死と生に関する随想その105 (中島義道『純粋異性批判』によるカント『純粋理性批判』入門)その3 | 飢餓祭のブログ

飢餓祭のブログ

ブログの説明を入力します。

 カントの神の存在論的証明に対する批判について中島は次のように書いている。

 神が存在することを証明したい者は、「神は概念ではなく個物である」と初めから決めてかかる。証明者は「神は個物である」ことを前提とする。つまり、神は、個物、つまり、実在した人物であるということを前提とするという。

 そうすると、「『神』という主語にはあらゆる可能な述語が付与されねばならない。だが、神は完全なのだから、あらゆる『PかPでないか』という選言において肯定的なものだけが付与される。ここで、完全性と実在性とが交換概念であったことに注意しよう。実在性には初めから価値評価が含まれていて、最も完全なものとは最も実在的なものにほかならない。

 こうして、神にすべての肯定的な述語が付与されたとしよう。しかし、残りは『存在する』という述語である。ここで、『神』という主語に対して、二つの述語グループが成立する。第一グループは、それまでのすべての肯定的述語、そして第二グループはこれらに『存在する』という述語を加えたもの。さて、神は『存在する』という述語を除いて、完全に規定された。あとは、『存在する』という述語がつくか否かの判定である。ここで、先の存在論的証明がまた復活してくる。すなわち、最も実在的なものが、『存在する』という述語を欠くなら、それは最も実在的なものではなくなってしまい、矛盾である。よって、神には『存在する』という述語を付与せねばならない(つまり神は存在する)。

 カントの矛先は、こういう形に姿を変えた存在論的証明に向かっていく。そして、同じ sein 動詞(英語でいう be 動詞)を使っているが、『Sが存在する(ある)』という用法は『Sが......である』という用法とは異なる、という論法で一突きするのだ。すなわち、神の完全性(実在性)の計算は『......である』の集合ですでに完了していて、最も実在的な述語を具えた神が『存在する』ことも『存在しない』こともありえるわけである。

 デカルトでは、『存在する』という最後の述語が最も実在的なものを充たすために必要な述語の一つとして算定されていたのに対して、カントは『存在する』という述語はそもそも実在的なものの計算には入らない、と判定したわけである。これを言いかえれば、そのあらゆる述語をもって神は最も実在的なものでありながら、まるごと観念にすぎない、ということも充分ありえるわけである。

 これは、神の場合に限定されず、一般的に妥当する。これに関して、カントは現実の100ターラー(当時のお金の単位)と架空の100ターラーは『実在性』という観点からはまったく同じであり、前者は現に使え、後者は現に使えないという点だけで違う、という有名な議論をしている。

 つまり、夢に見た100ターラーも、想像上の100ターラーも、もしそれが100ターラーの夢や想像であるなら、現実の100ターラーと同じくぴったりの100ターラーであって、それより僅かにも少なく(なって)はならない。すなわち、それは銀行に持っていけば預金でき、あれもこれも買うことができる(まさにその)現実の100ターラーの夢や想像でなければならない。そうでないと、他のものや他の金額の夢を見たり想像したりしていることになってしまうからである。

 いいだろうか?普通われわれが100万円宝くじで当たった夢を見るなら、ニセの100万円の夢を見ているわけではない。それで、車を一台買える現実の100万円の夢なので。ニセの100万円の夢なら、また違った(偽札をつかまされた?)夢になるだろう。」(中島同書p118-p120)「あらゆる述語をもってXは最も実在的なものでありながら、まるごと観念にすぎない」という命題のXに「100ターラーのお金」を入れてみると、100ターラーというお金は最も実在的なものでありながら、まるごと観念(夢、想像)にすぎない場合もあるとなる。

 

 第二の神の存在証明は宇宙論的証明である。それはいかにも経験的な装いをしているが、じつは存在論的証明の変種にすぎない。それは、次のように展開する。

『いま・ここ』に特定の状態にある世界が現に存在するが、それはこれに先立つ原因(条件)によって生じたものである。そして、その特定の状態にある世界も、さらにそれに先立つ原因(条件)によって生じたものである......という具合にどこまでもさかのぼり、結局はそれ以上さかのぼることができない『無条件者』に行き着く。

 これが宇宙論的証明の大筋だが、こうした『無条件者』がそのまま神にはなりえないので、ここでまたトリックが仕掛けられる。考えられるすべての最も実在的なもの(神)は無条件者であり、考えられるすべての無条件者は最も実在的なもの(神)である。だが両者ともに一つだけしか存在しないのだから、両者は一致するのだ。こうした巧みな(狡い)論法によって、無条件者を最も実在的なもの(神)と同一化するのである。

 しかも、この同一視全体は経験を超えたところで、単に概念のレベルでなされているにすぎない。こうして、宇宙論的証明は、いかにも存在論的証明と異なった理屈を持ち出して神を証明しているようであるが、最後のところでぴょんと跳躍し、ここで獲得された無条件者をすでに獲得されていた最も実在的なもの(神)と同一化することによって、『神の存在証明』を成り立たせているのである。」(中島義道『純粋異性批判』講談社 2013年12月10日p120-p121)

 

 第三の物理神学的証明(自然神学的証明、または目的論的証明ともいう)について中島は次のように書いている。

「これ(物理神学的証明)は、誰でもすぐに考えつくことで、こんなにも全宇宙(自然)が、地球上の風物が、人間の身体が、調和的であるのは偶然とは思われない。これらはきっとわれわれ人間をはるかに超えた存在者Xの作品に違いない(Xを、どのような存在者とみなすかは文化によって異なるであろう)。

 たしかに、思考法則のみならず自然法則はあまりにも整合的である(調和が取れている)。あらゆる時間、あらゆる空間において、普遍的法則が支配していることは、偶然と呼ぶにはあまりにもできすぎている。さらに、地上には無数の有機体が繁栄し、その一種としてのわれわれ人類を含めてその身体各部の機能がみごとに目的に適っている(調和が取れている)ことは驚くべきことである。このすべてを説明するには、(『ヨーロッパ男性理性』という限られた能力では)神による創造を想定する以外にない、というわけである。

 カントはこういう自然のとらえ方を  „ Natur als Kunst (技術=芸術としての自然) “ と呼んだ。素晴らしい芸術作品や科学技術の成果には必ず天才的な作者がいる。すると、自然という類まれなみごとな作品がいかなる作者もなく出現したと考えることはできない。これは、人工物より比較を絶して素晴らしいのだから、人工物の作者(人間)より比較を絶して優れた作者によって作られたにちがいない。すなわち、人間よりはるかに優れた能力を持つ創造者がいるにちがいない。

 以上が『物理神学的証明』を支持する者の論法であり、これにカントは『批判』の毒矢(?)を放つ。

 カントの批判は、二点から成っているが、第一点は、これまでの二つの神の存在証明批判と同じである。すなわち、最も実在的な者、無条件的に必然的な者という概念は矛盾なく理解できるが、それが現に存在することは認識できず、ただ唯一の個物としての理念すなわち『理想』としてあるにすぎない、というもの。しかし、第二点は物理神学的証明固有の新しい論点であるが、正直言ってそれほど殺傷力のある矢ではない。それは、自然法則の整合性(調和)からは、その『世界創造者(Weltschöpfer)』を想定することはできず、せいぜい『世界建築者(Weltbaumeister)』を想定することができるだけだ、というもの。つまり、人間の芸術家や技術者との比較を持ち出す限り、いかに比較を絶した芸術家や技術者であろうとも、想定された者は、素材(質料)が与えられたら、それを作品へと加工する者でしかない。これは、質料自体をも創造するという神の基本性格とは異なり、よって、証明は成功していない。

 一応なるほどとは思うが、カントは質料の創造の可否という微妙なところで線を引いたわけで、いかにも技巧的批判という印象は免れない。その場合、少なくとも『世界建築者』としての限りにおける『神』の存在は証明できたことになってしまうのだから。」(中島同書p125-p127)

 中島はこの物理神学的証明に関する議論が後の『判断力批判』で再び取り上げられているとして次のように書いている。

「カントは、後の『判断力批判』において、物理神学的証明ときわめて似た議論を再開し、『超自然的なもの(das Übersinnliche )』に対する『崇高(Erhaben )』の感情として位置づけている。われわれ理性的人間は、他の地上の動物たちとは異なり、崇高の感情を持つ。それは、大自然を前にしての恐れとおののきのように、対象への恐怖であるとともに、それによってはいささかも侵害されない理性的存在者としての自分に対する快感でもある。まさにパスカルの言うように、人間は、確かに葦のようなはかない者であるが、同時にそれを自覚している点で偉大なのである。

 すなわち、物理神学的証明そのものは誤謬なのだが、超自然的な者に対する崇高の感情だけは、真実の感情なのだ。ということは、崇高とは現に存在する超自然的なもの(神?)に対する感情という意味には限定されず、超自然的なものという『理念』に対する感情として同じように成り立つということである。

『判断力批判』においては、物理神学的証明に対する技巧的批判の代わりに、われわれは確かに自然に調和を感ずるが、それらが直ちに超自然的なもの自体の存在を証明するのではなく、超感性的なものという理念に対する崇高の感情として現に存在する、というしっかりした地点を確保している。しかも、この意味で超感性的なものは、われわれの認識に役立っているのだ。宇宙を眺めても、物質の細部に分け入っても、人体を探求しても、あまりにも調和的で、このすべてが

偶然によるとは考えにくい。このすべてはあたかも人間とは比較を絶した知性者(神?)が創造したとみなすほうがうまく説明できる。その意味で、『あたかも〜かのように』に留まる限り、『自然を創造した神』という理念は自然科学の認識を進歩させる積極的な役割を担っているのである。

 こうした『あたかも〜かのように』をカントは『統整的原理(regulatives Prinzip )』と呼ぶ。これは、カントの数々の概念装置の中でも白眉だと思われる。われわれ人間(とくに女)は、とかく物事をAかAでないか、と単純化してみたがる。いや、日本人なら、AでもAでないでもない中間状態というのも大好きだ。しかし、これもまたAともAでないとも断定できない『中間のもの』を漠然と持ってきたにすぎない。その『中間のもの』の厳密なあり方こそ問題なのである。統整的原理とは、ある法則や規則が物理法則のように観察と厳密な推論によって成り立っているわけではないが、それを想定することに矛盾はなく(物理法則と抵触せず)、しかもそれを想定することによって、物理法則では説明できないレベルにおける自然のさまざまな面が解明できる、という利点を持っている。『発見的原理(heuristisches Prinzip )』と言いかえてもよい。

 すなわち、神の存在証明はできないが、だからといって神をわれわれの自然研究から完全に抹殺してしまうのではなく、『あたかも神がいるかのように』想定して、自然研究を進めることは矛盾していないどころか、きわめて合理的(理性的)態度なのである。だが、おうおうにして、われわれ人間はこの微妙な段階に踏み留まらずに、『あたかも存在するかのような』から『存在する』へと跳躍してしまう。この跳躍を越権行為として警告し、権利を主張できる本来の領域に引き戻すこと、これが『批判』なのである。」(中島同書p128-p130)

 

 この、regulativesであってheuristisches な Prinzip 、統整的(統制的)であって発見的、索出的な原理とはどのような概念なのだろうか。

  神武庸四郎は次のように書いている。

「歴史の構造化の手本を社会現象に即して示し時間を捨象したシステムの創出を試みたのは、いうまでもなく、マックス・ウェーバーである。かれは一般化していえば、カントの論じたように、理性概念としての理念を使用した「統制的原理 (das regulative Prinzip)」(B537)を彼なりの流儀で駆使して壮大な社会学システムを構成しようとしたのであった。経験から得られたものでありながら経験を超えたところに位置する目標に悟性を方向づける虚構ないし作業仮説としてこの原理を活用することによってウェーバーは社会学システムのひとつの可能な総合を求めたのである。」(神武庸四郎「超越論的システム論へのプロレゴメナ 」p25)

超越論的システム論へのプロレゴメナ Prolegomena zur transzendentale Sytematik

 神武は、ウェーバーはカントの「統制的原理 (das regulative Prinzip)」を「経験から得られたものでありながら経験を超えたところに位置する目標に悟性を方向づける虚構ないし作業仮説」と捉え、この統整的原理を活用=応用した、という。それが理念型(Idealtypus)という新しい概念構成だった。

 ウェーバーも次のように書いている。

「理念型は、ひとつの思想像であって、この思想像は、そのまま歴史的実在であるのでもなければ、まして『本来の』実在であるわけでもなく、いわんや実在が類例として編入されるべき、ひとつの図式として役立つものでもない。理念型はむしろ、純然たる理想上の極限概念であることに意義のあるものであり、われわれは、この極限概念を基準として、実在を測定し、比較し、よってもって、実在の経験的内容のうち、特定の意義ある構成部分を明瞭に浮き彫りにするのである。こうした概念は、現実に依拠して訓練されたわれわれの想像力が適合的と判定する、客観的可能性の範疇[カテゴリー]を用いて、われわれが連関として構成する[思想]形象にほかならない。」(マックス・ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる「客観性」』岩波書店 1998年8月17日 p119)

「かれら(歴史学派)は、『客観的』実在の表象的模写が、概念の目的である、と前提してかかっており、それゆえに、鋭い概念はことごとく非現実的であると、たえず繰り返し指摘するのである。カントに帰りつつある現代認識論の根本思想、すなわち、概念はむしろ、経験的に与えられたものを精神的に支配する目的のための思想的手段であり、また、もっぱらそうしたものでありうるにすぎない、ということを、徹底して考え抜いた者にとっては、鋭い発生的概念が必然的に理念型であるという事情は、そうした理念型の構成に反対する理由とはならないであろう。かれにとっては、概念と歴史的研究との関係が逆になる。上記の〔歴史学派のいう〕最終目標は、かれには論理的に不可能であると思われ、概念は目標ではなくて、むしろ、個性的な観点からみて意義のある連関を認識するという目的のための手段である。そして、まさに、歴史的概念の内容が、必然的に変遷を遂げるからこそ、歴史的概念は、そのときどきに、必然的に鋭く定式化されなければならない。かれが要求することは、ただ、そうした概念を使用するにあたって、それが理想的な思想形象であるという性格を注意深く堅持し、理念型と(実際の)歴史とを取り違えないようにすることだけであろう。」(マックス・ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる「客観性」』p148-p149)

(注)歴史学派 - Wikipedia とは「19世紀初めのドイツにおいて法学・経済学の分野で起こった学派で、啓蒙思想や自然法の持つ抽象性・普遍性に反対して、歴史事象の具体性の重視を主張する歴史主義の立場をとった」学派である。

 Wikipediaにあるように、ドイツ歴史学派は抽象的理論に対して「歴史事象の具体性の重視を主張」していたのであるが、カール・メンガー - Wikipedia のWikipediaには次のように書かれている。

「教授職という安定した地位を得たメンガーは、かれの主張した論点と『経済学原理』で用いた手法を発展させ、その正しさを立証することに着手した。これは1883年に『社会科学、特に経済学の方法に関する研究』(Untersuchungen über die Methode der Sozialwissenschaften und der politischen Ökonomie insbesondere)の出版となって結実した。この本は論争の嵐を引き起こし、メンガーとかれの弟子たちは、ドイツ経済思想の本流から逸脱しているという意味で、歴史学派の経済学者たちから嘲笑をこめて「オーストリア学派」と呼ばれるようになった。1884年、メンガーは『ドイツ国民経済学における歴史主義の誤り』(Irrtümer des Historismus in der deutschen Nationalökonomie)という批判文書でこれに応じ、こうして歴史学派とオーストリア学派の間の方法論争(Methodenstreit)が始まった。」

 歴史学派が抽象的(経済)理論と呼んでいるものはメンガーをはじめとするオーストリア学派の「限界効用理論」などの理論を指す。

 ウェーバーの上記論文の邦訳本である岩波文庫版の補訳と解説を担当した折原浩は理念型概念について次のように書いている。

「抽象的理論はまったく無意味かというと、そうではない。著者(ウェーバー)によれば、抽象理論はいわば、批判的自己認識を欠き、自然主義に囚われ、みずからの位置づけを誤っているのであって、これを批判的に位置づけなおせば、文化科学に固有で不可決な概念構成の一形式として蘇生し、しかもこの〔抽象的経済理論という〕一特例を端緒に、いっそう一般的-包括的な理論的概念構成へと進むことができる。そこで、次段からは、この概念構成の一形式、すなわち<理念型>を、詳細に性格づけ、社会科学的認識における理論の意義という原理的問題を、立ち入って考察していこう。

 抽象的経済理論とは、じつは、歴史現象の「理念 Ideen 」と呼びならわされている〈綜合 Synthese 〉の一例である。それは、かりに社会が、完全に交換経済によって〔つまり、オイコス的ないし農民的自家需要充足ぬきに〕組織され、〔いかなる〈独占〉もなしに〕完全な自由競争がおこなわれ、経済主体が完全に合理的に〔非合理的情動に撹乱されたり、伝統的習俗ないし慣習律に囚われたりすることなく〕行為するとすれば、市場をめぐっていかなる現象が繰り広げられるか、を問う。そして、無限に多様な実在から、特定の諸要素〔ここでは交換経済・自由競争・合理的行為それぞれへの傾向〕を抽出し、〈思考の上で高め〉――つまり、現実にはそれらと共存し、それらにまつわりついている夾雑物〔ここでは、オイコス的ないし農民的自家需要充足、独占、非合理的情動や伝統的習俗ないし慣習律など〕を捨象し、それら(特定の諸要素)の傾向だけをそれぞれ純化-完成させていくとどこに行き着くか、その帰結にまでつきつめ――た上、それぞれを、それ自体として矛盾のない連関――その意味で〈〔思想上の〕宇宙〉――にまとめあげ、〈総合〉した〈思想像 Gedankenbild 〉である。あるいは、物理学が、さまざまな夾雑物を含む現実の諸気体にたいして『理想気体』を考える流儀に倣って、〈理想像 Idealbild 〉といってもよい。したがって、それは、そのままの形では現実のどこにも存在しない〈ユートピア〉の性格を帯びている。

 当事者はおそらく反省されないまま、じつはこのようにして獲得されていた抽象的経済理論を、こうした構成の仕方と性格とを捉え返し、明瞭に自覚した上、ここで〔近代交換経済社会の〕〈理念型 Idealtypus 〉と呼び換えることとしよう。„ Idealtypus “ に『理想型』でなく〈理念型〉という訳語を当てるのは、①前者では、ともすれば『理想的な価値をそなえた模範型』という価値評価が紛れ込んで、前Ⅰ節の〈理想〉との混同を招きやすいこと〔実際筆者の経験では、『理想気体』の概念を知っている理科生のほうが、この混同に陥ることが少ない〕、また、②おそらくは①とも関連して、どちらかといえば〈理念型〉という呼称のほうが多用されるようになってきている事情、とによる。」(マックス・ウェーバー『社会科学と社会政策にかかわる「客観性」』折原浩解説p268-p270)

(注)オイコスとは、「王侯・領主・都市貴族の、権威的に指揮された大家計で、その究極の動機が、資本主義的な貨幣営利にでなく、首長の需要の、実物による組織的充足にあるもの」と定義されている。家権力による家産の維持拡大だけが目的となる。(マックス・ウェーバー前掲『「客観性」』論文解説注79p334)  

 理念型概念については、次のサイトにおける解説が包括的でわかりやすい。

 <【基礎社会学第六回】マックス・ウェーバーの「理念型」とはなにか(概略編)>においてこのサイトの著者・蒼村は理念型について次のように解説している。

「理念型とは、文化事象を理解するために手段として利用できる概念的な分析モデル」であるとし、その特徴を4つにまとめている。

 

①理念型は実在には存在せず、思考の中にのみ存在する純粋な論理モデル(架空物のもの)。

②理念型と実在を比較することによって、実在(実際の現実世界)が理解(認識)可能になる。

③一面的・非実体的な把握とは、実在を「概念」的に把握することであり、つまり「理念型」として実在を把握することである。

④概念は一面的であり、非現実的なものである。概念と現実を混同してはいけないし、概念に当てはめるために現実を捻じ曲げてもいけない(プロクルステスの寝台)。※ベッドの大きさに合わない人間の足を切断するギリシア神話。」

(引用者注)ここで「実在」とは、一回的で個性的な歴史、ウェーバーの言葉でいうと、「歴史的個体」のことである。

マックス・ウェーバーの「理念型」とは何か?その意味とは

 

 蒼村は経済の分野における「虚構ないし作業仮説」としての理念型概念の具体例を次のように書いている。

「実在そのものは交換経済だけで成り立っていない。盗まれることもあるし、無償で譲渡されることもある。全く他者と交換せずに、自給自足で生活している人もいる。自由競争が行われずに独占される場合もあるし、非合理的に行為する人間もいる。

 

・理念型の例 仮に社会が完全に交換経済によって組織され、完全な自由競争が行われ、経済主体が完全に合理的に行為するというモデルを考える。このモデルをもとに、市場をめぐっていかなる現象が起こるかを考える。このモデルでは、現実には存在する独占や非合理的な行為をする人間は捨象される。つまり、不純物として捨て去られる。そうして、モデル自体は矛盾のない思想像がつくられる。もし完全な交換経済・自由競争・合理的な行為等々が前提となれば、卵の値段は~円くらいに上昇し、~個くらいの売上が出るという予想もできるかもしれない。しかし実際には複雑すぎて予想通りに行かない場合が多い(たとえば突然鳥インフルエンザが流行するなどという想定はモデルにはない)。

 

理念型と実在を比較し、分析することで得られる利益もある。

 

・理念型の例2:囚人のジレンマのような「ゲーム理論」においても「合理的に両者が行動すれば、両者とも良くない結果になる」という理想的な前提が用意され、分析が行われる。いちいち行為者の性格や、行為者が置かれている特殊な環境を全て考慮していたらまともに分析できない。自然科学においても「理想気体」のように、分子間の相互作用のない気体という現実には存在しない気体が想定される。もし完全な真空状態なら・・という過程も同じように理念型的である。なぜなら自然には真空状態が確認されていないからである。

 

・理念型の例3:たとえば、猛暑になればアイスクリームの売上は上がるだろうと予測するとする。しかし、アイスクリームを食べると頭が悪くなるというデマが猛暑になぜか流行り、売上が下がることもある。しかしこのような事態をすべて想定して全面的に実在を分析することはできない。したがって、そのような事態は無いもの(不純物)と仮定して捨象し、一面的に分析するしか無い。

・例:自然科学において真空状態という実在しない理想的な状況を頭の中だけで考えるケースも同じ。あるいは実験室でかぎりなくその状態に近づけてテストする(完全な真空状態は実現不可)。」 マックス・ウェーバーの「理念型」とは何か?その意味とは