映画「開戦前夜」を観た。
1983年製作のドキュメンタリー映画「東京裁判」は、2019年にリバイバル上映されて、そのときに鑑賞した。登場した実物の東條英機は、被告の中でもっとも愚かな人間であることが誰の目にも明らかだった。他の被告たちが尋問の意図を汲み取って堂々と受け答えしているのに対し、東條は尋問者の揚げ足を取ったり、通訳の日本語がわかりにくいと非難したりする。自分は正しいと盲目的に信じ、自分がついた嘘を真実だと思い込む人間だ。そして嘘の上に嘘を重ね、人を信じ込ませてのし上がる。天皇を軽んじて、自分のいいように扱う。どこぞの島国の暗愚の宰相にそっくりだ。
しかし本作品の東條英機は、実際の人物よりは美化されていて、天皇の意向に忠実であろうとする。国民に好戦的なパラダイムを醸成してしまい、和平を望む天皇との間(はざま)で、逆に身動き取れなくなってしまったという体だ。愚かなことには変わりはないが、実際の東條は愚かすぎて、佐藤浩市に演じさせるに忍びなかったのかもしれない。
会議でも交渉でも、話し合いの場では、最初からずっと黙っていて、最後に的確な発言をすると、その意見が支配的になる。ある種のテクニックであり、沢山の人が知っていると思う。
池松壮亮が演じた宇治田洋一は、東大首席卒業(おそらく理系)という地頭のよさと数学で、軍事と経済と地政学から、日本の今後を的確に計算する。話し合いが進んでより多くのデータが提供されると、宇治田の計算はさらに緻密になり、この国の将来像が自然に浮かび上がる。それは宇治田が最も恐れた将来像だった。
宇治田の発言は、決してテクニックではなく、ひたすら計算を続けることで、結論を出すのが遅くなり、結果的に最後の発言者となったものだ。そして宇治田の計算の蓋然性を理解できるエリートたちは、即座に宇治田の結論が正しいことを悟る。
エリートたちがぶつかる壁の役割は重要で、日本がどうして戦争に突き進んでいったのかを実感させる布陣が必要だ。國村隼が指揮官を、佐藤隆太が現場監督を演じ、最大の壁である東條英機は佐藤浩市、その補佐官を江口洋介と、これでもかというほど豪華な俳優陣がエリートたちに立ちはだかる。それぞれ見事だった。
トリックスターの役割である樺島記者を仲野太賀が好演。ともすれば単なる対立や沈鬱な雰囲気になりそうな場面を、新聞記者魂で引っ掻き回すことで、ドラマに奥行きとダイナミズムを生み出している。
池松壮亮は石井裕也監督作品の常連で、普通の人を普通に演じるのが上手い。普通の人というのは、エキセントリックな役と違って、意外に演じるのが難しいと思う。要するに観客と同じ感性の持ち主であるということで、映画に池松壮亮が登場すると、観客はどうしても感情移入してしまう。本作品の宇治田は、状況に戸惑うが、テーマを理解し、悩み抜き、考え続け、最後に勇気を振り絞る。実に感動的だった。
原作は猪瀬直樹の「昭和16年の敗戦」だ。日本にもネトウヨ的な人はたくさんいる。彼らが醸し出すパラダイムは、高市内閣を誕生させた。無能無策の虚言内閣だから、外交努力を放棄して、いずれ禁断の対外強攻策に至り、国民は再び戦争の惨禍に苦しむことになるかもしれない。「令和◯◯年の敗戦」とならないことを願うばかりだ。




