的実践的見地から要請されねばならない、とした。したがって厳密に言えばカントは神の現実存在を決して証明したわけではない。この要請論をヘーゲルが「ずらかし」として批判したのは有名である(『精神現象学』)。》

 ヘーゲルのカント批判で使われた「ずらかし」とはどういう意味だろうか。

 ヘーゲルの『精神現象学』にある「ずらかし」に当たる言葉は„ die Verstellung  “ という言葉である。„ die Verstellung  “ の意味を調べると、①閉塞(物を置いて塞ぐこと)②転置、移動、調節、置き換え③偽装、佯(いつわ)りとある。„ die Verstellung  “ の動詞は„ verstellen  “である。ちなみに、動詞の „ vorstellen  “は「紹介する、進める、想像する、思い浮かべる」(哲学用語としては「表象する」)という意味で、„ stellen  “  は「立てる、置く、据える」という意味の動詞である。„ ver-  “ は「代わりに、過ぎて、越えて、去って」などを意味する「前綴」と呼ばれる接頭語である。<ドイツ語前綴:ver-> また、„ vor-  “ は<ドイツ語前綴:vor-> によれば、「前に、先に立って」などを意味する前綴である。

 ヘーゲルが意図した語の意味を考えると、置き換え、すり替えとなるように思われる。邦訳では「ずらかし」というあまり聞いたことがないような日本語の訳がつけられている。平原卓は「ヘーゲルはこれを『ずらかし』(問題の引き延ばし、先送り)と呼びました」と書いている。カント『実践理性批判』を超コンパクトに要約する | Philosophy Guides

 ヘーゲルは『精神現象学』のD「精神」のC「自己確信的精神、道徳性」のb「おきかえ」(die Verstellung )という節において、カントの「要請論」について次のように批判している。(樫山欽四郎訳ではdie Verstellung を「ずらかし」ではなく「おきかえ」と訳している。)

「われわれは、一つの現実な道徳的意識が存在するという前提を、まずそのままにしておこう。というのも、この前提は無媒介なものであって、それに先立つものとの関係において、立てられたものではないからである。そこでわれわれは、道徳性と自然との調和、つまり最初の要請に向かうことにしよう。この調和は、それ自体で存在すべきであって、現実的意識に対して存在すべきではなく、現在的でもない。現在は、むしろ道徳と自然の矛盾(があるだけ)にすぎない。現在のうちに道徳性は現存すると想定されているが、その現実は、道徳性と調和しないというふうになっている。だが、現実的な道徳的意識は行動するものであり、ここにこそ、その意識の道徳性の現実が在る。けれども、行動自身においては、いま言ったふうになっているのは、すぐおきかえられる。というのは、行動は内的道徳的目的の実現にほかならないし、目的によってきめられた現実をつくり出すこと、言いかえれば、道徳的目的と現実そのものの調和をつくり出すことにほかならないからである。それと同時に、行動を為しとげることは、意識に対してのことであり、この実現は、現実と目的の統一が現在することである。そこで行動が為しとげられたときには、意識は自らをこの個別的な意識として、現実化している、言いかえれば、定在(一定の具体的な実在的なもの)が意識に帰っていることを直観する、そして享受というのはこの点に在る。だから道徳的目的の現実のうちには、同時に、享受とか幸福とか呼ばれる現実の形式も、あるわけである。だから、実際には行動は、起こるべきではないと掲げられたもの、一つの要請にすぎず、ただ彼岸であるはずのものを、そのまま実現することになる。だから行為に結果を通じて意識が言い表していることは、意識が要請することを、真面目に受けとっていなかったということである。なぜならば、行動の意味は、むしろ、現在のうちには存在すべきでなかったものを、現在(のこと)とするということだからである。行動のためには要請される、行動によって現実となるべきものは、自体的にもそう在るのでなければならない。そうでないと、現実は可能ではないであろう。そこで、行動と要請が関連するときの有様は、行動のために、すなわち、目的と現実を現に調和させるために、調和が現実的(可能であるの)ではなく、彼岸のものとして措定されているということになる。

 だから行動するときには、目的と現実が適合しないということは、全く真剣に受けとられていない。だが行動そのものは、真剣に受けとられているように見える。しかし実際には、現実の行動は、個々の意識の行動にすぎず、したがって個別的なもの(自然的なもののこと-引用者)にすぎず、その結果も偶然である。だが、理性の目的は、すべてを包む一般的目的であるから、全世界より小さなものではなく、究極目的であるが、これは、この個別的行動の内容を遥かに超え出ているから、もともとすべての現実行動を超え出たところに置かれるべきである。公共の福祉(人々の幸福)は実現されるべきであるから、(逆に)善いこと(真実と誠実)は何も行われない。だが実際には、現実の行為が空しいことと、いま掲げられている全体的目的だけが、実在であることとは、あらゆる面から言って、またも置きかえられている。道徳的行動は、純粋義務(普遍的なもののこと-引用者)をその本質としているから、偶然なものではないし、制限されたものでもない。純粋義務が唯一で全体的な目的をなしている。だから行動は、目的を実現するものとして、そのほか一切の内容的制限があるにも拘わらず、全体としての絶対的目的を実現するのである。或いは更に、現実が、自分自身の法則を持ち、純粋義務に対立している自然と受けとられ、したがって、義務がその(道徳)法則を自然のうちでは実現し得ないとすれば、義務そのものが本質であるのに、実際問題になっているのは、目的全体である純粋義務の実現ではないことになる。というのは、実現が目的としているのは、むしろ義務ではなく、それに対立したもの、つまり、現実であろうからである。けれども、現実が問題ではないということもまた、置きかえられる。なぜならば、道徳的行動の概念から言えば、純粋義務は、本質的には働く意識だからである。こうして、どうしても行動はなされるべきであり、絶対的義務は自然全体のなかに表現されるべきであり、道徳法則は自然法則となるべきである(が、実際には道徳法則が自然法則になることはない)。

(道徳法則が自然法則になることはないとすると)かくてわれわれが最高善を実在として妥当させるとすれば、意識は道徳一般を全然真剣に扱わないことになる。というのも、この最高善においては、自然(現実社会)は、道徳法則が持っているのとは別の法則を持っているわけではないからである。したがって、道徳的行動そのものが崩れ去ることになる。というのも、行動は、行動によって廃棄されるべき否定的なものを前提としてのみ、存在するものだからである。が、もし、自然が道徳法則に一致しているとすれば、たしかに道徳法則は、行動により、つまり存在者を廃棄することにより、損なわれるであろう。だから最高善を認めると、道徳的行動は余計であり、全然成り立たない、というような状態が、根本的状態として保証されることになる。道徳性と現実を調和させるという要請、つまり、両者を一致させるという、道徳的行動の概念によって措定されている調和の要請は、だから、いま言った側面からすれば、次のようにも表現される。すなわち、道徳的行動が絶対的な目的なのだから、道徳的行動が全く存在しないということが、絶対的な目的である。」(ヘーゲル『精神現象学』樫山欽四郎訳 河出書房新社 昭和51年5月25日 p352-p354)

 黒崎剛は『ヘーゲル『精神現象学』における「道徳性」の役割について』(『日本医科大学基礎科学紀要』第40号、2011年)において次のように書いている。

「道徳的意識は純粋な義務を現実世界に実現しようと意志し行動するが、現実世界には純粋な義務とは無関係な自然法則が働いているから、義務が自然の世界で実現するか否かは偶然である。そのためにこの調和は『要請』にとどまることになる。

 だが、そうなると一方では道徳的行動とは(最初から)目標が実現しないことを前提として目標を実現しようとする不真面目な行動になるし、また、(偶然にも)もしこの調和が実現して道徳法則が自然法則になったならば、今度は道徳的行動も余計なものになってしまう。そこで道徳的意識は、真の目標は道徳性と現実性の調和の実現ではなくて、道徳的に行為するそのもの(が目標)だというように主張をずらすことによって正当化せざるをえなくなるとヘーゲルは批判する。」

ヘーゲル『精神現象学』における「道徳性」の役割について ー「相互承認によって意識と対象との対立を解決する試みとその帰結ー  (p37)

 カントの「要請」論がそうした手段の目的化に帰結するかもしれないことをカント自身が予想していたか否かはわからないが、カントの「要請」論にはいくつもの無理があることだけは確かである。

 中島はカントが『実践理性批判』において使った「要請」という言葉について次のように書いている。

「『実践理性批判』の最後に位置する二つの『要請 Postulat )』について検討してみたい。この語は、すでに『純粋理性批判』の『原則論』の第四原則『経験的思惟一般の要請』というところに出てくる。それは『可能性、現実性、必然性』という様相の原則であるが、これがなぜ『要請』か、はっきりしないが、カントの叙述を(私なりの解釈を含めて)纏めてみると、次のようになろう。それまでの三原則で『経験』の実在性については(カントは)すべて論じつくした。この第四原則では、その実在的な経験を主観との関係から見直すことである。すなわち、カントはここで『私の現存在(mein Dasein )』を突如持ち出して、『現実性』という様相を実在的世界に引き入れる。物理学が描き出すような『実在的・客観的世界』は具体的に『私が』経験する世界ではない。この実在的世界は、実在性を保ったまま、さらに『私の現存在』との関係によって単に可能的なのか、現実的なのか、必然的なのか、と区別することができる。

 言いかえれば、物理学が描く客観的世界に〈いま・ここ〉に現存在する私中心の視点を重ね合わせることである。」(中島義道『純粋異性批判』p177-p178)

「物理学が描き出すような『実在的・客観的世界』は具体的に『私が』経験する世界ではない」ので、物理学の教科書には、私たちが住んでいる場所にあるような、慣れ親しんでいる個物はない。物理学の世界は理論的な物理理論と物理法則だけの世界である。物理学的世界においては時間はリニア(直線)的に過去から現在を通って未来へと伸びていくリニア時間しかない。その場合、時間はリニア化=空間化=可視化している。カントはあえてそうしていると中島は言っている。

 中島によれば、私たちは物理学的世界に私という現存在を重ね合わせ、読み込む作業をしている。そして、私の経験している世界における時間はリニア時間ではなく、〈いま〉がどこからともなく湧き出しては消えていくような時間である。 

「具体的には、ここに過去、現在、未来という時間様相が出てくる。それ自身としては単に可能的な実在的世界は、私が現存在する『現在』を境にして、現実的に存在した時、すなわち過去と、法則によって必然的に到来する時、すなわち未来とに分かれる。こうした時間様相は実在的・客観的世界には登場してくることはなく、客観的世界を測定する客観的・物理学的時間と並ぶものではないが、現存在する私にとってはことのほか重要なものである。カントは世界の内に現存在する私の視点を客観的視点(すなわち客観的時間における可能な原点=現在という視点)と並ぶものとしては認めないが、『要請』としては認めるのである。

 これでやっと『要請』という用語につながった。これまでの論述で推察できるように(?)『要請』とは実在的・客観的世界の原理とはなりえないが、主観的原理として充分に認めていいもの、それを認めても実在的・客観的世界にはいかなる支障もきたさないもの、というほどの意味である。なお、第四原則の標題『経験的思惟一般の要請』における『経験的思惟』とは『私の現存在』を意味し、『一般』とは特定の時間・空間に位置する『この』私の現存在を要請するのではなく、『一般的に』私の現存在を要請するという意味である。

 以上はカント特有の『要請』の意味であるが、もともとはユークリッド幾何学における『平行線の公準(Postulat)』すなわち『ある直線の外の点を通りこの直線に平行な直線は一本しかない』という原理のようなものである。これは厳密には公理とは言えないが、『原理として認めても差し支えない』という意味が含まれている。この場合、訳語としては『公準』を使うが、カントの用語においても『要請』ではなく『公準』という訳語を採用する研究者もいる。なお、古代ギリシャの弁論術において『議論の前提として立てられるもの』を『公準=要請』と呼んでいたが、ユークリッドはこれを幾何学に採用したという。

 さて、カントは先に挙げた理性の三つの主要関心のうち『実践理性批判』において、『自由』に独特の実在性(実践的実在性)を認めてしまったので、あくまでも要請として残るのは、『魂の不滅』と『神の現存在』の二つである。カントはこの二つの要請を『実践理性批判』の最後で論じている。二つの要請の構造はずいぶん異なるものである。が、カントの二つの要請を悪戦苦闘して読み解いた揚句、『裸の王様』よろしく『すべては屁理屈だ!』と叫びたくなることも事実である(少なくとも私は)。このうちここでは『魂の不滅の要請』を取り上げ、次節は『神の現存在の要請』を検討することにしよう。」(中島同書p178-p180)

 中島の解説によると、『純粋理性批判』の「原則論」の第四原則「経験的思惟一般の要請」とは「経験的思惟(を行う)私(という)の現存在の一般的な主観的原理として充分に認めていいもの(公準)」という意味であることがわかった。

 そうすると、「魂の不滅の要請」とは「魂の不滅についてはわれわれの主観的原理として充分に認めていいもの」であると解釈できる。中島はこのことについて次のように書いている。

 カントは『純粋理性批判』において「魂の不死」の証明を「誤謬推理」であるとして「徹底的に粉砕した」(中島同書p180)のであるが、『実践理性批判』においては「魂の不死」を要請した。すなわち「実在的・客観的世界の原理とはなりえないが、主観的原理として充分に認めていいもの、それを認めても実在的・客観的世界にはいかなる支障もきたさないもの」(中島同書p186)と認めたのである。それはなぜか?

 そもそも、一方で、人間の「理性はわれわれ人間を含む全理性的存在者に『完全な道徳的善に到達する』ことを命ずる。他方、地上の有機体である人間はせいぜい100年で死んでしまう。」どうしたってこの「完全な道徳的善に到達する」ことは千年でも万年でも一億年でも、「無限の時間」を費やしても、人間には実現不可能な道徳的な命令である。だから、「理性はみずからの命令を遂行するために、肉体が滅んでも魂は無限に存続することを『要請』するのだ」(中島同書p182)という。

 中島はカントのこの理屈、この「要請」、主観的には認めたい魂の不滅の「要請」についての論証は「最も説得力のないもの」で、「まさに屁理屈以外の何ものでもない」(中島同書p182)と書いている。

 中島はカントの「屁理屈」を三点挙げて反駁している。

「第一に、きわめて長い時間と永遠とは全然違う。70年の生涯で道徳的完全に至らない人は、70億年かけても至らない。だが、カントの論述は、まるできわめて長い時間を引き延ばすと、その果てに永遠があるかのようである。

 第二に、この論理によると、生きているうちに道徳的完全性の度合いが高い人より低い人のほうが死後より長い時間が与えられそうである。それとも両者は生きているあいだの道徳的完成度にかかわらず、同じように魂の不死が与えられるのだろうか?すると、生きているうちの道徳的向上とは何の意味があるのだろうか?

 第三に、もっと根本的な疑問だが、はたして肉体が滅んだ後の魂だけの道徳的向上とは何のことであろう?われわれは、そのために一体何をすべきなのだろう?」(中島同書p182-p182)

 中島は、これ以外にも「もっともっと疑問が湧いてくる」という。「魂の不死」の要請と魂の不死の宗教的な教義との違いがわからなくなる。この論証の部分は、世界中の非西欧世界の人間にとって、そして西欧の現代の人間にとっても、この「教義」は、「理解不能の代物」(中島同書p183)だと中島は言う。

 カントは、「魂の不死」「魂の不滅」と同じように、「神の現存在」についても、神の存在についての理論的な証明はできないとしながら、「実践的に」「神の現存在の要請はできる」とする。

 中島はカントのこのやり方について次のように書いている。

「われわれ人間理性は『神の現存在』を欲している。そして『神の現存在』は積極的に証明できないが、それを認めても客観的世界と矛盾しない。よって、『主観的原理として十分認めていい』わけである。

 これが、カントの『理性信仰』の核心をなしている。理性には、数学や物理学を基礎づけるという性格と並んで、超経験的なものに独特の関心を持つというもう一つの性格があるのだ。それは二重の構造をなしていて、第一に、魂の不死や神の現存在が欲しいあまりに、それらを(論理を超えたものとして前提するのではなく)論理的に証明してしまう、という独特の戦闘性を、そして第二に、この誤りに気づき、魂の不死や神の現存在は証明されうるものではなく要請されうるものであることがわかる、という同じく独特の自己批判性を含み持っている。

 そして、ほとんどの現代日本人にとって、理性の第一の性格はわかるとしても、第二の性格は、どうしても受け入れられないのではないだろうか?それこそ独特の『ヨーロッパ男性理性』の臭いが満ちていて、とても呑み込むわけにはいかない

 確かに、考えてみれば、『ヨーロッパ男性理性』はきわめて特殊であり、このような理性の保持者はせいぜいヨーロッパ半島に棲息している(いた?)人類のうちそのさらに半分(男性)しかいない。それなのに、その理性を『普遍的』だと決めつける権利が一体どこにあるというのか?」(中島同書p187)

 しかしながら、カントは、この世における人間に対する理性の命令、「完全な道徳的善に到達するようにせよ」という命令に加えて、「さらに、この道徳的完全性が幸福と一致することまでも求める。すなわち、理性が、われわれ人間に、第一に道徳的に完全であることを、そしてそれに条件づけられて(その限りで)第二に幸福であること、言いかえれば、唯一こうした順序=秩序(Ordonung)に従って道徳的善と幸福とが一致すること(これをカントは『最高善』と呼ぶ)を命ずるのだ。」(中島同書p190)

 この道徳的善を第二に、幸福を第一にすること(これをカントは「転倒」と呼ぶ)こそ、人間の常であるのだから、すなわち、人間の行為を直接支配しているのは、自己愛(利害関心)なのだから、人間が「最高善」を実現することは、この世のみならず、来世(それがあったとして)においても絶対的に不可能だろう。このような「不安定で過酷な状況」(中島同書p192)に投げ込まれているのがこの世に生きる人間なのだ。

 カントはそれを知っていた。

「興味深いことに、カントにとっては、人間が理性の命令を聞き入れず、どこまでも幸福に執着するという不完全な存在であるからこそ、『神の現存在の要請』が成立する」(中島同書p192-p193)のだという。

 

 日本文化・日本文明の精神的伝統の中で生きている日本人の私は、一神教の神の現存在をどこまでも強引に要請(強請)するヨーロッパ人を見て、「何という狂信者だろうか」という気持ちを抑えることができない。この現世に生きる人間が幸福(自己愛)を第一とし、道徳的善を第二にすることをもって、道徳的善を蔑(ないがし)ろにする「根本悪」にまみれた人間であると非難し、これこそキリスト教的「原罪」の印が人間の肉体に刻印されている証拠だと言われると、西欧哲学は中島が言うようにユーラシア大陸の片隅の「ヨーロッパ半島北部(ならびに大ブリテン島)」(中島同書p207)だけに成立した「ヨーロッパ人の特殊な思考法を特権化して普遍的なものとみなすドクマ(宗教上の教義・独断的な説)」(中島同書p201)であるという中島の意見に私も同意する。

「カントによると、(男性)理性の本性の要を形作るのは、どこまでも『無条件者(das Unbedingte )』を求めることである。あらゆるものの究極根拠を求めること、絶対的必然的な存在者を求めること、と言いかえてもいい。一見多様な現象世界には、ある統一的秩序があるはずであり、それを言葉と論理を駆使して求めること、デカルトからフッサールに至るまで(男性)理性には、病的なほどこうした傾向が認められる。」(中島同書p213) 

 この狂信的なドグマに骨の髄まで絡みとられた西欧の哲学者にとってこそ、ニーチェの告発は彼らに深刻な衝撃を与えたのだと今更ながら思われる。

「ニーチェの言葉『神は死んだ(Gott ist tot  )』(正確な邦訳は『神は死んでいる』だと中島は言う)の真の意味は、こういうことだと私は思っている。すなわち、『神=ヨーロッパ男性理性』が普遍的なものではないことが露呈した、その嘘が暴かれた、すなわち、『死んだ』ということだ。」(中島同書p209-p210)

 中島によれば、ニーチェは『善悪の彼岸』において、「あらゆる哲学者の理論は、『固有の意見』であり『思いつき』であり『霊感』にすぎないのだが、彼らは不正直で不誠実なことに、それを客観的普遍的真理であるかのようなふりをする。」(中島同書p210)と書いたという。

 

 そして、一神教的な無条件者の飽くなき追求もさることながら、理念のために命をかけるという人間のオス=男について、中島は「生命進化史において初めて発現した観念的動物」であって、「生命や安全以上に『抽象的な何か』に価値を置いて生きる男は、動物のネイチャー(自然本性)からするときわめて『異常』だとしか言うしかない」(中島同書p221)という。人間のの行為を直接支配する利害関心は2つあるとウェーバーは述べている。一つ目は物質的な利害関心であり、2つ目は観念的利害関心である。前者は現実的でわかりやすいが、後者は人間の心理的・精神的なものであって、かつ多様なものだと思う。多様なものの中の一つに精神的富への利害関心がある。具体的に言えば、地位や名誉への利害関心である。中島が言うところの男性が観念的動物であるということは、抽象的な何ものかに価値を置き、その価値のために命をかけるということであるが、男性には抽象的な価値に対する利害関心が女性よりも強烈であると言うこともできる。

 ここで思い出されるのは、カントの倫理学において、常に真実を第一に幸福を第二にするようにせよという教えである。男性理性の代表格のカント倫理学は、真実のためには幸福を犠牲にしなければならないと命令する。こうした命令は99%実現が不可能である。そもそも現世における人間の利害関心は自己愛であり、その物質的並びに観念的な自己愛の追求こそが幸福の本質である。しかしながら、「生命や安全以上に『抽象的な何か』に価値を置いて生きる」男性理性は真実のための真実を求める。それは真実の実現のために誠実と首尾一貫性を求める。この価値観のためには、時には生命も安全も幸福も犠牲にしてしまうのが、男性理性である。 

 

(注)参考資料

「人間の行為を直接に支配するものは、利害関心(物質的ならびに観念的な)であって、理念ではない。しかし、『理念』によって作り出された『世界像』は、きわめてしばしば転轍手として軌道を決定し、そしてその軌道を利害のダイナミックスが人間の行為を推し進めてきたのである。つまり、『何から』そして『何へ』『救われる』ことを欲し、また――これを忘れてはならないが――『救われる』ことができるのか、その基準となるものこそが世界像だったのである。」(マックス・ウェーバー『宗教社会学論選』みすず書房 1972年10月25日p58)