市川右團次さん演じる『空誓』の存在感と三河一向一揆の存在しなさ | ナツレのツレヅレなる何か

市川右團次さん演じる『空誓』の存在感と三河一向一揆の存在しなさ

市川右團次(いちかわうだんじ)さん演じる本證寺(ほんしょうじ)の空誓(くうせい)さんが登場する『どうする家康』第七回『わしの家』。口上だけのシーンなのに、その圧倒的な存在感に引き込まれました。歌舞伎俳優ならではの迫力ある演技はサスガです。

 

そこで、空誓さんについて調べてみたところ〜この三河の争乱を三河一向一揆と呼ぶこと自体に疑問がわいてきました。

これは今後、三河一向一揆とは呼ばれなくなると思い、実際そういう説もあるので、そこをお話しようと思います。

 

さて、三河一向一揆が起こった原因や様子については諸説あり詳しくは割愛します。ただ、穀物押領がらみで諍いがあり、松平側は三河の統治権を本願寺派は寺内不入を主張し譲らず事態が悪化していった点は共通しています。

 

本證寺の空誓は、三河国の中で本願寺宗主の血縁に最も近く、事実上三河本願寺教団を代表する存在であったとされています。彼が永禄6年(1563)12月初旬に檄を飛ばし、三河全土を巻き込む一揆を起こし、これを称して「三河一向一揆」と呼んでいます。

一向一揆

 

■そもそも一向一揆といえない・・・。

一揆とは、一味同心を誓い連帯する集団のことを言います(「一揆」勝俣鎮夫)。

三河一向一揆とは一向宗の本證寺・上宮寺(じょうぐうじ)・勝鬘寺(しょうまんじ)三ヶ寺と土呂御坊(とろごぼう)を中心に、吉良義昭らの降将勢力、家康家臣の酒井忠尚、そして小笠原広重ら今川勢力が一揆(一味)として、決起時期に差があれど連携し松平家康に抗戦をした集団のことをいいます。

 

しかしこの一揆について、まず疑問が浮かびます。それは、これら勢力が一味同心して抗戦した様子が一切見られないという点です。そのため、この叛乱を総称として「三河一向一揆」と呼ぶのは適切でないと思えてくるのです。

 

また、三ヶ寺と土呂御坊であれば、まぁ一向一揆と呼ぶことができると思われます。しかし一向一揆に伴う百姓(民衆)蜂起を扇動した記録は見つかっておらず、石山本願寺や長島本願寺へ援助を求めた形跡すら無いのです。それからも、我々がつい思い浮かべる一向一揆と様相を異にしており、吟味が必要に思えてくるのです。

 

■神君家康の三大危機

それでも、この事件は、水野勝成の覚書に「御一代の御迷惑(生涯最大の難事)」と書かれ、家康三大危機の一つとして有名です。

事実、本證寺は当時最強の要害といえる防備力を持っており、家康自身が鉄砲の弾丸を2発も受けるほどの激戦が繰り広げられました。また、松平家中が二分され、反家康勢力が構成され、今川氏勢力の介入に直面し、危機的状況が醸成されたのは確かでしょう。

しかし、これらの勢力が一味同心して連携したかどうかは疑問です。むしろ一味同心していなかったため、家康に各個撃破されたとみる方が理解しやすいのです。

まぁ恐らく今川氏真をなんとなく頼りにしていた点は"同心"していたと言ってもいいのかもしれませんが、彼は遠州忩劇(えんしゅうそうげき)に忙しく何の役にも立ちませんでした。

 

■三河一向一揆の名称について

織田信長と石山本願寺の抗争が激しい印象を残した後、一向宗との戦いは注目されました。そこで家康が三河一向一揆を制圧した英雄的な物語と名称が生まれのだとも考えられます。

今後の研究で証文でも見つからない限り、この事件は「三州忩劇(さんしゅうそうげき)」という混乱の呼び名に改まりそうです。

 

でも、松潤家康ならこれまでの家康公のイメージを覆すようなタイトルでもありですよね。

混乱が混乱を呼ぶ忩劇というのも手に負えない災厄として的を得た表現だと思います。

「三州忩劇─裏切りが裏切りを呼ぶ大混乱で神君家康生涯最大のピンチ!?」とか・・・。ダメ?

 

空誓、くうせい、Kusei 市川右團次

空誓(くうせい)

真宗本願寺三河三ヵ寺のひとつ野本本證寺第10代院主。

本願寺中興の祖である蓮如の曾孫(九男実賢の系統)。

永禄7年(1564)2月8日に、松平家康と対立、抗戦した(三河一向一揆)。馬頭原(小豆坂)合戦で敗北し一揆型の敗北が濃厚となり同年3月には一揆は解散し和睦したと思われる。しかし、秋頃になって三河の忩劇をおさめた家康は本願寺派寺院の転宗を強制し、従わない寺院を破却した。そのため空誓は賀茂郡菅田輪へ退去した。

天正8年(1580)9月、本願寺教如の大阪退出に対し銀子三両を贈る。

天正12年(1584)、家康家臣本多重次の肝煎りで三河七ヵ寺復帰を認めたと伝え、旧地に道場を建立。上宮寺・勝鬘寺も翌年正月三河へ帰国を果たした。しかし、徳川家康より改めて追放の処分を受けた。

この件について空誓は妙春尼(石川家成母)の妨害があったためと勝鬘寺の了意などへ説明していた。しかしそもそも本多重次の折り紙が謀書であった事が露見し、家康より討手を差し向けられる事態となったようだ。しかしながら、10月28日になって寺院再興が認められている。

 

 

略歴の中で、最後に「本多重次の折り紙が謀書であったことが露見した」とありますが・・・。いやぁ空誓さんぶっこんでくれます(笑)。しかも、その後本領復帰するなんて、これだけでもドラマのような展開ですよね。

『どうする家康』で空誓さんは重要な役柄を与えらいるので、この件もドラマ化されるのではないかと期待しちゃいます。

わくわく。

 

ただ、いまのペースだと、関ヶ原の頃までいくのもキツそうですね。小牧長久手もムリそう?本能寺までとか?勝手に心配してしまいます(笑)。まぁ三河時代丁寧にやるのも好感持てるので楽しませてもらいます。

 

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ちょっとお絵かきも慌ただしく整理できてないですが~調べて面白のであとで手直しすると思いま~す

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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