映画「The Life of Chuck」(邦題「サンキュー、チャック」)を観た。

https://gaga.ne.jp/thankyou_chuck/

 

 カール・セーガンの名前を久々に耳にした。「宇宙カレンダー」という計算を披露していて、ビッグバンを1月1日とすると、人類登場は12月31日の朝で、現代文明の成立は23時59分を過ぎてからのことだという話は一世を風靡したものだ。

 にわかに宇宙への関心が高まり、太陽系に関してもいろいろな知識が話題にのぼった。太陽から地球まで光の速度で8分かかる、つまり地球から太陽までの距離は8光分であるとか、太陽系の総重量の99.8%以上は太陽の重量であり、太陽系はほぼ太陽であるとか、太陽は全方位にエネルギーを放出していて、8光分離れた地球に届くのはそのうちの22億分の1だ、などだ。そして、かつて学校の図書館に通って勉強した相対性理論についても語ったりした。

 そのとき、相対性理論は専門的には数式で記述されており、数式が理解できなければ、相対性理論は根本的に理解できないことが判明して、自分に数学の才能がないことを憂えたものである。

 

 本作品は幸いなことに、数式が理解できなくても楽しめる。チャックのおじいさんは数学の分析力と記述力が森羅万象を説明するとチャックに言い聞かせる。まさにその通りだと思うが、詳しい解説は省略されているから心配ない。

 数学は地球の現象を分析し、地球の終わりを予言する。そして人間の人生の終わりは、おじいさんが隠していた丸屋根の空き部屋が予言する。空き部屋は数式で、数学に疎い(うとい)人間にも、映像でわからせてくれる不思議な部屋だ。おじいさんが残した「待っている時間が一番辛い」という言葉の意味は、余命を知った人間の辛さという意味であり、地球の終わりを座して待つ人々の辛さでもある。

 

 しかし、終わりは必ずしも悪いことではないと、映画は言っているようだ。地球の危機の予兆が始まって以来、離婚が減って再婚が増えている事実は、単に離婚に時間や面倒な手続きが必要だからではない。地球の終わりを前にして、人は寛容になり、正直になる。憎悪よりも親和、戦争よりも平和を求めるのだ。

 

 スティーブン・キングの終末に関わる世界観は、ユニークだが極めて現実的だ。アメリカ映画にしては珍しく哲学的な作品となっている。とても見応えがあった。

 映画「Sorda/Deaf」(邦題「幸せの、忘れもの」)を観た。

https://shiawase-film.com/

 

 2024年製作の邦画「ぼくが生きてる、ふたつの世界」では、忍足亜希子さんが明るくて息子思いの優しい母親を演じていた。忍足さん自身も役と同じく聾者で、本作品の主演のミリアム・ガルロも、役と同じく聾者だそうだ。

 似たような映画かと思いきや、方向性がまったく違った。本作品の主人公アンヘラは、娘よりも夫よりも、自分のことが最優先だ。自分の人生に役立つように、補聴器を売る店員は手話を覚えなければならないし、夫は他の人と手話なしで話してはいけない。

 日本の映画には諦めがあったが、本作品にはない。人と人とは、わかり合えないものだという諦めだ。それは悟りでもある。

 

 夫は、理解している。聴者である自分には、聾者の気持ちの全部はわからない。わからないけれども、思いやりを持っていれば、一緒に生きていける。しかしときには失敗もするし、忘れることもある。それをすべて咎め立てられるのは、筋が違う。

 一方、アンヘラは幼い娘から気を遣われて育ってきたから、ややそれが当たり前になっているところがある。夫は自分を大切にしなければならない。その考えが、人に対して完璧を求め、故に不満を抱き続けることになる。

 夫婦の危機は徐々に膨張していくが、出産までは夫の努力によって爆発せずにいた。出産後には、身重の妻という歯止めがなくなってしまう。聞こえないことをアピールしたくないアンヘラは、上手くいかない子育てに、ますます不満を膨らませていく。

 

 本作品の山場は、夫の「君が聞こえないのは俺のせいじゃない」という台詞だろう。おそらくアンヘラの人生の転機になったであろう言葉だ。与えられるばかりであった自分に、ようやく気がついた訳だ。

 聾者でも社会の役に立つし、人のためになることが出来る。他人に与えられる幸せより、他人を幸せにするほうがよほど幸せであることは、世の多くの人が知っている。アンヘラにもその未来があるかもしれない。

 映画「トゥ・ランド」を観た。

https://toland-movie.com/

 

 原題は「Where to land」だから「どこに着地するのか」みたいなニュアンスだろうか。コメディの王道である誤解をきっかけに、登場人物それぞれの事情や人生観が展開されて、ある種のカオスのようになる。舞台劇のようなスケール感である。

 吉本新喜劇みたいだが、違うのは会話がどれも哲学的であることだ。100歳の老女が未来予測を語り、何故か椅子の向かいには額が飾られていて、裸の女が背を向けて横になっている写真が入っている。100歳の精神と若い肉体を対比させた監督の悪戯心だろう。

 こういうほのぼのとしたコメディが作られるということは、それだけ現代のアメリカ人の心が荒んでいるということの裏返しなのかもしれない。

 映画「今日からぼくが村の映画館」を観た。

https://www.buenawayka.info/willaq

 

 2019年製作のブータン映画「ブータン山の教室」と同じように山間(やまあい)の寒村が舞台である。同作を想起した人もいると思う。同じように子供たちは純朴だが、民族問題もあって、微妙な対立もあるみたいだ。それでも一緒に遊ぶ。

 

 時代設定を読み解くのが難しい。紹介される映画は「風と共に去りぬ」やブルース・リーの作品、チャップリンの作品などで、一番新しいブルース・リー作品がペルーにまで流れてくるのは、数年から十数年必要と考えれば、1980年代あたりだろう。

 未だにメスティソという言葉を使っているくらいだから、ケチュア語を話すアンデスの住民は、16世紀のスペインの侵略の頃から、あまり変わっていないのかもしれない。つまりかなり昔ながらの暮らしぶりという訳だ。しかしブータンにはなかった自動車がある。文明にまったく触れていないわけでもない。

 

 風に飛ばされてきた映画のチラシを見て、子供たちに最初は拒否反応があったものの、教師の説明を聞いてシストゥが猛烈に映画を観たくなったのは、無理のない流れである。移動映画館を営む男は、南米らしい荒っぽさと大らかさを兼ね備えていて、見かけによらずいい奴だ。シストゥが映画を観ることが出来たのは、この男のテキトーさのおかげである。

 

 村の直接民主制も面白い。本作品には日本とはまるで異なる精神性がある。自然を敬い、人を助ける寛容さがある。表面を飾らず朴訥としていて、うわべ重視の日本社会とは一線を画している。

 人間に物語は必要だというのは世界的に実証された真理だ。世界は物語で溢れている。古代のシャーマンも物語を語ったに違いない。

 映画「ARCO」を観た。

https://arco-movie.jp/

 

 ジブリ作品に似ている気がした。強気な女の子が物語を引っ張っていき、気弱な少年が仕方なしに付き従っていくと、波乱万丈な展開が待っている。

 近未来の設定が面白い。子守と家政婦がロボットで、警察もロボットなら、教師もロボットだ。両親は子育てをロボットに任せて金稼ぎ。ときどきホログラムで子供とコミュニケーションと様子見をする。ロボットはプログラムと言うよりもAIロボットで、変わっていく法律や社会環境にも対応するのだろう。

 いかにも未来っぽいが、すべて電気で動いていて、どれだけ電気を使うのかと思うと、未来の電力供給がどうなっているのか心配してしまう。ホルムズ海峡が封鎖されて世界中が石油危機に陥っている現在の状況からは、切実な問題だ。

 

 イリスの台詞から察するに、未来はあまり楽しそうな社会ではないし、アルコの台詞からすると、さらに未来の世界も、それほど豊かではなさそうだ。ニートみたいな若者たちの存在が、ある意味で未来を物語っているのかもしれない。ジブリ作品には登場しないユニークな存在だ。未来の味気なさを際立たせるのに一役買っていると思う。