今川氏真~年表書き出し~
※今川氏真(いまがわうじざね)、竜王丸(りゅうおうまる)、五郎、上総介(かずさのすけ)、刑部大輔(ぎょうぶのたいふ)、従四位下(じゅしいのげ)、宗誾(そうぎん)、
天文7年(1538)、駿河の太守今川義元の子として生まれる。母は甲斐武田信虎の女。
天文23年(1553)7月、相摸の北条氏康の女 蔵春院殿(早川殿)を正室に迎えた。
永禄元年(1558)頃から駿河に発給文書がみられ国政の一部を委ねられていた。
(この頃までにすでに家督交代がなされていたとの説が現在有力)
永禄3年(1560)、父義元が織田信長との戦いで戦死したことにより家督相続。
永禄5年(1562)正月、三河の松平元康が織田信長と結び独立を計るとこれを攻めた。しかし「遠州忩劇(えんしゅうそうげき)」といわれる国衆の大規模叛乱もあり、永禄9年(1566)頃までに三河は元康の掌中に帰し、今川氏の衰勢が印象付けられた。
永禄11年(1568)12月、甲斐の武田信玄が駿河へ侵入。それに呼応し三河の徳川家康が遠江へ攻撃を開始。朝比奈信置の離反もあり、氏真は重臣朝比奈泰朝の遠江懸川城へ逃亡。
永禄12年(1569)5月15日、家康へ懸川城を開城し北條氏の庇護を受けた。北條氏政の嫡男国王丸(氏真)を養子とし名目上駿州を北条氏に譲り渡した。氏真は駿東郡大平城を根拠地に駿河奪回を試みた。
元亀2年(1571)12月、北条氏康の死去に伴い全権を継いだ氏政が武田氏と同盟を結んだため、徳川家康の元へ赴いた。
天正3年(1575)5月の長篠合戦に従軍。
天正11年(1568)浜松の家康の元へ訪れた太政大臣近衛前久の饗応に同席した。
天正18年(1613)北條氏の滅亡にともない家康が関東へ入国するとその元を離れ上京。
公家の冷泉為満や山科言継らと交流を重ねた。
慶長17年(1612)4月、駿府の家康を訪れ江戸へ移る。
慶長19年(1614)12月28日没。享年77歳。
辞世として
天正3年に実際に詠んだ
「悔しいともうらやましとも思わねと
我世にかはる世の姿かな」と、
「中々に世をも人をも恨むまじ
時に合わぬを身の科にして」
というものが伝わっている。
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