「君たちはどう生きるか」を観ましたが、何だか「気持ち悪い」作品でした。これから、この「気持ち悪さ」の正体を考察してみようと思います。

    (以下、盛大にネタバレします!)

     ↓

     ↓

     ↓

     ↓

 

 1941年12月~1945年8月という非常にセンシティブな時代(大東亜戦争)を日本人が描くにあたっては、3つの方法しか許されていません(※戦勝国なら自国の正義を歌い上げつつ自国民の被害を最大限に訴えることができる)。それは、戦時下の子供たちを徹底的に被害者として描く方法(火垂るの墓…)、戦争の倫理的あるいは戦略的な問題を捨象して恋愛物語に一元化させる方法(風立ちぬ・この世界の片隅に…)、完全なファンタジーに逃避してしまう方法…という3つです。そして、「君たちはどう生きるか」はに該当します。

 劇中の時代は大戦末期の1944年、主人公・牧眞人(まひと)は、軍需産業の工場(主に戦闘機を製造?)を営む男の息子です。大空襲によって母(ヒサコ)の入院している病院が焼け、それによって眞人は母を失い、やがて父は母の故郷へ息子を疎開させますが、既に父は母の妹を後妻に迎えており、叔母の胎内には弟か妹がいると伝えられます。つまり眞人は大変な葛藤を抱えたことになります。父の軍需工場が対米英戦争を支え、それが原因で母が亡くなり、それなのに父は母の妹(ナツコ)を後妻とし、疎開先でも父はカネに物を言わせて眞人の学校での待遇を良くしようと躍起でした。もちろん父は財界の大物ゆえ兵役を免除されているはずです。

 さて、ここまで糞みたいなプロファイルの主人公について紹介してきましたが、ここから突然ファンタジーに突入します。死んだはずの実母が生きていると伝えてきた妖鳥アオサギに導かれ、また義母のナツコを攫ったとも言うアオサギを追いながら、館の裏に立つ怪しい塔に迷い込み、そうして眞人は異世界に足を踏み入れました。その異世界はペリカンやインコなどの鳥たちが人間と対立しているという世界観でした。キリコ(♀)とヒミ(♀)は鳥たちと戦っており、二人は白くてふわふわした物体(わらわら)をペリカンから守っていましたが、この"わらわら"は未だ生まれる前の人間のようでした。しばらく眞人らの異世界での冒険が続きますが、やがて、「幕末期に空から降ってきたとされる搭」を守るように館を建てたと語る大叔父と異世界で出会います。大叔父は、この異世界を維持するために13個の石をバランス良く組み立てていました。ここで眞人は異世界に引き籠るか元の世界に戻るかの決断を迫られます。異世界で一緒に戦ってきたヒミが実は母親のヒサコだと知り、さらにキリコが現実世界で世話を焼いてくれた婆やの一人だとも知った眞人は元の世界に戻ることを決断します。

 ところで、現実世界に戻った眞人が何だか大団円的な結末を迎えたように見せていましたが、戻った後の眞人らは実際どうなるのでしょうか。眞人は、軍需産業で戦争継続を支えただけでなく政商として政治を開戦に向けて動かしたかもしれない父(やがて財閥解体&公職追放のWパンチに見舞われる)の息子に戻ることを意味します。おそらく、ゼロ戦開発者としての堀越二郎(風立ちぬ)よりも厳しい戦後を生きることになるでしょう。コミカライズされた『君たちはどう生きるか』は級友へのイジメを止められなかったコペル君が罪の意識で悩み続ける話ですが、本作では何千何万という清太や節子(火垂るの墓)、北条すず(この世界の片隅に)らの命を奪った罪を背負って苦しみ続けるに違いない(※実際に命を奪ったのは民間人居住地への絨毯爆撃を立案したり原爆投下を決断したりした米軍トップや実際に遂行した米軍人、および原爆開発者たちであることは言うまでも無い)からです。また、たとえ大東亜戦争の開戦責任や、それに先立つシナ事変長期化の責任が軍部や軍需産業ばかりでなく、好戦的な報道を繰り返したマスコミ好戦的な気分を盛り上げ続けたファシズム的世間にも十分すぎる程の責任が有ったとしても!にも拘らず戦後の国民が戦争責任を全て軍部に押し付けたとしても!眞人は心理的な責任からは逃れようもないのです。潜在的な開戦責任者としての父と向き合うことを避けた時点で、もはや彼は「そう生きる」しかなくなっていたはずです。

 

 

 ところで、冒頭で触れた「気持ち悪さ」の正体です。観劇中に私は、本作にはエヴァンゲリオン的な隠喩を多く含んでいると感じていました。父との強い葛藤、母に救われる展開、嫌なことから逃げるか否か?、"わらわら"=ガフの部屋、13個の石=13体の使途…といったものです。新劇場版の最終章「シン・エヴァンゲリオン」で碇シンジは、ケンスケやトウジ、そして新たに参加した共同体で出会った人々との共同生活の中で絆を結び、レイ/ユイを巡る父ゲンドウとの対決でキッチリ落とし前を付け、もちろんアスカも救い、そしてマリと共に現実を生き直す決断をしましたが、父ゲンドウとの葛藤その他から逃避したままアスカに救いを求めたファンタジー作品「Air/まごころを君に」では、アスカに「気持ち悪い」と言われて唐突に終幕しました。「君たちはどう生きるか」にあるのは、この「気持ち悪さ」だったのだと思われます。それは眞人が父と対決しないまま終幕を迎えたことに起因すると考えられます。

 

 

 さて、せっかく「火垂るの墓」にも言及したので宮崎駿氏と高畑勲氏の関係にも触れておきます。二人を最もよく知る鈴木敏夫氏は「宮さん(宮崎駿)は実はただ一人の観客を意識して映画を作っている…宮崎駿がいちばん作品を見せたいのは高畑勲」と語っています。また「高畑勲に自分の全青春を捧げた」という宮崎の言葉も明かしています。つまり宮崎駿氏が父性を感じる対象は高畑勲氏なのかもしれません。高畑は「火垂るの墓」や「かぐや姫の物語」「おもひでぽろぽろ」などの創作物から「左派」であることが伺い知れます。宮崎は「ノンポリ」のはずですが、「風立ちぬ」に代表されるように「兵器オタク」であることも知られています。その兵器オタクの系譜は「エヴァンゲリオン」の庵野秀明に受け継がれている気がします。ちなみに「風立ちぬ」で堀越二郎の声を演じたのは「エヴァンゲリオン」シリーズをつくった庵野秀明氏です。庵野氏は「シン・エヴァンゲリオン」で自らの父との葛藤に整理を付けられたのかもしれませんが、高畑亡き後の宮崎氏は「君たちはどう生きるか」でも逃避したのですから、これからも氏の創作意欲は枯れることなく続くと思われます。もはや彼は「そう生きる」しかないはずなのです。

 

 

・「君の名は。」「天気の子」を経て「すずめの戸締まり」へ

 「天気の子」が公開されて間もなくのインタビューか何かで新海誠監督は、「君の名は。」を見て怒った人がもっと怒り出しそうなものを作ったと語ったそうです。「君の名は。」に怒った人の主張とは一体どのようなものだったでしょうか。それは「災害を無かったことにするような話は3.11の被災者に寄り添っていない」というものでしょう。しかし、この主張は完全に間違っています。3.11を「君の名は。」みたいな形でエンタメ化するな!と言う人は、3.11を風化させるな!と言う人と凡そ重なっていますが、震災を想起させる話をエンタメ作品に昇華させ、かつヒットさせることのできる表現者を封じてしまえば、3.11は本当に風化してしまいかねません。つまり上記のような主張は、「3.11の被災者に寄り添えるのは自分達だけであるべきだ!そのせいで例え3.11が風化したとしても構わない!」と言ったに等しいと感じるのです。

 そういう人たちが「もっと怒り出しそう」だという「天気の子」は無責任な批判者をもっと挑発する作品となったと感じました。良識派ぶった体制擁護派(右派)は当然「天気の子」の結末に怒るでしょうが、「君の名は。」を批判していた「弱者に寄り添えるのは自分達だけ」と思っている左派も、気候変動で水没していく東京周辺の被災者を見殺しにする決断を主人公(森嶋帆高)が下した結末には怒るでしょう。しかし、天野陽菜を生け贄にして東京の住民を救うような決断を是とするなら、少数者・弱者を犠牲にするような政治権力を批判する根拠も彼ら左派は同時に完全に失うはずです。「天気の子」によって新海監督は、右か左かを問わず全ての批評家を敵に回す可能性のある作劇をやってのけ、それを一級のエンタメに昇華させたわけです。そして監督は、「すずめの戸締まり」という作品において「君の名は。」「天気の子」では為し得なかった試み、すなわち3.11を正面から捉え直す試みに満を持して着手し、ようやく被災者の鎮魂を果たそうとしているのだと感じられました。

 

 

・新海作品の構造

 「すずめの戸締まり」評に入る前に、新開作品の構造について述べておきます。「君の名は。」にしても「天気の子」にしても最近の新海作品は前半と後半とで物語の様相が大きく変わってしまうことが特徴だと言えます。「君の名は。」では、まず同世代の男女の心身が入れ替わる現象が起こり、その現象への対応や入れ替わり相手の実在を確かめに向かう前半と、やがて襲い来る運命と入れ替わり現象の意味を知り、その被害を最小限に留めるべく奮闘する後半とに分けられます。「天気の子」では、雨が降り続く東京に来た少年が祈るだけで晴れに出来る能力を持つ少女と出会って自分たちの生きる意味を見出す前半と、やがて少女に襲いかかる残酷な運命を前にした少年がとった行動と選び取った未来が明らかになる後半とに分けられます。同じ分け方を採用するなら「すずめの戸締まり」は、田舎町に暮らす少女が旅の青年と出会って惹かれ、呪いで姿が変わった青年と共に廃墟の扉を閉じる旅を続ける前半と、封印の鍵と化した青年を救うために自身の過去と向き合うべく故郷(3.11被災地)へ向かう後半とに分けられます。

 

 

・「すずめの戸締まり」の世界観・災害観について

 では、前段を踏まえつつ「すずめの戸締まり」の批評に移ります。人が住まなくなった寂しい場所に現れる扉(後ろ戸)から禍が出てこないように閉めて回る青年・宗像草太は「閉じ師」と呼ばれる存在です。閉じ師は主に血統によって受け継がれるようですが、「呪術廻戦」の呪術師のように政治権力の後ろ盾(呪術高専は東京都立なので都の予算が注ぎ込まれている)は一切なく、一般の職業(宗像草太は教師を目指す大学生)に就きながら粛々と使命を果たす存在のようです。ちなみに「鬼滅の刃」では御館様(元華族の産屋敷家当主)を頂点とする鬼殺隊が組織されており、つまり資産家の篤志家による私設組織ですから、当然ながら公費は入っていません。

 さて、閉じ師が後ろ戸を施錠する際に唱える祝詞が「かけまくもかしこき日不見(ひみず)の神よ 遠(とお)つ御祖の産土よ 久しく拝領つかまつったこの山河 かしこみかしこみ 謹んでお返し申す」です。これは人々が神々から借り受けていた山河を再び神々に返す儀式だと思われます。ゆえに人が住まなくなった場所を放置すれば神々の怒りを買うことになり、その怒りは大地震という形で現出します。また後ろ戸から噴き出す怪物は「ミミズ」の姿をしており、これが暴れて大地に衝撃を与えた時に大地震が起こるというのが「閉じ師」目線での震災観です。ちなみに「日不見(ひみず)の神」とは、地中に横たわっているために日の目を見ることの無い「ミミズ」の意だと思われます。後ろ戸から噴き出したミミズは扉を閉めて施錠すると消え失せますが、この描写はエヴァンゲリオンの使徒を思わせます。いや、瞬時に消えるので後始末は使徒より楽でしょう。

 

         

         

    (以下ネタバレ全開!)

         

         

・成長物語としての「すずめの戸締まり」前半

 まず、前半と後半に分けた場合の前半です。宮崎県の鄙びた港町に叔母・岩戸環と暮らす岩戸鈴芽は、「この辺りに廃墟は無い?」と尋ねる美しい青年・宗像草太と出会って彼に一目で惹かれてしまいます。すれ違った後も気になり、草太を探すために入った廃温泉街で偶然にも扉を見つけ、そこを出入りした時に要石と呼ばれる封印を解いてしまいます。しばらくして廃墟の方から巨大な異形の者が噴き出すのを見た直後、スマホから緊急地震速報の警告音が鳴り響きます。鈴芽が急いで温泉街に駆けつけると、扉から噴出する怪物を草太が押さえている場面に出くわし、二人は協力して扉を閉めて施錠します。負傷していた草太を家に連れ帰った鈴芽ですが、窓辺に現れた喋る白猫によって草太は、脚が1本欠けた子供用の黄色い椅子に変えられてしまいます。この椅子は実は鈴芽のために亡き母・岩戸椿芽が作ってくれた形見の品なので、正確には草太は心身とも椅子に封じ込められたわけです。こうして鈴芽と椅子(に入った草太)による喋る猫を追う旅が始まりました。ダイジンという白猫の名は、ネットで「大臣っぽい」から付いた名だと説明されましたが、どこかの段階で「ダイジン」と自ら名乗ったのでしょう。二人の戸締まり旅は、ネットの書き込みから猫の居場所を特定し、宮崎→愛媛→兵庫(神戸)→東京…と続きました。これらの場所は被害状況の大小はあれど、全て震災の被災地周辺だと思われ、その内訳は宮崎(熊本地震2016)、愛媛(芸予地震2001)、神戸(阪神淡路大震災1995)、東京(関東大震災1923)です。また、それらを貫くように日本列島の深層に中央構造線が走っており、そこが「ミミズ」の棲み処だと思われます。

 

 

 鈴芽は親代わりの叔母・環から大いに心配されながら猫を追う旅を続け、愛媛では民宿を営む家の娘・海部千果と出会って親友となり、草太(椅子)と共に廃校に現れた扉を閉め、神戸ではスナックのママにして二児の母である二ノ宮ルミと出会って子育てや人生を教わり、廃遊園地に現れた扉を閉めました。旅の途中、喋る猫ダイジンの正体がミミズを封じていた「西の要石」(鈴芽が抜いた)であることが明らかになり、「東の要石」について調べるために二人は東京(御茶ノ水)にある草太の下宿へ行きました。そんな時に部屋を訪ねてきたのが草太の学友・芹澤朋也であり、朋也は前日が教員の二次試験だったのに現れなかった草太を心配して来たのでした。鈴芽は朋也に草太の妹みたいな親戚だと名乗りました。その直後に地震が発生し、東京の後ろ戸から出たと思われるミミズも遠くに見えました。現場に向かうとJR中央東線の神田川橋梁にあるトンネル出口からミミズが噴き出しており、このミミズが大地に倒れ込んだ時に東京大震災が発災するはずでした。「西の要石」が抜けたことでミミズの封印が弱まっており、従って大震災を防ぐために草太は自らが要石としてミミズを封じる(草太が椅子に封じ込められた時、要石の役割はダイジンから草太に移されていた)という決断を下します。草太の自己犠牲によるミミズ封印を受け入れられない様子の鈴芽でしたが、100万人以上が死ぬことになる東京大震災を防ぐために、鈴芽は草太=要石をミミズに突き立て、これによってミミズは消え去り、こうして大震災は防がれました。「天気の子」では帆高が陽菜を救うために東京が水没する未来を選び取りましたが、「すずめの戸締まり」では鈴芽が草太を救わない決断をしたのです。

 

 

・3.11の鎮魂歌としての「すずめの戸締まり」後半

 東京の地下に開いていた後ろ戸の向こう側(常世)に鈴芽は草太(椅子)を確認しますが、どうしても常世に入れません。草太を開放するようダイジンに懇願しても拒否され、失意のうちに後ろ戸を施錠した鈴芽は、草太の祖父にして閉じ師の師匠でもある入院中の宗像羊朗に会いに行きました。羊朗によると、鈴芽が扉の向こう側(常世)にいる草太に逢うには、かつて鈴芽が常世に触れた記憶のある故郷に戻る必要があるようでした。そこは東日本大震災の被災地でした。鈴芽の母・椿芽は震災で亡くなり、当時4才だった震災サバイバーの鈴芽を環が引き取って育てたわけです。鈴芽と草太の友人である芹澤朋也は、心配して追いかけてきた岩戸環と共に、かつて岩戸家があった宮城県の町へ朋也の愛車で向かうことになりました。同じ頃、羊朗の病室に「東の要石」=サダイジン(黒猫)が挨拶に訪れ、鈴芽たちに同行することを伝えました。ちなみに「東の要石」の名がサダイジンである理由は、帝が南面した時に右が西、左が東だからであり、京都市左京区(平安京の左京)が東側であることとも同意です。

 道中にある道の駅では、追ってきた環に「愛が重い」と言った鈴芽に対し、自分が鈴芽のために尽くしてきたことや女としての人生を犠牲にして母であろうとしてきたことなど秘めていた本音を鈴芽にぶつけ、ついに「私の12年を返して!」とまで言い、衝撃を受けた鈴芽が信じられずに「誰?」と聞いた時、一匹の大きな黒猫が姿を現しました。どうやら環は黒猫(東の要石=サダイジン)に操られたことで今まで言えなかった本音を言えたようでした。その後、朋也は二人を気遣いつつダイジンとサダイジンも一行に加えて宮城の元岩戸家に向かう旅を続けましたが、目的地の手前20キロで喋る猫に驚いた朋也がハンドルを誤って愛車を破損し、そこから鈴芽と環は放置自転車で先を急ぎ、ついに二人は故郷に辿り着きます。鈴芽が岩戸家跡地の裏庭を掘ると「すずめのだいじ」と書かれたクッキー缶が出てきましたが、中にあった絵日記帳の3月11日から先は真っ黒に塗られていました。いや、1ページだけ草原に立つ少女と髪の長い女性を描いたページがありました。かつて後ろ戸から常世に迷い込んだ鈴芽が亡き母と会えた場所こそが、常世の要石と化した草太に近づける唯一の後ろ戸だと確信し、絵日記に書かれていた電波塔のある場所を鈴芽は目指します。そしてダイジンが走った先に倒れた扉がありました。鈴芽は、これまでダイジンが扉を開けていたのではなく自分を扉へと導いてくれていたのだと気付き、「ありがとう」と言います。ダイジン、サダイジンと共に常世に入った鈴芽は蠢くミミズと対峙します。いつの間にか鈴芽は燃えている町(震災当時の故郷)に居ましたが、それは鈴芽にとっての常世の姿でした。

 要石と化した草太を抜けばミミズが後ろ戸から飛び出して震災を引き起こしますが、それなら草太を開放して自分が代わりに要石になると宣言します。鈴芽自身が要石となる過程で身体が凍り始めますが、それも厭わずに椅子(草太)を抱き寄せ、草太を思い出しながら椅子にキスしました。ダイジン(大神)とサダイジン(左大神)が鈴芽の覚悟に打たれたためか草太は解放され、鈴芽と一緒に居たかったダイジンも要石に戻りました。草太が祝詞を上げると燃えていた町は人々の息遣いが聞こえる美しい姿を取り戻し、草太と鈴芽は要石に戻ったダイジンとサダイジンをミミズに突き立てて封印しました。

 劇中の鈴芽は何度か「死ぬのなんて恐くない!」という言葉を発し、「生きるか死ぬかなんて運でしかない」とも言いますが、これは東日本大震災による心の傷やサバイバーズ・ギルト(自分だけ生き残ったという罪悪感)が言わせた言葉だと思われます。そして、そのことも草太の代わりに要石になるという決断を後押ししました。しかし、要石に変わっていく草太の思考が椅子を抱いた鈴芽に流れ込んできた時、大事な人が「死にたくない」と願っている心を知り、自分の命なんて軽く投げだせるという心境から少しづつ変化していきました。草太が祝詞の後に付け加えた言葉「命が仮初めだとは知っています…死は常に隣にあると分かっています…それでも私たちは願ってしまう…今一年、今一日、今もう一時だけでも、私たちは永らえたい! 猛き大大神よ! どうか、どうか――!」は、猛き神々が暴れることで命を失うことの多い地震国に生きる我々の願いでもありましょう。

 その後、丘の上に走る子供の姿を見つけると鈴芽は駆け寄りました。物語の冒頭で子供(鈴芽)が母?に逢うシーンが流れますが、それは少し大人になった鈴芽の姿だったのです。「鈴芽は今はどんなに悲しくてもこの先ちゃんと大きくなる」「だから心配しないで」と言い、小すずめが「お姉ちゃん誰?」と聞くと、鈴芽は「私はすずめの明日」と返します。また、この時に小すずめは草太とも出会っています。物語の冒頭で、すれ違った草太に一目惚れした鈴芽が、廃墟に行ったであろう草太を探しながら「イケメンの人いますか~?」「私たち会ったことありませんでしたか~?…これじゃナンパか」などと言いましたが、恐るべき記憶力(と言うか直観力)です。

 上記して来たような理由から本作は、東日本大震災で親しい人を亡くした人に対し、喪った人の幻覚を見せて誤魔化すのではなく、サバイバーズ・ギルトを引きずらずに「前へ進んでも良いのですよ」と静かに語りかける物語であり、それこそが被災して亡くなった人の望んでいることでもあると気付かせるような作劇がなされており、被災者に捧げる鎮魂歌が底層で鳴り続けているような作品でした。「君の名は。」のように大災害の被害を回避するのではなく、「天気の子」のように災害を回避する方法が判っても家族同然の誰かの命を優先するのでもなく、つまり本作は前2作品への批判に対する完璧な回答だと感じられたのです。

 

 

・閑話休題~「ハウルの動く城」との共通点

 スタジオジブリのアニメ作品「ハウルの動く城」を知らない人はいないでしょう。同作の終盤には以下のようなシーンがあります。ハウルとカルシファーの契約内容を知った荒れ地の魔女がカルシファー(ハウルの心臓)を奪おうとし、それを防ごうとしたソフィーがカルシファーに水を掛けてしまいます。そのことによってハウルが死ぬのでは?と恐れたソフィーが泣きじゃくっていると、ハウルから貰った指輪が光を放ち、その指し示す方(扉の向こう)の奥へ走っていくと、辿り着いた先はハウルが幼少期を過ごした花畑でした。花畑の小ハウルが流れ星(カルシファー)を救い上げると、その弱り切った悪魔に自らの心臓を捧げました。それが契約の正体でした。理解したソフィーは「未来で待ってて!」と叫び、未来(現在)に戻ると荒れ地の魔女から受け取ったカルシファーの残り火をハウルに戻し、それと同時に魔法が解けて半壊だった城が完全に崩れ去りました。そして、カブ頭の案山子(隣国の王子)の様々な活躍により、サリマン(隣国との戦争に向かわせた張本人)が停戦を決意して物語は大団円に向かいます。

 「すずめの戸締まり」と「ハウルの動く城」との共通点ですが、ある男性との出会いが主人公である女性の境遇を大きく変え、やがて二人が強い信頼関係で結ばれ、そして女性が男性を救う展開になり、不思議な形(ソフィー:指輪に込められた魔法/すずめ:常世と繋がる扉)で過去と邂逅するシーンがある点も共通しています。

 

 

・「後ろ戸」を開けるのは誰か?

 ここまで脱線しながらも「すずめの戸締まり」のストーリーを追ってきましたが、ここで「閉じ師」という存在に再び焦点を当てます。人の心が消えた寂しい場所に開く「後ろ戸」を施錠する旅を続ける「閉じ師」たちは、師匠から弟子に技が受け継がれる存在のようです。対価を得ないので生業ではなく、宗像家の人々は自分たちに課せられた使命だと受け止めているようです。祝詞を唱えながら後ろ戸を施錠するので神職の一種だと思われますが、時の権力者による後ろ盾も無く、使命感のみによる全くの慈善事業として行われているようです。テレビ朝日と関係の深い新海監督ですから、閉じ師の一族が神社本庁(自民党と関係が深い)などと関わっているはずがありません。上記しましたが、「東京都立」呪術高専(つまり国や都の予算がついている)から輩出された呪術師たちが呪いを祓うという設定の「呪術廻戦」(TBS)の世界観とは対極にあります。宗像家代々の閉じ師たちは、「七人の秘書」(テレ朝)ばりに「名乗るほどの者ではありません」と言ったかは知りませんが、一切の見返りを求めずに粛々と使命を果たしてきたわけです。劇中の宗像草太は、自身の生活費や大学の学費、そして戸締まり旅(限界集落は日本中に激増中!)の旅費の他に祖父・羊朗の入院費までも、学生の身でありながら賄っていることになりますが、これは現実には絶対に不可能です。

 また、日本列島を襲う二大災害と言えば水害(台風)と地震ですが、水害は「天気の巫女」(天気の子)、地震は「閉じ師」(すずめの戸締まり)に対応を任されているというのが新海ワールドの世界観なのでしょう。地震・雷・火事・親父と言いますが、日本で最大の脅威は地震です。であれば閉じ師一族の使命感だけに頼っていては、やがて日本は南海トラフ地震と各地の活断層による直下型地震、そして50ヶ所近い原発の事故により、今度こそ日本は壊滅します。しかし、その遠因を探れば、日本中の市町村を限界集落に導くような日本政府の緊縮財政(地方交付金を縮減させ、長期不況が人口減少をもたらす)と新自由主義(グローバル化は人口の都市部への一極集中をもたらす)であることは明らかです。その上、劇中描写のようであれば緊縮財政は閉じ師一族を確実に追い詰めていきます。劇中の草太は教師(公務員)を目指していますが、緊縮日本における永久不況の中では、これは正しい判断でしょう。もはや対策は一つしかありません。今すぐ緊縮財政を止めて地方交付金を増やし、人口減少と過疎化を止め、今以上に限界集落を増やさないことです。それこそが廃墟に開くという「後ろ戸」を増やさない唯一の方法です。人口が漸増すれば神々に「お返し」した山河を再び借り受ければよいのです。そして「閉じ師」そのものも警察官・自衛官ばりの公務員と法定し、さらに「呪術高専」ばりの「閉じ師養成学校」を設立して後進の育成にも務め、それら全てに公費を投入することが求められます。劇中の世界観においては、そうした社会インフラの整備が近未来の震災を防ぐはずなのです。

 劇中とは違うリアルにおいても、震災=禍(わざわい)とするなら、緊縮財政を止めてケインズ政策を解禁することは、人口減少対策(人口減少=国力衰退、このままでは日本列島が外国人の疎開地ばかりとなる)、限界集落対策(警察の手が及ばない地域が出来て治安が悪化する、外国人が日本の山河を買い漁ってもいる)、大規模災害対策(地震に強い街づくりや水害を防ぐインフラが必要、東京で再び直下型地震が起これば日本国は瓦解する)として優先順位の高い政策になると考えられます。こうしたリスク低減策を実施するためは、財務官僚に緊縮財政を止めさせることが必須であり、やはり財政法4条(公債発行禁止)を撤廃することが最重要課題だからです。つまり、リアル日本で「後ろ戸」を開けて禍を呼び寄せているのは、財務官僚や財界人、マスコミ人、そして全ての日本人の脳髄に沁み込んだ緊縮マインドだと言わざるを得ません。そして、関東大震災クラスあるいは南海トラフ地震クラスの危機が再び訪れれば、昨今の世界情勢(ロシアによるウクライナ侵略、中国の台湾侵略リスク、韓国によるカルトを利用した日本侵略、米中欧外資による経済侵略…)を鑑みるに、大震災に伴うショックドクトリンは外国勢力からの侵略という形を取る可能性があると覚悟すべきでしょう。ゆえにリアルでは「閉じ師」でなく自衛官(公務員)や警察官(公務員)の増員が求められ、そして当然ながら防災のためのインフラ整備にも公費(ケインズ政策による)が割かれるべきであると考えます。それらの予算措置およびナショナリズム(国民主義)を起点とする危機管理意識こそが、いわば日本の「要石」だと言えましょう。

 

・蛇足

 なお、新海監督が「後ろ戸」から出てくる禍を安易にコロナ禍と結びつける作劇にしなかった点を大いに評価したいと思います。なぜなら新海氏は、コロナコワイ煽りにおいては他の追随を許さない「羽鳥慎一のモーニングショー」を擁するテレビ朝日と非常に関係が深いからです。

 「夜明けまでバス停で」を観ました。本作は実際にあった事件を題材にしています。その事件とは以下のようなものです。

    ↓

 住所不定、職業不詳の大林三佐子さん(64)は20年11月16日午前4時ごろ、渋谷区幡ケ谷2の甲州街道沿いのバス停「幡ケ谷原町」のベンチに座っていたところ、男に石などが入ったポリ袋で頭を殴られ、外傷性くも膜下出血で死亡した。傷害致死容疑で逮捕された同区笹塚2の職業不詳、吉田和人容疑者(46)は容疑を認め、調べに「バス停に居座る路上生活者にどいてもらいたかった」と供述している。

 モデルとなった実際の事件… https://www.tokyo-np.co.jp/article/72648

 

         

         

    (以下ネタバレ全開!)

         

         

 作中では、北林三知子(板谷由夏)という演者本人と年齢が近いであろう女性(40代半ば)が主人公です。寮への住み込みで働ける居酒屋チェーンに勤める北林三知子は、本社社長の息子でマネージャーの大河原聡(三浦貴大)や店長の寺島千春(大西礼芳)と適度な距離を保ちながら、ジャパユキで来日したフィリピン人の石川マリア(ルビー・モレノ)や小泉純子(片岡礼子)、高橋美香(土居志央梨)らを守りながら懸命に働いていました。その傍らで三知子は如月マリ(筒井真理子)の経営するアトリエでアクセサリーのワークショップを開くなどの活動もしていました。そんな中で起こったのが新型コロナウイルス禍に端を発する(新型インフル特措法に基づく)緊急事態宣言であり、不要不急の外出や営業の自粛を要請(お願い)するコロナ対策でした。客足が減って経営が苦しくなったことからマネージャーは、三知子・マリア・純子という年嵩の3名にメール一本で退職金も無しに解雇を言い渡しました。家族と疎遠(母は毒親、兄は母の介護があって頼れない)だった三知子は寮を追い出されると、バス停のベンチで寝泊まりする路上生活者(ホームレス)となりました。寮を出た時、三知子は店長に「住み込みの新しい職場が見つかったから」と強がって出ていました。そして、やがて凶行に及ぶであろうバス停の付近に住む無職の工藤武彦(松浦裕也)が三知子の姿を何度か見かけていました。工藤はユーチューバーKENGO(柄本佑)の番組内での「ディズニーランドにゴミは落ちているか?」「最初に捨てられたゴミを放置するから我も我も捨て始める」「日本人ってそういうもんだろ?」というセリフに感化されていきます。社会のゴミを排除せねば…と。確かに日本人とは、そして日本の世間とは実際そういうものです。三知子が居ない時に工藤がベンチに消毒スプレーを吹きかけていたことにも注目すべきでしょう。

 近くの公園で三知子は、かつて学生運動に精を出したバクダン(柄本明)や元芸者の派手婆(根岸季衣)、元高校教師のセンセイ(下元史郎)と出会います。バクダンは1971年に伊勢丹前の交番を爆破し、1985年には成田闘争で機動隊にボコボコにされたという設定で、学生らと機動隊員の双方に後藤田元総理の言ったセリフを懐かしく思い出させたり、派手婆には中曽根康弘(元首相、ロンヤス関係で知られる媚米派の政治屋、グローバル化への改悪を推進)や笹川良一(右翼・反共で旧統一教会・勝共連合との関係も深い)に気に入られたとか宇野宗佑(元首相)の女性スキャンダルをバラしたのは自分だとか言わせたり、学生運動世代(団塊世代)の共感を得ようという監督の意図が強く伺えます。そのバクダンは三知子に「あんたみたいな若い娘がこんなことになってんのは、俺たちに責任があるんだろうか…」と言います。劇中の三知子は、ほぼ団塊ジュニアの世代です。

 劇中に何度か「公助に頼るな、共助・自助で何とかしろ」(意訳)という菅元総理のセリフがニュース映像の形で挿入されますが、退寮時の三知子が気に掛けてくれた店長に強がってしまったように、三知子は他人にSOSを発することが苦手という典型的な日本人なので、上記したようなバクダンの問い掛け(俺たちに責任が…?)に対しても「結局は私が悪いんですけど」と応えてしまいました。バクダンは「そりゃあ、そうかもしれないけどよぉ…」と言葉を濁します。世の理不尽を意識し始めた三知子はバクダンに「今でも爆弾は作れますか?」と聞き、バクダンが作った時限爆弾を派手婆と東京都庁周辺に仕掛けに行くといったシーン(爆弾を入れた袋は東京五輪2020のキャラクターを印字したトートバッグ)も挟まれますが、センセイの「明日、目が覚めませんように…」という生きることを拒むようなセリフの方が「ズシッ!」と重く響きます。

 この頃、店長の寺島千春はコロナ自粛のせいで辞めさせられた3名に対して正当な額の退職金が払われるように動いていました。実は本社から3名に対する退職金が下りていた事実を突き止めた千春は、本社からの払ったことの証明をマネージャーに突き付け、また高橋美香ら女性店員からのセクハラ被害の訴えも突き付けます。こうして横領された退職金を取り戻した店長は、純子・マリア・三知子に退職金を渡して回りますが、三知子の行方だけは見つけられずに居ました。そして千春(店長)は、工藤が凶行に及ぶはずの、三知子が寝泊まりしているバス停に通りかかるのです。

 つまり本作は、凶行が起こらなかった平行世界の話だったのです。千春は自分も居酒屋を辞めたと言いました。しかし、それは即ち千春も三知子と同じ身分になったわけであり、2人ともバス停のベンチで眠る可能性が出てきたのでもあり、第2の工藤に狙われる可能性だって出てきたわけです。劇中では三知子が「爆弾に興味ある?」と言って革命に誘うシーンで終わりますが、筆者は「はあ?」となりました。高度成長期のエネルギーが有り余った状態から起こした学生運動を、30年以上に渡る長期不況で疲弊しきった中年女性2人に期待をかけて終わるって一体…。絶句しました。本作は団塊の団塊による団塊のための作品だと感じた次第です。やはりと言おうか、高橋伴明監督も学生運動世代のようです。

 https://yoakemademovie.com/

 

 そもそもコロナ「自粛」禍とは、新型コロナ感染症を過剰に怖がった団塊世代(学生運動世代)を始めとする高齢者と、過剰に怖がらせる演出で視聴率を稼ぎたいテレ朝を始めとする左翼マスコミが強く求めた結果として、政府が自粛要請を繰り返し発出して起こったわけです。そして、緊急事態宣言やマン防といった過激な自粛は法的な根拠の無い要請(お願い)でしかなく、従って自粛被害を受けた女性(非正規雇用が多い)や子供(ホームにステイした父親からの虐待リスク増)に対しても政府は補償する義務も無い自己責任だとして見殺しにしました。その要請(お願い)を実行したのがマスコミ各社、自粛警察やマスク警察、学校組織や会社組織といった大衆社会や世間だったからです。このように適当な理由を付けて被害者への補償を渋る原因を突き詰めると、それは1947年に成立した財政法4条(歳出は税収の範囲内・国債発行の禁止)や1997年に成立した財務省設置法(基礎的財政収支の黒字化を目指す)に基づく政府・財務省の緊縮財政に行き着きます。その緊縮財政は、1985年頃から続く米国からの改革要求(中曽根内閣時代、レーガン政権の対ソ軍拡需要に伴うバブル経済が米国の逆鱗に触れ、対日改革要求が過激化→グローバル化・規制緩和・貿易自由化・分割民営化・成果主義・自己責任…)とは一体不可分で経済的弱者に対して作用します。つまり、リアルの大林三佐子さんも「夜明けまでバス停で」劇中の北林三知子も、最も人口の多い(従って最も発行部数や視聴率に反映される)団塊世代(学生運動世代)のコロナフォビア(マスコミの過剰報道による新型コロナ恐怖症≒死ぬのが怖い)とインフレフォビア(高度成長期やバブル期の好況しか知らないけど戦後の一時的な物価高騰については親世代から聞かされて恐怖を植え付けられた)、そしてグローバルフィリア(国家も国境も悪、人類みな兄弟、新自由主義、改革は善)の犠牲者だと言えます。要するに団塊世代が求めた自粛と緊縮と改革という三重苦が彼女たちを殺したのです。バクダンよ、「そりゃあ、そう(自己責任)かもしれないけどよぉ…」とか言ってる場合か?ゴルァ!と難詰したくなります。

 

 

 付け加えるなら、劇中の北林三知子がSOSを発することが出来なかったのは日本特有の「世間」の効用だと思われます。『「世間」とは何か』(阿部勤也)によれば、世間とは「人間関係の環」、つまり人間同士の私的な繋がりであり、世間のルールとしては「長幼の序」と「冠婚葬祭や贈答における相互扶助」があるそうです。ところで日本には「粋」と「野暮」という価値基準がありますが、見えない所でするオシャレは粋、あからさまなオシャレは野暮とされます。これと同様に、強みを見せれば世間様から「自慢かよ」と思われ、弱みを見せれば世間様から「気を使わすんじゃねーよ」と思われます。金銭的に厳しい人なら「他人を扶助してる余裕なんてねーんだよ」とすら思うでしょう。要するに日本的世間は「秘すれば花」「言わぬが花」であり、強者も弱者も声を上げてはならず、苦境を察した誰かが秘かに手を差し伸べるのは良く、助けてもらえないのは本人に人望が無いから(自己責任)だとされ、無理に声を上げれば世間様から盛大に叩かれることになります。「名乗るほどの者ではありません」が美徳というわけです。また、日本以外の国々では社会の最小単位は個人ですが、日本人は世間が最小単位となっているように感じられます。そしてコロナ禍においては、マスコミや政府のコロナ対策分科会、自治体、知事会、医師会、学閥、財界などの各種世間が「自粛しろ」「外出するな」「営業するな」「それで死ぬなら勝手に死ね」「ワクチン打て」「副反応?知らねーな!」という意志表示をし、それに乗っかった人々が、個人の意見ではなく世間様の意見として陰に日向に同様の意見を発しているわけです。ちなみに自粛警察やマスク警察といった自警団的な行動を起こした主体も世間です。世間では年長者や権威者に逆らわないこと(長幼の序)がルールなのですから。これは恰も80年前の日本で大本営発表を信じた世間(隣組・愛国婦人会…)が「欲しがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「鬼畜米英」と言い合って戦意を高揚させていたことと何ら変わりないように思えます。80年前の戦意高揚も現在のコロナ自粛も「バスに乗り遅れるな」とばかりに海外の流行(民主主義 < 全体主義 / 自然感染による集団免疫 < ロックダウン・強自粛)に従ったという側面があり、そして70数年前は「全て軍部が悪かった」として自己を免責しつつA・B・C級戦犯の命と名誉をGHQや戦勝国に差し出し、戦地や内地で戦傷病死した兵士たちに対しては「犬死に」「無駄死に」と罵倒して片付けましたが、現在のコロナ禍では「全て政府が悪い」として自己を免責しつつ、自粛やワクチンの犠牲者に対しては「運が悪かったね」という認識に至るでしょう。80年前の戦争について付け加えれば、日本政府は準戦勝国となった韓国に対して現在も旧統一教会を通じて日本国民の財産を差し出させ続けています。従って、おそらく日本の各種世間はコロナ自粛の解除も緊縮財政の解除も実行せず、グローバル化改革は推進されるに任せ、旧統一教会の暗躍は放置し、対米独立などは絶対に考えないでしょう。また、人民解放軍やロシア軍が攻め寄せても自衛官はマスクの必着を命令されるのではないしょうか。

 

 さて、唐突のようですが、ここで「三島由紀夫VS東大全共闘」に触れます。

 

 

 第二次大戦後、世界的にベビーブームが起こり、それによる好景気が落ち着いてきた頃、世界各国が政治の季節を迎えていました。特に日本では戦災復興需要に朝鮮特需(朝鮮戦争に伴う米軍関連需要)が加わった空前の好景気(高度経済成長)に湧きたっていましたが、それが落ち着いた1960年代の末期には日本でも全共闘(新左翼)による学生運動が席巻するようになっていました。「三島VS全共闘」は、1000名を超える全共闘の学生たちが立てこもる東大駒場キャンパス900番教室に、天皇主義者(右翼)として知られる人気作家の三島由紀夫が単身乗り込んで学生らと真摯に向き合い、本気の対論をしている映像を編集し、当事者や識者のインタビューも加えたドキュメンタリー作品です。

 「諸君はともかく日本の権力構造、体制の目の中に不安を見たいに違いない、私も実は見たい、別の方向から見たい」。この対論の本質は、三島のこの発言に集約されていました。

 なぜ左右の両極端と見られる両者の間に対論が成り立ち、さらに一致点のようなものすら見えていたのでしょうか。それは、実は新左翼も三島も反米愛国だったからです。そこで三島は「天皇(を認める)と一言いってくれれば我々は手を組める」と持ち掛けましたが、反天皇イデオロギーに骨の髄まで侵されていた新左翼の学生たちは、そこを曲げることが出来ませんでした。三島の構想としては、新左翼の暴動を警察(機動隊)で抑えられなくなった時には自衛隊が防衛出動せざるを得なくなり、それは名実ともに憲法9条の死文化を意味するため、対米独立に向けた憲法改正の目が出てくるはずというものでした。しかし、結局そこまでの事態には至らず、それゆえ憲法改正が不可能と判断されたため、三島は盾の会と共に自衛隊の市谷駐屯地に立てこもり、自衛官たちを前にバルコニーから決起を促す演説を行った後に割腹自決しました。

 

 以下の図をご覧ください。日本の様々な立場の勢力を思想や姿勢により分類すると、実は以下のようになります。自民から共産までの共犯関係にある体制側と、その補完勢力は全て従米体制の擁護者だから、三島も全共闘の学生も「奴らの目の中に不安を見たかった」わけです。そして、三島の自決は左右を問わず体制側人士の心中に大いなる不安をかき立てたはずです。

 

           反米愛国

      新左翼   ↑  三島由紀夫

            |

            |

     左←―――――十―――――→右

            |

       民青・共産党 |

            ↓  自民党

           従米亡国

 

 三島の有名な言葉に以下のようなものがあります。

「私はこれからの日本に大して希望をつなぐことができない。このまま行ったら『日本』はなくなってしまうのではないかという感を日ましに深くする。日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜目がない、或る経済的大国が極東の一角に残るのであろう。それでもいいと思っている人たちと、私は口をきく気にもなれなくなっているのである」

 

 いや、経済大国でもなくなってから早40年が過ぎようとしています。三島的な対米独立の行動を起こさなかったがゆえの経済瓦解だと言えます。ゆえに、この先もグローバル化や緊縮財政といった地獄行きのバスばかりを運行させることになり、逃げ遅れた国民を救うバスが発車することは永遠になく、従って幾人もの「三知子」が日本的世間ってやつに殺され続けるはずなのです。全く何と素晴らしい国でありましょうや…。