映画「プレデター:バッドランド」を観た。

https://www.20thcenturystudios.jp/movies/predator-badlands

 

 アーノルド・シュワルツェネッガーと戦った初代のプレデターは、シュワルツェネッガーよりふた回りくらい大きく、近未来的な武器を沢山所持していて、恐ろしい強さだった。

 その後シリーズになって、何作も作られているようだが、第一作のインパクトが強烈で、続編があれを超えるのは難しいだろうと、鑑賞を見送っていた。だからプレデターを見るのは、第一作以来である。

 

 本作品はプレデターが主人公なので、第一作とは違うプレデターが見られる。体格は大きくなくて、光学迷彩は使わない。代わりに父親が、デカくて光学迷彩を使う。世代交代をイメージさせるのは、製作者の狙いだろう。

 青年プレデターのデクは、プレデターであるにも関わらず、謂わば正々堂々と戦う。環境に慣れて、環境を利用し、敵の土俵で真正面から敵の攻撃を受け止める。冷酷ではあるが、横綱相撲をするところが、デクのプレデターとしての真骨頂だろう。主人公は卑怯であってはならないのだ。

 デクが倒そうとする敵「カリスク」の見た目が、RPGの「ファイナル・ファンタジー」に登場する「ベヒーモス」そっくりだと思ったのは、当方だけだろうか。

 

 組織を重んじ、上下関係が厳格な集団の中で、権威に歯向かう下剋上のような部分もあるが、最後に権威の中枢みたいな存在が登場して、デクが無力感を表明するようなシーンがなんともおかしい。プレデターは母系社会だったのか。

 

 惑星「ゲンナ」では、多数のキャラクターが登場するが、顔出しの俳優はエル・ファニングただひとりだ。大勢の男性型のAIロボットは皆、体格も顔も同じように見える。ファニング演じるティアと相方のテスラは女性型で、派遣隊の隊長みたいな立場らしい。彼女らを派遣したボスは「マザー」と呼ばれている。未来の地球はAIロボットが支配していて、その中枢が「マザー」という訳だ。マザーボードのマザーなのかもしれないが、母親という概念と考えれば「カリスク」にも、ラストシーンにもシンクロするところがある。未来の別々であるはずの社会が、実は共通して母系的であることを示唆していて、物語にまとまりが出来ている。

 

 いろいろな意味で、面白かった。

 映画「モンテ・クリスト伯」を観た。

https://monte-cristo.jp/

 

 壮大なドラマである。

 ビジュアル面では、街の様子や建物の外観と内部、牢獄の質感などの見事な出来栄えに加えて、登場人物の衣装がバリエーションに富んでいて、観ていて飽きることがない。夜の屋敷の蝋燭の光は、牢獄での蝋燭の光を思い起こさせる。広い海を進む帆船に降り注ぐ太陽の光は、牢獄の天井に空いた穴から差し込む光との対比になる。

 音楽面では、前半はチェロを中心とした重苦しい劇伴が、人々の悪意を強調しているが、後半には美しい歌声が登場する。言うことなしだ。

 波乱万丈のストーリーだが、決してジェットコースターのようではなく、主人公によって考え抜かれた計画が綿密に実行されていく様子が、リアリティたっぷりに描かれる。身振り手振りや台詞回しまで、映画監督のように自分と仲間を演出する。演出のシーンと実際のシーンがシンクロする展開もいい。飽くことなく持ち続けるその熱意から、主人公の復讐心と執念の深さが窺われ、なんとも恐ろしい人間の業を思い知ることになる。

 映像と音楽とストーリーに魅せられて、3時間があっという間だった。素晴らしい映像体験である。

 

 それにしても、アイデンティティとは何だろうか。アイデンティティカードは、日本語では身分証明書だ。誰に対して身分を証明するかというと、相手は他人であり、社会である。自分自身に対しては証明しなくてもいいと思うだろうが、歳を取ってボケてきたら、自分自身に対しても証明する必要が出てくるかもしれない。

 ダンテスが自分をモンテ・クリスト伯爵と名乗れたのは、19世紀前半という時代のおかげもあるかもしれない。情報網が発達しておらず、名乗った者勝ちみたいな感じで、家や衣装、持ち物や乗り物などがそれなりに誂えられていれば、人は容易に信じてしまう。いや、情報網の発達した21世紀でも、トム・クルーズ演じるイーサン・ハントは様々な人に成りすましている。身分証明を五感に頼っている限りは、よく出来たマスクがあれば、誰にでも成りすませるのだ。

 

 自分がモンテ・クリスト伯であることを他人に信じさせる必要があったダンテスのように、我々の日常にも、自分が誰であるかを証明しなければならない場面がある。顔を見せる、名前を名乗る、身分証明書を見せる、電子証明書を提示する、二段階コードを入力するなどだ。しかしIDカードを失くし、記憶を失ってしまったら、何も証明できないことになる。買い物も外出もできなくなり、誰も世話をしてくれなければ、最期は餓死することになる。

 

 生きていくことは、アイデンティティを証明し続けることにほかならない。他人に成りすますか、自分自身に成りすますかのどちらかだ。名前をつけられ、自意識が生まれたその日から、一生、自己証明をし続けることになる。しかし証明し続けたその先に待っているのは、誰でもない誰かに戻る、死である。アイデンティティの喪失、それが死なのだ。本作品に触発されて、ふとそんなことを考えた。

 映画「ブラック・フォン2」を観た。

https://www.universalpictures.jp/micro/blackphone2

 

 前作では兄のフィニーが活躍したが、本作品では妹のグウェンドリンが大活躍する。なかなか見応えがあった。

 

 映画の前半では、死んだ筈のグラバーが異世界と現世界を繋げながら好き勝手をしてグウェンをいじめ抜く。入口はグウェンの夢だ。グラバーの圧倒的な強さは、登場人物の全員を蹂躙してしまいそうである。このままグラバーにやられてしまうのか。

 

 母と娘の関係性は、父と息子の関係性とは異なる、ある種のスピリチュアルなものがあるのかもしれない。グウェンもグラバーと同じように異世界と現世界を行き来しながら、母との関係性を深め、そしてついに覚醒する。

 グウェンが覚醒してからは怒涛の展開で、母のスピリチュアルを受け継いだ能力が全開となる。前作がフィニーの成長物語の側面があったように、本作品はグウェンの成長物語でもある。

 

 ジャンプスケアはいくつかあるが、王道の範囲に収まっている。痛そうな場面や苦しそうな場面がたくさんあって、こちらもなんだか辛くなるが、終映後は爽快な気分になる。VFXもよく出来ているし、製作者はホラーの意義をよくわかっていると思う。憂さを晴らすにはちょうどいい作品だ。

 映画「港のひかり」を観た。

https://minato-no-hikari.com/

 

 藤井道人の監督作品は、2019年製作の「デイアンドナイト」以降に8作品を観た。本作品で9作目の鑑賞だ。2024年製作の「パレード」はNetflixでの公開だったので観ていない。俳優陣が豪華で観たい作品ではあったが、映画は映画館で観る主義なので仕方がない。それはともかく、鑑賞した作品群を振り返ると、藤井監督は反骨のヒューマニストだと思う。

 

 藤井監督作品には、反骨寄りの作品とヒューマニズム寄りの作品があって、本作品はヒューマニズム寄りである。ひっそりと孤独に生きていこうとしている元ヤクザと不幸な環境にある盲目の少年となれば、それだけでドラマのベクトルが決まってくる。物語は一本道だが、元ヤクザと少年のふれあいに温かみがある。いくつかのシーンはとても感動的だ。

 

 強さは優しさだということは、多くの人が知るところだと思う。本作品では「強いとはどれだけ人のために尽くせるかだ」と、言い方は異なるが、同じ意味の台詞があり、それが本作品の世界観でもある。おじさん(舘ひろし)が幸太(眞栄田郷敦)に「強くなったな」と言ったのは、人に優しく出来るようになったという意味だ。幸太にはそういう人間になってほしいと願っていたから、さぞかし嬉しかっただろう。

 

 ところが世の中には、強さが優しさだということを理解しない人がいる。人を負かすことが強さだと思っているのだ。藤井監督が確執を醸すのは、そういう人々である。本作品では、敵役として、そういう集団が登場する。優しさの欠片もない人間たちで、彼らが愚かで浅はかであればあるほど、主役の二人が生きる。そういう意味では、椎名桔平と斎藤工は名演だった。お陰でおじさんが人格者として確立した存在になった。

 

 寛容と不寛容、優しさと冷酷さの対比がとてもわかりやすい。王道の物語を王道のままに作品にするのは、意外に難しい。よく出来た作品だと思う。

 映画「平場の月」を観た。

https://hirabanotsuki.jp/

 

「須藤って、なんか太いよね」

 青砥(堺雅人)の中学時代のサッカー仲間が発した印象的な台詞だが、意味がよくわからない。しかし中学生の青砥は理解する。確かに須藤は太い。その印象は薄まっておらず、大人になって再会したときも、青砥は思うのだ。やっぱり須藤は太い。それを本人に言ってしまうところが大人の図々しさだが、言われた須藤(井川遥)は「女性に太いなんて失礼」と言いながら、青砥の本心を理解していたように思える。なかなかいいシーンだった。

 

 では太いとはどういう意味なのか。直接は説明されないが、いくつかのシーンがある。中学時代の須藤の母親に対する態度がそのひとつで、身勝手に家を飛び出して、困窮した様子で5年ぶりに戻ってきた母親を、須藤は責めない。大人になってからの体験を青砥に語るときも、須藤は誰のことも責めないし、悪く言わない。事実を淡々と述べ、すべて自分のせいだときっぱり言う。

 なるほど、こういう精神性のことを「太い」と表現した訳だと、納得した。もうひとつヒントがある。須藤は葉子(ようこ)だが、同級生の女子たちからは「ハコ」と呼ばれている。名前を違う読み方で呼ばれると抵抗があるものだが、須藤は受け入れていた。大人になっても「ハコ」と呼ぶ同級生(安藤玉恵)に対しても、訂正はしない。

 

 おそらくだが、青砥は須藤の「太い」ところが好きなのだろう。三つ子の魂百まで。中学生時代から35年。互いに紆余曲折があって、過去はこれからも背負っていかなければならないし、それぞれに事情はあるが、好きな気持ちは少しも変わっていない。

 若い頃みたいに、ただ好きで一緒にいたいというだけではない。いつまでも健康ではいられない老化の問題やお金の問題、それに老後の問題もある。簡単には解決しない問題を抱えているが、しかしその分相手を思いやり、愛に深さがある。

 惚れた腫れたのあけすけな恋愛物語ではなく、人生の悲しみと諦めが背後にある、大人の複雑なラブストーリーである。とてもよかった。