第一章 昔の男
7
いつの間にか、隣室も、こちら側も、静かになっていた。久しぶりに夫に抱かれてみれば、案外悪くなかった。
離婚まで考え、家を出たのに、このままあやふやになるのかと思うと少し癪だ。けれど、頭の片隅には、息子のことを考えると、このまま元サヤに戻るのがいいのかもしれないと考える。戻ったとしても、私の心は離れているのだけれど。
どちらにせよ、結論はすぐに、出さないほうがいいだろう。
私はけだるい身体を起こして、夫に部屋を出るように言った。夫は、反発しなかった。素直に服を着ると「また来る」と、部屋を出て行った。
夫が外へ出て、玄関ドアが閉まった音を確認してから、私はチェーンと鍵を掛けに玄関へ立つと、隣の玄関ドアが開く音がした。
隣に来ていた女も帰るのか――。
ふと、私は相手がどんな女なのか見たくなった。薄く玄関ドアを開けると、そこには日向が立っていた。
「こんばんわ。気づかなかったんやけど、けっこう壁が薄いんやね」
にっこりと笑みを浮かべつつ言われると、私は死ぬほど恥ずかしかった。日向の口ぶりから、間違いなく、こちらの情事もまる聞こえだったとわかる。
「あ、心配しなくても大丈夫。こっちは気にせんから、そっちも気にせんで」
お互い様とでもいいたいのだろう。私は速攻、日向の前から消えたくて「すいません」と謝り、玄関ドアを締めようとしたが、隙間に足を入れられ、閉める寸前のところで止められた。
「な、なに?」
日向は「気にしてないよ。それより……」と前置きをしながら口を開いた。
「俺の尻のアザ、見えた?」
「え?」
戸惑う私に、日向は笑顔を見せた。
中学当時、坊主だった日向の髪型も随分変わった。流石に年を重ねた分、顔にも皺はあるけれど、大きく口角を上げ、鼻の上に皺を寄せながら笑うのは昔とちっとも変わっていない。私の頭の中で、中二の三浦君と、現在の日向の姿が、今はっきりと浮かび上がる。既視感がやがてはっきりと輪郭を持った一つの人物に重なった。
間違いない。日向は三浦君だ。
「いい加減、俺が誰だか思い出したやろ? ひとみちゃん。お臍のアザは、まだあるん?」
もしかして、隙間から覗いていたのはバレていた? しかも、日向は、私が誰だか知っている口ぶりだ。驚きを隠せるほど冷静ではなかったが、私は必死に笑顔を作った。
「ひとみちゃん、いい女になったね」
お世辞だろうが、いい女と言われると、悪い気はしなかった。それに加え、臍のアザまでも覚えていてくれたとは。少しだけ、ノスタルジックな気持ちになる。
「よかったら、これから俺の部屋で、昔話でもしようか」
もしかして、誘ってるの?
「さあ」
日向は、玄関の向こう側から手を差し伸べた。この手をとったら、私はきっとこの男から離れられなくなるだろう。
昔の男。私の最初の男。
これは夫に対する仕返しだ。復讐といってもいい。考え方を少し変えたら、どうなるだろう。日向と割り切った関係なら、家庭は続けられるのだろうか――。
私は覚悟を決めて、一歩前へ踏み出した。
to be continued……