死生観に関する随想その102 (古東哲明『沈黙を生きる哲学』第1章~2章)沈黙と静寂とは何か | 飢餓祭のブログ

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 古東哲明は書いている。 

「人間だけが沈黙する

 この世は静寂でできています。

 生きづらいのは、この静寂を忘れているからです。

 仕事がうまくいかない。病気がつらい。存在不安がおそう。演奏がとどこおる。死が怖い。勉強が手につかない。人間関係に翻弄される。なんのタメ生きているのか分からない。先ゆきの生活をあれこれ悩む、などなど。焦燥や痛苦や困惑にまみれ、人生にゆき暮れることは、どなたにもありましょう。

 そんなとき、静かに目を閉じ、沈黙なさってください。頭を空っぽにして、ほんの三分間で結構です。沈黙を深く生きてください。この世の本体である静寂に触れることで、いつのまにか、問題が解決していくことでしょう。

 本書でお伝えしたいのは、たったそれだけのことです。たったそれだけのことなのですが、でも、沈黙するのは、なかなかむつかしい。口を閉ざし、なにも喋らなければ、それが沈黙というわけではないからです。沈黙は、無言になることではありません。」(古東哲明『沈黙を生きる哲学』夕日書房 2022年12月30日 p7-p8)

 古東は「生きづらさ」の例を列挙しているが、「存在不安がおそう」、「死が怖い」という言葉を、普通の日常生活の中で起こるいろいろな「生きづらさ」を表現する言葉の中に挟み込んでいる。つまり、日常的な場面では使われない言葉を挟んでいる。存在不安とか死の恐怖という言葉は日常生活での様々な場面では使われることはないのではないか。

 人が死ぬことは普通の人は自明のことであると考えてそれ以上考えることはしない。古代ギリシアの哲学者クリチアスも「生まれてきた以上は死んでいかねばならず、生きている以上は不幸から逃れることを得ない、ということ以外に何も確実なことはない」(中島義道『哲学の教科書』講談社 2001年4月10日 p13)と言ったという。

 「生きている」以上「不幸」はついて回る。この世を生きていくということは、すなわち、不幸や苦難、理不尽なことに翻弄される。人はこれらの問題に対処するのに精一杯だ。それなのに、それに加えて、「いつかわからないが死んでしまう」という問題まで抱え込み、思い煩う人も出てくる。そんなことに関わるのは無駄だと考えたギリシャの哲学者エピクロスが有名な言葉を次のように書いている。

「死はもろもろの災厄の中で最も恐ろしいものとされているが、実は、われわれにとっては何ものでもないのである。なぜなら、われわれが現に生きて存在しているときには、死はわれわれのところにはないし、死が実際にわれわれのところにやってきたときには、われわれはもはや存在していないからである。」(三浦要 金沢大学人間社会学域人文学類教授『死は本当にわれわれにとって何ものでもないのか?』金沢大学哲学・人間学論叢での三浦訳)

 実際、私の死は、私が意識を保持しているときにはない。つまり私は私の死を経験できないのである。私が瀕死の(重篤な)状態にあるとき、つまり死ぬ寸前のとき、死の恐怖に動転し始めるかもしれない。しかし、そういう瞬間でも、私はまだ死んでいない。

「死が実際にわれわれのところにやってきたとき」のことを考えてみよう。不慮の事件・事故で死ぬ場合はあっと言う間に人は死ぬので除外しよう。病死によって死ぬ場合は死ぬまでに時間的な猶予が出てくる。キューブラー=ロスによれば、末期がん患者は自分の死について5つの感情を持つという。

《ガンを告知された患者はかならず否認する。医師を疑い、検査機器を疑う。そして、自分一人だけがなぜこの世から去らなければならないのかと、周囲の人たちに怒りを爆発させる。やがて自分の病を否認できないと知ると、死を先延ばししようと神と取引をする。ひょっとしたら治るかもしれない、あるいはせめて少しの期間でも生き延びたい、と。しかし、病気は治る見込みがないと知ると、希望を失い絶望して抑うつ状態になる。もはや励ましも元気づけも役に立たない。「言葉はまったく不要である。言葉によらず、むしろ手を握るとか髪をなでてやるとか、あるいはただ黙ってそばに座っているだけのほうがずっと望ましい」とキューブラー=ロスは言う。このようなプロセスを経て、人はようやく死の受容にいたる。「患者は嘆きも悲しみもやり終え、……ウトウトと、まどろむ。それは赤子の眠りにも似た、しかし逆方向の眠りである。……このときのコミュニケーションはもはや言葉ではなく沈黙である。」キューブラー=ロス『死ぬ瞬間』》

[荒井学長通信No.9] 死ぬ瞬間 : 鳥取看護大学

 上記の5つの感情については「すべての患者がこのような経過をたどるわけではない」とキューブラー=ロスは断っている。

 死にゆく人は昏睡状態に陥ってから死んでしまう。そしてその人の生が終わる。 死とはそれだけのことにすぎないとエピクロスは言ったが、死んだ翌日からは、この世の事象を見ることも聞くことも知ることもできなくなる。今までのように近しい人たちと話したり、飲食したり、あるいは読書したり、趣味に興じたり、面白いドラマや映画を見ることもできない。日本や世界のニュースを知ることもできない。中島が「これは考えれば考えるほど大変なことです」(中島義道『哲学の教科書』p13)と書き、また「肉体をもち、家族、親戚、友達に囲まれてこの地上に生きている、こういうかたちでの私の存在が、完全になくなる」(中島義道『哲学の教科書』p17)と書いているように、存在消滅であることが死の恐ろしさの一つであって、大したことではないとは断じて言えないと思う。

 人が死ねば、葬式があり、その後に火葬場の中で腐敗が始まった身体は焼かれてしまう。そのイメージだけでも、つまり、意識がないのだから、私は棺桶の中の自分のことなど何もわかりもしないのだが、ただ狭い棺桶の中で私の身体が焼かれていくというイメージを思い描いただけで恐怖におののいてしまう。死の恐ろしさの二つ目はこのイメージのおぞましさだろう。

 死の恐怖とはそれだけではない。死の宇宙論的恐怖のようなものもある。

 中島義道は次のように書いている。

「私が死んだ後の世界を、私は小学生のころから宇宙論的なイメージでとらえておりました。私が死んだ後しばらくしたら、私を記憶しているすべての人も死に、やがて人類も死に絶え、地球も太陽系も消滅し、その後も世界は何億年も何兆年も続くだろう。そして、こうした時間の経過のあいだ、私は二度と生き返らないだろうということです。もし私が明日死んでしまったら、私は世界の終わりまで、いやその後まで、何億年もその何億倍年も、いや永遠に、ふたたびチャンスはないだろうということです。これは、とても恐ろしいことで、七歳くらいから私は毎夜寝る前にこう考えて、『大変なことだ!どうにかしなければ!』と叫んでいました。」(中島義道『哲学の教科書』講談社 p19-p20)

 中島は「小学校一年の秋に、九州から出てきた祖父が川崎のわが家に三ヶ月あまり滞在して死んでしまった」(中島義道『孤独について』文藝春秋 平成10年(1998年)10月20日 p64)ことから、ひどいノイローゼに陥ったという。中島はおそらく生まれて初めて遺体を見て、火葬場に行ったという葬式を経験した。そのショックは大きかったようだ。

「七歳のころ、突然きわめて明晰に『私が死ぬこと』、自分が『無に帰すること』の意味がわかり、その残酷さが信じられず、脳髄は麻痺したように動かなくなった。『そんなことがあってたまるか!』という叫び声がからだ中を駆け巡り、そのうち『これはきっと何かの間違いなんだ』という疑惑が頭をもたげてくる。だが、そちらにもたれかかろうとすると、ふっとやっぱり真実なのだと肩を落とす。こうして、私は家でも学校でも、自分がもうじき死ぬこと以外、何一つ考えられず、夢遊病者のようにぼんやりしていた。」(中島義道『孤独な少年の部屋』角川書店 2008年3月31日 p38)

 学校の担任の先生や母親や父親らは七歳の義道くんが塞ぎこんでいる様子を心配したが、担任の小林先生は「そんなの、ずっと後だから大丈夫よ。いまはそんなこと考えないで、いいのよ」(中島『孤独な少年の部屋』p39)と言ったとある。よく考えれば何が大丈夫なのかわからない。

「その後、『ぼくは死ぬ。そして、ずうっとずうっと死んだままなのだ』と考えると、頭がおかしくなるような気がした。布団を口に持って行って家族に聞こえないように、『いやだあー』と叫ぶこともあった。あるとき、それも耐えられなくなって、父や母や姉妹(中島には姉と妹がいる-引用者)を前にして『ぼくは死ぬんだ!』と大声で叫んでおいおい泣き出すことがあった。みんな、あっけにとられたように私を見る。母が『そんなこと、もう考えないの!』と叱った。それでも両手で涙を拭きながら泣きじゃくる私に対して、父がびしりと言った。『おまえがそんなに泣くんなら、(歳とった)お父さんはどうするのだ!』。そうだ、お父さんもお母さんも、本当にもうじき死ぬのだ。だが、なぜ、なんともないんだろう。」(中島『孤独な少年の部屋』p40)

「じっと、部屋の隅を見ているうちに、『ぼくは死ぬのだ』と思い、涙が出てきて止まらなくなる。でも、誰にも言わずにいるうちに、からだがふわっと浮き上がるようになり、異次元の空間に入っていくような不思議な気分に充たされるのだ。私は周囲を見渡す。私が空間の中にすっぽり収まっていることも、首から下に広がるからだを『もっている』ことも、とても不思議だ。だが、私はもう怖くなかった。いわば、私は空中遊泳しているのだ。『上から』自分を見下ろしているのだ。そんな状態が十分ほど続くと、また私はからだの『中に』入った。」(中島『孤独な少年の部屋』p44)

 中島のこの症状を「離人症」の症状だったと後年ある精神科医は「診断」したという。中島は少年ころの離人症の症状を別の本で次のように描写している。

「学校でつまらないことがあり、一人で帰るときなど、『ぼくは死ぬ、そして永久に生き返らない、ぼくは死ぬ、そして永久に生き返らない......』と呟きながら歩いておりますと、大変気持ちよくなりました。しかし、そのうち白い長い道を自分ひとりで歩いており、ギラギラ太陽が照っているときなど、そう呟きながら私はとても変な気分になってゆくのがわかりました。両肩から下しか見えず、ギシギシとランドセルの音をたてて歩いている『この子』は一体誰なのだ?何だか『私』は肉体から遊離して『この子』を外から観察しているようでした。『外から』というのは正確ではありません。ちょうど夢の中のように、見ている『私』と見られている『私』が分離しているような状態でした。そしてそのあいだも、私はけっして『自分は死ぬ、そして永久に生き返らない......』という呟きはやめませんでした。すると、世界がボキッと屈折しました。

 世界は突然奥行きがなくなり、急にまわりの色が濃くなり、私は二次元の鮮やかな油絵の中に入ってゆくようでした。そして、自分の名前も自分の年齢も自分の身分も自分が今どこに向かおうとしているのかも完全に忘れました。それは、苦痛ではなく、といって快感というものでもないのですが、苦しみもみんな忘れることができて別世界に漂っているうれしさがありました。そのうち、その道のはるかかなたから一人の婦人がこちらに向かってくるのが見えます。大変だ!知っている人かもしれない。彼女を識別できなければ、変に思われるぞ!こうした分別は残っているのです。私は急いで『ぼくは死ぬ、そして永久に生き返らない......』というおまじないをやめます。そして、まわりの景色をよく見回し、肩から下で不器用にギシギシ音をたてている子どもをつぶさに観察しておりますと、フワーッとまたいつとはなしに現実の世界に戻ってゆきます。私はすべての記憶を取り戻し、その婦人に微笑みかけ『こんにちは』と挨拶します。

 これが『離人症』の一形態であることは後になってわかりました。」(中島義道『哲学の教科書』 p255-p256)

 

 7歳の子どもが死ぬのが怖いと泣きわめく様子を見ても、彼の父や母、担任の先生などは何も感じなかったようだ。そしてほとんどの子どもたちもそんなことは考えないものだ。義道少年は極めて特異な少年だったようだ。精神医学者の島崎敏樹(1912-1975)は精神を病む子どもはときおりそうした大人びた繊細な感受性を持つことがあると言っていた。

 しかし、「なぜ、なんともないんだろう」という早熟すぎる中島の問いは実はまとも過ぎた問いだった。パスカルの言うように、「人間は死と不幸と無知とを癒やすことができなかったので、幸福になるためにそれらのことについて考えないことにした」(パスカル『パンセ』)のだから。担任の小林先生のように「そんなの、ずっと後だから大丈夫よ。いまはそんなこと考えないで、いいのよ」と大人たちは言う。でも、ずっと後の高齢になっても考えようとしないのだ。

 ちなみに、中島の父は大正3年(1914年)生まれで、一高-東北帝大を出た。中島義道は彼の二番目の子どもで、上に姉がいて、下に妹がいる長男だった。中島の父は1997年に死んだが、晩年の8年ほどのあいだ鎌倉の自宅の離れの間で読書三昧の日々を送り、そして死んでいったという。父の心のうちを最後までわからなかったと中島は別の本で述懐していたが、『孤独について』という中島の本に中島の父のことが次のように書かれている。

「父は(㈱小松製作所、今はコマツ)本社の部長を長く勤めた後に、技術研究所の副所長から社長室長を兼任して、七十五歳まで働いた。その後散歩と読書という悠々自適の生活を送っていたが、――すでに述べたように――昨年(1997年)暮れに七里ヶ浜の見える病室でひっそり亡くなった。八十三歳だった。」(中島義道『孤独について』文藝春秋 平成10年(1998年)10月20日 p60)

 

 古東哲明も死の恐怖について次のように書いている。

「死ねば灰になる。自分がこの世にもう存在しなくなる。生まれ生きているこの私が消失する。五万年や百兆年じゃすまない。文字どおり永遠に沈黙の不在のかなたへ投げ込まれる。だから自分の死後、この世にどんな出来事がおきても、もう二度とその光景を目にすることもできなくなる。宇宙の内部から永劫に完全に不在化してしまう。この自己消滅の恐怖、狂おしいほどのわりきれなさ。それが死への哲学的恐怖である。」(古東哲明「死と他界」熊野他編『死生学2』東京大学出版会2008年12月19日p53)

 死によって人生のよいことも悪いこともすべてが無に帰してしまう。すなわち、人生において諸々の善きこと悪しきことの経験、喜怒哀楽のすべての経験、生におけるあらゆる経験、それらすべてが無に帰すること、それが死の恐怖(という観念)の一つである。

 

 キューブラー=ロスの言った死についての感情の中の「死の受容」に関して言うと、死の受容は明らかに諦めの感情だと思う。生きることを諦めて死を受け入れようとすると、人は心情的に「他界」からこの世を眺めるようになるらしい。

 食道がんで闘病生活を送っていた高見順(1907-1965)は死ぬ前に『死の淵にて』という詩集を残している。

 高見順は、ありふれた日常の風景を次のように書いている。

 

「団地のアパートのひとつひとつの窓に

 ふりそそぐ暖い日ざし 

 楽しくさえずりながら 

 飛び交うスズメの群

 光る風

 喜ぶ川面

 微笑のようなそのさざなみ

 かなたの京浜工場地帯の

 高い煙突から勢いよく立ちのぼるけむり

 電車の窓から見えるこれらすべては

 生命あるもののごとくに

 生きている

 力にみち

 生命にかがやいて見える」(高見順「電車の窓の外は」『死の淵にて』高見順 死の淵より

 また、通勤・通学の人々の「活気にあふれている」様子を次のように書いている。

「電車が川崎駅にとまる

 さわやかな朝の光のふりそそぐホームに

 電車からどっと客が降りる

 十月の

 朝のラッシュアワー

 ほかのホームも

 ここで降りて学校へ行く中学生や

 職場へ出勤する人々でいっぱいだ

 むんむんと活気にあふれている

 私はこのまま乗って行って病院にはいるのだ

 ホームを急ぐ中学生たちはかつての私のように

 昔ながらのかばんを肩からかけている私の中学時代を見るおもいだ

 私はこの川崎のコロムビア工場に

 学校を出たてに一時つとめたことがある

 私の若い日の姿がなつかしくよみがえる

 ホームを行く眠そうな青年たちよ

 君らはかつての私だ

 私の青春そのままの若者たちよ

 私の青春がいまホームにあふれているのだ

 私は君らに手をさしのべて握手したくなった

 なつかしさだけではない

 遅刻すまいとブリッジを駆けのぼって行く

 若い労働者たちよ

 さようなら

 君たちともう二度と会えないだろう

 私は病院へガンの手術を受けに行くのだ

 こうした朝 君たちに会えたことはうれしい

 見知らぬ君たちだが

 君たちが元気なのがとてもうれしい

 青春はいつも健在なのだ

 さようなら

 もう発車だ 死へともう出発だ

 さようなら

 青春よ

 青春はいつも元気だ

 さようなら

 私の青春よ」(高見順「青春の健在」『死の淵にて』高見順 死の淵より)(中島『哲学の教科書』p56-p58)

 ありふれた日常風景がどれほど新鮮に見えるのか、そして日々の暮らしを送る人々がいかに活力に満ち、幸福に満ちているように見えるものなのか。高見は高見独特の視点で、高見の目に映る光景をこの詩において活写している。しかし、この「力にみち 生命にかがやいて見える」風景はあくまで高見の目からそう見えるだけなのだ。もともと人々の日々の暮らしはすべてが順風満帆というわけにはいかないし、そこで生活する一人ひとりの暮らしがことごとく幸福であるとは決して言えない。全身で生を満喫しているのはおそらく子どもたちだけだろうと思う。

 高見はこの詩が作られた事情を次のように書いている。

「千葉大の中山外科から十一月末に退院した。手術後の病室で書かれた形の詩をこのⅠに集めた。形のというのは病室で実際に書いた詩ではないからだ。手術直後にとうてい書けるものではない。気息えんえんたる状態のなかでそれは無理だ。しかし枕もとのノートに鉛筆でメモを取った。それをもとにして退院後書いたのが、これらの詩である。」(前掲詩集のまえがき)

 中島はこの詩集を「大好きだ」として次のように書いている。

「この詩がすばらしいことに異存はありませんが、この全体の雰囲気は、ル・クレジオやカミュの世界と何と異なっていることでしょうか。高見順の場合、『死』とは川崎駅でふと見かけた学生や労働者たちを含む人間集団から絶対的に離別することなのです。彼はすでに半ば『向こう側』から、朝日のまぶしいプラットホームをせわしなく往来する人々を見ている。だからこそ、こうした何気ない日常の光景が異様なほど輝いて見えるのです。

 たしかに、高見順が人間の日常的な些細な営みに感動するという背景には、死ぬことにより自分が非人間的な虚無の世界へ落ちてゆくという実感があるように思います。しかしそうであっても、彼にとって、死ぬことはあくまでも愛する地上の人間たちとの離別なのであり、太陽やシリウスや宇宙の果ての星雲からの離別、しかも宇宙の終焉に至るまでの無ではないのです。」(中島『哲学の教科書』p58)

 西欧の詩人はもう少しスケールが大きく、「宇宙的な感じ」がするらしい。中島はロルカという詩人の「騎馬行」という詩を紹介している。ル・クレジオの『物質的恍惚』や『愛する大地』という作品に対しては西欧特有の一神教の神が死んでいることが露わになった後の乾いた虚無の荒漠を私は感じる。カミュの感性は私にはわかりにくい。

 中島は「文化とか心理とか社会とかの方向」(中島義道『哲学の教科書』p29)は非哲学的だというので、それに倣うと、高見順の視線は非哲学的に言うと日本人の死生観がベースにあるように思う。つまり、日本人は自分が死ぬと生者のすぐ近くの「草葉の陰」に漂っているとなんとなく思っているようなのだ。(柳田国男『先祖の話』)これが生きている人間が擬似的に他界に行ってからまなざす「他界からの視線」=「向こう側」から発する視線という考えに繋がる。 

 古東も京都大学の学生だったころのある日に雷に撃たれたような体験をしたという。

「ぬけるような青空」のある日のことを古東は次のように書いている。

「疲れていたわけでは、まったくありません。ですが、なぜか泪枯れ果て、怒りも憤懣も砕け散って、もうそこから一歩も移動する気になれず、その場に崩れおち、座りこんでしまいました。そしてただひたすら、何時間も黙々と、往来の風景をながめておりました。」(古東同書p84)

「もはや、過去もなければ、未来もない感じ。在るのはこの今だけ。ただ現在(=この今)だけが、垂直方向にこんこんと湧き立ち、その刻一刻の時の移りゆきのなかで、太陽がしずかに降りそそぎ、都大路を路面電車が吹きすぎる。ぬけるような青空に、トンビがゆったり舞い、熱気に遠くゆらめく路面電車のレールや道路ぞいに、ひとびとが笑み歩み語り、子ども達が元気に遊んでいる。

 陳腐で気だるい日常だと思っていたこの世この生の、そのありとしあるすべてのものが、路傍の小石やぺんぺん草さえもが、きらきら輝くのです。そして、大地の呼吸にも似た安らぎが、あたり一面にひろがっていきました。

(中略)

 そんな静けさと驚きの中に深く黙して、腰をおろしておりました。黙々と何時間も。すると、もうそこにいること以外に何もいらないほどの浄福感にひたされました。うまく言えないのですが、そんなふうにそこに黙して《在ること》だけで、すでに至高状態なのです。あんなに存在不安が強く、だからサルトルの『嘔吐』や、カミュの『シーシュポスの神話』や、キルケゴールの『死に至る病』をバイブル代わりにしてきた、根っからのニヒリストの小生がです。」(古東前掲書p84-p86)

 この世この生の新鮮な輝きは、「もうそこにいること以外に何もいらないほどの浄福感」を古東に与えてくれた。「そこに黙して《在ること》だけで、すでに至高状態」を体得させてくれたという。これは高見順が見たこの世の風景に似ている。ただ、高見順の心は死の恐怖に打ちのめされていたが、20代の古東は、がんの手術を受けたわけでもなく、ただひたすら不毛で野蛮な「学園闘争」に身も心も打ちひしがれていただけである。

 古東哲明 - Wikipedia には、古東の経歴が次のように記載されている。

《1974年京都大学哲学科西洋哲学専攻卒業、琵琶湖東岸、能登川にて農業に従事。1980年同大学院博士課程単位取得満期退学。》

 古東は京大を卒業したあと2年ばかり農業をしていたらしい。おそらく黙々と農作業に従事し、畑や田んぼ、土との生活を送り、沈黙と静寂を満喫していたのだろう。それから、1976年に京大の大学院を受験し、2年後に京大大学院修士課程を単位取得満期退学し、1980年に京大大学院博士課程を単位取得満期退学した。そして神戸学院大学を経て広島大学で教鞭を取った。

 このとき古東の身に「とんでもない自己変容と視座転換」(古東同書p87)が起きたという。

「この深い沈黙のなかで地べたに座していると、この世この生のすべてが、そのままですみずみまで肯定でき、死だとか先行きの生活のことだとか、不実で不浄な社会体制の忌まわしさだとか、そんなことへの不安や苛立ちが、すっかり消えはてていました。天地自然のすべてが、なにかおおらかな静寂の抱擁空間に感じられます。今ここのこの瞬間にたたずみ深々と黙しておれば、もうそこにすべてが在る。そんな想いでした。」(古東同書p86)

 中島や高村友也ならばこう問うている。すなわち、なぜ在るのかなぜ無ではなく在るのか。すべてが無であってもよかったのに、どうして私は在るのか。ずっと無であったのに、なぜ突然生まれさせられたのか。勝手に生まれさせられて100年足らずの生を、それも不幸と苦難が多い生を生きなければならないのだ。こんな不幸はない、と。それに対して視座転換を経験した古東は次のように書くのだ。 

「沈黙に溶けいるそのとき、非知の闇の静寂がこの自然宇宙の素顔であり、この世この生のベースであることを痛感もします。地球がどんなところか、いまこの瞬間に生命を息吹かせて生きて在ることが、どんなに奇蹟的なことか。そのことをありありと感じます。すると、変哲もないいつもの日常の光景が、極上の光絵に観えてきますから不思議です。この質朴な根本感興を、古代ギリシアの哲人たちは存在驚愕(タウマゼイン)と名づけました。

 いろんなモノが在る。無でよかったのに在る。なぜか在る。海であれ、山であれ、樹木であれ、鳥であれ、小石であれ、人間であれ、なんであれ、なにごとかがこうして在ることへの感興。非知の闇夜(A位相=沈黙態)から、音色形あるものごと(B位相=分節態)が潑々と生起してくる、その『虚無の闇夜からの創出=存在』の凄さ(仏教の『真空妙有』)に撃たれます。

『深底の沈黙』のなかで、非知の闇夜の静寂を深々と生きることがスプリングボードとなって、この世この生の存在の奇蹟性に覚醒します。これが、『沈黙を生きること』で起きる変容劇です。」(古東同書p87)

 

 上記引用文における「非知の闇の静寂」とは何か。

 「非知」について、古東は次のように解説している。

「知とは、意味分節のはたらき」だが、意味分節できない〈無意味〉の闇の壁に逢着すると、「肯定も否定もできない切れ間」にぶつかってしまうが、「こんな知のありさま」が「非知」であるという。(古東同書p75)

 古東は意味分節(言語分節)(悟性的思考・思惟)ができる分野を「音色形あるものごと(B位相=分節態)」といい、できない分野を「非知の闇夜(A位相=沈黙態)」と言っている。カントは物事を認識するには感性的直観(感官によって端的に感覚すること)と悟性的思惟(概念・観念によって思考すること)の2つが必要だと考えたが、古東は認識の対象について言語分節のできる世界と言語分節を超える世界の2つがあると言っている。

「(言葉・言語とは)ほうっておけば、無秩序で不分明な塊にすぎない内的意識界とか物質的外界を、現与のような、秩序と意味ある世界へ区画・整序し、実体化し、現前化するはたらきです。言葉とは、無分節態(沈黙態)を区画整序し、そうしなければ、ありもしなかった分節態を実体化(モノゴト化)し、観念の幻影でしかないそれらを、あたかも現実物であるかのように現前化するはたらきのことです。それにより、わけのわからぬ無分節性を解消し、知(言葉・概念)の形式のもとにある『ロゴス空間』としての世界を、所有することになります。

 そんな言葉に対し、沈黙は真逆の働きをします。知(言葉・概念)の形式のもとで、世界を所有すること。つまり知性による世界支配。それが言葉の正体だとすれば、沈黙とは、世界を知性のもとで支配する自我(意識主観)への対抗運動です。それにより、条理化も意味づけも、だから実体化もできない不分明な暗がり(沈黙態=静寂)に接触し、そこへ、知性の砦に閉塞していた自我を開放していこうとする運動です。ですから脱領土化。つまり、脱・区画整序、脱・実体化、脱・現前化、そして主体溶解、世界放棄が、沈黙の正体です。身心を渾沌の方へ脱落させていくアナーキーな運動(『身心脱落』道元)ということになりましょう。」(古東同書p36-p37)  

 生命の本質が秩序であるとすると、無秩序な「渾沌」は生命の生への意志に反する「アナーキーな運動」のように思われる。無秩序こそが「地球のもとのすがたである」(古東同書p37)ことになる。それなら人類は滅亡することによって「地球はもとの豊穣な緑と水と大気に溢れる」(古東同書p37)だろうと古東は書いている。地球物理学的には、あと数十億年も経てば、恒星である太陽の寿命が尽きて、地球は太陽とともに消滅してしまうと言われている。しかし、そこまでの遠い未来を考えても、私たちは100年足らずで死ぬのだから、ケインズも言ったように、はるか未来のことを論じても、その頃には私たちはみんな死んでしまっているわけで、そういうことを言ってもしょうがない。

 古東は中村桂子という生命誌学者(生物学者?)が国際的生物学調査プロジェクトに参加したときのことを紹介している。

「熱帯雨林の山奥に生育した、巨大な樹木がありました。それを、すっぽり梱包したうえで、切り倒す。そして、覆いを慎重に開封。すると、想像以上に膨大で多種多様な動植物が、捕獲されました。見なれない大小の動植物が、びっしりだったそうです。

 その見なれない動植物がなんなのかについて、世界中の研究者に、調査が依頼されました。その調査結果が、じつに驚くべきものだったのです。

 名前が判明したのは、なんと三%だけ、あとは、未発見の新種だったそうです。

 現在、約150万種の生命体が命名されています。ですから、単純計算しますと、地上には、5000万種類ほどの動植物が棲息していることが、このプロジェクトから推計されます。」(古東同書p62)

 古東は生物世界はほぼ未知だという。この話を小林誠という物理学者に話したところ、小林は物理学でも同じだと言ったという。

「宇宙を構成する『物質』(thing つまり原子に還元できるもの)は4%ほどしかありません。22%がダーク・マター、74%がダーク・エネルギーです。

 ダーク・マターとかダーク・エネルギーと一応名づけられていますが、かりにそう名づけているだけで、なんなのかは分かりません。そもそも『実在するもの』(entities)なのかすら不明です。『暗黒』(dark)と名づけていますが、黒色をしているわけではなく、〈不可視で見えない〉、〈その正体が不明でなにかとして特定できない〉という意味です。漢字なら『玄』にあたりましょう。すくなくとも、モノゴト(thing )ではありません。

 だとすれば、全宇宙の96%はモノ(thing)ではない、なにやら得体の知れない非物質(no

-thingness)。色も形もなにもかも不分明な、わけのわからないXです。」(古東同書p63-p64)

 私たち人類が作り上げた宇宙に関する知見(宇宙物理学)はごく僅かな部分、4%に対する知見でしかなく、「宇宙のほぼすべてが、深い沈黙のひろがり」であり、「人間の認識能力(ロゴス可能性)の限界」(古東同書p65)であると古東は書いている。

 人類、人間の生存する世界の外には、あらゆる領域において「非知の闇」が存在するのである。その闇の中の4%の世界を占めるだけのロゴス空間としての世界においては、実は何もわかっていないのに、あたかもすべてをわかったようなふりをして(あるいは、わかったと錯覚して)、人間たちは際限のない言葉・言語を溢れさせており、そのような言葉の洪水の世界、そして極めて喧騒に満ちた空間を作っている。

 大事なことは「ロゴス空間としての世界」とは無縁の非知の闇の世界があり、その世界は静寂のただ中に存在しているということだ。

 第二章の最後の文章で古東は次のように書いて章を締めくくった。

「なぜあえて『沈黙を生きる』ことが大切なのか。だからなぜこの書物を書かねばならないのか。その根本理由が、もう以上でおわかりでしょう。深い沈黙のなかで、非知の闇夜の静寂に身をゆだねるとき、とんでもない自己変容と視座転換が、起きてしまいます。

 沈黙に溶けいるそのとき、非知の闇の静寂がこの自然宇宙の素顔であり、この世この生のベースであることを痛感もします。地球がどんなところか、いまこの瞬間に生命を息吹かせて生きて在ることが、どんなに奇蹟的なことか、そのことをありありと感じます。すると、変哲もないいつもの日常の光景が、極上の光絵に観えてきますから不思議です。この質朴な根本感興を、古代ギリシアの哲人たちは存在驚愕(タウマゼイン)と名づけました。いろんなモノが在る。無でよかったのに在る。なぜか在る。海であれ、山であれ、樹木であれ、鳥であれ、小石であれ、人間であれ、なんであれ、なにごとかがこうして在ることへの感興。非知の闇夜(A位相=沈黙態)から、音色形あるものごと(A位相=分節態)が潑々と生起してくる、その『虚無の闇夜からの創出=存在』の凄さ(仏教の『真空妙有』)に撃たれます。

『深底の沈黙』のなかで、非知の闇夜の静寂を深々と生きることがスプリングボードとなって、この世この生の存在の奇蹟性に覚醒します。」(古東同書p86-p87)