映画「ペリリュー楽園のゲルニカ」を観た。

https://peleliu-movie.jp/

 

 物語がサクサクと進んで、とても面白かった。

 日本の戦争の歴史を振り返ると、ヤクザの縄張り拡大のレベルであることがわかる。ヤクザ同士の争いを本人たちが戦争と呼んでいるのが皮肉だが、日本の職業軍人にはヤクザ同様に倫理観が欠如していた。

 

 1931年の柳条湖爆破事件からはじまった満州の軍事占領、1937年の盧溝橋事件をきっかけとした日中戦争、三国同盟の締結まで、軍事官僚の思惑に従って、中国を散々苦しめてきた。

 するとABCD包囲網による経済制裁で、アメリカからの石油の輸入がストップしてしまった。そこでアメリカと戦争することを考えた軍事官僚は、あらかじめ戦争したら勝てるかどうかを複数の機関に分析させたが、いずれも勝ち目はないという結果を得ている。ところが東條英機らの軍事官僚は、結果を破り捨てて、1941年に真珠湾攻撃に突入する。

 

 何故軍人が勝手にそういうことができたかというと、日清戦争と日露戦争の勝利に味をしめていた国民は、戦争が始まったら必ず軍を支持すると高を括っていたからである。国民の圧倒的な支持さえあれば、国中の資材や人材が枯渇するまで戦うことが出来る。

 鴨が葱を背負って来るみたいに、国民は軍事官僚の思惑にうかうかと乗って、国を挙げて戦争を礼賛した。東條英機は、戦陣訓などという情緒的な訓令を作って、兵隊だけでなく広く国民に広めた。国民はそれにも乗っかってしまった。「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪過の汚名を残すこと勿れ」という人権無視の空疎な謳い文句に酔いしれたのだ。

 

 日本軍には兵站が決定的に不足していた。兵站とは馴染みのない言葉だが、戦線へ軍事物資や応援軍を送ることである。アジアの島々に送られた兵隊は、兵站を心待ちにして、なんとか戦線を持ちこたえていた。しかし実際には、兵站はなかったのである。

 

 本作品は、まさにその状況にある兵隊たちを描いている。希望はないのに、希望があると言い聞かせて派遣した軍事指導者たちの罪は重い。真面目で誠実な兵隊であるほど、大本営を信じ、戦陣訓を守ろうとする。本作品では少尉殿がそれに当たる。銃後にあって戦争反対の者たちを非国民として弾圧し、特高警察に突き出した人々も同じである。

 

 島に放り出された兵隊たちは、ある意味で戦争犯罪の被害者だが、軍事指導者たちの巧みな弁舌に騙されて戦争に協力した犯罪者でもある。我々は、その二面性を背負って、戦後も生き続けたことを忘れてはならない。

 

 先日亡くなった俳優の仲代達矢さんは「戦争はいつの間にかはじまっている。はじめるのは簡単だが、やめるのは難しい」と述べて、日本が再び戦争に突入しないことを願っていた。

 しかしどうだろう。勇ましい首相を戴いてしまった日本国民は、再び戦争の惨禍に見舞われる危険を犯してはいないか。柳条湖事件は関東軍の自作自演だったし、盧溝橋事件は小競り合いに過ぎなかった。それを戦争に発展させたのが軍事指導者たちである。

 

 ひとたび戦争にゴーサインを出したら、それを覆して戦争を止めるほどの度量のある政治家は、いまの日本に見当たらない。まして、国民の人権や利益よりも、自分の意地や立場を優先させる人間が指導者だと、未来は絶望的だ。

 映画「WEAPONS」を観た。

https://www.warnerbros.co.jp/movie/c8r-63sq936/

 

 前半はもどかしくも坦々と過ぎて行く。ジュリア・ガーナーが演じる担任教師のジャスティン・ギャンディはかなり嫌な奴で、自分の都合で子供を追い詰めようとしたり、禁酒している男に飲酒を強制したり、校長の善意の忠告を無視したりする。被害者だからといって、必ずしも善人とは限らない訳だ。このあたり、リアリティがあって、なかなかいい。

 

 中盤は、いけ好かないおっさんのアーチャーが活躍する。息子のマシューはいじめっ子で、自分の息子が他人の子供をいじめていることにも気がついていない。プロローグとエピローグのナレーションは、どうやらマシューらしいシーンがあるが、あまり賢く見えないマシューがナレーションとは思えない。物語は過去の話として語られるから、この町にいま住んでいる名もなき子供がナレーションなのかもしれない。

 

 チャプターごとに登場人物それぞれのエピソードになり、視点を変えることで、不明なところが次々に明らかになってくる。観客にとってストレスがないプロットである。しかし一番の謎、子どもたちはどうして消えたのか?は、依然として残っている。

 

 後半は怒涛の展開だ。魔女のような伯母さんが登場すると、謎がどんどん明らかになる。残酷ではあるがどこかコメディタッチな展開で、恐ろしいのに笑える。そこが本作品のユニークなところだ。

 作品全体がクレッシェンドになっていて、最高潮に盛り上がったところで短いエンディングとなるから、終映後の満足感は格別だ。ホラーとしても、コメディとしても、よくできていると思う。

 映画「消滅世界」を観た。

https://shoumetsu-sekai.com/

 

 数日前に鑑賞した2025年製作の邦画「そこにきみはいて」では、他人との距離感が遠いヒロインが、恋愛や性衝動に対しても距離があることで悩むが、本作品は更に進んだ近未来の話である。

 夫婦の性交渉が社会によって否定されると、夫婦から性欲や性衝動が徐々に消え失せて、子供は無作為の相手の精子と卵子による人工授精でのみ誕生する。それが是とされる世の中であり、夫婦間の性交渉は近親相姦と呼ばれて忌み嫌われる。夫婦は元々他人だから近親相姦には当たらないという反論は登場しなかった。

 それでも性欲そのものは残存しており、配偶者以外の相手との性交渉は認められる。そこで妊娠したらどうするのだろうと、観客の誰もが考えたと思うが、そういうシチュエーションは現れなかった。ただ、性欲処理室みたいなものが登場して、入口に行列ができているのが皮肉みたいで面白かった。

 

「消滅世界」というタイトルは、作品の中では、恋愛が消えて、結婚も消えて、家族も消えるという意味のようだが、突き詰めれば、人類も消えるということなのだろう。

 他人に心の中までズカズカと踏み込まれたくないのは、誰しも思うところだが、それが極端になると、あらゆることがハラスメントとされてしまい、コミュニケーションは著しく減少する。現代社会に既にそういう傾向があることは、直感的に理解できる。

 本作品は、その傾向を極限まで推し進めるとどうなるかという思考実験でもある。役者陣は戸惑っただろうが、演技では戸惑いなど微塵も見せない。蒔田彩珠は大したものだ。

 

 変貌していく世の中で、性欲を愛情と言い換えて、子供を愛情の賜物だとする古い考え方の母親を霧島れいかが好演。人類はこの母親の思想で受け継がれてきたが、未来では、人間関係から人間を解放しようとするパラダイムが優勢になるというのが本作品の肝だ。生殖が必ず行われるように、人間に性欲があるのだが、性欲が失われれば、生殖も失われることになる。なんともフロイト先生が怒りそうな話だ。

 

 人間関係から人間を解放すると、性生活が不要になり、家族が不要になり、将来的には人類そのものが不要になるだろう。そうなったほうがいいのかもしれない。

 映画「兄を持ち運べるサイズに」を観た。

https://www.culture-pub.jp/ani-movie/

 

 妹の理子(柴咲コウ)から見たら、人間のクズみたいな兄(オダギリジョー)でも、兄の元妻や娘や息子から見たら、違ったように見える。そんな話だ。

 

 妹からしたら、母に散々世話になったのに、病気になったら置き去りにして、久しぶりに会った妹に喪主を任せ、ひたすら金の無心をする。自分の都合しか考えず、嘘をついて他人を利用しようとする生き方は、クズとしか言いようがない。確かにその通りだ。

 前半のクズぶりを見ていると、だんだん他人事に思えなくなる。こういう人間とは関わり合いたくないが、では自分はどうなのか。クズではないフリを装っているだけではないのか。そのために仕事をして金を稼ぎ、なんとかクズに見られないように踏みとどまっている程度なのではないか。忸怩たる思いが湧いてくる。

 

 ところが、兄と暮らしたことのある元嫁の加奈子(満島ひかり)や娘や息子の話は、少し違う。クズの一面しか見ていなかった理子は、兄の違う面を見て、ちょっと見直す。なかなかいい話である。

 

 オダギリジョーが上手い。どんな状況になっても落ち込まず、常にノーテンキで自分に都合のいいことばかりを空想する。困った奴だが憎めない。なにせ悪意がない。人はいろいろな側面を持っているものなのだ。

 すると自省の続きが浮かんでくる。もしかしたら、この兄よりも自分のほうが、よほどクズなのではないか。悪いことばかりを想像するし、悪意は山ほどある。

 

 自省は一旦置いておいて、本作品のテーマは、家族とは何かである。そして答えは冒頭に出されている。

 

「支えであり、呪縛ではない」

 

 斜に構えてこの言葉を読むと、いやいや、痴呆症になった両親や無一文で働きもしない兄弟など、呪縛でしかないだろうと思ってしまうが、本作品は、そうではないと主張する。いい話だから、いい答えで終えたいのは分かる。現実もそうであればいいと願うが、介護の過酷な作業を休む暇もなく続けている人には、どのように響くのだろうか。

 映画「そこにきみはいて」を観た。

https://sokokimi.lespros.co.jp/

 

 現代人にとって、セックスとは何か。そんな作品だった。

 

 まず、人と人との距離感の変化について。赤ん坊を除いて、ほとんどの人がスマートフォンを持っている時代だ。なにかにつけ撮影されて、ネットに晒される危険性は常にある。加えて、ハラスメントに超敏感な時代でもある。些細な行動がその後の人生を左右しかねない。人間関係での失敗を恐れるようになる。勢い、他人との距離は遠くなる。積極的に人と関わろうとしなくなるのだ。そういったことが、晩婚化、未婚化の遠因となっている気がする。専門家は経済問題だけを重視するが、少子化の原因が経済だけだとはどうしても思えない。

 

 数年前に電車の中で聞いた、今でも耳に残っている母娘の会話がある。

母「あなたもいつか親になる日が来るんだから」

娘「私は子供は産まない」

母「子供を産むことを否定するということ?」

娘「否定はしない。産みたい人は産めばいい。でも私は産まないの」

 高校生くらいと思しき娘の落ち着いた物言いには、強い決意が感じられた。若いのに将来のことをよく考えているものだと感心したことを覚えている。母親もそうだったのかもしれない。それ以上、娘を追及することはなかった。もはや出産は女の既定路線ではなくなったのだということを実感した出来事だった。

 

 本作品には、性生活と結婚に関する古いパラダイムが登場する。具体的には、女性に対してどんな男性が好きかを聞いたりすることだ。その女性が男性が好きかどうか、そもそも人間が好きかどうかさえ定かでない状態で、どんな男性が好きかを聞くのは不合理であり、聞かれたほうは、ただ面倒くさい。今の言葉で言えば「ダル!」という感覚だろうか。

 他人の領域にズカズカと踏み込んで来られるのは、誰だって嫌だ。面倒くさい、鬱陶しいという思いになる。相手にしたくない気持ちが「ダル!」という表現になるのだろう。

 

 ヒロインの香里(かおり=福地桃子)にも、そんなパラダイムが残っていて、性衝動の起きない自分との乖離に悩む。性的関係なしに付き合った健流(たける=寛一郎)の秘密を知ることで、人間の性のバリエーションを垣間見るが、そんなときに現れた前職の後輩女性との関係には踏み込む気になれない。

 

 香里のような人は、実際に増えていると思う。晩婚化、未婚化は必然だろう。少子化は特に、経済的な発展がピークを終えて、下り坂に入っている先進国に多いようだ。逆に貧しくても経済的に発展する勢いのある国々では、人口爆発が起きている。

 

 人類は変容しているのだ。「産めよ増えよ地に満ちよ」の旧約聖書の時代は終わり、他人との関わりよりも自分の充足を求める傾向にある。その反面では、SNSに参加して、盛んに他人からの共感を求める。現実よりもサイバー空間での満足を求めるわけだ。しかしやがて、ネット上の虚しい関係性に気がつく日が来る。ダルい人間関係は避けたい。しかしネット上の関係も実はダルい。行き詰まってビルから飛び降りる少女もいる。

 

 性生活や結婚と、他人との距離感の乖離が、現代人を蝕んでいる。距離を詰めて結婚しても、3組に1組が離婚する。人間関係はうまくいかず、人生の充足はない。しかし衣食住の充足は求める。だからそれを提供するのが経済だ。経済だけが向上しても、人間関係は必ずしも稠密にはならない。精神的な過疎とでも呼べばいいのだろうか。現代社会の問題点が実はそこにある気がする。

 本作品は人間模様を描きつつも、人類が直面している精神的な過疎をテーマとしている気がした。考えさせられる映画である。レビューを書くのもしんどかった。