天野ひろゆきさん演じた山田新右衛門は信長公記でその最期を賞された武士の中の武士でした | ナツレのツレヅレなる何か

天野ひろゆきさん演じた山田新右衛門は信長公記でその最期を賞された武士の中の武士でした

令和5年NHK大河ドラマ『どうする家康』のスタッフロールの中でキャイ~ンの“天野ひろゆき“さんのお名前が。

 

え?どこと思ったのですがあまり気にしないでいたら、岡崎城代で元康と対面するシーンで一瞬出ていた山田新右衛門(やまだしんえもん)役でした。2話でもう「御城代の山田殿が討ち死になされたそうじゃ」といきなり回想シーンでの登場となっており気づきました。今後の構成はわかりませんが過去シーンなどでの登場はなさそうですね。

 

そこで~この岡崎城代の山田新右衛門ってどんな武将だっけとちょっと手元で調べてみました~

天野ひろゆきさん演じた山田新右衛門 Yamada,Shinemon

山田新右衛門尉(やまだしんえもんのじょう)、実名:景高(かげたか)、景隆→別人説もある

天文17年(1548)頃には今川氏の奉行として豊橋方面で活躍している行跡が見える。

天文19年(1550)11月、棟札を出しいてるがここには「山田新右衛門景高」とある(安久美神戸神明社所蔵)。

天文20年(1551)から岡崎に在城し主に西三河方面を担当した模様。

天文22年(1553)3月、松平家から三河岡崎の櫻井寺山中での不法伐採についての対処を依頼された。このときの今川奉行として糟屋備前守とならび山田新右衛門として名が載っており、伐採禁止の制札を出すことを約束している(桜井寺文書)。

同年12月、松野松平氏の甚二郎が、竹千代丸(後の徳川家康)に造反。尾張の織田信秀に内通したことが発覚し逃亡するという事件が発生。これを捌いた今川家臣として岡崎城代 飯尾乗連(いのおのりつら)・二俣扶長(ふたまたすけなが)らと連名で起請文に血判を添えている。ここから岡崎城内で強い立場であったことがわかる。

その後も主に政事の方面での活躍がみられる。

 

弘治2年(1555)正月、岡崎城代として元服した松平元信(後の家康)の来訪を受けたという。この時、元信は城代の新右衛門に遠慮し二の丸に入ることで今川氏への恭順を改めて態度で示したとされる。

 

永禄3年(1560)5月、運命の桶狭間の合戦に参陣。同処で討ち死にした。

信長公記ではその最期を「山田新右衛門と云う者、本国駿河の者なり。義元別して御目をかけられ候。討ち死にの由承り候て、馬を乗り帰し討死。」と、とくに記し「まこと命は義に依りて軽し」と激賞している。

 

 

経歴を追うと、奉行としての活躍が目立ち、どちらかというと文官的性質のお武家様だったようです。

しかし最期は武士らしく、敗走する味方のなかを主君の討死を知るや取って返してそれに殉じました。まさに武士の鏡といった散り様をみせ、見事に名を残しました。

岡崎城代というだけで、三河物語など後の家康伝記ものでは悪役どころが与えられそうですが、とくに名指しで悪役として登場しないのは、この義元に殉じた立派な最期のおかげかも知れません。

 

ちょっと調べただけでも奉行としての実績もどれも面白く、その最期も相まって魅力的な戦国武将だと感じました。

 

 

(・・・なお、ネット検索すると岡崎城代で討死した山田新右衛門を元益とし、奉行として活躍した山田景隆は別人の新次郎とする説が主流のようです。しかし棟札に山田新右衛門景高で残っており、山田新右衛門で文書中にも登場していることから奉行としての業績は否定されないと考えます。また、岡崎在城中の有名エピソードもあることから同一人物説を取りました)

 

にほんブログ村 イラストブログ 人物イラストへ にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

<ネタ元>