第二章 理想の息子
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母が家を出て行った。親父と喧嘩をしたからだ。喧嘩の理由はおそらく、親父の浮気が原因だろう。
母はずっと仕事をしていので、物心ついた時から、日中、家にはいなかった。仕事が遅くなることも多かったので、料理以外の家事は、自分でなんでもできるように。と、僕たちは子供の頃から躾された。
だから、母がいなくなっても、食事以外は殆ど困らない。親父が何も家事はやらない人なので、余計に息子には自分の理想を押しつけたかったのかもしれない。
優しくて、思いやりがあって、家事も手伝ってくれる人。
母は時々、遠くを見ながら、理想の男像を口にした。
ハタで聞いていると、なら、そんな男と結婚すればよかったじゃないか。と思うけれど、どうやらその前に、僕たち双子が生まれたから、そうもいかない事情もあったようだ。
父は、息子の僕から見ても、勝手で、ダメな大人の代表にしか見えなかった。
夜中遅く帰って来た親父と廊下ですれ違うと、あからさまに煙草の匂いに混じって香水の匂いがしたのも一度や二度ではない。
トイレに入ろうとすると、挙動不審な親父が携帯を握り締めて出てくることもあった。トイレの中で誰かに連絡をとったのはわかるけれど、こそこそとする様子は、子供から見ても、連絡先の人物は、ただの仕事や友人の連絡には見えない。
「お! 隆司か。びっくりさせるなよ」
平静を装っているが、びくついている様子は、どう見ても怪しかった。
今になって思えば、トイレの中で浮気相手と連絡を取っていたに違いない。
一度心配になり、僕は「お母さんは、お父さんの携帯をチェックしたりしないの?」と母に質問したことがあった。
質問をした瞬間、母の顔色がさっと変わった。
マズイ。地雷を踏んだか? と、僕は直ぐさま「ほら。よく、テレビドラマなんかでは、彼や夫の携帯を見て、浮気に気付く。なんてベタなシーンもあるからさ」と、慌ててとってつけたことを言ったが、余計に母を刺激したかと、言った側から後悔した。
母はしばらく考えていたが、思い詰めたような表情をした。
「携帯をチェックしたことなんてないわ。見ても意味がない。浮気するときはするだろうし。そんなものに振り回されるくらいなら、最初から見ないほうがいい――」
まるで何かを悟ったような表情。ふっと遠くを見て笑った母の顔が、印象的だった。
今思えば、あの時はすでに母は、父の浮気を知っていたのだと思う。
夕方、学校から帰っても、家の灯りが点いていないのは、今まで通りだ。
自分で鍵を開けて入る玄関は、静まり返っていた。
僕は母に躾された通り、まずはベランダに干してある洗濯物を取り込む。リビングに、柔軟剤の香りが漂う洗濯物を運び込み、広げたところで、双子の兄である陽司が帰宅した。
「隆司、先に帰っていたのか」
陽司は、はぽつりと言い放つと、制服の上着を床に投げ捨て、ソファにダイブした。
「母さんが戻ってこないのは、親父の浮気がバレたんだろうな」
やはり、陽司も感づいていたようだ。親父の浮気について話したことはなかったけれど、陽司から見ても、浮気しているように見えるのなら間違いないだろう。息子二人が気付いていたくらいだ。母が気付かないわけがない。
隆司は母が急に気の毒になったが、人ごとのように言い放つ陽司の言葉に、無償に腹がたった。
「陽司、制服くらいちゃんとハンガーに掛けろよ!」
親父の浮気を否定できない。八つ当たりだと思いながらも、僕も怒りをどこにぶつけていいのかわからなかった。陽司に当たってもしかたがないのだけれど、母の不在は、やはり大きい。
「はいはい。わかってるよ。お前は母ちゃんかってーの!」
陽司は立ち上がると、制服の上着を持ち、二階にある自室へ向かってスタスタと歩き出した。
「ちょっとは手伝えよ」
「今日は、隆司の番だろ? そんなの、塾から帰ってやればいいじゃん。早く支度しないと遅刻するぞ」
陽司に言われ、時計を見る。すでに家を出なければならない時間は迫っていた。僕は手早く残りの洗濯物をたたみ、出かける準備をした。
いったい、ウチの家族はどうなるのだろう。高校受験まで、あと二ヶ月しかないのに。
to be continued……