・「君の名は。」「天気の子」を経て「すずめの戸締まり」へ
「天気の子」が公開されて間もなくのインタビューか何かで新海誠監督は、「君の名は。」を見て怒った人がもっと怒り出しそうなものを作ったと語ったそうです。「君の名は。」に怒った人の主張とは一体どのようなものだったでしょうか。それは「災害を無かったことにするような話は3.11の被災者に寄り添っていない」というものでしょう。しかし、この主張は完全に間違っています。3.11を「君の名は。」みたいな形でエンタメ化するな!と言う人は、3.11を風化させるな!と言う人と凡そ重なっていますが、震災を想起させる話をエンタメ作品に昇華させ、かつヒットさせることのできる表現者を封じてしまえば、3.11は本当に風化してしまいかねません。つまり上記のような主張は、「3.11の被災者に寄り添えるのは自分達だけであるべきだ!そのせいで例え3.11が風化したとしても構わない!」と言ったに等しいと感じるのです。
そういう人たちが「もっと怒り出しそう」だという「天気の子」は無責任な批判者をもっと挑発する作品となったと感じました。良識派ぶった体制擁護派(右派)は当然「天気の子」の結末に怒るでしょうが、「君の名は。」を批判していた「弱者に寄り添えるのは自分達だけ」と思っている左派も、気候変動で水没していく東京周辺の被災者を見殺しにする決断を主人公(森嶋帆高)が下した結末には怒るでしょう。しかし、天野陽菜を生け贄にして東京の住民を救うような決断を是とするなら、少数者・弱者を犠牲にするような政治権力を批判する根拠も彼ら左派は同時に完全に失うはずです。「天気の子」によって新海監督は、右か左かを問わず全ての批評家を敵に回す可能性のある作劇をやってのけ、それを一級のエンタメに昇華させたわけです。そして監督は、「すずめの戸締まり」という作品において「君の名は。」「天気の子」では為し得なかった試み、すなわち3.11を正面から捉え直す試みに満を持して着手し、ようやく被災者の鎮魂を果たそうとしているのだと感じられました。
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・新海作品の構造
「すずめの戸締まり」評に入る前に、新開作品の構造について述べておきます。「君の名は。」にしても「天気の子」にしても最近の新海作品は前半と後半とで物語の様相が大きく変わってしまうことが特徴だと言えます。「君の名は。」では、まず同世代の男女の心身が入れ替わる現象が起こり、その現象への対応や入れ替わり相手の実在を確かめに向かう前半と、やがて襲い来る運命と入れ替わり現象の意味を知り、その被害を最小限に留めるべく奮闘する後半とに分けられます。「天気の子」では、雨が降り続く東京に来た少年が祈るだけで晴れに出来る能力を持つ少女と出会って自分たちの生きる意味を見出す前半と、やがて少女に襲いかかる残酷な運命を前にした少年がとった行動と選び取った未来が明らかになる後半とに分けられます。同じ分け方を採用するなら「すずめの戸締まり」は、田舎町に暮らす少女が旅の青年と出会って惹かれ、呪いで姿が変わった青年と共に廃墟の扉を閉じる旅を続ける前半と、封印の鍵と化した青年を救うために自身の過去と向き合うべく故郷(3.11被災地)へ向かう後半とに分けられます。
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・「すずめの戸締まり」の世界観・災害観について
では、前段を踏まえつつ「すずめの戸締まり」の批評に移ります。人が住まなくなった寂しい場所に現れる扉(後ろ戸)から禍が出てこないように閉めて回る青年・宗像草太は「閉じ師」と呼ばれる存在です。閉じ師は主に血統によって受け継がれるようですが、「呪術廻戦」の呪術師のように政治権力の後ろ盾(呪術高専は東京都立なので都の予算が注ぎ込まれている)は一切なく、一般の職業(宗像草太は教師を目指す大学生)に就きながら粛々と使命を果たす存在のようです。ちなみに「鬼滅の刃」では御館様(元華族の産屋敷家当主)を頂点とする鬼殺隊が組織されており、つまり資産家の篤志家による私設組織ですから、当然ながら公費は入っていません。
さて、閉じ師が後ろ戸を施錠する際に唱える祝詞が「かけまくもかしこき日不見(ひみず)の神よ 遠(とお)つ御祖の産土よ 久しく拝領つかまつったこの山河 かしこみかしこみ 謹んでお返し申す」です。これは人々が神々から借り受けていた山河を再び神々に返す儀式だと思われます。ゆえに人が住まなくなった場所を放置すれば神々の怒りを買うことになり、その怒りは大地震という形で現出します。また後ろ戸から噴き出す怪物は「ミミズ」の姿をしており、これが暴れて大地に衝撃を与えた時に大地震が起こるというのが「閉じ師」目線での震災観です。ちなみに「日不見(ひみず)の神」とは、地中に横たわっているために日の目を見ることの無い「ミミズ」の意だと思われます。後ろ戸から噴き出したミミズは扉を閉めて施錠すると消え失せますが、この描写はエヴァンゲリオンの使徒を思わせます。いや、瞬時に消えるので後始末は使徒より楽でしょう。
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(以下ネタバレ全開!)
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・成長物語としての「すずめの戸締まり」前半
まず、前半と後半に分けた場合の前半です。宮崎県の鄙びた港町に叔母・岩戸環と暮らす岩戸鈴芽は、「この辺りに廃墟は無い?」と尋ねる美しい青年・宗像草太と出会って彼に一目で惹かれてしまいます。すれ違った後も気になり、草太を探すために入った廃温泉街で偶然にも扉を見つけ、そこを出入りした時に要石と呼ばれる封印を解いてしまいます。しばらくして廃墟の方から巨大な異形の者が噴き出すのを見た直後、スマホから緊急地震速報の警告音が鳴り響きます。鈴芽が急いで温泉街に駆けつけると、扉から噴出する怪物を草太が押さえている場面に出くわし、二人は協力して扉を閉めて施錠します。負傷していた草太を家に連れ帰った鈴芽ですが、窓辺に現れた喋る白猫によって草太は、脚が1本欠けた子供用の黄色い椅子に変えられてしまいます。この椅子は実は鈴芽のために亡き母・岩戸椿芽が作ってくれた形見の品なので、正確には草太は心身とも椅子に封じ込められたわけです。こうして鈴芽と椅子(に入った草太)による喋る猫を追う旅が始まりました。ダイジンという白猫の名は、ネットで「大臣っぽい」から付いた名だと説明されましたが、どこかの段階で「ダイジン」と自ら名乗ったのでしょう。二人の戸締まり旅は、ネットの書き込みから猫の居場所を特定し、宮崎→愛媛→兵庫(神戸)→東京…と続きました。これらの場所は被害状況の大小はあれど、全て震災の被災地周辺だと思われ、その内訳は宮崎(熊本地震2016)、愛媛(芸予地震2001)、神戸(阪神淡路大震災1995)、東京(関東大震災1923)です。また、それらを貫くように日本列島の深層に中央構造線が走っており、そこが「ミミズ」の棲み処だと思われます。
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鈴芽は親代わりの叔母・環から大いに心配されながら猫を追う旅を続け、愛媛では民宿を営む家の娘・海部千果と出会って親友となり、草太(椅子)と共に廃校に現れた扉を閉め、神戸ではスナックのママにして二児の母である二ノ宮ルミと出会って子育てや人生を教わり、廃遊園地に現れた扉を閉めました。旅の途中、喋る猫ダイジンの正体がミミズを封じていた「西の要石」(鈴芽が抜いた)であることが明らかになり、「東の要石」について調べるために二人は東京(御茶ノ水)にある草太の下宿へ行きました。そんな時に部屋を訪ねてきたのが草太の学友・芹澤朋也であり、朋也は前日が教員の二次試験だったのに現れなかった草太を心配して来たのでした。鈴芽は朋也に草太の妹みたいな親戚だと名乗りました。その直後に地震が発生し、東京の後ろ戸から出たと思われるミミズも遠くに見えました。現場に向かうとJR中央東線の神田川橋梁にあるトンネル出口からミミズが噴き出しており、このミミズが大地に倒れ込んだ時に東京大震災が発災するはずでした。「西の要石」が抜けたことでミミズの封印が弱まっており、従って大震災を防ぐために草太は自らが要石としてミミズを封じる(草太が椅子に封じ込められた時、要石の役割はダイジンから草太に移されていた)という決断を下します。草太の自己犠牲によるミミズ封印を受け入れられない様子の鈴芽でしたが、100万人以上が死ぬことになる東京大震災を防ぐために、鈴芽は草太=要石をミミズに突き立て、これによってミミズは消え去り、こうして大震災は防がれました。「天気の子」では帆高が陽菜を救うために東京が水没する未来を選び取りましたが、「すずめの戸締まり」では鈴芽が草太を救わない決断をしたのです。
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・3.11の鎮魂歌としての「すずめの戸締まり」後半
東京の地下に開いていた後ろ戸の向こう側(常世)に鈴芽は草太(椅子)を確認しますが、どうしても常世に入れません。草太を開放するようダイジンに懇願しても拒否され、失意のうちに後ろ戸を施錠した鈴芽は、草太の祖父にして閉じ師の師匠でもある入院中の宗像羊朗に会いに行きました。羊朗によると、鈴芽が扉の向こう側(常世)にいる草太に逢うには、かつて鈴芽が常世に触れた記憶のある故郷に戻る必要があるようでした。そこは東日本大震災の被災地でした。鈴芽の母・椿芽は震災で亡くなり、当時4才だった震災サバイバーの鈴芽を環が引き取って育てたわけです。鈴芽と草太の友人である芹澤朋也は、心配して追いかけてきた岩戸環と共に、かつて岩戸家があった宮城県の町へ朋也の愛車で向かうことになりました。同じ頃、羊朗の病室に「東の要石」=サダイジン(黒猫)が挨拶に訪れ、鈴芽たちに同行することを伝えました。ちなみに「東の要石」の名がサダイジンである理由は、帝が南面した時に右が西、左が東だからであり、京都市左京区(平安京の左京)が東側であることとも同意です。
道中にある道の駅では、追ってきた環に「愛が重い」と言った鈴芽に対し、自分が鈴芽のために尽くしてきたことや女としての人生を犠牲にして母であろうとしてきたことなど秘めていた本音を鈴芽にぶつけ、ついに「私の12年を返して!」とまで言い、衝撃を受けた鈴芽が信じられずに「誰?」と聞いた時、一匹の大きな黒猫が姿を現しました。どうやら環は黒猫(東の要石=サダイジン)に操られたことで今まで言えなかった本音を言えたようでした。その後、朋也は二人を気遣いつつダイジンとサダイジンも一行に加えて宮城の元岩戸家に向かう旅を続けましたが、目的地の手前20キロで喋る猫に驚いた朋也がハンドルを誤って愛車を破損し、そこから鈴芽と環は放置自転車で先を急ぎ、ついに二人は故郷に辿り着きます。鈴芽が岩戸家跡地の裏庭を掘ると「すずめのだいじ」と書かれたクッキー缶が出てきましたが、中にあった絵日記帳の3月11日から先は真っ黒に塗られていました。いや、1ページだけ草原に立つ少女と髪の長い女性を描いたページがありました。かつて後ろ戸から常世に迷い込んだ鈴芽が亡き母と会えた場所こそが、常世の要石と化した草太に近づける唯一の後ろ戸だと確信し、絵日記に書かれていた電波塔のある場所を鈴芽は目指します。そしてダイジンが走った先に倒れた扉がありました。鈴芽は、これまでダイジンが扉を開けていたのではなく自分を扉へと導いてくれていたのだと気付き、「ありがとう」と言います。ダイジン、サダイジンと共に常世に入った鈴芽は蠢くミミズと対峙します。いつの間にか鈴芽は燃えている町(震災当時の故郷)に居ましたが、それは鈴芽にとっての常世の姿でした。
要石と化した草太を抜けばミミズが後ろ戸から飛び出して震災を引き起こしますが、それなら草太を開放して自分が代わりに要石になると宣言します。鈴芽自身が要石となる過程で身体が凍り始めますが、それも厭わずに椅子(草太)を抱き寄せ、草太を思い出しながら椅子にキスしました。ダイジン(大神)とサダイジン(左大神)が鈴芽の覚悟に打たれたためか草太は解放され、鈴芽と一緒に居たかったダイジンも要石に戻りました。草太が祝詞を上げると燃えていた町は人々の息遣いが聞こえる美しい姿を取り戻し、草太と鈴芽は要石に戻ったダイジンとサダイジンをミミズに突き立てて封印しました。
劇中の鈴芽は何度か「死ぬのなんて恐くない!」という言葉を発し、「生きるか死ぬかなんて運でしかない」とも言いますが、これは東日本大震災による心の傷やサバイバーズ・ギルト(自分だけ生き残ったという罪悪感)が言わせた言葉だと思われます。そして、そのことも草太の代わりに要石になるという決断を後押ししました。しかし、要石に変わっていく草太の思考が椅子を抱いた鈴芽に流れ込んできた時、大事な人が「死にたくない」と願っている心を知り、自分の命なんて軽く投げだせるという心境から少しづつ変化していきました。草太が祝詞の後に付け加えた言葉「命が仮初めだとは知っています…死は常に隣にあると分かっています…それでも私たちは願ってしまう…今一年、今一日、今もう一時だけでも、私たちは永らえたい! 猛き大大神よ! どうか、どうか――!」は、猛き神々が暴れることで命を失うことの多い地震国に生きる我々の願いでもありましょう。
その後、丘の上に走る子供の姿を見つけると鈴芽は駆け寄りました。物語の冒頭で子供(鈴芽)が母?に逢うシーンが流れますが、それは少し大人になった鈴芽の姿だったのです。「鈴芽は今はどんなに悲しくてもこの先ちゃんと大きくなる」「だから心配しないで」と言い、小すずめが「お姉ちゃん誰?」と聞くと、鈴芽は「私はすずめの明日」と返します。また、この時に小すずめは草太とも出会っています。物語の冒頭で、すれ違った草太に一目惚れした鈴芽が、廃墟に行ったであろう草太を探しながら「イケメンの人いますか~?」「私たち会ったことありませんでしたか~?…これじゃナンパか」などと言いましたが、恐るべき記憶力(と言うか直観力)です。
上記して来たような理由から本作は、東日本大震災で親しい人を亡くした人に対し、喪った人の幻覚を見せて誤魔化すのではなく、サバイバーズ・ギルトを引きずらずに「前へ進んでも良いのですよ」と静かに語りかける物語であり、それこそが被災して亡くなった人の望んでいることでもあると気付かせるような作劇がなされており、被災者に捧げる鎮魂歌が底層で鳴り続けているような作品でした。「君の名は。」のように大災害の被害を回避するのではなく、「天気の子」のように災害を回避する方法が判っても家族同然の誰かの命を優先するのでもなく、つまり本作は前2作品への批判に対する完璧な回答だと感じられたのです。
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・閑話休題~「ハウルの動く城」との共通点
スタジオジブリのアニメ作品「ハウルの動く城」を知らない人はいないでしょう。同作の終盤には以下のようなシーンがあります。ハウルとカルシファーの契約内容を知った荒れ地の魔女がカルシファー(ハウルの心臓)を奪おうとし、それを防ごうとしたソフィーがカルシファーに水を掛けてしまいます。そのことによってハウルが死ぬのでは?と恐れたソフィーが泣きじゃくっていると、ハウルから貰った指輪が光を放ち、その指し示す方(扉の向こう)の奥へ走っていくと、辿り着いた先はハウルが幼少期を過ごした花畑でした。花畑の小ハウルが流れ星(カルシファー)を救い上げると、その弱り切った悪魔に自らの心臓を捧げました。それが契約の正体でした。理解したソフィーは「未来で待ってて!」と叫び、未来(現在)に戻ると荒れ地の魔女から受け取ったカルシファーの残り火をハウルに戻し、それと同時に魔法が解けて半壊だった城が完全に崩れ去りました。そして、カブ頭の案山子(隣国の王子)の様々な活躍により、サリマン(隣国との戦争に向かわせた張本人)が停戦を決意して物語は大団円に向かいます。
「すずめの戸締まり」と「ハウルの動く城」との共通点ですが、ある男性との出会いが主人公である女性の境遇を大きく変え、やがて二人が強い信頼関係で結ばれ、そして女性が男性を救う展開になり、不思議な形(ソフィー:指輪に込められた魔法/すずめ:常世と繋がる扉)で過去と邂逅するシーンがある点も共通しています。
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・「後ろ戸」を開けるのは誰か?
ここまで脱線しながらも「すずめの戸締まり」のストーリーを追ってきましたが、ここで「閉じ師」という存在に再び焦点を当てます。人の心が消えた寂しい場所に開く「後ろ戸」を施錠する旅を続ける「閉じ師」たちは、師匠から弟子に技が受け継がれる存在のようです。対価を得ないので生業ではなく、宗像家の人々は自分たちに課せられた使命だと受け止めているようです。祝詞を唱えながら後ろ戸を施錠するので神職の一種だと思われますが、時の権力者による後ろ盾も無く、使命感のみによる全くの慈善事業として行われているようです。テレビ朝日と関係の深い新海監督ですから、閉じ師の一族が神社本庁(自民党と関係が深い)などと関わっているはずがありません。上記しましたが、「東京都立」呪術高専(つまり国や都の予算がついている)から輩出された呪術師たちが呪いを祓うという設定の「呪術廻戦」(TBS)の世界観とは対極にあります。宗像家代々の閉じ師たちは、「七人の秘書」(テレ朝)ばりに「名乗るほどの者ではありません」と言ったかは知りませんが、一切の見返りを求めずに粛々と使命を果たしてきたわけです。劇中の宗像草太は、自身の生活費や大学の学費、そして戸締まり旅(限界集落は日本中に激増中!)の旅費の他に祖父・羊朗の入院費までも、学生の身でありながら賄っていることになりますが、これは現実には絶対に不可能です。
また、日本列島を襲う二大災害と言えば水害(台風)と地震ですが、水害は「天気の巫女」(天気の子)、地震は「閉じ師」(すずめの戸締まり)に対応を任されているというのが新海ワールドの世界観なのでしょう。地震・雷・火事・親父と言いますが、日本で最大の脅威は地震です。であれば閉じ師一族の使命感だけに頼っていては、やがて日本は南海トラフ地震と各地の活断層による直下型地震、そして50ヶ所近い原発の事故により、今度こそ日本は壊滅します。しかし、その遠因を探れば、日本中の市町村を限界集落に導くような日本政府の緊縮財政(地方交付金を縮減させ、長期不況が人口減少をもたらす)と新自由主義(グローバル化は人口の都市部への一極集中をもたらす)であることは明らかです。その上、劇中描写のようであれば緊縮財政は閉じ師一族を確実に追い詰めていきます。劇中の草太は教師(公務員)を目指していますが、緊縮日本における永久不況の中では、これは正しい判断でしょう。もはや対策は一つしかありません。今すぐ緊縮財政を止めて地方交付金を増やし、人口減少と過疎化を止め、今以上に限界集落を増やさないことです。それこそが廃墟に開くという「後ろ戸」を増やさない唯一の方法です。人口が漸増すれば神々に「お返し」した山河を再び借り受ければよいのです。そして「閉じ師」そのものも警察官・自衛官ばりの公務員と法定し、さらに「呪術高専」ばりの「閉じ師養成学校」を設立して後進の育成にも務め、それら全てに公費を投入することが求められます。劇中の世界観においては、そうした社会インフラの整備が近未来の震災を防ぐはずなのです。
劇中とは違うリアルにおいても、震災=禍(わざわい)とするなら、緊縮財政を止めてケインズ政策を解禁することは、人口減少対策(人口減少=国力衰退、このままでは日本列島が外国人の疎開地ばかりとなる)、限界集落対策(警察の手が及ばない地域が出来て治安が悪化する、外国人が日本の山河を買い漁ってもいる)、大規模災害対策(地震に強い街づくりや水害を防ぐインフラが必要、東京で再び直下型地震が起これば日本国は瓦解する)として優先順位の高い政策になると考えられます。こうしたリスク低減策を実施するためは、財務官僚に緊縮財政を止めさせることが必須であり、やはり財政法4条(公債発行禁止)を撤廃することが最重要課題だからです。つまり、リアル日本で「後ろ戸」を開けて禍を呼び寄せているのは、財務官僚や財界人、マスコミ人、そして全ての日本人の脳髄に沁み込んだ緊縮マインドだと言わざるを得ません。そして、関東大震災クラスあるいは南海トラフ地震クラスの危機が再び訪れれば、昨今の世界情勢(ロシアによるウクライナ侵略、中国の台湾侵略リスク、韓国によるカルトを利用した日本侵略、米中欧外資による経済侵略…)を鑑みるに、大震災に伴うショックドクトリンは外国勢力からの侵略という形を取る可能性があると覚悟すべきでしょう。ゆえにリアルでは「閉じ師」でなく自衛官(公務員)や警察官(公務員)の増員が求められ、そして当然ながら防災のためのインフラ整備にも公費(ケインズ政策による)が割かれるべきであると考えます。それらの予算措置およびナショナリズム(国民主義)を起点とする危機管理意識こそが、いわば日本の「要石」だと言えましょう。
・蛇足
なお、新海監督が「後ろ戸」から出てくる禍を安易にコロナ禍と結びつける作劇にしなかった点を大いに評価したいと思います。なぜなら新海氏は、コロナコワイ煽りにおいては他の追随を許さない「羽鳥慎一のモーニングショー」を擁するテレビ朝日と非常に関係が深いからです。