映画「エディントンへようこそ」を観た。

https://a24jp.com/films/eddington/

 

 エディントンには、人々の怒りが充満している。人種の違い、宗教の違い、貧富の差、陰謀論など、あらゆることが怒りの原因になる。スマホの時代だ。怒りはSNSによって増幅され、何倍にもなって人々のもとへ戻ってくる。

 そこへやってきたのがコロナウィルスのパンデミック騒ぎだ。行政は何かしなければならないから、とりあえずマスクの着用を義務付けるが、それは対立の火種にしかならなかった。つまり本作品でのコロナ禍は、怒りが爆発する引き金の役割を果たしたことになる。

 

 ホアキン・フェニックスが演じた主人公の保安官ジョーは、臆病なようで大胆、大雑把なようで繊細、そして愚鈍なようで聡明という、実に複雑なキャラクターだ。我慢強さは特筆ものであり、だから6年間も保安官を続けられている。ややこしい人格をわかりやすく伝えるホアキン・フェニックスの演技は天下一品だ。

 

 さて、ブツブツと不平不満を呟きながら浮浪者が町に入ってくるのが冒頭のシーンである。実は彼こそがエディントンにコロナウィルスを持ち込んだのだということが、途中でわかる。酒場に侵入して、手当たり次第に酒を飲みながら、味がしないと騒いでいた。

 ジョーもすぐに、こいつが元凶だったのかと察した。それから先は荒唐無稽な展開が繰り広げられる。アンティファの実行部隊がプライベートジェットでやってくるシーンと、権力は州知事であり大統領だとジョーが演説したシーンが伏線となって、その後ジョーに襲いかかってくるのだ。本当にアンティファのテロ部隊だったのか、それを装っていただけの権力の手先なのかは、最後までわからない。

 

 終盤になって、はっと気づいたのだが、エディントンはアメリカの縮図なのである。賢明な諸氏は最初からわかっていただろうが、当方は終盤までわからなかった。市長が主張していたデータセンターの誘致が、結局は実行されるのだ。つまりどちらに転んでも、巨大資本は確実に目的を果たすのである。

 女性は強かだ。娘はカルト教団の教祖の妻に納まり、母は陰謀論を振りかざしながら、悲劇の英雄の義母の立場を無限に利用する。何もかもが嘘であることを知っているのは、観客だけだ。アリ・アスター監督のシニカルな世界観が結実した作品だと思う。

 映画「落下の王国4Kデジタルリマスター」を観た。

https://rakkanooukoku4k.jp/

 

 実に映画らしい映画である。物語の面白さと、映像の奇抜さや美しさを前面に出す。登場人物はエキセントリックだが、人間味があり、ファンタジーでありながら歴史的な重みを感じさせる部分もある。

 看護婦長が実は王女で犠牲者で、やむを得ず敵の一味になってしまった可哀想な女かと思いきや、実は奸計を巡らす悪女だったという設定は秀逸。恋に落ちることは、つまり堕ちることだ。悪女に振り回されるのは古今東西、英雄の習わしである。

 何が何でもハッピーエンドを望む五歳児の希望に応じて、物語はあっけない幕切れとなり、別れは既に過去のもの。栄枯盛衰と生々流転。人生は常に波乱万丈だ。

 不思議な味わいのある作品だった。

 映画「手に魂を込め、歩いてみれば」を観た。

https://unitedpeople.jp/put/

 

 映画としての面白みはあまりないが、極限状況の下、まるで日常の連絡みたいにビデオ通話が繰り返されるのが、痛々しくもリアルだ。笑顔で画面に写っている女性が、その後殺されてしまったことは、わかっていても信じられない。

 

 人はピンチになると笑う。自然災害の被災者がインタビューに笑って答えている姿をテレビで見て、最初の頃は、どうしてこんな酷い目に遭ったのに笑うのだろうと訝っていたが、脳のメカニズムだと知って納得した。

 脳は自分を守ろうとする。状況が酷いことは認識している。問題は自分が大丈夫かどうかだ。脳は五感から情報を得る。泣いている自分を自覚すると、悲しくなり、気力も萎える。ところが笑っている自分を自覚すると、自分は大丈夫だと認識し、エネルギーも湧いてくる。

 悲惨な目に遭った人が「もう笑うしかない」とヘラヘラしているのは、そういうことなのだ。決して不真面目なのではない。真面目にヘラヘラしているのである。そうやって活力を溜めて、状況に打ち勝つ努力に繋げていく。

 

 本作品のファトマの笑顔は、そういう笑顔である。逃げ出すことなく、ガザにとどまり、ガザでの人生を立て直す。決意に満ちた力強い笑顔だ。

 しかし笑顔では爆撃に勝てない。安全を求めて住む場所を転々とするが、自分の居場所は自分の家しかないと考えている。そこには家族がいて、思い出もある。最後の通話のあと、ファトマは家に戻るが、家族とともに爆撃で殺されてしまう。戻らなければ殺されなかったかもしれないなどと考えても、意味がない。戦争なのだ。どこにいても殺される危険はあった。

 

 繰り返された通話の内容で、ファトマという女性が果てしなく善良で、優しくて、悪意の欠片もないことが分かる。通りに出るのはとても恐ろしいが、いざ出るときは、手にしたカメラが真実を写してくれることを願いながら歩く。そんな思いがタイトルになったのだろう。

 こんな女性が殺される世界は、理不尽そのものだが、殺す側の人々が一定の指示を得ていることも確かだ。まさに人類の不条理である。しかし不条理の犠牲者になる側はたまったものではない。世界の人々は、自分が犠牲者になるかもしれないことを想像できる人と、できない人に分かれている。

 

 自分は安全圏にいると信じ、必ず勝てると信じて戦争をはじめるのは、ほとんど狂人の精神性だ。しかもそれを支持する人々もいる。同じく狂人だろう。狂気以外に戦争をはじめる理屈はない。人類は狂気に駆られて、みずから絶滅していく。日本人も再び戦争の惨禍に遭う日は近い。それはみずから選んだ道なのだ。

 映画「北の食景」を観た。

https://northernfood.jp/

 

 ドキュメンタリー作品である。しかしつきもののナレーションがない。ただ家畜がいて、野菜があって、野草があって、人間関係がある。時折ピアノの劇伴が入るが、BGMは主に小鳥の囀りだ。

 しかしそれでもちゃんとドキュメンタリー作品として成立している。成立させた監督のセンスに脱帽する。特に食材と料理の撮り方がいい。生き生きしているし、質感や温度感もある。どれも美味しそうだ。

 

 料理人たちは、常に悩んでいる。食材のこと、従業員のこと、後継者のことなどだ。しかし毎日仕事は山ほどある。日々の仕事に没頭していれば、悩みも忘れる。いつか、すべてよしなしごととして、時間が笑い話に変えてくれるだろう。いや、その前にくたばっているかも。などと、どこか楽観的なところがある。

 それは、食というものが、ときには悩みを吹き飛ばしてくれるほどの幸福感をもたらしてくれることを知っているからかもしれない。すべての生物にとって、栄養を摂取しているときがもっとも幸福なのは、生存本能からして当然だろう。

 食べ物も喉を通らないというのが、動物の状態として最悪だ。そこまでいかなければ、美味しいものを食べて睡眠を取れば、大抵の悩みは過去のものになる。

「明日のことは、明日自身が思い煩うであろう。一日の苦労は、その日一日だけで十分である」(新約聖書マタイによる福音書第六章)

 

 La Santé の白アスパラとラムは凄く美味しそうだった。それぞれに白ワインと赤ワインを合わせて食べていた客が羨ましい。味道広路の素朴な野菜料理を食べて近くの温泉旅館に泊まったら、最高の休日になるだろう。◯鮨の納豆巻きは、納豆好きとしては一度食べてみたい。

 

 鑑賞時間がちょうどランチタイムだったから、映像を観ていると凄くお腹が空く。さて、今日は何を食べようか?

 映画「ヒポクラテスの盲点」を観た。

https://hippocrates-movie.jp/

 

 沢山の医師が登場する。主にワクチン接種に疑問を呈する人々だ。彼らが主張するのは、ワクチンの副作用を公開しないで、単にワクチンを強制したことがよろしくないということだ。それに加えて、ワクチンの効能を疑問視する。

 

 しかし庶民は、ワクチンに効き目があるのかどうかわからないし、副作用がどれほど酷いのかもわからない。三密とか不要不急とか言われて、行動は制限され、劇場や映画館は閉鎖され、演劇やコンサートが中止になって、公共の施設はもちろんのこと、民間の施設やスーパーでさえ、入口でアルコール消毒を強制され、体温の検査をされた。

 旅行に行くとホテルではワクチンの接種証明書の提示がなければ宿泊できないというルールが出来て、旅行好きの当方としては、政治家や役人の言うがままにワクチンを摂取せざるを得なかった。幸いなことに副反応も副作用もなかった。コロナには一度もかからなかった。

 5年が過ぎたいまでは、誰もコロナのことを話題にさえしない。いったいあの騒ぎは、何だったのだろうか。

 

 本作品が問題にしているのはワクチンの是非ではない。偉そうなことばかり言っていた孔子の言葉「民は由らしむべし、知らしむべからず」という傲慢な言葉をそのまま実行するような行政のやり方が理不尽だと言っているのだ。

 本作品全体のオピニオンリーダーである福島雅典さんの言葉は科学者らしい公正さに満ちている。ファイザーは副反応のデータをきちんと公開していた。しかし行政はデータを一般に公開せず、ワクチン接種の一本足打法で対応した。

 それが対米開戦前に研究機関が軒並みアメリカと戦争したら負けると報告したのに、軍事政権はそれを破り捨てて、勝手に真珠湾攻撃を始めた。福島教授は、それと同じではないかと一喝する。こんなことでは医学の正義も国民の人権も民主主義もあったものじゃない。医者は誠実でなきゃいかん、わからないことはわからないと言うべきだ、というのが福島医師の主張である。

 

 もっともな主張で納得できるし、それにある種の危機感も感じられる。行政が国民を信用せず、データを隠蔽して本当のことを教えず、判断の材料を与えないまま、許認可のある企業には行政指導という形で強制し、結果として国民全員にワクチンを強制したわけだ。それが戦前の高圧的な行政にそっくりだという危機感である。当方も同じ危機感を共有する。

 

 民主主義は国民が主権の筈である。為政者が何でもかんでも隠していたら、主権者である国民は自分なりの判断ができない。何も知らせないで、ただ一方的に行政に従わせる。ワクチンを強制したのと同じように、戦争を礼賛するのも強制されることになるかもしれない。国民の人権や利益よりも自分のプライドや意地や立場を優先する人が首相をやっているくらいだ。戦争の惨禍に見舞われるのもそう遠くないかもしれない。