死生観に関する随想その103 (中島義道『純粋異性批判』によるカント『純粋理性批判』入門)その1 | 飢餓祭のブログ

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 この『純粋異性批判』という本の副題は「女は理性を有するのか」という極めてデリケートなテーマである。この本は、今は廃刊(休刊)となった『新潮45』という月刊誌に2009年(平成21年)6月号から2010年(平成22年)12月号に掲載されたコラムを単行本化したものである。ユーモラスな筆致で「女の生態」を分析した楽しい読み物となっている。

 しかし、この本の眼目は、女性心理のユーモラスな分析の部分ではなく、カントの『純粋理性批判』の解説部分である。中島自身、この本は「カント入門書」であり、「(自分で言うのも何だが)大変意欲的な作品である。」(中島義道『純粋異性批判』講談社 2013年12月10日p225)と書いている。

 中島は批判という言葉に関して次のように書いている。

「『批判する』という言葉の正確な意味はギリシャ語の『分つ(krino)』という意味であるが、それをカントは『正しい理性使用の限界を定める』という意味に限定した。すなわち、理性は抛(ほう)っておくと神や不滅の霊魂を認識ないし証明したつもりになってしまうが、それは『仮象(誤った思い込み)』であって、われわれの認識能力の領域を超える越権行為であることを示すこと、これが批判なのである。」(中島同書p12)

 カントは人間には理性が備わっていると信じているので、自分の信じている理性の自然本性がどのようなものなのか、どのような弱点があるのかを見極めるためにこの本(『純粋理性批判』)を書いたという。それゆえ、『純粋理性批判』は理性の自己批判の書とも言われている。カントの問題意識について中島は次のように書いている。

「『純粋理性批判』におけるカントの問題意識は『いかにしてア・プリオリな綜合判断は可能か?』という疑問に集約される。すなわち、単なる概念の整合性(無矛盾性)だけから真であることが保証される判断(分析判断)」以外に、ア・プリオリな(普遍的で必然的な)判断が成立するか否かという問いである。例えば、『三角形の内角の和が180度である』という判断が真であることは、単に『三角形』という概念から導かれるわけではない。われわれはどんなに『三角形』という主語概念を眺めても『内角の和が180度である』という述語概念を導き出すことはできない。そのためには、空間中に作図すること、すなわち概念の外に出て確証することが必要なのである。

 だから、先のカントの問いは、(ユークリッド幾何学の命題のように)世には概念の整合性だけではないあまたのア・プリオリな判断が事実存在するが、『そのことはいかにして可能か?』という問いである。すなわち、事実存在する事柄を一旦認めたうえで『それはいかにして可能か?』という形で問い直すこと、これこそカントの目指す哲学なのである。」(中島同書p17-p18)

 人間は歳を取るに連れて経験知が増してくるように思われる。しかし、経験はそれだけでは使いものにならない場合もある。バートランド・ラッセルは、その人の気ままで自分勝手な偏見と独断がその人の思考をいかに歪めるかを説いた。ラッセルは次のように書いている。

「哲学と無縁のひとは、常識、あるいは年齢または国籍による習慣的信念、あるいは慎重な理性の協力または同意なしに自分の心に生い育ってきた確信等に由来する偏見にとらわれて生涯を送る。そのようなひとにとっては、世界は明確で有限で明白なものとなってしまいやすい。ありふれた対象は問題を呼び起こすことなく、未知の可能性は軽蔑的に拒否される。(中略)本能的な人間の生活はかれの私的な利害関心の範囲内に閉じ込められている。家族や友人は含められるであろうが、外の世界は、それが本能的欲求の範囲内にあるものを助けたり妨げたりしない限り、まったく無視されてしまう。ところが反対に、われわれが哲学的思索をはじめるや否や、はじめの諸章で見たように、われわれはごく日常的な事物でも、きわめて不完全な答えしか与えられないような諸問題に導いてゆくものであることを知るのである。哲学は、それが提出する疑問に対して真の答えがなんであるかを確実性をもって教えることはできないが、われわれの思考を拡大し、習慣の専制から思考を解放する多くの可能性を示唆することはできる。」(バートランド・ラッセル『哲学入門』角川文庫 昭和40年4月10日p178-179 )

 ラッセルは哲学的思索は「習慣の専制から思考を解放する」と説いた。そうした習慣はやはり経験値の大きい親世代から教え込まれた信念や色々な経験が培った偏見によるところが多いだろう。

 カントは人の経験に関して次のように書いている。

「カントは『純粋理性批判』の初めのほうで言っている。『われわれの認識がすべて経験とともに始まるにしても、必ずしもすべて経験から生じるわけではない』。

 あらかじめ断っておくと、たしかに、われわれはすべての知識(判断)を経験によって(言葉を学び教育されることによって)得るのだが、だからといってその源泉が経験にあるのではない若干の判断を認めることができる。例えば、『三角形の内角の和が180度である』という判断を見てみると、この判断をわれわれは三角形を観察したり測定したりして得たわけではない。紙の上あるいはホワイトボードの上に描かれた三角形を厳密に測定してみれば、あらゆる場合においてその内角は180度にはならないであろう。ということは、まさに、われわれはこの知識を観察したり測定したりせずに、しかもいかなる観察や測定より確実なものとして獲得したのである。

 こうして、われわれは、若干の知識が初めから経験に基づかないもの、あるいは経験を超えるもの、しかも確実なものであることを了解している。カントは、こういう知識は、経験に源泉があるのではなく、われわれの『理性』に源泉があるとした。つまり、われわれは誰でも経験によるのではない絶対的に確実な知識を持っており、その知識を得る共通の能力を持っており、その共通の能力を『理性』と呼んだのである。

 小学校以来、算数ができない生徒は山のようにいるが、彼らの誰ひとりとして8+5=13以外の解答にバツをつけられて不服を言わないのは、いかに算数のできない子でも『理性』を共有しているかぎり、本来はできるはずだという仮定を承認しているからである。

 もちろん、普通、聡明な子であってもユークリッド幾何学の諸公準や諸公理を自力で発見し、そこから多様な定理を導くことはできないが(並外れた天才的な子ならできるであろう)、『教えられると』直ちにわかる、しかも観察や測定に依存しない絶対確実なものとして理解する。このことに多くの哲学者は絶大な威力を感じ、そのことを可能にする理性の大いなる信頼を抱くに至ったのである。」(中島同書p20-p22)

 また、カントは、理性のア・プリオリな判断が可能であるとはどういうことかという問いを立てた。

「カントは『Xはいかにして可能か?』という問いに対する答えを得るには、『Xを可能にする条件』を求めればいいと考えた。しかも、その条件は多様な経験のうちにあるのではなく、理性のうちになければならない。例えば、『因果律はいかにして可能か?』という問いに対しては、『因果律を可能にする条件』が理性のうちになければ答えを与えたことにはならない。しかも、理性はすべての人間に普遍的かつ必然的に(このことをア・プリオリという)具わっているものであるから、因果律を可能にする条件が理性のうちにあるということは、因果律はすべての人間にア・プリオリに具わっているものだということになる。

 もちろん、先に三角形の例で述べたように、われわれはどこかで誰かから学ばなければ因果律を理解することはできない。しかし、ひとたび学べばすべての人間はあらゆる自然現象において因果律が成立していること、あらゆる自然現象には何らかの原因があること、言いかえればいかなる自然現象も何の原因もなしに生ずることはないこと、を承認するのである。これは経験によって得た知識ではない。なぜなら、人間個人の経験は限られているから、宇宙の果てまで、未来永劫を含んであらゆる自然現象において因果律が成立することを誰も経験から得られないからである。とすると、カントにとって、残る源泉は『理性』しかない。」(中島同書p26)

 理性とは推論する、論理的に考える能力のことである。推論するとは論理的な法則を正しく展開することである。経験が与えることができないものを論理的な推論は与えることができる、ということかもしれない。

 人間は未熟なまま生まれ、教育を受けて一人前になるが、では、人間の理性は人間の「誕生以前から刻み込まれている」ものなのだろうか。プラトンは「イデア界」を想定した。イデア論 - Wikipedia によれば、《本当にこの世に実在するのはイデアであって、我々が肉体的に感覚する対象や世界とはあくまでイデアの似像にすぎない》と説明されている。わかりやすく言えば、次のようなことである。

《理念として個々人が思い描いた、理想的な「それそのもの」という理念・観念・概念をイデアと呼ぶということです。非常に難解な考えなので、もう少しわかりやすくみていきましょう。例えば、私たちが「完全な円」を描くとします。コンパスなどの道具を用いて実際にはきちんと円を描いたつもりでも、細かく見ていくと線がガタガタになっていたり、少し曲がっていたりするところも必ずあるはずです。すべての円がそのように完璧ではないとすれば、私たちは「完全な円」を直接的に知覚することはできません。このときの真に「完全な円」こそがイデアと言えます。私たちは、全く知らないはずの「完全な円」というものを思い浮かべながら、それに似せて描くことができるのです。プラトンは人間があるものを思い浮かべて描けるという点から「人は完全な事柄を無意識のうちに知っている」と考え、頭の中に浮かぶ「完全なもの」をイデアと呼びました。そしてイデアだけでできた世界「イデア界」が頭の中にあるとしています。また物だけでなく、正義や美といった概念にもイデアがあるとし、善のイデアこそが最高のイデアだとしています。プラトンは無意識の領域に完全なるイデア界が存在すると結論づけました。》プラトンの「イデア論」って説明できますか? 【今さら聞けない】 

 また、デカルトは「思惟実体」としての魂が予め人間理性には備わっているとした。実体二元論 - Wikipedia によれば、思惟実体は次のように解説されている。

《17世紀のフランスの哲学者ルネ・デカルトは「我思う、ゆえに我あり」という表現を掲げつつ二元論を唱えた。デカルトは、空間的広がりを持つ思考できない延長実体(いわゆる物質、ラ:res extensa)と、思考することができる空間的広がりを持たない思惟実体(いわゆる心、ラ:res cogitans)の二つの実体があるとし、これらが互いに独立して存在しうるものとした。この考えはデカルト二元論(Cartesian dualism)と呼ばれ、デカルトのこの説がしばしば実体二元論の代表的なものとして扱われている》

 デカルトは「松果体において、物質と精神が相互作用する」としたが、その相互作用の実相は不明確で、松果体が相互作用を担当するという説は現代では否定されている。そうすると、相互作用のメカニズムが説明できないので、デカルト説は誤りだとされている。

 ライプニッツは「モナド」に刻まれているとした。モナド (哲学) - Wikipedia での説明は次のようになっている。

《ライプニッツは、現実に存在するものの構成要素を分析していくと、それ以上分割できない、延長を (ひろがりも形も) 持たない実体に到達すると考えた。 》

 ただ、それが何なのか、私にはさっぱりわからない。

 カントもさぞ困惑しただろう。「カントはこうした形而上学を避けながらも、経験的ではない源泉を求めようとする。そして、到達したのが、『根源的獲得』という思想である。これは法学上の所有権や、人格権、相続権など、『権利』とパラレルな思想であって、例えば、赤ん坊は誕生することをもって、誕生する瞬間に、基本的人権や人格権、相続権、所有権などもろもろの権利を『根源的に獲得する』のである。

 先の幾何学や算術の例に沿って言い直せば、確かに、いかなる赤ん坊も生まれた瞬間に三角形の内角の合計や8+5=13という計算はできないが、そのときに『教えられれば理解できる』という能力(理性)を根源的に獲得したのである。」(中島同書p29)

 中島はカントの『純粋理性批判』の構造を大づかみに次のように書いている。

「『純粋理性批判』は大きく『超越論的感性論』と『超越論的論理学』に分かれ、後者は『超越論的分析論』と『超越論的弁証論』とから成っている。」「中島同書p32)そして「超越論的論理学」は、「概念の分析論」(カテゴリー論)と「原則の分析論」から成っている。

 では、カントの「カテゴリー論」とはどのようなものなのだろうか。

「カテゴリーという言葉をカントはアリストテレスから取っているが、それは(正確に説明すれば長くなるが)世界をとらえる基本枠組みであり、カントによれば、われわれ人間は世界に関して何かを認識するさいに、まずカテゴリーを世界に投入してその枠組みの中で世界の諸法則(自然法則)を見出すのだ。だから、ニュートンの万有引力でさえ、われわれはそれを自然観察によって見出したのではなく、『その前に』カテゴリーを投入して、その枠組みに当てはまる形においてとらえたものにすぎない。

 具体的に言うと、いかなる物理法則も、諸物体の諸状態のあいだの関係なのだから、まずわれわれは物質的な何かを『一つのもの』としてとらえることができるのでなければならない。そうでなければ、『何か(A)が変化する』という言い方ができないからであり、そもそも何らかの変化を語るためには変化しない同一なものが前提されなければならない。

 そして、その同一なものは、われわれ人間の理性が自然観察に先立って、自然に枠組み(実体のカテゴリー)を当てはめることによって得られるとカントは考えた。例えば、運動しているAという同一なものがBという同一なものに衝突すると、Aが静止しBが動き出すという運動の伝達(運動量保存)の法則も(ただ観察して得たものではなく)、われわれが自然に枠組みを投じて得たものなのだ。

 こうして、われわれは自然の『うち』にではなく、みずからの理性の『うち』に、あらかじめ同一なものを認識する実体のカテゴリーを持っていて、それを自然に投入して自然を同一なものの諸関係としてとらえるのである。カテゴリーは量、質、関係、様相と四通りあり、それぞれが三通りに分かれているから、全部で十二通りある。それらはあらゆる自然科学の基礎理論のさらに基礎をなすものである。その詳細は(次節の)『原則の分析論』を扱うさいに、展開するが、ここで大まかな構図を示せば次のようになる。

 カテゴリーは世界の基本構造を示す形式であるが、正しく適用される場合と間違って適用される場合がある。正しく適用されるカテゴリーは、そのまま自然と自然科学を可能にするが、こういう側面に限定されたカテゴリーをカントは『原則の体系』と呼ぶ。例えば、関係のカテゴリーの第二は因果性のカテゴリーであるが、それが時間・空間内に位置を持つ同一なもの(すなわち物質的物体)の諸状態間に限定されて適用されると、因果性のカテゴリーはあらゆる個別的自然現象間の因果関係を可能にする形式とみなされる。

 ところで、カテゴリーはネガティヴな動き方もする。本来の適用範囲(自然=経験)を逸脱して使用されると、それは錯覚(仮象)であるのに、あたかも独特の認識をしているかのように振る舞うのだ。例えば、因果性のカテゴリーが神の世界創造の第一原因のような意味で使用されると、そこには『(それ自体いかなる結果でもない)第一原因』とその『結果としての現象』という概念間の抽象的関係が成立しているだけなのに、あたかも客観的認識が成立しているかのような錯覚が生じる。すなわち、因果性のカテゴリーの越権行為による仮象の成立である。

 とはいえ、カテゴリー自身はあくまでもニュートラルであって、カテゴリーに越権行為の責任はない。責めは、われわれの理性にある。理性が、カテゴリーを正しく適用するとともに、間違って適用するという自然本姓(Natur)をもともと持っているのだ(カントは、正しく適用する側面を『悟性(Verstand)』と名づけ、間違って使用するほうを狭義の『理性(Vernunft)』と名づけている)。したがって、理性批判とは、どこまでがカテゴリーの正しい適用範囲であり、どこからが間違った使用範囲であるかを吟味すること、すなわち(『はじめに』で述べたように)、『正しい理性使用の限界を定める』ことに他ならない。

 以上のように、批判される対象は理性である。では、批判する主体は何であろうか?じつは、それも理性なのだ。純粋理性批判とは(広義の)理性が(狭義の)理性を批判するという形の自己批判なのである。

」(中島同書p33-p35)

 カントはこのカテゴリーという言葉を「純粋悟性概念」というドイツ語に翻訳したという。経験からではない=純粋な悟性(理性)の概念というからには、このカテゴリーは、理性のうちにあるはずだ。その理性のうちのどこからこのようなカテゴリーが導入されたのかという探求のことを「形而上学的演繹」というらしい。そしてアリストテレスの論理学を少し修正して、物事の「判断の基本形式としての判断表から自然の基本形式としてのカテゴリーを導ける」とカントは考えたという。(中島同書p36)

 これを解説して中島は次のように書いている。

「例えば、われわれがある現象Eについて『犬が走っている』という判断を下すとき、Eを観察することによってこの特定の関係を汲み取っているわけではない。むしろ、われわれはEにあらかじめ『XはYである』という肯定判断を当てはめることによって、Eを『犬が走っている』現象とみなしてしまうのだ。眼前の現象を『主語=述語』の関係(判断表)によってとらえること、それが、その現象を『実体=属性』の関係(カテゴリー)によってとらえる基礎をなしているのである。」(中島同書p36) 

 犬という主語に「走る」とか「吠える」とか「食べる」とかの肯定判断(XはYである)をあらかじめ当てはめていれば、犬が走ってきた場合、「犬が走っている」という現象はまるごと理解可能になる。つまり

実体(=属性)の関係というカテゴリーは主語(実体としての犬)の中には述語=これこれの属性(走る、吠える、食べる)が含まれているという判断が基礎になっているという。

 演繹法とは論理学における「一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る」という推論のやり方であり、帰納法とは「個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法」である。そしてカントが苦心して論証しようとしているのは、経験的な帰納法によらず、演繹法を使って物事を説明することである。そうすることで、あいまいな「蓋然性」をなくそうとしたのかもしれない。

 上記の形而上学的演繹と呼ばれる演繹以外に、「演繹にはもう一つ『超越論的演繹』がある。カントは『純粋理性批判』の中でこの演繹ほどその探究が困難であったところはないと告白している。カントの解こうとした課題は、カテゴリーは経験の『うち』にではなく理性そのものの『うち』に見出されるが、それは経験に適用されねばならない。このことはいかにして可能かという課題である。因果関係は因果性のカテゴリー、さらに論理的推論『AならばBである』に淵源するが、そうならすべては経験と無関係であっていいはずであるが、それにもかかわらず経験的なものに正しく適用されうるのはなぜか、という問いである。

 カントはそれこそ汗水たらしてこの問いに挑んでいるが、回答の骨子は意外に簡単で、『経験的なもの』すなわち自然とはわれわれから独立に存在する物自体なのではなくて、すでにわれわれの理性によって意味づけられた構成物である、というもの。物理的物体もそれらの関係も、すでに人間理性による枠組みをはめられた『あと』の現象にすぎないのだ。われわれが自然を観察するに先立ってそこにあらかじめ因果性という枠組みを投げ入れているからこそ、すべての自然現象はわれわれに因果的に現れるのである。」(中島同書p36-p37)

 「超越論的論理学」は、「概念の分析論」(カテゴリー論)と「原則の分析論」から成っているので、概念の分析論(カテゴリー論)の次は「原則の分析論」である。

「……『原則』とは何かと問うことにしよう。それは、カテゴリーが客観的世界に正しく適用された場合の世界の基本構造である。具体的には、空間・時間的に広がっている世界(これをカントは『可能な経験』と呼ぶ)、すなわちそこにおいてあらゆる物理学が可能になるような世界であって、そこには量・質・関係・様相という四つのカテゴリーに呼応する四つの原則が成立している。つまり、ある世界がそこにおいて(いかなるものであれ普遍的必然的な法則から成る)物理学が成立しうる客観的世界であるためには、四つの原則が必要だというわけだ。それは、そのまま客観的世界における対象の条件、すなわちあるものが『物体』であるための条件でもある。簡単に言いかえれば、物理学は『心』や『痛み』や『美』などをその対象から排除し、『地球』や『クオーク』や『大脳』や『痛覚神経』を対象にするわけだが、そのための条件というわけである。これは常識にもかなっている。

 第一に、そうした対象は、空間・時間的に広がっていなければならない。時空に位置づけられない『神』や『イデア界』ばかりではなく、数学的点とか文字通り一瞬だけ存在する物は、物理的対象(物体)ではない。(これが『量』の原則)。

 第二に、その対象は内部がまったくの空虚であってはならず、何らかの密度を持たねばならない。純粋な幾何学図形としての球は物理的対象ではなく、中に空気が詰まった風船が物理的対象なのだ。(これが『質』の原則)。

 第三に、その対象はある程度の時間同一なものとして持続し(現象としての実体)、他のさまざまな対象(物体)と因果関係あるいは相互関係になければならない。たとえ、いままでの条件をすべて充たしていたとしても、他の物体といかなる関係にもなく孤立している物(例えば、空想の中の物体)は物理的物体ではないのである(これが『関係』の原則)。

 第四に、その物体は可能性・現実性・必然性の様相を持たねばならない。この原則は難解であるが、ここではあるものが物理的対象であるためには、それは現在の私の知覚さらには私の存在と関係しなければならないと言うに留めておこう。一万光年かなたの星であろうと、一億年前に絶滅した恐竜であろうと、たとえその対象が〈いま・ここ〉に知覚されなくとも、何らかの仕方で〈いま・ここ〉に存在する私と関係しなければならないということである(これが『様相』の原則)。」(中島同書p44-p45)

 この様相の諸原則は、一番目が可能性、二番目が現実性、三番目が必然性という順番になっている。

 カントは自らの観念論は超越論的観念論であると書いた。カントは独断的観念論(バークリー)や懐疑的観念論(デカルト)と自らの観念論を区別するためにこう書いたのである。カントが生きていた18世紀当時において、観念論という言葉は、「内的世界は確実であるが、外的世界はただの観念であって、確実ではない」(中島同書p50)という見解が共通項としてあったという。すなわち「具体的に言うと、私が仕事をしているウィーン19区の部屋が『こう見えている』ことは確実だが、それが見えている通りに『客観的にある』かどうかは確実でないという見解であり、言いかえれば、それは私にだけ『こう見えている』にすぎず、客観的世界の姿ではないかもしれないという見解である。

 カントはこれを真っ向から否定する。私に見えている部屋の光景がそのまま客観的世界の光景なのである。ただし、それは人間的条件(まさに諸条件)のもとで見えているだけのものなのだ。これを言い直せば、私の内的世界(これをカントは『内的経験』と呼ぶ)も外的世界(これをカントは『外的経験』と呼ぶ)と同じくただの観念にすぎず、つまり私に知られている世界はことごとく観念にすぎないということである。しかも、カントのユニークな点は、確実性においては――既存の観念論とは逆に――むしろ外的経験のほうが内的経験より勝る、と主張したことである。

 私が昨夜この眼で確かに見た(と思い込んでいる)光景A1より、同時刻に世界における他の諸対象との相互関係においてそこに現出した光景A2のほうが確実なのである。昨夜、駅前のマクドナルドで、夫が見知らぬ若い女と楽しそうに話しているのをちらりと目撃した。この場合、『見たこと』はいかに目撃者当人(妻)にとって確実そうに見えても、見間違いもあるだろうし思い込みもあるだろう、それらがさまざまな外的事象との連関で客観的に『そうあったこと』とされて初めて、『見たこと』の確実性が保証されるということであり、誰でも知っていることである。」(中島同書p50-p51)

「『純粋理性批判』における『原則論』は、正確には『図式論』と『原則の体系』に分かれている。いままで論じてきたのは、このうち『原則の体系』に対応する部分である。よって、『純粋理性批判』においても『原則論』のもう一つの柱である『図式論』について論じなければならない。カントは、そこで、カテゴリーが可能な経験に正しく適用される仕方を論じているが、『純粋理性批判』の中でもとりわけ難解な箇所として有名である。

 すでに述べたように、カテゴリー自身はニュートラルであるから、その適用範囲を自分で決めることはできない。では、カテゴリーを正しく適用させるような条件とは何か?カントはそれを『超越論的時間規定』と呼ぶ。例えば因果性のカテゴリーが正しく適用されるためには、原因も結果も『時間のうち』になければならない。つまり、正しく適用される範囲決定条件を含んだカテゴリーが『図式』なのであり、この場合カテゴリーは図式化されていると言う。

『図式論』は、さらに広く概念と直観との関係を論じている。x²+y²=r² という方程式において、『rに定数aを入れて作図せよ』と命じれば、誰でも半径aの円を描くことができる。先の方程式は単なる概念であって幾何学図形としての円ではないが、一定の概念が与えられると、われわれは図形としての円を描けるのだ。まったく異質な概念と図形が、どのように連関しているのか?ここでまた『図式』が持ち込まれる。概念としての円の方程式と幾何学図形としての円を媒介する『第三者』としての『円の図式』が両者を媒介するというわけだ。」(中島同書p52)

 中島は「概念と直観との関係」についての身体の役割を次のように書いている。

「図式とこの身体(=私の身体)との関係は不可分である。構想力が図形や時間を描くとは、抽象的な点のような作用体が描くのではない。固有の身体をもつ存在者としての私が描くのである。私が概念と直観とを媒介することができるのはなぜか。単なる思惟の主体のみならず、固有の身体をもつ主体としてここで諸々の物体に出会うことができるからである。」(中島義道『カントの自我論』岩波書店 2007年10月16日 p154)構想力とはわかりやすく言えば、「図形を具体的に描く」能力のことである。私の身体が「概念としての円の方程式と幾何学図形としての円を媒介する」のである。

 

「『純粋理性批判』における『原則論』が終わると、いよいよ『弁証論』に入る。『弁証論』のテーマは、古典的な特殊形而上学である『心理学(魂論)』と『宇宙論』と『神学』に呼応して三つある。それらをカントは『純粋理性の誤謬推理』『純粋理性のアンチノミー(二律背反)』『純粋理性の理想』というタイトルの下に論じている。」(中島『純粋異性批判』p54)

「『誤謬推理』とは、三段論法という形式(において)は正しく使用しながら、内容に関して誤謬を含む推理。さらに具体的に言えば、『概念の多義性』を利用して、本来推理できないことを推理し、望む結論を出してしまうことである。

『純粋理性批判』においては、とくに、„Subjekt“ という概念の多義性を利用して『不滅な実体としての私の魂』という結論を引き出してしまう誤謬推理を『批判』することが課題であった。„Subjekt“ という概念は、(18世紀)当時『実体』という意味と『主語』というまったく異なった二つの意味を含んでいた(さらに、精神の作用を表す『主観』という第三の意味もあるが、ここでは積極的な役割を演じていない)。

 すると、この両義性を巧みに利用した誤謬推理は、次のようになる。

  大前提:すべての主語(Subjekt①)は実体(Subjekt②)である。

  小前提:ところで、『私』は常に主語である。

  結論:よって、『私』は実体である。

 おわかりであろうか?大前提では同じ „Subjekt“ として『主語』と『実体』という二つの意味のあいだにあらかじめ橋が渡されたのだから、あらゆる文法的な主語は同時に実体になってしまう。そして、小前提では、『私(ich)』はいかなる場合も文法的には主語でしかありえないことが宣言される。これも否定できないであろう。すると、以上の二つの前提から、常に主語である『私』はそのまま実体を表している、という結論が導かれるわけだ。」(中島前掲書p55)

 18世紀の「最も聡明な人々」(中島同書p56)でさえも、この幼稚な三段論法を正しいと思い込んでしまったという。信じがたいことであるが、「何を引き換えにしても、『魂の不滅』という結論が欲しかったから」(中島同書p56)だと中島は言う。今どき主語の私と心・魂としての私を故意に混同する人はいないだろうが、カントはこのような誤謬、すなわち知性を犠牲に供しても得たい結論があるという人間理性の本性が犯す誤謬を「超越論的仮象」と呼んだという。これは現代においてもしばしば見られる現象である。

 

 理性を犠牲にしても「魂は不滅である」と思いたいという心性はカントの時代から現代にも受け継がれている。中島は『カントの自我論』において次のように書いている。

「私と他者に共通の『思惟するもの』であるかぎりの『思惟するもの』を解明しようとすることは、『私自身の自己意識を他の物の上に移すこと〔によって成立したもの〕にほかならない』(カント『純粋理性批判』A347/B405)。

 つまり、このように『他の物の上に移すこと』によって、(『私』とは内容が無である作用主体であるのはなぜかという)問いは私固有のあり方から『思惟するもの』という客観的な物へと変形してしまっているのだ。

 このことによって、私は他者(alter ego)を物とみなしているのみならず、自分自身ですら物とみなしてしまっている。こうした巧妙な移行によって、人称性を超えて普遍的に<こころ>の中に潜んでいる『思惟するもの』という抽象物がこしらえられるのである。

 カントはここまで論じていないが、この方向でさらに考えを推し進めると、もし私が『私』を内容が無である作用主体としての超越論的Subjekt から独立に取り出そうとするなら、誤謬推理と同じたくらみに挑むことになるだろう。私がフロッピーディスクに保存できる情報の束にすぎないのなら、私の肉体が崩壊してもまた同じような肉体を製作してそこに同じ情報を流し込めば、私は再生できることになろう。個人についての情報をすべて解明することができれば、その情報をどこかに保存しておけば、あとは技術が進んで、その情報の担い手である身体を作ってやれば生き返る、というわけである。」(中島義道『カントの自我論』

 p85)

 大脳の構造と機能を研究する現代の脳科学者の中には、「私」というものは大脳の情報ネットワークに過ぎないと考える者が少なからずいる。そうすると、大脳が形成した実在的物体的神経細胞のネットワークをそのままそっくりパソコンに移行させることができるという考えに彼らは賛成するかもしれない。そうした考えを推し進めると、「私」はパソコンの中で再生できるという結論になるだろう。この結論は現代の「誤謬推理」そのもののように思われる。確かに「私」という固有の何かが個性的物体的な神経細胞の束の集合であるならば、現代で言えば一つのUSBメモリーに集約できるかもしれない。こうした考え方は唯物論という考えを煎じ詰めたらできるあがるような究極の結論と言えるだろう。

 しかし、中島は次のように反論している。

「私とは主語から独立の述語の束ではない。私のあり方には表象内容的には無であるけれど、作用主体としてのあり方すなわち統覚というあり方が不可欠なのだ。私とは数学的点のような抽象的存在者ではない。あくまでも現に具体的に存在するものである。なかでも、私がこれまで現に体験したことの系列(内的経験)こそが、私が私たるゆえんである。だが、――不思議なことに――私とはこうした体験の束だけでもないのだ。私には、たとえ内容が無であっても作用体としての超越論的Subjekt (すなわち統覚)が不可欠なのである。一方で、統覚を私の具体的体験から切り離してそのものとして見すえても私を取り出すことはできない。だが他方、統覚を取り去った具体的体験の束もまた客観的な物であって、断じて私ではないのである。

 私は統覚が実在的世界を構成し、その『うち』に私が現に体験したことの系列(内的経験)を構成する、という総体的な構造として『ある』。」(中島『カントの自我論』p86)

「統覚を取り去った具体的体験の束」とは大脳の記憶物質としての神経細胞のことであり、それは物体的な「客観的な物」である。「私」はどういう機序かはわからないが、神経細胞を触発して「私の具体的な体験」を取り出す。

「私」は物質・物体ではない。だから、「私」の身体のどこを探しても見つからない。「私」は物質・物体から独立して取り出せる何ものかではない。しかも、この身体(物質・物体)が「私」の身体(物質・物体)である。そして、「私」は物質・物体ではない。