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一期一会

本も人の出会いも一期一会。時々読者、時々物書き。好きな本やコミック感想を中心に、日常のつれづれと共につぶやいていきます。

第二章 6



最初はぎこちないと思われたヒカルとカヲルの関係も、少しずつだが仲良くなっていった。

みんなの前に現れた時にとったヒカルの不自然な態度の理由を「私が内緒でヒカルの過去を見てあげる」と意気込んでいた千秋も、なかなかヒカルに触れるような機会がなく、未だなぜヒカルがカヲルの名前を知っていたのか理由はわからないままだった。

カヲルもヒカルに訳を聞こうとしなかったので、結局誰も理由は誰も本人以外は知るよしもない。

ヒカルもあれ以来、カヲルに抱きついて泣くような事もなかったし、カヲルもまたそれを尋ねた事はなかった。

だが、たまにヒカルとカヲルの二人だけの時、カヲルはヒカルの視線を、強く感じる事があった。

目が見えるわけではないのだが、それはなんとなく気配でわかる。

そんな時、ヒカルはいつも堅い表情の様子だったし、無言でいる事が多かったので、いつもカヲルは気づかない振りをしていた。

(僕にもなにか出来る事があれば……)

カヲルはそう思っていても、なかなか自分からは言い出せない。そんな時、きっとヒカルは自分にすがりついて抱きしめられた時と同じ心情だと思うと、声を掛けるのが躊躇われた。

だが、それも続くと気になって仕方がない。

気になって仕方ないのに、カヲルは何も出来ないでいる自分を、心の奥底では歯がゆく感じていた。


そんなカヲルの様子を、本人意外に気づいている人間が、もう一人いた。
千秋である。
 千秋カヲルは、カヲルと幼少時代から殆どの時間を一緒に過ごしてきた。ヒカルがカヲルの担当を受け持つようになって、少しずつだがカヲルが変わってきた事に気づいていた。

どちらかと言うと今までのカヲルは、過去を振り返る事が多く、一人で悩み、ともすれば自分の殻に閉じこもり気味だったのが、随分と明るくなった。それはいつもの二人の会話でもよくわかる。

今までは自分から何かをしようと言い出すようなことは希であったし、いつも誰かの提案にそって言葉をかけるような事がほとんどだった。

なのに、最近ではめっきりそんな態度はとらなくなった。カヲルの周りの空気さえも、今までと違うように思える。

近頃ではなぜか吹っ切れたような、自身に満ちた会話が言葉じりからもそれは伺い知る事ができた。



カヲルは、時々ヒカルに『指文字』を教えているようだった。器用で勉強熱心なカヲルは、全盲者がよく使う点字以外にも、『指文字』や『指点字』『手書き文字』など、盲ろう者が使うコミュニケーションツールも取得していた。

元々、ヒカルも頭がよいのだろう。

カヲルが教えると、水を吸い取るスポンジのように、あっという間に吸収していき、多少の簡単な会話なら指文字で成り立っているようだった。

時々、二人の笑い声が聞こえると思ったら、お互い指文字を使って冗談を言っている姿もあった。



「ねえ、カヲル。何かいい事でもあった?」

「いいこと?特別ないけど、どうかしたの?」

本人に尋ねてみても、千秋が納得するような返事は返って来ない。気がつくとカヲルとの会話も以前と比べて段々と減っていった。



ヒカルは見習いの介護福祉士だといいつつ、人の心に自分の心を添わせるのが上手い。

カヲルの担当の仕事はもちろん果たし、談話室でもっと小さな子供達と一緒にいる時は、いつの間にかその中の中心人物になっていて、最近ではヒカルの気配や声が聞こえると、「ヒカルちゃん遊んで」とせがまれる程で、小学生の担当の山本も「俺と担当変わるか?」と苦笑いされるぐらいだった。









「おーい!カヲル。今から子供達と一緒に散歩に行くけど、カヲルも行く?」

いつものようにカヲルが談話室の片隅で、ヒカルが子供達に絵本を読んで聞かせているのを遠くに聞きつつ、点字の本を読んでいる時だった。

久しぶりにカヲルの隣には千秋の姿があった。

千秋は遠目にヒカルがいるのを感じながら、いまだ果たせないでいる行いを、いつになったら実行できるかと様子をうかがっていた。

「僕も?」

「点字の本ばかり読んでないで、たまには外に出るのもいいよ」

「そうだね。じゃ僕も一緒に行こうかな」

「ああ。そうして。みんなで手を繋いで行くから、私一人じゃたりないんだ」

 カヲルは点字の本をパタリと閉じた。

「千秋、じゃあ僕はこれで」

「カヲル……」

カヲルは席を立つと、子供達のいる方へ向かっていく。カヲルの気配が、目の前からなくなるのを感じて、千秋は哀しくなった。

今までこんな事はなかった。カヲルの方から、先に席を立つような事は、そうはなかった。いつもカヲルの側へ向かっていくのも自分だったし、去っていくのも自分だった。

きっといつものカヲルなら「君も一緒にどう?」と声ぐらい掛けてくれただろう。久しぶりにカヲルと一緒にいる事ができる機会だったのに。

目の前から一緒にいたいと思う人の気配がなくなるのが、これほど寂しいものだとは思わなかった。

私はカヲルの事が好きなのかしら?

あまりに一緒にいる時間が長すぎて、自分でもよくわからなくなってしまった。

初めて此所の施設に来て、ちゃんと向き合って話したのはカヲルだったし、それ以降だってカヲル以上に自分の事を知っている人はここの施設にはいないと思う。

カヲルも千里眼の秘密を知ってから、もう何年も経つと言うのに、未だあの時の約束を守ってくれて二人だけの秘密にしてくれている。それが今まで、どんなにカヲルが自分の事を大事に思っていてくれるかと思うと、とても嬉しくなってしまう。

けれど今はどうだろう。

カヲルは何も言わない。

自分のお得意の千里眼をもってしても、カヲルは自分にとって、恋愛感情を抱いていないのはよくわかる。

それを少し物足りないと思わなくはないけれど。

だが、かといってカヲルが自分以外の人を大事に思ったり、自分より他の人を優先する事は千秋にとっては耐えがたいものでもあった。

こんな事は初めてだ。自分のカヲルに対する気持ちも。カヲルが自分に対する態度も。



確実に自分達は大人になっていく。いつまでも子供のままではいられない。これを成長というのだろうか。

それとも、これは嫉妬?

どちらにせよ千秋は今までにない寂しさを、一人、かみ締めていた。



to be  continued…… 


第二章 5



雅美が居なくなると、急に部屋が静かになった。

カヲルはなにか自分から挨拶をしなくてはと考えていると、ヒカルの方から声がかかった。

「ええと……私は鈴木ヒカル。二十二歳。今日から君の担当になります。よろしく」

ヒカルはペコリと頭を下げた。下げたあとで、ああ、そうか見えないのかと一人で頭を掻く。

「あ、は、はい。僕は北川カヲル。十九歳です。雅美さんが言ってたとおり、ここの施設の最年長の一人です。こちらこそ、よろしくお願いします」

慌てて簡単な自己紹介をしたものの、お互い緊張しているのがわかる。なんとなく空気が重い。

カヲルはなぜあの時、雅美に担当の変更を言い出さなかったのか後悔し始めていた。

自分がよく思われていないと判っているのに、これから先、ずっと我慢しながら世話になるのも拷問である

「カヲル君は、何か趣味はあるの?」

「え?」

「趣味といわれるようなモノは特に……。でも本を読むのは好きですね。しいて言えば読書でしょうか。あとは最近始めたパソコンかな」

「読書か……。読書って点字でしょ?」

「はい。そうですよ」

「すごいね。あれで文字がわかるなんて、発明した人はエライよね」

「そうですね。他にも『指点字』や『手書き文字』『指文字』と言うのがありますよ。最近はパソコンも普及していますし、視覚障害者向けにソフトもたくさん開発されています。『指点字』は指にタイプライターを打つように、相手の手の甲に点字を打って意志を伝えるものですし、『手書き文字』は手のひらに文字を書きます。『指文字』は手の平の中に手話をするように文字をつくってそれを触ってその形で意味がわかるんです」

カヲルは、手探りでヒカルのいる辺りに近づき座ると、ヒカルの手の平を自分の膝の上に置いて『指文字』を実際にやってみせた。

「へぇ。なんか便利かも」

「そうですか?僕ら目の不自由な人は見えないだけで言葉はしゃべれますから、これを実際使う事は少ないですけど。これを使うのは、盲ろう者、目と耳に障害がある方が多いですかね」

「これ……私に教えてくれる?」

「ええ、かまいませんよ。それと僕の名前は呼び捨てでいいですよ。僕の方が年下ですし、ここではみんな僕のことをカヲルと呼んでます」

「わかった。カヲル。じゃあ、私の事も名前で呼んで。ヒカルでいいよ」

「でも、僕の方が年下ですし……」

「まあ、どっちでもいいや。呼びやすいようでいいよ」

 ヒカルはそう言うと笑顔になった。顔は見えないが、声のトーンで、笑っているように感じる。昨日の堅い様子と違い、今日のヒカルはとても穏やかに思えた。昨日の出来事が嘘みたいだ。 

カヲルはなぜヒカルが自分の名前を知っていたのか知りたいと思ったが、まだ会って間もない彼女に、直接尋ねる事はなんとなく悪い気がした。けれどやはりヒカルの事は気になってしまう。ならば、少しでも彼女をそれとなく知る方法はないだろうか。

「あの……ヒカルさん、僕にあなたの顔を触らせてもらえないでしょうか?」

「顔を?」

「ええ、僕たちは触って物の形を理解するのです。迷惑でなかったら、貴方がどんな顔をしているのか知りたいのですが……」

もしかしたら、自分はヒカルを知っているのかもしれない。歳も三つ違いと言う事は、幼い頃の自分の遊び相手だったと言う事も考えられる。彼の顔を触れば何かわかる事もあるかもしれない。

カヲルは直接ヒカルに尋ねてみる勇気はないものの、やはり彼女がどんな人物か気になって仕方なかった。

「ああ、かまわないよ」

ヒカルはそう言うと、カヲルの手の平を自分の頬に当てた。カヲルは両手をおそるおそる差し出し、ヒカルの顔の表面を優しく触る。

「髪の毛が長いのですね……とても美しい顔をしている……」

「そんな事はないと思うけど……髪は確かに長いかな」

ふふふと笑うヒカル息が、カヲルの手の甲に当たって少しくすぐったい。

笑っているのだと思ったら、ヒカルは急にカヲルの手をとった。

「カヲル」

ぎゅっとそのまま握り締める。

「ヒカルさん……?」

ヒカルはそのままカヲルの肩をぎゅっと抱きしめて、カヲルの胸に自分の顔を埋めた。

「ごめん……しばらくこうさせて……」

泣いているのだろうか。

ヒカルはカヲルの胸に顔を埋めたまま、顔を上げない。かすかに肩が震えているようだ。

カヲルは一瞬、驚いて体を硬直させた。ヒカルは何も言わないけれど、泣いているようだった。カヲルはどうしてよいかわからず、上げた両手を中途半端にしたままだ。

確か千秋がヒカルと接触した時に、彼女の事を辛いことがあったらしいと言っていた。

もしかしてこの事なのだろうか。

カヲルはその事を尋ねてよいものか躊躇したが、結局、何も言えず、ただ黙って上げた両手をヒカルの肩においた。

理由はどうであれ、ただ誰かに黙って抱きしめられたい時だってある。カヲルも少なからず同じような経験があった。自分が抱きしめる事によってヒカルの苦しみが少しでも癒されるのならば、気の済むまで抱きしめてあげたい。

普通、介護福祉士であるヒカルを癒すと言うのは、立場として逆なのかもしれない。だが、昨日とった態度とは百八十度違うヒカルの態度を見ると、不思議と何かしてあげたい気持ちになってくる。

こんな僕でも、人の役に立つ事があるのかな。そう思うと、なんとなく嬉しい。

カヲルは、今まで人に何かしてもらう側にはあっても、自分が誰かに何かをしてあげられる側にたつ事は一生ないと思っていた。思い上がりなのかも知れないが、誰かの役に立ってあげられると考えると、それはとても新鮮な気持ちだった。

『この人を支えてあげたい』

おこがましい考えだとは重々承知している。

全盲という障害を持って、どれだけ人の役にたつ事ができるのかわからない。けれど、カヲルにとって、全ての人役に立つ事ができなくても、ヒカル一人の為になら、障害を持つ自分でも役に立てる事があるかと思うと嬉しくてたまらない。

先程までは、あんなにヒカルの事を警戒していたのに。この人は不思議な人だ……。

カヲルはヒカルの気が済むまで、黙って抱きしめていた。

to be  continued……

レモンタルト/長野 まゆみ
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久々に長野さんの作品を読みました。

面白かったー。(私には別の意味でも楽しめた!)


ストーリーは主人公の青年、士(つかさ)は両親も亡くなり姉と二人暮らし。

姉は一哉と結婚したが、間もなく姉も病死し、残った家族は義兄と二人だけだった。

姉が生前に建てた二世帯住宅に二人暮らしの生活。

それは少しだけミステリで、甘いものだった。



最初、一人称が私だし、主人公の名前が出てこないし、出来ても名前が中性的な士(つかさ)なので、てっきり女性が主人公だと思ってました。

義兄と妹と一軒家に二人暮らし。これはこれで気になるよなーとおもっていたのが、後で主人公は男だとわかって余計にドキュンvわしづかみにされちゃったよー。(笑)

しかも、士はどうやら女性には興味がないらしい。

これはすでに義兄も、義兄の母も周知らしく、からかう場面がまた面白い。

それにしても士が困った時にはかならず現れる義兄が格好良すぎる。

仕事もバリバリできるらしいし、なんでもスーツがよく似合う男らしい。

車の運転をする時にはメガネ着用とか、きっとアニメや漫画化されたらいい男っぽい。

少しだけミステリ要素、BL要素も入り、まさにオイシイ本。

一言でいうと、私好みの本でした。

第二章 4


ドアを閉め、カヲルもベッドの端に腰掛ける。

「カヲル、突然なのだが、介護福祉士の移動があってね。今日からカヲルの担当は、ヒカルになった。今日はその知らせにやってきたんだ」

「え?変更ですか?」

「ああ」

「じゃ、今まで僕の担当の山本さんは……」

「悪いがタケルは小学生の主任になった。先月、一人介護福祉士が抜けてね。いろいろ調整はしてみてそういう事になった。ヒカルはカヲルの三つ年上で歳も近いし、なにかと話も合うと思って。最年長のカヲルなら、此所をよく知っているし、問題はないだろう?」

今までカヲルの担当は、山本タケルだった。彼は背が高く、いつも煙草の臭いを漂わせていた。時々サボり癖があるものの、ざっくばらんな性格のクセに、妙にデリケートな部分がある。人の気持ちがわかる介護福祉士で、カヲルが落ち込んでいるような時には、自分の失敗談や、珍しい体験談を話して聞かせ、いつの間にか落ち込んだ暗い気持ちなど、彼のおかげでどこかへ吹き飛んでいた。 

後で考えると、ああ、あれは自分を励ましてくれたのだなとわかる。カヲルは彼と一緒に居るととても楽しかったし、彼の事を兄のように思っていた。

それが先月辞めた介護福祉士の影響で、担当介護福祉士が変わると言う。確かにここの仕事は、お年寄りや体の不自由な人の介護福祉士の仕事以上に、いろんな事に気を遣わねばならないだろうから、大変なのは想像がつく。現に新しく介護福祉士としてここの施設に入ってきても、長くは続かず、辞めていく者が続出していた。

他の施設よりも、責任も、やるべき仕事も、要求されるのだから仕方のない事かもしれない。他の施設で働いた事のあるキャリアの持ち主なら、嫌でも比べてしまうだろう。

山本が小学生の担当になったと言うのは、それなりに経験もあり、なにより彼はさりげなく相手の気持ちになって励ましたり、元気づけたりする事がうまい。言動はお世辞にも、子供のお手本になるようなものではないだろうが、確かに彼だったら、小学生の主任の仕事も頑張ってくれるだろう。

そんな様子を雅美はちゃんとわかっているのだ。

カヲルの担当になるヒカルはどうだろう。歳はカヲルの三つ上だと言っていた。と言う事は、新人の介護福祉士だと言う事は察しがつく。

カヲルと千秋が、ここの施設の最年長だ。最年長の自分なら他の子供に比べて手もかからないだろうし、まだ十分介護福祉士としての仕事が出来るかわからない新人のヒカルには、今回の人選はうってつけなのかもしれない。

さすがに雅美はよく見ている。確かに内情をよく知る者なら、今回の人事異動は誰しも納得のいくものだった。


しかし、カヲルは昨日の一件を思い出して、不安になるのも否めなかった。

夕べカヲルがジュリーばあちゃんに頼まれて食事を運んだのに、気分が悪いからいらないと突き返された。

確かに具合が悪そうだったが、一瞬あの時、自分の事を避けられたと思った。それに食堂で自分の名前を呼んだあの出来事は何だったのだろう。結局わからないままだ。聞けば、彼女は教えてくれるだろうか。

なんとなく自分は、ヒカルに嫌われているような気がした。もしも雅美に担当を変えてくださいと願い出ればそれも出来るだろうが、ここでは最年長で、いつも自分は良い子と思われたいと思う気持ちもある。それに目の前にはすでにヒカルがいるではないか。さすがにヒカルを目の前にして、「嫌です。担当を変えて下さい」と言うのも酷な話である。

結局、カヲルは雅美に言い出すことは出来なかった。

「……どうした?カヲル」

「あ、い、いえ。わかりました。人事異動があったということですよね」

確信犯か? 

自分が嫌といえない正確を読み切って、わざわざヒカルを従えてやってきたと言うなら、仕方がない。

カヲルは雅美の方へ顔を向けると、にっこりと微笑んだ。

「まあ、早い話がそう言う事だ。私は他にも回らなくてはならないところがある。ヒカル、私は先に行くから、お前はカヲルと自己紹介でもし合うといい。私がみたところ、二人はきっと話があうぞ」

「……はい」

「じゃあ、また後でな」

雅美はそう言うと、カヲルの部屋を出て行った。


to be  continued…… 



第二章 3


エドワードの自室は、この建物の最上階にある。最上階と言っても五階建ての建物だし、エレベータで移動するので、そう苦ではない。

食堂からジュリーばあちゃんと共に、ワゴンを押してエレベータの前まで来る。

「ここの五階の突き当たりの部屋だ。なに、心配することはない。すぐにわかるよ」

ばあちゃんはカヲルの手をとり、一度ぎゅっと握りしめると、自分が持っていたワゴンのレバーをカヲルの手に渡した。

「ありがとう……ジュリーばあちゃん」

 

ジュリーばあちゃんはワゴンとカヲルをエレベータに詰め込むと、さっさと居なくなった。

点字付きのエレベーターのスイッチを五階にセットし、ドアが締まる。女性の音声で「五階ですと」声がすると、カヲルは一気に緊張を覚えた。

 ゆっくりと深呼吸をしながら廊下を進む。 手摺りにつけられた点字の案内を頼りに進むと、すぐにヒカルの部屋の前についた。ここに来たのは、食事を届ける為だ。自分にそう言い聞かせる。カヲルは意を決してヒカルの部屋のドアをノックした。

返事がない。

カヲルはいないのだろうか。

もう一度ノックするとやっとドアの開く音がした。

「あの……食事を持ってきました」

カヲルがヒカルにそう言い終えないうちに、彼女は慌ててドアを閉めた。

「鈴木さん……?」

どうしたのだろう。

カヲルは一度ドアが開き、締まる音を聞いた。

あれ?

おかしい。

確かに自分の声に気づいて、ドアは一度開いたはず。カヲルスは手探りでドアのノブを触った。ノブを触るとドアは締まっている。

だが、確かに今、ドアがあく音がした。このまま開けてもらえると思ったのに、すぐにドアは閉じられてしまった。

カヲルはもう一度ドアをノックしたが、今度はドアが開く気配はなかった。先程ドアを開いたのだから、外に誰かいるのはわかるはずなのに。

「鈴木さん!」

カヲルが少し声を張り上げて呼んでみたが、返事はない。わかっていて無視されたのだろうか。

段々と腹正しく感じてきたが、確か食堂で自己紹介をしようとした時は、体調が悪いとも言っていた。

もしかして、本当に具合が悪いのではないかと心配になって人を呼ぼうとした時、ドア越しにヒカルの謝る声が聞こえた。

「すいません……。食事は欲しくないので、下げてください」

気のせいか、声が震えているような気がする。

「あの……具合が悪いのなら、ここに居るより医務室に行った方がよくないですか?なんなら、僕が案内しますけど」

「いや、大丈夫。寝れば大丈夫だから」

「……そうですか。じゃあ、食事は下げますね」

仕方がない。

せっかくジュリーばあちゃんがヒカルと話をする機会を作ってくれたと言うのに。

カヲルは少し悔やまれたが、相手の具合が悪いと言うのなら諦めるしかなかった。

昼間暑かったからだろうか。

緊張していたからだろうか。

あれこれ理由を考えるが、カヲルはまさか自分が原因だとは夢にも思わない。カヲルは重い足取りのまま、ヒカルの自室を後にした。

 



今日も朝から暑い。カヲルは窓を開けたとたん、生ぬるい風を感じてうんざり思った。

視覚に障害があるからこそかもしれないが、その分、全身の肌がセンサーとなり、寝ている時以外は空気の流れ、気配を敏感に察知してしまう。

特に薄着になる夏は、その兆候が顕著だ。そのせいか、半袖ですごす季節は、敏感に感じるような気がする。

人によって違うものかもしれないが、少なくともカヲルにとっては、冬より夏の方が薄着になる分、外界の様子が嫌でも察知でき、煩わしかった。

自分で感じたくないのに、勝手に体が反応してしまう。他の視覚障害者に尋ねてみた事はないけれど、みんな薄着になる夏をどう乗り切っているのだろう。

けして自分は神経質な方だとは思っていないが、どうして視覚では補えない分、体が勝手に反応するのは、自分ではどうする事もできなかった。

今は夏休みだからまだ自室にいる事が多いので、そう困りはしないけれど。

学生を卒業して社会人になったら、そうとう神経をすり減らすことになりそうだな。

カヲルは自分の未来の事を考えて、可笑しくなった。

そうだった。

自分にできる仕事があるのだろうか。いいや、その前に、こんな自分でさえも受け入れてくれる職場があるのだろうか。

社会人に憧れる訳ではないけれど、もし、自分が社会人になったとしたら。

そんな想像をして、カヲルは可笑しくなった。自分に明るい未来など、期待できないと言うのに。

半分、苦笑い気味でぼんやりと自室のベッドで横になっていると、誰かがドアをノックする音が聞こえてきた。

「カヲル、ちょっといいか?」

雅美の声だ。わざわざどうしたのだろう。

「……はい。開いています」


ここの施設の寮の部分は、男女別棟になっていて、それに加えて幼児室が、平屋の建物であった。

未就学の子供達は、部屋が別れておらず、男女一緒に、幼児室で寝起きを共にする。小学校に上がると、男女別の棟に移一つの大部屋である寝室を四人部屋で使い、他にパーテーションで区切られた勉強室が用意される。

中学生以上になると、一人につき一部屋、個室があてがわれるので、みんな早く中学生になりたがる子供が多かった。

ここでは、全ての生徒に担当の介護福祉士がつく。その介護福祉士も、中学生以上の男子生徒には男性の介護福祉士が、女子生徒には女性の介護福祉士といったふうに、基本的には同姓の介護福祉士が担当する事になっている。だが、希に人数が合わないと、特別問題が無い範囲で、性別関係なく介護福祉士がつくこともある。もちろん、相性が合わないなど希望があれば担当は変えられる事になっていた。

雅美もここで働く介護福祉士の一人なのだが、女性なので男子寮に来る事は希であった。

カヲルは寝ていたベッドから起きると、慣れた足取りで自室のドアの前まで来て、開く。

「休み中悪いね。ちょっと話があったから。ヒカル、入りなさい」

てっきり、雅美一人が尋ねて来たと思っていたのに。

ヒカルの名前を聞いて、カヲルは少し驚いた。

「え?」

「少し失礼するよ」

「どうぞ」

カヲルは二人を招き入れると、雅美にはライティングテーブルのセットになった椅子を、ヒカルには、自分のベッドに腰掛けるよう促した。

to be  continued……




第2章 2



「カヲル。ヒカルの事、知っていたの?」

食堂での一件が一段落して、ヒカルが居なくなってからのことだった。昼間珍しく、自慢気にカヲルにヒカルと会った事を自慢した千秋は、まさか二人が知り合いだとは思わなかったのだ。

「知らないよ。少なくとも僕は彼女と初めて会うのだけど。それに僕は、てっきり男だと思っていたし。千秋も言わなかっただろ?」

「本当?」

「ああ……本当だ。知っていたら、昼間千秋が彼女の事を教えてくれた時に、なんらかの形で話したよ。でもなんで彼女は僕の事を知っているのだろう。それとも僕が知らないだけで、彼女は僕の事を知っていたのかな」

確かにその可能性は否めないなと、カヲルも千秋も思う。なにせ自分たちは生まれた時から全盲なのだ。大きくなってからならまだしも、遠目に黙って見られていたらわからないし、子供の頃に会っていたなら、話をしたり、相手に触れたりしない限り、覚えている事の方が少なかった。

「貴方の名前を呼んでいたわね」

「そうだね」

「誰か似ている人と、間違ったのかしら?」

「さあ、どうだろう。僕と似ていると思っても、この通り目がみえないんじゃ、僕にはわからないからね」

この話は結局ここで終わった。

いくら、ああではないか?と予想はできても、カヲルに心当たりがなければ、本人に聞くしかなかった。

ただ……あの時、ヒカルは真剣な様子だった。

せっぱ詰まった切ない声で、「カヲル」と名前を呼んだ。なんとなく、それには触れてはならないもの、尋ねてはならない気がしたし、それをする事は、ヒカルに気の毒な事に思えた。

結局、事の真相は、ヒカル本人でないとわからない。

「いいわ。そのうち私が理由を確かめてあげる」

「千秋、辞めなよ。誰にだって言いたくない事だってあると思うよ。さっきの彼の様子だと、触れてほしくないように思えたけど?」

カヲルは千秋が何をするつもりか察したのか、辞めるように促したが、千秋は聞き入れていない様子だ。

「大丈夫。誰にも言わないわ」

得意気に千秋はそう言うと、席を立つ。

「カヲル、貴方だって知りたいでしょう?私もとても知りたいの。貴方と私だけの秘密にすれば、大丈夫よ」

千秋はすでにそうしようと心に決めているのか、硬い表情でそう言った。

「千秋……」

千秋は自分の得意能力の『千里眼』を使って、ヒカルの事を知る気でいるらしい。 

そうカヲルにはわかったが、幼い頃から一度決めると実行するまで、なかなか自分の意見を曲げる事のない千秋の性格をよく知ってか、何も言えなかった。

「また明日ね。カヲル」

「……ああ、おやすみ」

カヲルは千秋に、ヒカルにしようとしている事を辞めるよう促したつもりだが、心のどこかでは、自分もヒカルがなぜ自分の名前を知っていたのか、知りたいと思う。

知りたいと思いつつ、つい、良い子の返事しか言えない自分を、いつも一人後で後悔するのだ。

(相変わらず僕は偽善者だな……)

千秋のように、思った事だけ口にでき、一度決断したら、迷うことなくはっきりした態度をとれたらどんなにいいだろう。

自分はいつも表面的には良い子を演じて、心のどこかでは、人を羨んだり、ねたんだりするのを醜いと思いつつ、それを全部目が見えないせいにしてしまう。

確か新しく来た介護福祉士は、名前をヒカルと言った。彼女は、一体、自分の何を知っているのだろう。

機会があったら自分から思い切って話しかけてみようか。そう思った時だった。

「カヲル、食事はまだ終わらないのかい?」

「あ、終わりました」

「そろそろ片付けたいのだけどね」

考え事をしていたら、不意に食堂のおばさん、愛称「ジュリーばあちゃん」に声を掛けられた。ジュリーばあちゃんの名前が本当に「ジュリー」なのかどうかは、よくわからない。なんでもジュリーばあちゃんが若い頃、恋人からジュリーと呼ばれていたからだという、もっぱらの噂だ。すっかり銀髪になった頭をてっぺんで一つにまとめていて、まるで頭の上にタマネギを乗せているような髪型をしていた。

すでに還暦はとっくに過ぎているようだが、目も耳も加齢による衰えはまったくみられない。どんなにひそひそ話で話をしていても、聞こえているようだ。特にうわさ話の類になると、そのたぐいまれな聴覚で聞き取り、ボケも入っていないせいか、後日までよく覚えている。この施設きっての情報網を掴んでいるのは、雅美よりもジュリーばあちゃんだと言う人が居るくらいだった。

「すいません。すぐにどきます」

「追い出すようで、すまないね」

「いえ」

カヲルが席を立ち、食器を乗せたトレイを運ぼうとすると、それに気づいたジュリーばあちゃんがカヲルからトレイを受け取りながら話しかけた。

「そう言えば、さっきアンタの名前を呼んでいた新人の介護福祉士は知り合いなのかい?」

「いいえ……」

「そうかい。何か事情がありそうだね」

「そう思いますか?」

「気にならないのかい?」

「気にならないと言ったら嘘になりますが……」

「カヲル。良いんだよ。アンタは必要以上に良い子になろうとするところがあるからね。

そうだ、さっき雅美さんにあの子の食事を届けるように言われたんだよ。カヲル、私の代わりに持って行ってくれるかい?」

「え?僕が」

「ああ……お前さん気になるんだろ?私も最近、腰が痛んでね。必要以上の労働は、体に応えるんだよ」

「ええ……まあ。でも僕に運べますか?」

「なに、私が大丈夫なようにしてやるよ。ちゃんとワゴンに乗せてやるし、場所も教えてやるから」

「ジュリーばあちゃん」

幼い頃からこの施設で育ってきたカヲルは、ジュリーばあちゃんにとって、可愛い孫のような存在なのかもしれない。ここに来るまでの事情や、カヲルの性格をよく知っているジュリーばあちゃんだからこそ、手助けしてあげたいと思ったのかもしれない。

「じゃあ、すぐに支度をするからね」

 二人はワゴンに乗せられた食事を運ぶため、ヒカルの自室へと向かった。


to be  continued…… 


第二章










「ねえねえ、聞いた?」

「新しい介護福祉士の人、入ったんだって」

「うん、聞いた。聞いた。でも、まだ見習いでしょ?」

「今度は男? 女?」

「どうやら男らしいわよ」

「ちっ!なんだ……男かよ」

「今度は何ヶ月持つかな」



夕食時の食堂はとても賑やかだ。

下は三歳から上は十九歳の子供が、決めた時間内にここへきて食事を摂る。小さい子供はもちろん介護福祉士が付いて食事の補助をするし、もっと上の年齢の子供でも、子供の障害の程度により補助がつく。同じ建物の階別に住まいを持つ職員達も交代でここの食堂を利用するので、この時間の食堂は賑やかだ。

「ホラ! そこ!無駄話が多いぞ!」

雅美が食堂に入ってくるなり、そうしかりつけると、おしゃべりをしていた子供は、口をつぐんだ。

「食事中悪いがちょっと紹介する」

雅美の声はよく届く。

ざわついていた食堂の様子も、雅美の鶴の一声で、シンと水を打ったように静かになった。

「明日から、ここで介助の仕事をしてもらう鈴木ヒカルさんだ。みんな仲良くやってくれ。ヒカル、何かあるか?」

「いえ……特には」

「遠慮せんでいい、一言何かあるだろう」

雅美はズバズバという言い方だが、不思議と押しつけがましく聞こえないのだから、不思議だ。

「じゃ自己紹介を少し……」

ヒカルはそういうと静かになった食堂を見渡した。

みんな自分に注目しているのがわかる。目が見えなくても気配でわかるのだろう。自分の声の方に反応してこちらを見ている眼、眼、眼、眼、眼……。

けれど誰しも、ヒカルの顔は見ることができない。

ヒカルはごくりと息をのんだ。

誰も自分の姿を見ることはできないとわかっているのに、見えない代わりに自分の事をたくさん吸収して、どんな人物なのか知りたいと全神経を集中しているのがわかる。

ヒカルはこちらに向けられた、たくさんの視線が痛くて余計に緊張した。

その時だった。視線の集まる中、ヒカルのよく見知った顔があった。それはいつもヒカルの心の奥にあり、忘れられない顔。

「カヲル!」

食堂が一斉にざわつく。

「カヲル……ま、まさか……な……」

ヒカルは胸の前で片手をぎゅっと握りしめ、先程カヲルと名前を呼んだ方向をずっとみている。

雅美が驚いて尋ねた。

「ヒカル、カヲルと知りあいなのか?」

「い、いいえ……」

「なぜ名前を知っている?」

ヒカルの眼はカヲルに釘付けになっていて、視線を外す事ができない。ヒカルは雅美の問いかけにも脇目もふらず、じっと視線をカヲルから外さず返事をした。

「たぶん……初めてです」

周りでみていても、話を聞いても、ヒカルの言動はつじつまがあわず、よく理解できない。一番驚いていたのは、カヲル自身かもしれない。

なぜ、新しく入ってきた介護福祉士の彼女は、自分の事を知っているのだろう。もしかして、以前どこかで会った事があったのだろうか。いろいろと考えをめぐらすが、カヲルにはまったく心当たりはなかった。

「どうした?ヒカル。真っ青だぞ」

「す、すいません……。知っている人に似ていたものですから」

ヒカルはやっとカヲルから視線をはずすと、雅美に返事をした。

「大丈夫か?気分が悪いのなら、自分の部屋に戻ってもいいぞ。食事は後で部屋に運んでやるから」

ヒカルのただならぬ様子を察して、雅美がそういうと、ヒカルも素直に「お願いします」と頭をさげた。

ざわついた食堂の子供達は、何が起こったのかよくわからないまま、不安気な様子でいる。

「すまない。新しく入った介護福祉士の自己紹介をしようと思ったのだが、体調が優れないようだから、今日のところは辞めにしておく。なに、心配する事はない。みんな、食事の途中に悪かったな。続きを摂ってくれ」

雅美の一言で、いくらか子供達も安心したようだった。すぐに食堂は私語で一杯になり、誰もヒカルの事など気にも止めていない。

ヒカルもその様子を側でみていて少し安堵した。



昼間、雅美に言われたばかりなのに。

ヒカルは自己嫌悪に陥った。視覚障害を持つ者は、健常者より数段、空気を読む力に長けている。子供達に、不安な要素を与えないように言われたのは、重々承知だったが、動揺する自分の気持ちを抑える事など出来なかった。

ヒカルはもう一度カヲルの方をそっと見やる。彼は昼間自分を雅美のところへ案内してくれた千秋と言う少女と向かいあって食事をしていた。

「カヲル……」

ヒカルは、カヲルに気づかれないように盗み見ると、その姿を瞼に焼き付けて、黙って食堂を後にした。




to be  continued……















第一章 3



千秋に案内されたヒカルは、案内された部屋をノックすると、すぐに部屋に入るよう促された。

「はじめまして、鈴木ヒカルです」

やや緊張した面持ちで、ヒカルが深々と頭を下げて、きっちりと挨拶をすると、頭の上から張りのある女性の声が聞こえた。

「おう、待っていたぞ。私は森雅美。ここの責任者の一人だ。まあ、そこに座って」

ウエイビーな黒髪を後ろの高い位置で一つにまとめ上げ、ピッタリとしたTシャツと、迷彩柄のゆったりとしたパンツ姿で現れた、美しい三十前後の女性が挨拶をした。責任者と名乗る割には、ラフな服装だ。

雅美はヒカルに、自分が座っているソファ・セットの向こう側を指さすと、ゆっくりと足を組み直した。

「ここまで来るは、暑かっただろ。ご苦労さん」

施設の責任者の一人と聞いて、どんなお堅い人物だろうと思っていたのに。まさかこんなに若く、美しい女性だとは予想もしなかった。

見かけより、少々砕けすぎる態度のギャップを感じられずにはいられないが、元々改まった場所や相手を苦手をとするヒカルにとって、雅美の口調や、態度は好意的なものに思えた。

責任者である相手がこうなら、此所の施設の雰囲気も、そう堅いところではないのかもしれない。初めての介護福祉士としての仕事が、少々特殊な施設を志願した事もあり、自分では気づかないうちに緊張して、気負っていたところがあったのかもしれない。

ヒカルは心の中でほっとため息をついた。

「いえ……」

ヒカルは軽く会釈して、勧められたソファに腰掛ける。

「アンタ!来たよ!」

ヒカルがソファに腰掛けたと思ったら、雅美は部屋の入り口とは別のドアに向かって声を張り上げた。何事かとエドワードがドアの方を見やると、身長も体の幅もゆうに自分の三倍ほどはあるかと思われる大男が、トレイにのった紅茶の入ったカップとソーサーを運んできた。

「この人は森清一。ここのもう一人の責任者」

「この方も、森さん?」

「ああ、気づいた?私の旦那なんだよ」

雅美は心なしか嬉しそうだ。

「彼女が新しく来た、鈴木ヒカルさん。ヒカルでいいよね?」

「ええ」

 ヒカルは慌てて返事をした。押しの強い言い方で雅美からそう言われると、大概の人は嫌だとは言えないだろう。

雅美はお茶を勧める清一にヒカルを紹介すると、清一は大きな体を小さく折りたたんで無言でお辞儀をした。ヒカルも清一と目が合い、軽く頭を下げる。

「アンタ、ありがと。ここに座って」

雅美は自分の座っている隣の座を、ポンポンと軽く叩く。

無言ですすめられた座に座る清一を見ながら、この夫婦は立場も体格も、態度も、夫婦まったく逆なのだなと思うと、なんだか少し微笑ましい。

「ここは訳あって家族と一緒に暮らす事ができない全盲、もしくは弱視の障害を持つ子供達が、生活をしている施設。下は三歳から上は十九歳まで、合計二十八名の視覚に障害を持つ子供が住んでいる。学校へ通う年齢の子供はここから同じ敷地内にある盲学校へ通っているんだ。ヒカル、アンタは介護福祉士としての経験は初めてだったよね?」

急に話を振られて慌てるヒカルだったが、落ち着いて返事をした。

「……はい」

「初めて介護福祉士として勤める勤務先にしては、見習いとしてもここの仕事は少々難易度が高いかもな。私たち介護をする者は普通、健常者だろ?目の見えない人の気持ちを察したり、想像する事は出来ても、本当にはわからない。全盲、もしくは弱視者の手助けをすると言うのは、想像が出来ないくらい大変なのだ。なにせ私達は、目が見えない経験がないからな。介助するには、まずその人の立場になって考えなければならない。頭ではわかっていても、実際に行動に移すというのは案外難しいものなんだ。当たり前の事だけど、人間どうしても感情があるし、機嫌の良いとき、悪いときも当然ある。時にはこちら側から見れば介助が必要と思う事でも、相手にとっては煩わしいと思う事だってあるだろう。ここで大事なのは、介護福祉士としての立場だ。こちら側だって人間なのだし、お互い意思疎通できない時だってある。つい『してやっている』と上から下へ見下したような態度をとる介護福祉士が中にはいるけれど、あれは絶対にやっちゃいけないよ。相手は人間だ。介助する側も人間だ。常に相手の気持ちをよみなさい。常に自分が介助される側になった時の事を考えなさい。逆に私達、介助する側だって人間なのだ。介助をして欲しいと、いろんな事を一度に障害者に要求される事だってあるかもしれない。もちろん要求される事、全てに答えられたらいいだろう。だけど、要求される事全部に答える事ができない事だってあるかもしれない。以前ここを辞めてしまった介護福祉士の中には、要求される事全てに答えようと頑張り過ぎて、挙げ句の果てにパンクして辞めていった者も何人もいる。頑張りすぎて、出来る事と出来ない事のジレンマに悩んだ結果がそれだ。介助する側、される側は常に対等なのだよ。人間は生きている限り、平等でなければならならいからね。けしておごった気持ちで接してはいけない。してやってると、見下してはいけない。まあ、お前はこの仕事は初めてなのだし、あれこれ言っても大変だろうがな。何かわからない事や不安な事があったらすぐに私に言いなさい。介助する側の不安な気持ちは、特に目に障害を持つ者は敏感に感じるものだからね。特に一度、信頼関係が失われると、それまで うまくいっていた事も、すべていかなくなってしまう。人を信頼する事は、健常者の社会だって大事だけれど、特に障害を持つ者にとってはそれ以上に大事なものなんだよ。なにせ自分の一番弱いところをさらけ出して、相手に全てゆだねないと介助ができない場合あってあるからね。まあ、ごちゃごちゃ言っても仕方がない。しっかりおやり」

雅美はそこまで言い終えると、夫の清一が入れてくれた紅茶をずずずと音を立ててすすった。

この人はきっとよい介護福祉士なのだろうな。ヒカルはざっくばらんな言動とは一転して、真剣な目をして熱く語る雅美を、尊敬せずにはいられなかった。

「さて。難しい話はこれくらいだ。夕飯まではゆっくりしろ。その時にみんなに紹介しよう」

「……はい」

ヒカルは森夫妻の執務室を後にした。


to be  continued……

瞳をとじて 第一章 2




「ねえ、ねえ、カヲル。私、今新しく入った介護福祉士さんと会ってきたわ。あ、正確に言うとまだ見習いさんだったかしら? 」

談話室で点字の本を読んでいたカヲルは、点字を追う手は休めずに、入って来るなり嬉しそうに話し出す千秋の方へ顔を向けた。

「随分と嬉しそうだね」

「そう?」

まるで鼻歌でも歌いそうな勢いだ。こんな千秋を見たのは久しぶりかもしれない。

悪い事ではないけれど、新しい介護福祉士と会ったと言い、あからさまに嬉しそうにする千秋を見ると、カヲルは少し複雑な気持ちになった。

幼なじみとしてこの施設でお互い育ってきた二人は、千秋の千里眼の秘密を共有する事もあって、一番の仲良しの友達でもあった。

思春期を迎えた二人の間でも、カヲルと千秋の関係は変わらなかった。千秋にとって自分はどんな存在かと尋ねてみた事はないけれど、少なくともカヲルにとって千秋は自分と同じように目が見えない苦しみもわかる一番の友達、一番の理解者だと位置づけていた。

それがどうした事だろう。

新しく入った介護福祉士会ったと言うだけで、千秋のはしゃぎようが気になった。もしかしてイケメンの若い介護福祉士とか?

いや、千秋は目が見えない。別に自分達は恋人同士でもないわけだし、千秋が喜びたいのなら、好きにしたらいい。しかしカヲルはなんとなく不機嫌になる自分を否めなかった。

「そう。それはよかったね」

カヲルは再び手元にある点字の本に集中しようと、本を持ちなおした。千秋は静かにカヲルの手を取り、その手を自分の額に当てる。

「千秋……?」

「カヲル……」

カヲルは千秋が自分に何をしているのか悟ると、取られた自分の手をそれとなく外す。

「ごめんなさい。私、少しはしゃぎ過ぎたわね」

カヲルの心情をくみ取った千秋は謝った。

「いいや……謝る事ないよ。それより新しい介護福祉士さんはどんな人だった?」

「気になる?」

「ああ……気になるね。君が初対面でそんなに気に入る人だったら会ってみたいね」

千秋の性格と千里眼の秘密をよく知るカヲルは、少し冗談めかしてそう言った。

「ふふふ……素敵な人よ。綺麗な心の持ち主だった。でも心の奥底にはとても大きな悲しみを抱えていたわ。全部くみ取る事はできなかったけれど」

「……そう」

どうやら千秋は、お得意の千里眼で新しく入ってきた介護福祉士の過去を、さっそく垣間見たらしい。めったにない能力で、便利だとは思うが、この事を実際相手が知ったらどう思うだろう。プライベートな事や、自分が相手をどう思っているのか、触るだけでわかってしまう事を、自分だったら手放しで喜べないなと、カヲルは思う。

きっと自分がそんな能力を持ち備えていたならば、他人の秘密がわかってしまう事が嫌で、できるだけ関わりを持たなくなっていくだろう。きっと自分の殻に閉じこもってしまうに違いない。カヲルはそんな事を思ってもみないような明るい千秋を、自分とは違う人種のように思えてならない。

「たぶん、夕食の時に紹介されると思うわよ。私、そろそろ部屋に戻るわね」

千秋はカヲルにそう言うと、返事も待たずに談話室から出て行った。



一人残されたカヲルは、やっと点字の本から手を放す。

「……ふぅ」

まったく……。

女の人は強い。タフだ。とても僕にはまね出来ない。自分もそのくらい精神的に強ければ、毎日が違っていただろうか。

自分のせいで家族は亡くなったのではないか、もし自分が目が見えていたら、自分の人生もカヲルは家族の運命も違っていたのではないかと、いつも心のどこかに「もしも」と言う事を考えられずにはいられない。そんな自分の弱さを、カヲルはいつも嫌だなと思う。

自分は、これから死ぬまでずっとこの事を悔やみ続けるのかと思うと、生きていくのが辛くなってくる。幼いうちは周りも仕方がないと、多めにみてくれる部分も多いだろう。しかし確実に自分は大人になってゆく。

体も大きくなり、歳を重ねて大人になったとしても、誰かしらの介助がなければ生きてゆく事もままならない自分を、恥ずかしいとカヲルは思ってしまう。

こんな僕でも、生きていく価値があるのだろうか。かといって自分から命を経つ勇気もない。仕方ないな。

自分の思考はいつもそこで止まる。幾度として繰り返されてきた自問自答。

カヲルはこれ以上考えても仕方のない事と、再び点字の本を手に取ると、続きを指で追い続けた。






to be  continued…… 





第一章  1

   



「ここが……私の職場か」

敷地内には緑の木々が生い茂り、蝉の鳴き声が耳障りなくらい大きく聞こえる。この施設がこんなに山奥にあるものとは知らなかった。久しぶりに自然に触れる気がする。夏の盛りが今なのだと、自分は今、確かに生きているのだと自覚せずには居られない。

鈴木ヒカルは、ギラギラと照らす太陽を見上げると、この暑さに流れる自分の汗にさえも『生』を感じ、少し嬉しくなった。

「さて……まずは挨拶からっと」

ヒカルは小さなトランクを一つ、右手から左手へと持ち直すと、立派な石貼りの門柱に、焼き付け塗装を施された青銅の門扉を押し開いた。鍵がかっているのだろうと思っていたのに、それは思ったより軽く開く。

案外物騒なのね、と辺りを見回すと、まだ大夫先の方に小さな守衛室らしい建物が見えた。この施設の敷地は思ったより広いらしい。門のあるここからはまだ少し先にある。

焼け付く太陽がアルファルトを照らしつけて、ゆらゆらとにわかに蜃気楼を見せた。自分の影をみると随分と背が低く見える。かなり暑い。

焼けたアルファルトを凝視すると、自分の影の頭の部分から立ち上るゆげが見えた。

いくら汗をかく事が『生きている印』とばかり、感動を覚えていたヒカルも、さすがにこのままここにいるのは時間の問題のように思えた。さっそく守衛室へと足を向ける。

やっと守衛室がある小屋の側までくると、守衛室のカウンターから若い金髪の男が、いかがわしい本を広げてニヤニヤしてるのが目にとまった。表紙には、目の下にほくろのあるショートカットの黒髪の女性が、ミニスカートの制服を着て前をはだけ、グラマラスな胸がちらりと見えている。

守衛の男はヒカルに気づくと、バツが悪かったのか、慌てて本を引き込めて軽く会釈をした。

「どうちらへおいでです?」

男は、蒼い半袖の制服の首もとだけ少し開け、かぶっていた帽子をひょいとかぶり直しながら尋ねた。

ヒカルと同じ金髪を首の上でざっくりと切った髪型は、まるで自分が幼い時にしていた髪型にそっくりだと急に思い出す。その人なつっこい言い方は、不思議と警戒心も薄らいで聞こえた。

「ええと……」

ヒカルが話し出そうとすると、守衛の男は急に思い出したかのように言葉を遮った。

「もしかして、鈴木ヒカルさんですか?」

(なんだ。私が来ることを知っていたんじゃない。なら話は早い)

「ええ……そうですけど」

「すいません、伺っていました。此所への訪問客はめったにいないもので」

男は手を軽く頭へ当てると、へへ…と愛想笑いを浮かべる。

「私はここの守衛をしている松田です。鈴木さんが勤める施設は、ここを塀沿いにまっすぐ行って、突き当たりを左側に曲がると入り口がみえますので」

松田はそう言うと、塀沿いの道を指さした。

「ありがとう」

ヒカルは礼を言い、松田が指さした門塀と同じ仕様のクラシカルな模様の鉄格子を見る。

「ずいぶん立派な塀ですね。こんなに此所が広いとは知りませんでした」

「そうですね。広いでしょう。此所へ来るのは初めてですか?」

「ええ、今日が初めてです」

「見たところ染めたように見えませんが……。それって天然?」

 松田は金髪に染まった自分の髪の毛を一束すくうと、ヒカルに向かって微笑みかけた。おそらく、それはヒカルがハーフなのかと尋ねたのだろう

「天然?ああ、これね。父がイギリス人なんです」

ヒカルは苦笑いをした。

「そ、そうでしたか。おそろいですね。それに若い…」

松田は詮索しすぎた感があると意識したのか、慌てて言葉を濁した。

「先月二十二歳になりました」

「二十二歳。それはおめでとうございます。でも偉いですね。此所へは希望されて来たのでしょう?」

「そうだけど。なにか?」

「貴方のような若い方が、自分からここの職場を希望されるというのは、なかなかないですからね。先月も……」

松田が続きを言いかけた時、守衛室のカウンターにある電話のベルがなった。

「ああ…ちょっと失礼します」

松田はカウンターの電話に手を伸ばし受話器をとると、改まった口調で受け答えをしている。

(若いか……ものはいいようだけど、子供に見られないようにしないと)

ヒカルがそう考えていると松田は電話が終わったらしく、ヒカルに話しかけた。

「鈴木さん、お待ちのようですよ。先をお急ぎ下さい。なんなら僕が案内しましょうか?」

「いや、ありがとう。場所はわかると思うから」

松田の申し出に対してそう断ると、ヒカルはまだたいぶ高い位置にある太陽を仰ぎ見て、行く先の道を急いだ。




 松田に言われた通りの道順でいくと、確かに施設らしい建物が見えてきた。正門からここまで徒歩で二十分以上歩いたのではないだろうか。

移動するには自転車か何かがあった方が便利だなと、ヒカルはまったく関係ない事を考えながら、エントランスのドアを開けた。エントランスの床は、光の加減のせいか、滑り止めの凹凸のある床と、普通の石張りとのコントラトが美しかった。

凹凸のあるでこぼこした床は、床を杖で触って進行方向が確認できるようにもなっているのだろう。

ホールとの段差はなく、エントランス床全体がスロープになっており、壁の全面には点字のついた手摺りがついていた。さすがに場所が場所だけに、整備はされているようだ。

ヒカルは物珍しくきょろきょろしていると、自分と同じくらいの歳の、少し浅黒い肌をした健康そうな黒髪の少女が、廊下からホールへとやってきた。

「誰?……お客様ですか?」

物珍しげにエントランスホールをきょろきょろしていたヒカルは、慌てて返事をした。

「す、すいません。鈴木ヒカルと言います。今日からここで働く者ですが……」

ヒカルは施設の人事担当者はいないかと尋ねようとすると、少女は物珍しげな顔をした。

「貴方がそうなの?」

少女は嬉しそうに微笑んだ。自分がいる場所と少し違う目線で微笑む少女に、ヒカルは少し違和感をおぼえる。

「ええと…私の事を、何か聞いてます?」

「ごめんなさい。新しい介護福祉士の方が来ると聞いていたからそうかと思って」

「いや、正確には、まだ介護福祉士見習いなんですけど」

「あら、そうなの」

少女は一瞬すまなそうな顔をすると、ヒカルに近づき、自分の手をヒカルの手に重ねた。

「え?ちょっと……」

少女はそのまま手を引いて廊下を歩き出す。

ヒカルは、誰かにいきなり手を繋がれる経験がなかったので、真っ赤になり、慌てふためいて手を引き込めようとした。

「ごめんなさい……私、目が見えないの」

「え?」

「こうしてじゃないと、貴方を案内できないから」

少女はそう言うと、引き込めようしたヒカルの手を再び取って廊下を歩き出す。

先程、自分が居ない方向を見て微笑む少女に違和感があると思ったのは、このせいだったのか。ヒカルはそう納得すると、ぎこちなく手をさしのべた少女の手を、しっかりと握りしめた。

それがヒカルの返事なのだと解釈した少女は、不思議に言葉を交わさないのに「ありがとう」と感謝の意を述べる。

少女は目が見えないと言っていたが、足元はふらつきもせず、健常者と同じくらいしっかりした足取りでヒカルを案内する。そのまま長い廊下を歩くと、少女はある部屋の前で立ち止まった。

「此所よ。貴方は此所に来たかったのでしょう?」

見ると部屋のネームプレートに、ヒカルが名前を尋ねようとした担当者の名前が載っている。なんでこの少女は、自分が来たかった場所がわかったのだろう。担当者の名前もなにも告げていないのに。

ヒカルは不思議には思ったが、それより先を急がないと、守衛の松田のところまで電話があったくらいだ。相手はきっと首を長くして待っているに違いない。

ヒカルはその事の方が気になって、不思議に思った事など、そう深く考えなかった。

「ありがとう。助かったわ」

「いいえ」

少女は軽く膝を折ってそう言うと、先程来た廊下を戻り始める。

「ええと……」

ヒカルは少女の名前を呼ぼうとして、まだ少女の名前を知らない事に気がついた。

「ごめん……名前、聞いてもいい?」

少女は目が見えないと言っていた。きっとこの施設の住人なのだろう。ヒカルは後ろ姿の少女にそう尋ねると、彼女はくるりと振り返って嬉しそうに答えた。

「私は千秋よ」

「ありがとう、千秋」

「どういたしまして」

「私の名前は鈴木ヒカル。ヒカルでいいよ」

ヒカルがそう言うと、こくんと一つ頭を縦に振り、千秋はそのまま去っていった。



to be  continued……