映画「ディスクロージャー・デイ」を観た。

https://www.universalpictures.jp/micro/disclosureday

 

 1980年代のゴルバチョフ政権では政治改革のひとつとして「グラスノスチ」が実行された。日本語では情報公開、英語ではディスクロージャーである。

 孔子は「論語」の中で「由らしむべし知らしむべからず」と書いている。為政者の姿勢について述べた言葉で、人々は理解力が足りないから、全部を知らせてしまっては政治が上手くいかない、人々は従わせるだけでいいという意味だ。孔子の真意は、為政者はみずから徳を積んで、人々から信頼されなければならないというところにあったのだが、現実の為政者は、人々を弾圧したり、言葉巧みに騙したりして、強引に従わせている。

 ゴルバチョフはグラスノスチを広く展開したが、国民からの不信を招いてしまい、結果的にソビエト連邦は崩壊してしまった。共産党の政治局員の贅沢な暮らしぶりが、人々の反感を買ったのが大きかった。もしソビエト連邦の政治局員たちが、清く正しい生き方をしていたら、グラスノスチによって、政権基盤が安定していたかもしれない。

 

 本作品のテーマは情報公開の是非である。キリスト教国の映画らしく、そこに神の役割や信仰を絡めて論じてみせるが、やや本質から外れている。情報公開の本質は、組織や共同体がブラックかどうかにかかっている。ブラックな政府は情報公開を制限し、国民を監視して行動を制限する。国民を侮っているのだ。もし情報公開をしたら、為政者たちはことごとく次の選挙で落選する。裁判官はほとんど不信任になる。ソ連の二の舞である。

 ブラックな為政者たちは、それがわかっているから、決して情報公開をしない。日本もそうだ。書類を黒塗りで提出する。スパイ防止法を制定し、国民を監視し、行動を制限しようとする。ソ連と同じだ。ブラック企業は総じて秘密主義である。

 

 本作品は、情報公開の対象をUFO関連に絞っていることと、信仰を絡めたこと、為政者ではなく情報の保守機関を敵役(かたきやく)としたことで、テーマがぼやけてしまった憾みがある。テーマを明確にすると、宇宙人の話になりにくかったという理由があるのだろう。

 宇宙人のテクノロジーも登場するから、理解できない展開でもそれなりに納得したが、ひとつ、どうしても腑に落ちない点があった。ジェーンに渡したはずの映像データを、ジェーンに再会する前の放送局の調整室にいるダニエルが持っていたことだ。当方の勘違いかもしれない。

 

 宇宙人との遭遇によるテクノロジーの進歩に加えて人間の脳の進化があるという設定で、主人公たちと、それを追いかける組織の逃走劇を中心に据えたことで、スリルに満ちたドラマに仕立てられている。流石スピルバーグと感心する一方、テーマの曖昧化で感動が薄れてしまった面があった。

 映画「シャドウワーク」を観た。

https://shadowwork-movie.jp/

 

 日本では、家庭内暴力や知り合いからの暴力は、昔からかなりあったと思う。親が子供を殴るのは日常茶飯事で、警察は介入しなかった。教師が児童を殴るのも、教育の一環として認められていた。スポーツのコーチが選手を殴ったり、会社の上司が部下を殴るのも、黙認されていた。権威主義は文明の発祥から連綿と続いていて、そこから抜け出せずにいる人はたくさんいる。

 

 高度成長期が終わって成熟期に入った頃から、DVやパワハラと名前が変わって、社会問題化した。権威主義の終わりのはじまりである。

 しかし上下関係は依然として残っている。命令する者とされる者、カネを払う者と貰う者、養う者と養われる者、さらには腕力など、力関係の上下がそのまま人間関係の上下になり、下の者は上の者から受ける理不尽に耐えなければ、生きていくのが難しい。

 

 社会を支配しているのは上下関係が上の者たちだから、社会を平等にしようとか、格差をなくそうとか、スローガンとして言っていても、本音では、平等などとんでもないと考えているはずだ。下の者も、上の者には逆らいづらい空気が社会に蔓延している。勇気を出して何か言おうとするときに、次のような前置きを言うことがある。

「恐れながら申し上げます」

「お言葉ではございますが」

 こういう前置きを言わなければならないこと自体に、上の者の驕りと、下の者の卑屈さがある。日本社会は、まだまだ平等とはほど遠いのだ。だからDVもパワハラも、当分はなくならないだろう。

 

 本作品は、そういった日本社会の状況を踏まえた上で、まかり通る理不尽に対して、自力救済をしようとする女性たちを描く。「自力救済」は法律用語で、不正に対して公的権力に依存せずに、自力で立ち向かって自分の権利を回復しようとする行為のことだ。違法性阻却事由は、正当防衛と緊急避難のふたつだが、なかなか当てはまらない。

 警察は民事不介入という原則を盾にして、個人間のもめごとには立ち入りたがらない。下手に介入すると面倒なことになったり、責任問題になったりする。保身が第一の役人だから、国民の役に立とうという意志はなく、どうしてもやらざるを得ないことだけをする。人間として自然なことだから責められない。

 

 警察が頼りにならないのであれば、自分たちでなんとかするしかない。アメリカのアクション映画の多くがそのパターンだ。銃器を使って派手にぶっ殺すアメリカ映画と違って、本作品はか弱い大和撫子たちが、ひっそりと賢く手を下す。しかも交換殺人だから、アリバイ工作は余裕である。

 ユニークな設定で、自らもDV被害者でありながら、自力救済を追及してしまう女性刑事の存在が緊迫感を盛り上げる。吉岡里帆も奈緒も立派に主演の役割を果たした。他の俳優陣も好演。特に北村匠海くんは、かなりのヒール役で、新しい境地を開いたと思う。とても面白かった。

 映画「我々は宇宙人」を観た。

https://nothingnew.film/wearealiens/

 

 小学校三年生からはじまる翼と暁太郎の物語。

 

 翼はずっと気の弱さを隠していて、人格的に一貫性があるが、暁太郎は、登場したときは自由でマイペースなのに、しばらくするとひねくれて恨みがましい性格に変化する。ストーリーを進めるための設定なのかと最初は思ったが、すぐにそうではないことに気がついた。

 

 人の性格を変えるのには、生きてきた三分の一の年月がかかるという。ただそれは、積極的に自分の性格を変えようとしたときで、劇的な出来事が起きれば、その限りではない。子供は生きてきた年数も少ないし、状況に影響されやすいから、大人よりもずっと性格が変わりやすい。

 

 暁太郎にとっての劇的な出来事は、ある日突然、人気者から一転して嫌われ者になってしまったことだ。学校が人生の8割方を占める小学生にとって、クラスの嫌われ者になったことは、人生の暗転を意味する。楽しい人生が辛い人生になったのだ。

 一方、翼がいじめられなかったのは、習字が大会で表彰されたからだろう。教師から褒められたということは、世の中から認められたということだ。小学生は権威やパラダイムに弱い。翼をいじめることはできない。このあたりの設定は緻密に計算されている。大したものだ。

 翼は気が弱くて長いものに巻かれる。不自由に見えるが、自分を抑制しているとも言える。暁太郎は好きなように行動する。自由に見えるが、自分を抑制できていないと言える。序盤の段階で、ふたりの将来がある程度予想できるから、嫌な予感を抱きながらの鑑賞となった。

 

 三つ子の魂百まで。苦しくて辛い物語だが、誰もが自分の小学生の頃の楽しかったことや苦しかった記憶を呼び覚ましたに違いない。凄い才能だと思う。

 映画「Heart of the beast」を観た。

https://heart-of-the-beast.jp/

 

 あまり入り込めなかった。

 アメリカ映画では退役軍人を扱った作品が多いが、ふたつの傾向に分かれる。ひとつは、軍で培った技術や戦闘能力を使って、ピンチに対応するアクション作品で、もうひとつは、戦場の体験がもたらした身体障害やPTSDなどに苦しむヒューマンドラマだ。

 本作品はどちらかと言うと後者よりだが、犬を絡めたサバイバル作品となっていて、戦場の体験はフラッシュバックで紹介される。しかしアラスカに来たそもそもの動機や、急ぐ旅でもないのにどうして嵐の中を飛び立ったのかなど、不明な点が多い。遭難したあとも、ただ自宅に戻りたいというだけで、どうして戻りたいのか、戻ったら何があるのかなど、目的が不明確だ。

 よく訓練された犬と仲がいいのはわかるし、ピンチに際しては軍人らしい不屈の精神で乗り越えるのもわかる。だから何なのか。

 帰還兵にありがちな、アメリカの日常と相容れずに鬱々とした日々を過ごし、どこかに死に場所を探していたという話かもしれないが、それにしては帰ろうとする意志が強い。要は、主人公の心がどこにあるのか、さっぱりわからないということだ。

 サバイバルの様々なシーンはそれなりに面白かったが、背景の説明が乏しく、感情移入できなかったというのが正直なところである。犬にオーディンという名前をつけたシーンも欲しかった。

 映画「さとこはいつも」を観た。

https://happinet-phantom.com/satoko/

 

 人生は思ったとおりにならない。小さな子供のように、自分の幸せだけを考えるのであれば、どれほど楽か。しかしそんな子供も、学校に通い出すと、自分が世界の中心にいるわけではないことに気がつく。自分のことだけではなく、他人のことも考えないといけない。他人に迷惑をかけないようにしなければならないと同時に、他人の期待にも少しは応えなければならない。そして社会に出たら、自分で稼いで食っていかねばならない。

 その結果、妄想と現実の間(はざま)で、妥協しながら生きることになる。夢や希望よりも、今日のご飯と明日のパンが先なのだ。聖書で「明日のことを思い煩うな。明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」というイエスの言葉を読んでも、パンのために自由を投げ出すのが人間である。

 

 一方で、何かをはじめるのに、遅すぎるということはない、という言葉もある。諦めたはずの過去の妄想を、頃合いを見計らって、もう一度はじめるのも悪くない。人生は終わった訳ではないのだ。

 三人のさとこは、三者三様の人生だが、妄想と妥協という点で、共通している。現代を生きる多くの人にも、共通しているのではないだろうか。人生を楽しいと思う反面、醒めている部分が自分を客観視する。怒らないし、絶望もしない。ただ妥協するのだ。

 

 現代人のぼんやりとした生き方がほのぼのと描かれた佳作である。