土岐頼芸の読み名は『とき よりのり』となりました。 | ナツレのツレヅレなる何か

土岐頼芸の読み名は『とき よりのり』となりました。

先月の新聞記事からですが長音記号2ひさびさに戦国ネタを。
美濃守護 土岐頼芸については、令和2年大河ドラマ『麒麟がくる』で尾美としのりさんが演じられていた武将。といった方がわかる人も多いかと思います。
この美濃守護 土岐頼芸の名前“頼芸“のよみについてなのですが、これまで「よりあき」「よりなり」「よりよし」「らいげい」など長年テキトーに呼ばれてしていました。ところがこのたび江戸時代のものではありますが、書状に「芸(藝)」に「のり」とルビがあるものが見つかりました。
そこで根拠のある呼び名として今後はたいていの歴史書では『よりのり』とルビを振られる公算になったというお話ですべーっだ!

この話、もっと何年か前にも記事となっていた気もするのですがぁ。その時の内容は詳しく控えていなかったので、その前まで主流だった「よりなり」で私ゃ土岐頼芸の呼び名を覚えておりました。

 

令和2年(2020)NHK大河ドラマ『麒麟がくる』では、斎藤道三の国盗り二代説とか今どきの定説を取り入れていました。土岐頼芸の呼び名を劇中で「よりのり」としたのも何か根拠があっての事なのかと気になっていたので今回この記事でスッキリ。

 

「よりのり」の呼び名自体は戦国史の大家 勝俣鎮夫氏もかなり以前からとっておりました(中部大名の研究など)。なので目新しさはないのですが、今回の書状からこのよみがな論争はいったん落着しそうです。

※勝俣鎮夫先生がどうしてこの読み仮名を採ったのかは書かれなかったので、どなたかご存じなら教えてほしい・・・

土岐頼藝(ときよりのり) 画号=洞文、富景

文亀元年(1501)、美濃国守護土岐政房の二男として生まれた。

永正15年(1518)7月、長井利隆・西村勘九郎(道三父)が斎藤家内紛に乗じて挙兵し守護の土岐政房・嫡子二郎との間で戦となり、土岐氏方が敗北するという事態が生じた(宣胤卿記)。このとき頼藝を擁立する動きがあったというが、二郎は越前朝倉氏を頼って落ち延びたが朝倉氏と将軍家の支援をえて美濃へ復帰した。

天文4年(1535)、家禄の長井新九郎則秀(のちの齋藤道三) に擁立され、当時の美濃守護で兄の土岐頼武(政頼)を逐い美濃国主となる。

天文7年(1539)、土岐頼充(賴純)が美濃復帰をはたすため越前朝倉氏や尾張織田氏の後援を受け入国したが翌8年(1540)和睦した。

天文12年(1543)、頼藝の居城大桑(おおが)で大きな合戦が起きたことが記録(仁岫語録)から判明している。ただし、ここで家老の齋藤道三と対立して一旦追放されたという説(土岐累代記・土岐齋藤軍記・信長公記)と、この時は齋藤道三と力を合わせ敵対勢力と戦ったという真逆の説がある。他にも、この時まで実は土岐頼充は大桑城に健在であり、これをを攻めたてて尾張へ放逐したものである、など諸説ある。

天文13年(1544)、西美濃の土豪 岩手四郎へ稲葉右京(のちの稲葉一鉄)を派遣し菩提山城への入城を褒めている。さらに近江の六角定頼・浅井久政に対して警戒を怠らないよう指示している(八月九日付け土岐頼藝書状)。なおこの文中で齋藤左近大夫(道三)へ指示した旨が記載されている。そこから、このときまでに前年の対立から美濃への復権をはたしたとみるか、道三とは主従関係を維持していたとみるかで見解が分かれる。

同年9月、土岐二郎(頼充?) を擁した越前朝倉氏と尾張織田氏の連合軍二万五千の大軍に侵攻を受けた。井ノ口付近まで攻め込まれを朝倉宗滴軍に放火されている。9月22日、家老の齋藤利政(道三)の活躍により井ノ口城下で織田信秀を撃破。その敗軍を木曽川に追い詰め3~4千を溺死させるという大勝利をおさめた。(徳川黎明会所蔵文書・東國紀行・朝倉宗滴話記・立正寺文書・古今消息案・信長公記)

天文21年(1552)11月、齋藤道三により大桑城を包囲された。頼藝は美濃国より落ち延び姻戚関係があった近江の六角義賢 の元へ身を寄せた(江濃記・太田牛一雑記)。

その後は六角義賢の庇護下で美濃奪還を試みた。しかし、義賢の息子六角義治は道三を襲い家督となった齋藤義龍との接近をはかる(春日倬一郎氏所蔵六角承禎文書)。このことで近江にいられなくなり各地を放浪するようになったようだ。

最終的には常陸国の真里谷頼尚(まりやつよりひさ)の元へ赴き、剃髪し宗藝と号した。

天正10年(1582)、旧臣稲葉一鉄のはからいで美濃国に戻り同年12月4日に同地で没した。

享年82歳。

 

 

以上略歴

 

~という説や反対に~という説がある・・・ばっかりなので自分でも書き出してて混乱します・・・

竹中半兵衛さんでご紹介した斎藤家での謀反の話もそうですがぁ

土岐氏や斯波氏、斎藤氏といった美濃の勢力は滅びたあと復権もされなかったため家史が編纂されることもなく、資料の散逸も激しく通史がわからなくなっています。しかし美濃という地勢からか寺社に出された禁制など質のいい一次資料は多く存在しています。しかし、当時の書式から全て年次が欠けているため、その時代解釈を巡って研究者の見解が分かれています。

 

また、「土岐氏のみなさん”土岐二郎”を名乗りすぎ問題」もあります。土岐頼芸の兄もその息子も”二郎”ですし、土岐頼芸の息子も”二郎”とか・・・。資料にでてくる土岐二郎の記載だけではいったい誰が誰のことやら・・・。見方を変えたら攻守逆になる記事が多くなるので研究者さんも混乱しているように見受けられます・・・。

あと親子で同名とかあるようでぇ~頼芸の兄頼武の別名が頼純(よりずみ)なのですが、その頼武の息子の頼充の別名も頼純・・・。同じ名前つけるならちゃんとJr(じゅにあ)とか記録に付けといてくれよとか思いますよネ。

(手紙や資料は諱でなく官途名や通称なのでどっちにしろ当時の人名は判別がつかなくなるものですが・・・)

最近の諸先生方のご本では土岐頼純とは書かず頼武や頼充など書き分けてくれているのでわかり易くて助かります。

 

まぁ、単純に道三登場以来の美濃国内の混乱っぷりったらホント麻の如しで、資料も理解も追いつけてないところが多分にあるようすです。

まぁ、はたから覗いて考察を楽しみたいだけの私みたいな者には色々な解釈ができてメチャクチャ面白いのですが・・・。

 

また今後も新資料みつかったら色々ひっくり返りそうで楽しみではあります。

 

 

 

 

 

にほんブログ村 歴史ブログ 戦国時代へ にほんブログ村 イラストブログ 人物イラストへ
 
 

 

 

 

 

 

 

 

 

 
 
 
 
 
 

 

<ネタ元>