生と死に関する随想その104 (中島義道『純粋異性批判』によるカント『純粋理性批判』入門)その2 | 飢餓祭のブログ

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 中島義道は、カントの『純粋理性批判』における「きわめて高度な誤謬推理」を次のように解説している。 

「『純粋理性批判』においては、『純粋理性の誤謬推理』は四つある。『実体性の誤謬推理』、『単純性の誤謬推理』、『同一性の誤謬推理』そして『観念性の誤謬推理』であるが、基本的にはすべて『実体性の誤謬推理』から導かれる。すなわち、先に述べたように、„Subjekt“  に『実体』と『主語』という二つの意味があることを利用して、『私の魂』が不滅な実体であることを推理してしまうのである。

 

  大前提:魂は肉体とはまったく別のあり方をしている。

  小前提:肉体は死滅する。

  結 論:だが、肉体とはまったく別のあり方をしている魂は、このことに影響されずそのま      ま存在し続ける。

 

 たとえAとBとが、まったく異なったあり方をしていようと、このことからは、AあるいはBが相手の消滅後にも、独立に存在しうることは導けない。確かに、心=魂は肉体(例えば脳)の機能に解消されない独特なものである。だが、ここからは、魂が肉体の消滅(死)後もそれだけ独立に存続しえることを導けない、ということである。しかし、多くの哲学者たちは、まさに、この誤謬推理を信じて、魂の不滅を『証明』したつもりになっていたのだ。」(中島義道『純粋異性批判』講談社 2013年12月10日p64)

「『誤謬推理』の種類は果てしなくあるが、そのすべての源泉は人間理性の『自然本性(Natur)』に帰することができる。つまり、人間理性は、その本性上魂の不滅を証明してしまったり(『超越論的誤謬推理』のテーマ)、世界全体が無限か有限か判定してしまったり(『超越論的アンチノミー』のテーマ)、神が存在していることを証明したり(『超越論的理想』のテーマ)するのだ。

 理性は、一方で、科学に基礎を与え、数学や物理学を可能にするが、他方、経験を超えて勝手な妄想に耽ってしまうというわけである。ここで、後者の理性の働きをぜひとも強調しておかなければならない。すなわち、狂気や情熱ではなくてまさに理性自身が、冷静に論理学の法則に従って経験を超えた本来証明が不可能なことを『証明してしまう』というわけである。

 敵は手ごわい。敵を見抜くのは難しい。なぜなら、真理の敵は理性自身であり、それはとりもなおさず精密科学を基礎づける能力をもった真理の味方なのであるから、ある振る舞い(A)において味方である者が、別の振る舞い(B)においては正真正銘の敵となってしまうことがある。軍隊の場合、将軍はその者の有能さを知りながら、いや有能であるからこそ、そのままにしてはおけないであろう。まさに『泣いて馬謖を斬る』であり、当人を処刑(粛清)するほかはない。

 だが、カントの視野には、理性を処刑する者(神?)はいない。ここからが奇想天外とも言えるが、理性以外の何かが理性を成敗するのではなく、ほかでもない理性自身がBという振る舞いの誤りを自分自身に気づかせることができる、とカントは考える。これが、『批判(Kritik)』の正確な意味である。すなわち、理性批判とは、理性が理性を批判するという自己批判なのであり、言いかえれば、理性が自分自身のある振る舞い(B)を批判するということなのだ。

 ということは、批判される側の理性から見返すと、理性とは、批判されるとその誤りに気づく能力を持っているということになる。すなわち、人間が理性的であるとは、絶対に謝りに陥らないということではなくて、誤りを指摘されれば『わかる』ということ、自分の誤りを受け入れることができるということである。

 以上、本書を読むような『普通人』にもわかるようにカントの基本思想を描いてみて、その慧眼に感心する。人間は、誤りに陥らないから偉大なのではない、膨大な量の誤りに陥りながら、誤りを誤りとして認めることができるから偉大なのである。」(中島同書p66-p67)

「人間理性は、抛っておくと『誤謬推理』を遂行してしまうことを別の観点から言いかえると、理性は抛っておくと『超越論的仮象(transzendentaler Schein)』に陥るというこである。一般に、『仮象』とは、『そう見える』ことをそのまま『(客観的に)そうある』とみなしてしまうことである。

 この例として一番わかりやすいのは、『惑星の運動』であり、ずっと昔から火星などの惑星の運動を地上から見ると、時折『逆行する』ことが観察された。このことから、これらの星は『惑星=さまよう星(Wandelstem)』という名を獲得した。

 天動説は、この『見える』惑星の逆行運動がとりもなおさず『そうある』ことだとみなす。だが、コペルニクスは、地球やこれらの『惑星』の運動を太陽を中心にしてとらえなおしてみると、惑星は逆行せず、きちんと円運動をしていることを発見した。つまり、地動説とは『そう見える』運動が必ずしも『(客観的に)そうある』運動とは限らないこと、両者のあいだにはズレが生ずることを示したのだ。

 これが、コペルニクスによる天動説から地動説への転回であり、カントは、ここに『見える』通りに『ある』とする一重の視点(天動説)から『(主観的に)そう見える』ことと『(客観的に)そうある』ことを峻別する二重の視点(地動説)への根本的転回とみなした。これが『コペルニクス的転回』である。

『コペルニクス的転回』を経ても、惑星の運動が逆行して『見える』ことに変わりはないが、現象の見え方をそのまま『(客観的)あり方』であると短絡的に結論づけず、『(客観的)あり方』は、この現象の『見え方』とは別である(場合によっては逆であるかもしれない)とする冷静な視点が獲得されたのだ。

 これを言いかえれば、あくまでも現象が『そう見える』ことに留まり、それは(地球から見える火星の運動のように)私の個人的視点『から』そう見えるのだ、という判断に留まっている限り、われわれは仮象には陥らない。だが、仮象はわれわれ人間の有する理性の自然本性に基づくのだから、人間に仮象に陥るなと要求することはできない。

 われわれが人間という生物体に要求できるのは、ある現象が『そう見えるから(客観的に)そうある』という判断を下してしまっている人に、なぜ『そう見える』のかという原因を示して、『そう見える』ことがそのまま『そうある』ことではない、という結論に至らせることである。」(中島同書p69-p70)

「自分の誤りを受け入れる」こと。カントは理性的存在者である人間ならば、それができると信じた。しかし、非理性的な人間のほうが多かった。それは現代においても変わらない。

 カントの「コペルニクス的転回」という言葉は有名な言葉である。カントは自分自身の観念論の根拠の一つにこの「コペルニクス的転回」を置いた。カントは、文字通りの天文学的な知見の転回だけでなく、超越論的な視点の獲得(転回)をも「コペルニクス的転回」と呼んで、自らの観念論を基礎づけたのである。

 中島はこの「コペルニクス的転回」における二重の視点について別の本で次のように書いている。

「具体的に言えば、地動説とは、地上の視点に加えて太陽の視点を獲得すること、こうした二重の視点を獲得することなのだ。とはいえ、私は常に地上の視点に束縛されており、この視点を抜け出すことはできない。私は太陽の位置にみずからの視点を置くことはできない。世界の見え方はコペルニクス的転回においてもいささかも変化しない。コペルニクス的転回によって、私には太陽が静止して見えるわけでもなく、地球の公転が見えるようになるわけではない。

 私は太陽の視点にもぐりこむことはできないが、その視点からの世界光景を思い描くことはできる。私はその視点において、固有のパースペクティヴ(眺望・視野、観点や思考の枠組み)をもって個物(他に置きかえられない独特な事物)に出会うのではない。私はただ、その(太陽の)視点からの光景を考えてみることができるだけであり、つまり概念としてとらえるにすぎない。そのかぎり、こうした概念としてのその視点からの光景もまた私の表象(心に思い描かれる外的対象の像)に属するのである。

 こうして、超越論的観念論を理解することは、すべてが私の表象の『うち』にありその『そと』は無であるというこの構造を理解することである。私が自分固有の視点を捨てることなく、しかも現に太陽の視点に立つことができれば、私は実在的世界を直接直観(端的にわかること)することができるであろう。私は太陽の視点にもぐりこみ、私は太陽の視点から世界を見ることができるであろう。

 物自体とは、私がみずからの視点と他者の視点との差異性を完全に消去した視点から眺めた世界に対応する実在である。こうした物自体を私は(認識はしていないが)実感している。それは根源的に『私が存在する』という実感につながっている。物自体とは私の表象の背後に潜む不可知の世界なのではない。私の表象の背後ではなくむしろ『手前』に注目することが必要なのだ。それは『私が存在する』ということである。私が私を端的に存在するものとして実感しているのでなければ、端的に存在するものとしての物自体に気づくことはないであろう。私にとって、私の存在こそが私の表象からはみ出して体験できる唯一のものなのだ。」(中島義道『カントの自我論』岩波書店 2007年10月16日 p10-p11)

 カント=中島によれば、理性は人類が客観的科学的な認識をすることを可能にした。理性によって得られた客観的科学的な認識は、「『そう見える』ことがそのまま『そうある』ことではない」ことを教える。すなわち、自然科学(物理学・数学)の理論によって、感性的直観(そう見える)ではなく、悟性的思惟による物理学的数学的な思惟によって「そう見える原因と真の理由づけの理論」が練り上げられ、客観的実在的世界像が出来上がったのである。そしてこの客観的実在的世界像は「私がみずからの視点と他者の視点との差異性を完全に消去した視点」から作り上げられたものである。ただ、この「太陽の視点」は、中島が後に論じているように、自己同一的なものだけを実在的なものとすることから、「私の視点」を消去=不在化することになった。

 それはともかくとして、「理性は抛っておくと『超越論的仮象(transzendentaler Schein)』」、つまり「『仮象』とは、『そう見える』ことをそのまま『(客観的に)そうある』とみなしてしまう」ことであるが、そしてそれは人間の自然本性なのであるが、理性は、上記のように「自己批判」能力を持っており、それ故に、理性の悟性的思惟=物理学的数学的思惟によって、客観的科学的な批判をすることで理性は超越論的仮象なるものからその都度抜け出すことができるとカントは信じた。

 

 それから、中島は『純粋理性批判』の第三節弁証論の「アンチノミー(二律背反)」の解説に進む。

「アンチノミーとは『二律背反』と翻訳されているが、カントの(意図した)意味に即して言えば、AとB双方の主張が一見矛盾しているように見えるが、じつはそうではなく、両方とも正しいか両方とも間違っているというふうな決着しかつかない対立のことである(これは具体例を挙げるうちにわかっていくであろう)。そして、その対立の独特の性格がわかれば、AとBの対立は解消する。水掛け論に巻き込まれずに済むというわけである。」(中島同書p90)

「理性は、数学や物理学などの精密科学を基礎づけるものであるだけでなく、抛っておくと経験の範囲を超えてしまい、あるものがじつはまったくの主観的現象なのに、客観的存在だと思い込んでしまう、という特異な性質(Natur)を持っている。『あるもの』とは具体的に言うと、永遠の魂、世界の全体、そして神の存在である。『純粋理性のアンチノミー』とは、このうちの二つ目、古典的形而上学における『宇宙論』に対応し、(外的)世界の『全体』を求めるという理性の動きを調べ、それを吟味(批判)することである。

 アンチノミーは、量、質、関係、様相のカテゴリーに沿って四つある。すなわち、世界の時間的、空間的全体を求めるという第一アンチノミー、世界の時間的、空間的無限分割を求めるという第二アンチノミー、世界の絶対的原因(超越論的自由)を求めるという第三アンチノミー、そして、無条件者を求めるという第四アンチノミーである。

 カントの睨むところによると、『全体』というテーマに直面すると、人間理性は独特の振る舞い方をする。それは、自分の見解のみ正しいとみなす凝り固まった態度で、それに反対する見解を徹底的に粉砕しようとする。しかも、カントによれば、こうした段階の理性は、互いにまったく反対の見解を持つ二つの態度(テーゼとアンチテーゼ)として現れてくるのだ。

 四つのアンチノミーのさらにテーゼとアンチテーゼを細かく検討する猶予も必要もないので、まず第一アンチノミーのそのまた半分だけを取り上げる。ということは、時間についてであって、テーゼは『世界は時間的に有限である』ことを主張し、アンチテーゼは『世界は時間的に無限である』ことを主張している。単純に考えて、理性の法廷に訴えれば、あらゆる量は有限か無限かのどちらかだから、どちらかの主張が真でどちらかの主張が偽である、という決着に至りそうである。だが、そうならないのが『全体』をめぐる論争の驚くべき特性なのだ。

 テーゼは主張する。もし世界が時間的に無限だとしたら、無限の昔とは何であろうか、無限の時間をたどってどうして『いま』に至ることができようか、と。このことが不合理なのだから、世界は時間的に有限である、と。

 だが、アンチテーゼはまったくの別の観点から主張する。もし世界が時間的に有限だったら、世界の開始という事態があるはずであろう。だが、世界が始まる時と『その前』の関係はどうなっているのであろう?『その前』は『無』であるはずだが、『無』にはいかなる動力もないはずだから、それがどうして『有』に移行することができよう?このことは不合理であり、よって世界は無限である、と。

 困ったことに、テーゼもアンチテーゼも、相手の見解の不合理を突くことに成功はしたものの、相手からも自分の見解の不合理を突かれてしまった。こうして、テーゼもアンチテーゼも自分の見解(のみ)が正しいという論証に成功することはできない。『世界は時間的に有限か無限か』という条件に対して、正反対の見解が持つ当事者双方が、それぞれ自分の正しさを信じて法廷に持ち込んだにもかかわらず、思いもよらないことに、裁判官は『両方とも正しくない』という判決を下したのである。」(中島『純粋異性批判』p93-p95)

 世界の時間が有限かどうかという問題は、現代の物理学においてビッグバン - Wikipedia 理論が出されて以来議論されている問題である。宇宙が無限か有限かという問題は有限ならばその有限の境界の向こうに何があるのかという問題に行きつく。そして、「有限でなければ無限である」「無限でなければ有限である」という論理学における排中律や矛盾律をこの議論に適用することが可能かどうかが問われなければならない。

 中島はカントのこの議論に関して、理性を二種類の理性があるのだと考えてはどうかと提案している。

①当事者理性=判決前理性、すなわち、自分の「主張の正しさを確信し、これを法廷に持ち込めば自分が勝つだろうと思い込んでいる段階」(中島同書p96)の理性。  

②裁判官理性=判決後理性、すなわち、自分が勝つだろうという「思い込みが間違いであって、自分も相手方も引き分けであることを悟った段階の理性」。

「つまり理性による理性の批判とは、当事者理性(判決前理性)が、裁判官理性(判決後理性)の批判を受け入れることなのであり、理性は第一段階で自分のみ正しいという思い込みに溺れるのであるが、第二段階では、それを主観的思い込みだと悟ることができるのである。」(中島同書p96)

 中島は四つのアンチノミーを「アンチノミーは、量、質、関係、様相のカテゴリーに沿って四つある。すなわち、世界の時間的、空間的全体を求めるという第一アンチノミー、世界の時間的、空間的無限分割を求めるという第二アンチノミー、世界の絶対的原因(超越論的自由)を求めるという第三アンチノミー、そして、無条件者を求めるという第四アンチノミーである。」と書いたが、「宇宙は無限か、有限か カントの出した「答え」」というウェブサイトでは、カントの四つのアンチノミーについて次のように書かれている。

《カントはどんなアンチノミーを俎上(そじょう)にのせているのでしょうか。カントの表現を簡単に言い換えると次のようになります。

①宇宙は無限か、有限か

②物質を分解すると、これ以上分解できない究極要素に至れるか否か

③人間に自由はあるのか、それともすべては自然の法則で決定されているのか

④世界には、いかなる制約も受けないものが存在するのか否か》

 中島はカントのこれらの「判決」を次のように書いている。

「四つのアンチノミーの判決はすべて訴訟当事者を当惑させる『引き分け』であるが、初めの二つは『両方とも正しくない』であり、あとの二つは『両方とも正しい』である。とりわけ、第三アンチノミーは『自由』をめぐる対立であって、テーゼは、『系列をみずから始める能力』(『純粋理性批判』)に基づく因果性(すなわち自由)があると主張し、アンチテーゼは、そんなものはなく、すべてが自然因果性によって決定されている、と主張する。

 とはいえ、双方とも自然因果性を否定していない。それに加えて『自由による因果性』も認められるというのに対して、アンチテーゼは自然因果性だけが世界(宇宙)を支配している、というのだから、正面から噛み合っていない。双方は半分(自然因果性を認めること)に関しては一致していて、自由による因果性を認めることに関しては不一致である。つまり、アンチテーゼは自由による因果性を積極的に反証しているのではなく、それを初めから視野に入れていないだけなのだ。」(中島同書p97-p98)

「自然因果性」(自然法則や因果的決定論など)や「自由による因果性」(自由意志による意図的行為の目的論的因果連関)については、下記の拙稿参照。https://ameblo.jp/naturalleaf2006/entry-12814477775.html?frm=theme

 

 さて、カント『純粋理性批判』の大まかな章別構成は次の通りである。

「『純粋理性批判』は大きく『超越論的感性論』と『超越論的論理学』に分かれ、後者(『超越論的論理学』)は『超越論的分析論』と『超越論的弁証論』とから成っている。」(中島『純粋異性批判』p32)そして「超越論的論理学」は、「概念の分析論」(カテゴリー論)、「原則の分析論」、「純粋理性の誤謬推理」、「純粋理性のアンチノミー」となり、その後は「純粋理性の理想」、「超越論的方法論」で終わる。

 中島はこの「純粋理性の理想」という章の題名の邦訳は「どう考えても不適当な訳語である」(中島同書p113)という。「カントがこの語によって意味するところのものは、経験を超える概念であるさまざまな理念(Idee)のうち、『最も実在的な個物』という独特の理念である。すなわち、この概念の裏にはキリスト教の神概念がぴったり貼り付いていて、単なる『理想』ではない(中略)。形容詞の„ ideal “ は『理想的』であり、名詞の„ das Ideal “ は『理想的なもの』であるが、以上のことを斟酌して、(適切な訳語として)『完全な一者』あるいは『理想的な一者』程度に訳せばいいように思う。翻ってみれば、『理想』は現代日本語の日常語であるからこそ、その意味とかけ離れているドイツ語(『最も実在的なもの』)の訳に使うべきではないのである。」(中島同書p113)

 こう前置きして中島は解説に入る。

「『純粋理性批判』における『純粋理性の理想』の論旨を大まかに押さえておこう。この議論、いわゆる『神の存在証明』批判で、大方の日本人の関心を惹かないどころか、現代のほとんどの欧米人(あるいはクリスチャン)の関心を惹きそうにない古色蒼然としたものである。だが、――それが哲学のおもしろいところなのだが――哲学的価値がまったくないわけではない。むしろ、古めかしそうに見える外見の材質はしっかりしたものなので、ちょっと修復すれば、現代哲学の諸問題にいろいろ利用できるのである。

(中略)

 通俗的存在証明は後半に扱うことにして、本来の神の存在証明とは、『神の存在』を、数学の証明のように、厳密な概念・判断・推理だけから証明してしまおうという試みであるが、こうした試み自体、読者諸賢にとっては腑に落ちないというか、異様なものに思われるのではないだろうか?現代の平均的日本人にとっては、推理を連ねて神の存在証明に成功したところで、神が『いる』かどうかはまったく別であるように思われるであろう。

 だが、一八世紀末近くになってカントがこれを徹底的に批判するまで、デカルト初め近代の大哲学者たちは大真面目でこの試みに取り組んだのである。その情熱は到底理解できなくとも、少なくともその事実は知っておかねばならない。

 カントは、神の存在証明を三種類に整理する。第一に、存在論的証明、第二に、宇宙論的証明、そして第三に、物理神学的証明である。こう整理したうえで、彼はそれぞれを徹底的に批判するのだが、カントの批判を理解するためには、まず批判する相手であるそれぞれの証明自体を正確に理解しなければならない。そして、それがなかなか難しいのである。」(中島同書p113-p115)

 中島はカントの神の存在証明に対する批判を三つしか書いていないが、神の存在証明 - Wikipedia によれば、四つある。

 第一:存在論的証明

 第二:宇宙論的証明

 第三:物理神学的証明(自然神学的証明、目的論的証明)

 第四:道徳論的証明

「存在論的証明は、デカルトによって典型的な形に定式化されたが、書いてみると唖然とするほど単純な証明である。それは二つの証明からなっている。

 第一証明は次のもの。

 

  大前提:神は完全である。

  小前提:完全なものは必然的に存在する。

  結 論:よって、神は存在する。

 

 これを補助する第二証明は次のもの。

 

  大前提:私は不完全であり、かつ私は完全なもの(神)の観念を持つ。

  小前提:完全なものの起源は不完全なもの(私)のうちにはない。

  結 論:よって、それは外の完全なもののうちにある。

 

 この結論を先の第一証明につなげれば、私の外の完全なもの(である神)は必然的に存在するのだから、神は存在することになる。この証明の背景には、観念論の基本図式がある。すなわち、あるものは観念にすぎないのか、観念の外にそれ自体として存在するのか、という区別である。神は観念にすぎないのではない。なぜなら、もし神が観念にすぎないなら、神は(ペガサスのように)人間にとって(人間のためだけに)あるものにすぎなくなる。これでは、神は人間に依存することになり、それ自体としてあるという神の本性(定義)に反するのである。

 こうして存在論的証明とは、『神』という概念のうちあらかじめ『完全性』という性質をぶち込んでおいて、次にそこからすべてを三段論法によって引き出したような外観を呈している。これは、誰にでも見抜ける簡単なトリックなのだが、カントの偉いところは、このトリックの要所をこれ以上ないほど鋭く抉り出したことである。

 この存在論的証明にはもう一つの見えにくい背景がある。それは『ライプニッツの原理』とも言われ、あらゆる個体は完全に規定されている、というものである。ソクラテスとディオニュソスとの区別は何か?前者は現に存在した人間であるが、後者は古代ギリシャ人が信じていた神である。だが、これを別の観点(現代人の観点)から見ると、前者は個物であるが、後者は単なる概念であると言っていい。

 ディオニュソスが現に存在するとは信じていない者にとって、それは単なる概念にすぎないのだから。

 こう準備したうえで、個物と概念との違いとは何か、と問うてみよう。すると、主語に述語をつけて命題を形成するとき、個物にはその可能な述語がすべて付与されるということが導かれる。ソクラテスは、たとえわれわれが知らなくとも、あるときどこかにいたはずであり、そのとき具体的に何かをしていたはずだし、身長は一七〇センチかそれより高いかそれより低っかたはずである。『ソクラテス』という主語には、あらゆる『PかPでないか』という選言において、必ずどちらかが付与されるのだ。だが、現に存在しなかったとみなされるディオニュソスに対して、われわれはこの要求を掲げず、『ディオニュソス』という主語には、この語についてこれまで語られてきた述語をすべて集めれば終わってしまう。

 さて、このことと神の存在論的証明とはどう関わるのであろうか?」(中島同書p115-p117)