映画「消滅世界」を観た。

https://shoumetsu-sekai.com/

 

 数日前に鑑賞した2025年製作の邦画「そこにきみはいて」では、他人との距離感が遠いヒロインが、恋愛や性衝動に対しても距離があることで悩むが、本作品は更に進んだ近未来の話である。

 夫婦の性交渉が社会によって否定されると、夫婦から性欲や性衝動が徐々に消え失せて、子供は無作為の相手の精子と卵子による人工授精でのみ誕生する。それが是とされる世の中であり、夫婦間の性交渉は近親相姦と呼ばれて忌み嫌われる。夫婦は元々他人だから近親相姦には当たらないという反論は登場しなかった。

 それでも性欲そのものは残存しており、配偶者以外の相手との性交渉は認められる。そこで妊娠したらどうするのだろうと、観客の誰もが考えたと思うが、そういうシチュエーションは現れなかった。ただ、性欲処理室みたいなものが登場して、入口に行列ができているのが皮肉みたいで面白かった。

 

「消滅世界」というタイトルは、作品の中では、恋愛が消えて、結婚も消えて、家族も消えるという意味のようだが、突き詰めれば、人類も消えるということなのだろう。

 他人に心の中までズカズカと踏み込まれたくないのは、誰しも思うところだが、それが極端になると、あらゆることがハラスメントとされてしまい、コミュニケーションは著しく減少する。現代社会に既にそういう傾向があることは、直感的に理解できる。

 本作品は、その傾向を極限まで推し進めるとどうなるかという思考実験でもある。役者陣は戸惑っただろうが、演技では戸惑いなど微塵も見せない。蒔田彩珠は大したものだ。

 

 変貌していく世の中で、性欲を愛情と言い換えて、子供を愛情の賜物だとする古い考え方の母親を霧島れいかが好演。人類はこの母親の思想で受け継がれてきたが、未来では、人間関係から人間を解放しようとするパラダイムが優勢になるというのが本作品の肝だ。生殖が必ず行われるように、人間に性欲があるのだが、性欲が失われれば、生殖も失われることになる。なんともフロイト先生が怒りそうな話だ。

 

 人間関係から人間を解放すると、性生活が不要になり、家族が不要になり、将来的には人類そのものが不要になるだろう。そうなったほうがいいのかもしれない。

 映画「兄を持ち運べるサイズに」を観た。

https://www.culture-pub.jp/ani-movie/

 

 妹の理子(柴咲コウ)から見たら、人間のクズみたいな兄(オダギリジョー)でも、兄の元妻や娘や息子から見たら、違ったように見える。そんな話だ。

 

 妹からしたら、母に散々世話になったのに、病気になったら置き去りにして、久しぶりに会った妹に喪主を任せ、ひたすら金の無心をする。自分の都合しか考えず、嘘をついて他人を利用しようとする生き方は、クズとしか言いようがない。確かにその通りだ。

 前半のクズぶりを見ていると、だんだん他人事に思えなくなる。こういう人間とは関わり合いたくないが、では自分はどうなのか。クズではないフリを装っているだけではないのか。そのために仕事をして金を稼ぎ、なんとかクズに見られないように踏みとどまっている程度なのではないか。忸怩たる思いが湧いてくる。

 

 ところが、兄と暮らしたことのある元嫁の加奈子(満島ひかり)や娘や息子の話は、少し違う。クズの一面しか見ていなかった理子は、兄の違う面を見て、ちょっと見直す。なかなかいい話である。

 

 オダギリジョーが上手い。どんな状況になっても落ち込まず、常にノーテンキで自分に都合のいいことばかりを空想する。困った奴だが憎めない。なにせ悪意がない。人はいろいろな側面を持っているものなのだ。

 すると自省の続きが浮かんでくる。もしかしたら、この兄よりも自分のほうが、よほどクズなのではないか。悪いことばかりを想像するし、悪意は山ほどある。

 

 自省は一旦置いておいて、本作品のテーマは、家族とは何かである。そして答えは冒頭に出されている。

 

「支えであり、呪縛ではない」

 

 斜に構えてこの言葉を読むと、いやいや、痴呆症になった両親や無一文で働きもしない兄弟など、呪縛でしかないだろうと思ってしまうが、本作品は、そうではないと主張する。いい話だから、いい答えで終えたいのは分かる。現実もそうであればいいと願うが、介護の過酷な作業を休む暇もなく続けている人には、どのように響くのだろうか。

 映画「そこにきみはいて」を観た。

https://sokokimi.lespros.co.jp/

 

 現代人にとって、セックスとは何か。そんな作品だった。

 

 まず、人と人との距離感の変化について。赤ん坊を除いて、ほとんどの人がスマートフォンを持っている時代だ。なにかにつけ撮影されて、ネットに晒される危険性は常にある。加えて、ハラスメントに超敏感な時代でもある。些細な行動がその後の人生を左右しかねない。人間関係での失敗を恐れるようになる。勢い、他人との距離は遠くなる。積極的に人と関わろうとしなくなるのだ。そういったことが、晩婚化、未婚化の遠因となっている気がする。専門家は経済問題だけを重視するが、少子化の原因が経済だけだとはどうしても思えない。

 

 数年前に電車の中で聞いた、今でも耳に残っている母娘の会話がある。

母「あなたもいつか親になる日が来るんだから」

娘「私は子供は産まない」

母「子供を産むことを否定するということ?」

娘「否定はしない。産みたい人は産めばいい。でも私は産まないの」

 高校生くらいと思しき娘の落ち着いた物言いには、強い決意が感じられた。若いのに将来のことをよく考えているものだと感心したことを覚えている。母親もそうだったのかもしれない。それ以上、娘を追及することはなかった。もはや出産は女の既定路線ではなくなったのだということを実感した出来事だった。

 

 本作品には、性生活と結婚に関する古いパラダイムが登場する。具体的には、女性に対してどんな男性が好きかを聞いたりすることだ。その女性が男性が好きかどうか、そもそも人間が好きかどうかさえ定かでない状態で、どんな男性が好きかを聞くのは不合理であり、聞かれたほうは、ただ面倒くさい。今の言葉で言えば「ダル!」という感覚だろうか。

 他人の領域にズカズカと踏み込んで来られるのは、誰だって嫌だ。面倒くさい、鬱陶しいという思いになる。相手にしたくない気持ちが「ダル!」という表現になるのだろう。

 

 ヒロインの香里(かおり=福地桃子)にも、そんなパラダイムが残っていて、性衝動の起きない自分との乖離に悩む。性的関係なしに付き合った健流(たける=寛一郎)の秘密を知ることで、人間の性のバリエーションを垣間見るが、そんなときに現れた前職の後輩女性との関係には踏み込む気になれない。

 

 香里のような人は、実際に増えていると思う。晩婚化、未婚化は必然だろう。少子化は特に、経済的な発展がピークを終えて、下り坂に入っている先進国に多いようだ。逆に貧しくても経済的に発展する勢いのある国々では、人口爆発が起きている。

 

 人類は変容しているのだ。「産めよ増えよ地に満ちよ」の旧約聖書の時代は終わり、他人との関わりよりも自分の充足を求める傾向にある。その反面では、SNSに参加して、盛んに他人からの共感を求める。現実よりもサイバー空間での満足を求めるわけだ。しかしやがて、ネット上の虚しい関係性に気がつく日が来る。ダルい人間関係は避けたい。しかしネット上の関係も実はダルい。行き詰まってビルから飛び降りる少女もいる。

 

 性生活や結婚と、他人との距離感の乖離が、現代人を蝕んでいる。距離を詰めて結婚しても、3組に1組が離婚する。人間関係はうまくいかず、人生の充足はない。しかし衣食住の充足は求める。だからそれを提供するのが経済だ。経済だけが向上しても、人間関係は必ずしも稠密にはならない。精神的な過疎とでも呼べばいいのだろうか。現代社会の問題点が実はそこにある気がする。

 本作品は人間模様を描きつつも、人類が直面している精神的な過疎をテーマとしている気がした。考えさせられる映画である。レビューを書くのもしんどかった。

 映画「ナイトフラワー」を観た。

https://movies.shochiku.co.jp/nightflower/

 

 俳優陣は並べて好演。中でも森田望智は素晴しい。演じたタマエは、登場人物の関係の中核であり、肝っ玉の据わったユニークなキャラクターだ。こちらが主人公でも少しもおかしくない設定である。

 それともうひとり、半グレのボスを演じた渋谷龍太。「おまえにも、かあちゃんいただろう?」と、手下に問いかけるシーンで、この役柄のすべてが理解できる。ボスらしく、複雑なキャラクターで、反社会的でありつつも、自分を必ずしも肯定していない。自分も、もっとマシなかあちゃんに育てられていたら、まともな人生だったかもしれないと、心の何処かで悔いているように見えるのだ。

 

 ただ、全体としてあまり心に響かなかった。何故か。

 物語は破局に向かって一直線に進んでいる。そのまま進むと、生まれて初めての友だちを殺され、しかも娘まで殺された北川景子が、生きる希望をすべて失くして泣き狂う姿が描かれることになる。当然、それを予期して鑑賞していた。悪いことをした人間が、安寧でいられることには、そもそも納得できない。

 あまりヒロインを痛めつけすぎると、何かと批判のある時代だ。悲惨な人生が悲惨なままで終わると、ネットが黙っていないと、内田監督が日和ってしまったのだろうか。

 

 シェイクスピアではないが、悲劇は悲劇のままで終わってほしかった。期待していたカタルシスが得られず、鑑賞後には中途半端な気持ちだけが残ってしまった。ハッピーエンディングは、必ずしも希望ではないのだ。

 映画「はだしのゲンはまだ怒っている」を観た。

https://gen-angry.jp/

 

 タイトルに反して、戦争と原爆に関する証言が淡々と積み重ねられていく。激しい怒りではなく、静かに、しかしいつまでもくすぶり続ける、根の深い怒りである。

 

 中沢啓治さんの「広島 愛の川」の歌詞が紹介されていた。

 歌詞に「怒り、悲しみ、」とあって、そのように綴られると、当方みたいな凡人は「絶望」と続けたくなるが、中沢さんは「怒り、悲しみ」に続けて「優しさ」という言葉を選ぶ。

 悲惨な目に遭ってきた人が、優しさという言葉を選ぶのは、並大抵の覚悟ではないと思う。戦争の被災者が、例外なく訴えかけるのは、平和の大切さである。平和を希求する被爆者のひとりとして、中沢さんは人間の愛する力や優しさこそが、平和を実現し得ると考えていたのだろう。大きな世界観だ。

 

 被災者や被爆者が粘り強く戦争の悲惨さや平和の尊さを伝え続けてきたにもかかわらず、世界各地では、戦争が絶えない。それでも、大国間の戦争がないのは、地道な反戦運動のおかげかもしれない。

 戦争は特定の共同体とその指導者を潤すかもしれないが、人類と地球全体にとっては、いいことはひとつもない。戦争の歴史を反省して、戦争と対人兵器は絶対悪なのだという認識を人類が共有するまで、はだしのゲンの怒りは治まらないだろう。地道な反戦運動はずっと続ける必要があるのだ。