第一章 昔の男
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引っ越し先は誰にも内緒だったのに、どうやって調べたのだろう。一瞬、居留守を装うとしたが、たった今点けた灯りで部屋にいるのはばれている。
どうしようか。迷っていると、そのうち玄関の前で「ひとみ! ひとみ!」と、名前を呼ぶ声が聞こえ始めた。
なんて迷惑な男だろう。会いたいとは思わないが、近所迷惑だ。
私は仕方なしに、内側にチェーンをしたまま、玄関ドアを薄く開けた。
あたりはすでに暗くなっていて、鉄骨の屋外廊下の軒裏についている、切れかけの蛍光灯が、チカチカと点滅していた。灯りが点いたり消えたりする度に、達磨のような夫の猫背の影が床に落ちる。
私はイライラしながら見やると「すまん。入れてくれ」と、玄関ドアの前で申し訳なそうな表情をし、深々と頭を下げた。
「ちょっと、すいません」
夫が頭をドア越しに頭を下げていると、買い物帰りの奥の部屋の住民が、怪訝な顔をして通るのがわかった。このままにしておくのも、近所の目もある。私は仕方なしに、一度玄関ドアを締めると、チェーンを外し、夫を招き入れた。
息子たちは元気なのか。ここをどうやって調べたのか。あの女はどうしたのか。
聞きたいことは山ほどあったけれど、私が口を開く前に、夫は三和土に額を擦り当てると、土下座をした。
「俺が悪かった。戻ってきてくれないか?」
まさか、最初から頭を下げられるとは思っていなかった。謝ってすむ問題ではないと思うが、開き直るよりは、少なくとも心証は悪くない。
離婚するにしても、相手が非を認めている事実は、訴訟問題になった時に有利に使える。私はもったいぶって「戻ってこなかったら?」と、問いかけた。
「戻ってきてくれないのか?」
夫は、一瞬驚いた顔をして、黙り込んだ。どうやら、謝罪すれは、私が戻ると信じ込んでいたようだ。脳天気にも程がある。原因は自分にあるクセに、何を甘いことを考えているのだろう。男とは勝手な生き物だ。
私はわざとらしく「はぁ」と、大きくため息をつくと、夫は何か答えなければならないと思ったらしく、おどおどと視線を泳がせた。
けれど、視線を泳がせるだけで、答えは出ない。当たり前だ。戻るか、戻らないかの主導権は私が握っているのだから。
夫が本気で私に戻って来て欲しいと思っているのはよくわかったが、私は夫に意地悪がしたくなった。
おそらく戻っても、またほとぼりが冷めたら夫は浮気をするだろう。浮気の現場を目撃したのは今回が初めてだったが、今までだって、女がいたのは知っている。私はどんな意地悪しようかと考えていると、再び隣室から、女の喘ぎ声が聞こえてきた。
隣は中断していた情事を、再開したようだ。ギシギシとゼンマイ時計のような規則正しいベッドの軋む音が、隣室から聞こえてくる。
夫は、はっと顔を上げ、間もなく音の所在と正体に気づいたようだ。無言でいると、余計に隣室の騒音が気になるらしい。
隣人の二人は、こちらの都合なんてこれっぽっちも気にしてはいない。終始、動き回って腰を振っているらしく、規則正しい音が止むことはなかった。
合間に聞こえる女のすすり泣くような声が、まるでベッドのきしむ音の合いの手のようで、どうも笑いたくなる。
笑いを堪えていると、夫は三和土に正座したまま、もじもじと腰を動かした。
情けをかけるわけではないけれど、流石にタイル貼りの上に直に座っているのは、冷たいし、足が痛いはずだ。
とりあえず、「上がっていいわよ」と、私は一言漏らした。夫は申し訳なさそうな顔をしながらも靴を脱ぎ始めたが、足がしびれたらしい。何歩か前進すると、派手に床に倒れそうになった。私は床に転げる寸前に手をさしのべたが、間に合わなかった。
ドスンと派手な音と共に、私は幅広のフローリング柄の上で、夫の下敷きになっていた。
「す、すまん」
夫は直ぐに立ち上がろうとしたが、しびれた足は、言うことを利かなかった。身体を移動させようとしたが、再び転び、私の上へ夫が覆い被さる体勢になった。
偶然と言えど、重なった身体の重みは、どこか懐かしかった。夫はどんな顔をしているのだろうと顔を注目すると、ハードコンタクトの縁がわかるくらいの距離で、夫も私の顔を伺っていた。夫の瞳に、私の顔が写り込んでいる。
こんなに夫と接近したのは、本当に久しぶりだった。顔を背けようとすると、夫の唇が私に重なる。重ねられた夫の下半身はすでに固く大きく膨張しているのがわかった。ジーンズを履いていた足を、夫が割って入ってくる。
先程まで自慰をしていた私の下半身は、固い夫のモノを敏感に感じていて、気がつくと私のほうから夫の唇に舌を差し込んでいた。
正直、夫に愛情はなかった。身体が勝手に反応してしまったというのが、本音だ。夫は誤解したのか、服の上から私の乳房に手をかけた。
始まってしまえば、好きだとか、嫌いだとか、どうでもよかった。
先程まで、隣人の情事を盗み見て、私はとにかく男に抱かれたかった。都合良く夫が来たのなら、利用すればいい――。
まるで口から魂を吸い取るように、キスをした。一瞬、夫は私の態度に驚いて目を見開いたが、思い直したのか、キスをしたまま着ていた上着を脱いだ。
カチャカチャとベルトを外す音が聞こえる頃には、私は自分からジーンズと下着を下ろしていた。間違っても、夫に下着を触れさせたくない。濡れそぼった下着を見られるのが、とても恥ずかしかったからだ。
脳天気な夫は、積極的な私の態度をやる気満々と取ったのだろう。ブラジャーを下からたくし上げ、乳房にしゃぶりついた。
こんな風に愛撫されるのは、とても久しぶりだった。乳首を吸われる度に、きゅううと乳首先端が敏感になる。下半身が白熱灯のように熱を持つのがわかって、夫と上下を入れ替わると、私は立ち上がった夫の中心に、自分から跨いでゆっくりと腰を下ろした。
あまり触れられていないというのに、下半身はすでに柔らかくなっていた。そっと腰を全部落とすと、すっかり濡れそぼった私の中に、それは難なく納まった。
指では感じることができない、圧倒的な存在と質量。すぐに私の身体は、夫のモノになじむと、片足に下着とジーンズを残したまま、ゆっくりと腰を振り始めた。
皮肉にも、夫は私のイイところを知っている。何も言わなくても少し腰を浮かし、角度をつけると、ぞわりと体中の毛穴が開くような感覚に陥る。更に腰をグラインドして深く腰を押し込むと、子宮の入り口の壁に届く気がして、私はたまらず低い声を上げた。
「しーっ!」
夫が下になったまま、私の口を手で塞ぐ。隣を気にしているのだろう。今まで隣室から聞こえていた規則正しいギシギシという音も、気がつくと止まっていた。
情事は終わったのか。それとも、私達の様子に気がついて、近くで側耳をたてているのか。
頭の中では隣の様子が気になるのに、一度エクスタシーを感じ始めた下半身はいうことを利いてくれなかった。
私は夫に口を塞がれたまま、腰だけは動かしていた。上下だけでなく、左右にねじりながら腰を振ると、声を立てないほうが難しいほど私は感じていた。
我慢したいけれど、我慢できない。動物のような低いうめき声を漏らしながら、腰を振る速度は、段々ヒートアップしていく。
再び隣室から喘ぎ声が聞こえてきた。なんだ。まだお楽しみ中なんじゃない。と思うと、なんだか我慢するのが、馬鹿らしくなってくる。
隣も楽しんでいるのなら、楽しまなくちゃ。という気持ちと、もしかしたら見られている。と考える気持ちが半々だった。
ここまできたら途中で止めたくなかったし、上り詰め始めた身体は、簡単に納まってはくれそうになかった。
夫も、どうやら私と同じだったらしい。一瞬、隣との壁に顔を向け動きを止めたが、再び、腰を動かし始めた。
隣室に人の気配を感じながらのセックスは、なんと刺激的なのだろう。夫も神経のアンテナを隣室に張っているらしいが、半面、余計に下半身の質量がいつもより大きい気がする。夫は、私ごと天井に持ち上げる勢いで、上へ上へと突いていた。ぎゅうと恋人握りで手を繋ぎ、下半身も硬く結ばれる。まるで恋人同士に戻った気分だ。
ここ数年は、こんな風に抱き合った記憶はない。たまにセックスはしても、精を吐き出すことだけに重点を置いて、愛撫に時間をかけてはくれなかった。お互いを思いやるセックスとはほど遠いもので、自分さえ達すれば相手はどうでもよいといった、自己完結のものだった。
不満だったのは、セックスだけではない。結婚して子供が生まれると、どうしても子供中心の生活になる。手を繋ぐのにも、夫でなく、子供と繋ぐのが必然的に多くなった。特にうちは、やんちゃな双子の男の子だったので、夫と私とで、一人ずつ面倒を見るのが当たり前だった。
今、考えると、夫と手さえもゆっくり握ったことがなかった気がする。とっくに冷め切っている夫も、今だけは最愛の人に思えるのだから不思議だった。
私はなんて勝手なんだろう。いや、勝手なのは夫のほうか。
ぐるぐると考える合間にも、身体の熱は止まることを知らなかった。感じるままに腰を振り、私は高まるエクスタシーを、開放したくて仕方がない。
ぐっと腰を突き出し、背中を弓なりに沿わせると、更に子宮奥深くのイイところに届く気がして、脳裏に波のようにうねる快感を追いかける。下腹に更に大きくなった夫のひくつく質量と、「うううっ」と、堪えきれない嬌声を聞いた瞬間、私は久しぶりに長い快感を味わった。
気がつくと、私は夫の腹の上にいた。私は夫を組み敷いた時から、しっかりの双眸を閉じていたので気がつかなかったけれど、電気は点けっぱなしなのにカーテンは引かないわ、下着とジーンズは中途半端に片足にひっかかったまま、なんともだらしのない恰好だった。
あんなに嫌っていた夫を、食ってしまった状況だった。放心していると、久しぶりに乱れた私の恰好を見た夫は、逆に欲情したらしい。もう一度しようと求めてくる。灯りを消して、カーテンを閉めたら。という条件で、私は再び夫に抱かれた。
to be continued……