第二章 5
雅美が居なくなると、急に部屋が静かになった。
カヲルはなにか自分から挨拶をしなくてはと考えていると、ヒカルの方から声がかかった。
「ええと……私は鈴木ヒカル。二十二歳。今日から君の担当になります。よろしく」
ヒカルはペコリと頭を下げた。下げたあとで、ああ、そうか見えないのかと一人で頭を掻く。
「あ、は、はい。僕は北川カヲル。十九歳です。雅美さんが言ってたとおり、ここの施設の最年長の一人です。こちらこそ、よろしくお願いします」
慌てて簡単な自己紹介をしたものの、お互い緊張しているのがわかる。なんとなく空気が重い。
カヲルはなぜあの時、雅美に担当の変更を言い出さなかったのか後悔し始めていた。
自分がよく思われていないと判っているのに、これから先、ずっと我慢しながら世話になるのも拷問である
「カヲル君は、何か趣味はあるの?」
「え?」
「趣味といわれるようなモノは特に……。でも本を読むのは好きですね。しいて言えば読書でしょうか。あとは最近始めたパソコンかな」
「読書か……。読書って点字でしょ?」
「はい。そうですよ」
「すごいね。あれで文字がわかるなんて、発明した人はエライよね」
「そうですね。他にも『指点字』や『手書き文字』『指文字』と言うのがありますよ。最近はパソコンも普及していますし、視覚障害者向けにソフトもたくさん開発されています。『指点字』は指にタイプライターを打つように、相手の手の甲に点字を打って意志を伝えるものですし、『手書き文字』は手のひらに文字を書きます。『指文字』は手の平の中に手話をするように文字をつくってそれを触ってその形で意味がわかるんです」
カヲルは、手探りでヒカルのいる辺りに近づき座ると、ヒカルの手の平を自分の膝の上に置いて『指文字』を実際にやってみせた。
「へぇ。なんか便利かも」
「そうですか?僕ら目の不自由な人は見えないだけで言葉はしゃべれますから、これを実際使う事は少ないですけど。これを使うのは、盲ろう者、目と耳に障害がある方が多いですかね」
「これ……私に教えてくれる?」
「ええ、かまいませんよ。それと僕の名前は呼び捨てでいいですよ。僕の方が年下ですし、ここではみんな僕のことをカヲルと呼んでます」
「わかった。カヲル。じゃあ、私の事も名前で呼んで。ヒカルでいいよ」
「でも、僕の方が年下ですし……」
「まあ、どっちでもいいや。呼びやすいようでいいよ」
ヒカルはそう言うと笑顔になった。顔は見えないが、声のトーンで、笑っているように感じる。昨日の堅い様子と違い、今日のヒカルはとても穏やかに思えた。昨日の出来事が嘘みたいだ。
カヲルはなぜヒカルが自分の名前を知っていたのか知りたいと思ったが、まだ会って間もない彼女に、直接尋ねる事はなんとなく悪い気がした。けれどやはりヒカルの事は気になってしまう。ならば、少しでも彼女をそれとなく知る方法はないだろうか。
「あの……ヒカルさん、僕にあなたの顔を触らせてもらえないでしょうか?」
「顔を?」
「ええ、僕たちは触って物の形を理解するのです。迷惑でなかったら、貴方がどんな顔をしているのか知りたいのですが……」
もしかしたら、自分はヒカルを知っているのかもしれない。歳も三つ違いと言う事は、幼い頃の自分の遊び相手だったと言う事も考えられる。彼の顔を触れば何かわかる事もあるかもしれない。
カヲルは直接ヒカルに尋ねてみる勇気はないものの、やはり彼女がどんな人物か気になって仕方なかった。
「ああ、かまわないよ」
ヒカルはそう言うと、カヲルの手の平を自分の頬に当てた。カヲルは両手をおそるおそる差し出し、ヒカルの顔の表面を優しく触る。
「髪の毛が長いのですね……とても美しい顔をしている……」
「そんな事はないと思うけど……髪は確かに長いかな」
ふふふと笑うヒカル息が、カヲルの手の甲に当たって少しくすぐったい。
笑っているのだと思ったら、ヒカルは急にカヲルの手をとった。
「カヲル」
ぎゅっとそのまま握り締める。
「ヒカルさん……?」
ヒカルはそのままカヲルの肩をぎゅっと抱きしめて、カヲルの胸に自分の顔を埋めた。
「ごめん……しばらくこうさせて……」
泣いているのだろうか。
ヒカルはカヲルの胸に顔を埋めたまま、顔を上げない。かすかに肩が震えているようだ。
カヲルは一瞬、驚いて体を硬直させた。ヒカルは何も言わないけれど、泣いているようだった。カヲルはどうしてよいかわからず、上げた両手を中途半端にしたままだ。
確か千秋がヒカルと接触した時に、彼女の事を辛いことがあったらしいと言っていた。
もしかしてこの事なのだろうか。
カヲルはその事を尋ねてよいものか躊躇したが、結局、何も言えず、ただ黙って上げた両手をヒカルの肩においた。
理由はどうであれ、ただ誰かに黙って抱きしめられたい時だってある。カヲルも少なからず同じような経験があった。自分が抱きしめる事によってヒカルの苦しみが少しでも癒されるのならば、気の済むまで抱きしめてあげたい。
普通、介護福祉士であるヒカルを癒すと言うのは、立場として逆なのかもしれない。だが、昨日とった態度とは百八十度違うヒカルの態度を見ると、不思議と何かしてあげたい気持ちになってくる。
こんな僕でも、人の役に立つ事があるのかな。そう思うと、なんとなく嬉しい。
カヲルは、今まで人に何かしてもらう側にはあっても、自分が誰かに何かをしてあげられる側にたつ事は一生ないと思っていた。思い上がりなのかも知れないが、誰かの役に立ってあげられると考えると、それはとても新鮮な気持ちだった。
『この人を支えてあげたい』
おこがましい考えだとは重々承知している。
全盲という障害を持って、どれだけ人の役にたつ事ができるのかわからない。けれど、カヲルにとって、全ての人役に立つ事ができなくても、ヒカル一人の為になら、障害を持つ自分でも役に立てる事があるかと思うと嬉しくてたまらない。
先程までは、あんなにヒカルの事を警戒していたのに。この人は不思議な人だ……。
カヲルはヒカルの気が済むまで、黙って抱きしめていた。
to be continued……