映画「死神バーバー」を観た。

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 チープ感は否めないが、悪くない。かつては「岡山の奇跡」と言われた美少女キャラの桜井日奈子だが、映画出演は少なめで、当方が観たのは2019年製作の「任侠学園」以来の2本目だ。

 前作ではかなりの脇役ということもあり、ぱっとしなかったが、本作では堂々のヒロインだ。自分がいないところで自分の悪口を言われているのではないかと気にするような、ある種の分裂症気味の性格で、見た目も中身も地味な役だが、これくらいが丁度いいのかもしれない。

 人情死神という言葉があるとすれば、その役を演じたのが若干二十歳の日穏で、無理やりな設定をよく頑張って演じていた。伸びしろがありそうだ。

 設定だけ極端だが、物語はいたって常識的に坦々と進んでいく。死神たちの居酒屋はチープさの極みで、上司の岡部、幹部連中ともに、観たくもなかったレベルだ。見えない設定のほうがよほどマシだった気がする。

 

 宇野祥平のチャプターはとてもよかった。斜に構えて生きてきた中年男が、騙されていることを知った上で若い女の子に貢ぐところは、人生の無意味さを上から見下ろしているみたいで、どこか清々しい。理想の生き方(死に方?)かもしれない。

 映画「四月の余白」を観た。

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 思春期は、様々な価値観に揺さぶられる時期だ。いろいろな価値観に出会っては、それを肯定したり否定したり、忙しい。価値観が定まっていない中で自意識が肥大するから、世の中での自分の評価が気になる。世の中と言っても隣近所や学校のクラスくらいの狭い範囲である。

 

 子供の頃から日本国憲法を教えたりして、共同体のありようをある程度理解させることができれば、視野を広く持つことができるから、子供はそれほど周囲の評価を気にすることはない。しかしそんな子供は滅多にいないわけで、クラスメイトが自分のことをどう思っているかをついつい気にしてしまう。

 無視されたくないし、馬鹿にされたくない。成績のいい生徒は、それだけで評価されるから、それほど悩むことはないが、成績の悪い生徒は、成績で評価されることを否定したいし、それ以外の価値観で評価されたい。

 思考することに慣れていない短絡的な子供は、原始人みたいに暴力に訴える。強いほうが評価が高いわけだ。弱い者をいじめて言うことを聞かせれば、それだけで他人の上に立ったと思い込む。暴力で勝てば自分の評価が上がると信じ込んでいるのだ。

 

 実は子供だけの話ではない。社会は比較と競争に満ちている。ビジネスでもスポーツでも、勝ったものが評価され、称賛される。世の中の組織や人を、勝ち組と負け組に分けるような価値観さえある。勝ち組の象徴みたいなアメリカンドリームの真相は、金持ちになることだ。実に愚かしい。

 暴力団みたいな世界でも、同じように勝った者だけが評価される。グレた中高生の暴力争いを描いた馬鹿な映画もある。どんな理屈をつけても、暴力は暴力だ。他人に勝つことだけを植え付けられた子供たちは、必然的に強い者が弱い者をいじめるようになる。

 

 自意識の目覚めが勝ち負けの価値観に重なると、勝った者だけが美しく、負けた者は惨めだということになり、自尊心は負けを認めない。いじめられた子供は自分がいじめられたことを認めたくないわけだ。

 親は自分の勝利至上主義と、他人と自分を比較する癖が、自分の子供をいじめっ子にしていることに気がつかない。親が他人の悪口を言えば、子供はそいつの子供を殴る。大人がプロサッカー選手を褒めれば、サッカーが上手い子供は評価されて、下手な子供は馬鹿にされる。場合によってはいじめられる。あらゆることで同じことが起きている。つまり世の中全体がいじめの構造なのである。子供の問題に矮小化して、教師に責任を押し付ける社会は、無自覚にもほどがあるのだ。

 

 フランス革命の標語が自由、平等だけでなく、どうしてそこに友愛が加わったのか、それが人類の叡智の頂点であり、民主主義の根幹のコンセプトなのだが、理解している人は少なく、いじめと格差は永遠になくならない。

 

 映画としてはよくできていた。緊迫感もあるし、展開にも引き込まれる。一ノ瀬ワタルはよく頑張ったと思う。この人にしかできないような役柄でもある。

 

 口で言ってもわからない子供は殴った痛みでわからせるという考え方は、医療で言えば対症療法だ。本当の痛みは、いじめられたという自尊心の傷なのだ。他人と自分を比較して一喜一憂し、勝つことだけを求められている子供の、精神状態にまで踏み込んでいかなければ、いじめはなくならない。

 比較からの脱却、勝利至上主義との決別、それらは価値観の大転換だが、戦争を繰り返す愚かな人類に、そんなことができるとは思えない。いじめと格差、差別は永遠に続くのだ。

 映画「ロングウォーク」を観た。

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 権力者が主催する命がけのゲームを描いた映画では、アメリカ映画の「ランニング・マン」や「ハンガー・ゲーム」シリーズ、邦画では「バトル・ロワイヤル」などがある。アメリカ映画の方は実況中継されて、観客が盛り上がる。アメリカは国として頂上まで行ってしまったから、あとは下るしかない。もはやアメリカンドリームは自然発生しないから、人工的に作ってしまおうという訳だ。

 為政者は、統治に困ると、共同体共通の外敵を想定して、外敵と戦うことで住民を一致団結させようとする。あるいは貧困や劣悪な環境に耐えさせる。戦争は劣等な政治家がやらかすものなのである。

 そして住民のガス抜きをするために、食料を与え、楽しみを与える。パンとサーカスだ。本作品のロングウォークは、サーカスに当たる。一般参加型のサーカスで優勝者をアメリカンドリームに仕立てようとする魂胆である。

 

 本作品は、あたかもジョージ・オーウェルの「1984」の世界だ。そういう世界では、統治側の人間は必ず軍服を着ている。本作品もそうだった。日本も近いうちにそうなる。

 戦争が尽きて、サーカス団がなくなってしまったら、素人参加型の番組を作るしかない。受ければいいというテレビ局みたいな考え方だ。そして全員が参加に向けて手を挙げるしかないという状況を作り上げる。脱落者を残酷に殺せばいいガス抜きになるという意図が透けて見える。

 

 これまでの作品では主人公に秀でた能力があって、必然的に生き延びる展開になるが、本作品では参加者全員が基本的に持っている、歩くという能力だけが求められる。個人差は体調とスタミナ、それに精神力だけだ。そこがユニークなところだ。競走馬に求められる能力と似ているが、本作品のレースに場所的なゴールはない。ゴールは最後の一人になったとき、つまり時間的なゴールしかない。サバイバルの耐久レースなのだ。

 走るのではないから、呼吸器系に大きな負担はなく、参加者は互いに会話ができる。会話の中で次第に各人の個人的な事情や目論見、ひいてはこの世界の真相まで明らかになる。意外と壮大なドラマである。

 

 一定のスピードを維持するという条件から、排泄の心配を真っ先にしたが、製作者は避けずに真正面から描く。あまりにもリアルで臭ってきそうだが、そういうところもまさに人間の真実である。スティーヴン・キングの世界観がよく生かされている。

 映画「マジカル・シークレット・ツアー」を観た。

https://magicalsecrettour.asmik-ace.co.jp/

 

 ドツボにハマるというか、二進も三進も(にっちもさっちも)いかなくなったことが、人生で一度もないという人はあまりいないかもしれない。ドツボの度合いにもよるが、あのときは本当に困ったなあという場面は、いくつかある。どんなふうに乗り切ったのかを思い出そうとするが、よく思い出せないことのほうが多い。多分、思い出したくないのだ。

 そういう場面に対して、泣き叫ぶ人と泣き叫ばない人がいる。個人的な感覚だが、泣き叫ぶ人のほうが共同体から受け入れられやすい気がする。泣き叫んだら、泣き止むときには感情が一旦落ち着く。事態を受け止めて、次に進んでいく。周囲の人々も応援する。

 しかし泣き叫ばない人は、事態を把握して分析してはいるが、感情の持って行き場をなくしている。その事態が自分にとって嬉しいのか悲しいのか、受け止めができていないのだ。身内の不幸に際して泣かないのを見て、周囲の人々は怪訝に思うだろう。だから応援されない。場合によっては排斥されることもある。アルベール・カミュの小説「異邦人」のムルソーがそうだった。

 

 本作品の主人公和歌子は、泣き叫ばないタイプの人間だ。実存的とも言える。有村架純がこういう実存的な役柄を演じたのは観た記憶がないから、おそらく本作品がはじめてなのだろう。それにしては上手に演じていた。

 実存的な人間は自分の感情よりも状況の分析を優先する。だから泣き叫ばない。英語のよく学びよく遊べ( All work and no play makes Jack a dull boy)という諺の通り、感情表現の少ない人間は dull(鈍い)という印象を持たれがちだ。和歌子は子供の頃からそうだったに違いない。だから周囲はぼうっとしているという印象を持つ。喜怒哀楽のはっきりしない子供は嫌われる。大人になると、不気味だ、何を考えているかわからないといった、それなりの評価を受ける一方、言葉に感情がこもらないから、発言が真実味に乏しい。

 

 和歌子に比べて、あとの二人はやや類型的だが、本質的には和歌子と同じように実存的な人間だ。杜撰な計画が失敗に終わるためには、類型的な登場人物がありがちな失敗をする必要がある。製作者の狙いもそこにあるのだろう。ビギナーズラックでギャンブルに勝った人間が、調子に乗って勝負して負け、負けた分を取り戻そうとしてドツボにハマるのと同じだ。ドツボは、はじめる前よりずっと深くなっている。

 

 世の中には、TPOにあわせて喜怒哀楽を表現しなければならないパラダイムがあり、感情表現の乏しい実存的な人間は、一方的に損をする。本作品は、損をしている人間たちのささやかな抵抗劇である。女優3人の演技が凄くて、それなりに楽しめた。

 映画「黒牢城」を観た。

https://movies.shochiku.co.jp/kokurojo-movie/

 

 2023年製作の北野武監督の映画「首」で遠藤憲一が演じた荒木村重は、西島秀俊の明智光秀とホモ関係にあって、なよなよと頼りない変なおっさんだったが、本作品の本木雅弘の荒木村重は、堂々として潔い。同一人物と思えないほどの描き方の差だが、戦国時代はそれほど混沌としていたということなのだろう。昨日の友は今日の敵、今日の敵は明日の友というくらい、密約と裏切りが日常化していて、誰の記録が正しいのかも定かではない。ただ、本作品の村重も、明智光秀とは親しかったようで、そこは史実もそうなっているのだろう。

 

「首」が戦国コメディだったのに対して、本作品はミステリー仕立てになっている。しかもエラリー・クイーンばりの本格的な謎解きだ。史実とは異なるフィクション部分で、あたかも刑事ものみたいな展開だが、場所は伊丹城(有岡城)とその周辺に限られ、犯人も限定的だから、幽閉されている黒田孝高(官兵衛)のように頭の切れる人間には、真相を推理するのはそれほど難しいことではなかった。

 ポイントは、謎解きの過程で村重と家臣たちの思惑が徐々に明らかになり、村重の妻の本心も明かされる点だ。官兵衛は城中の人間関係の全体像を詳しく把握する。人間関係には、それぞれの出身地、血縁関係、家が重く人の命が軽かった当時の価値観などが背景にある。そして村重のために一計を案じる。

 

 本作品の村重の妻は、絶世の美女だったとされるキリシタンのだしではなく、真宗の信者千代保で、謎解きの展開で、時折顔を出す。今回は吉高由里子の出番があまりないなと残念に思っていたら、最後にいいシーンが待っていた。

 狂信者とも受け取られかねないほどの熱心な仏教徒である千代保は、人権が蹂躙されている民が、死んでも報われない現実を憂い、死んで極楽に行けるように願う。その狂おしい希求が長い台詞によって披露される。名女優吉高由里子の面目躍如である。

 地味な作品だと思っていたら、時代そのものを真宗の教義で全否定するというスケールの大きな世界観の作品だった訳だ。村重が最後に放つ台詞「天下など犬にでも食わせておけ」は、蓋し(けだし)名言である。

 

 ちなみに官兵衛の息子松寿丸は、官兵衛の幽閉に際して殺されたりしておらず、後に福岡藩の藩主となる。「黒田節」で有名な黒田五十二万石の殿様である。