大晦日に書いたブログで、
ん-、なんか昔、
ドラッカーでなんか読んで
自分なりに意訳したなぁと思いだし、
そして、探して見つけた。
今年以降はこれ読み返して、
自分を見失わないようにしないとなと。
思い出すの遅すぎた(苦笑)。
問題に気付かず
何ごとも起きてないように見える毎日が続くにつれ、
人は自分の位置づけや役割を当たり前のこととし、
特別の意識をもたなくなっていく。
やがて杜撰になる。
手を抜くようになり、
正しいことよりも都合のよいことを追いかける。
考えることをやめ、疑問を発しなくなる。
答えのほうは覚えていても、何が問題だったのかを忘れる。
自分という定義は規律である。
しかしやがて、自分という定義が体質になってしまう。
体質は規律の代わりにはなりえない。
自分という定義は石板の碑文ではない。仮説である。
常に、変化するもの、
すなわち、国、地域社会、所属する会社。
そして、マーケット、お客さん、スタッフ、技術についての仮説である。
したがって、
陳腐化し実効性を失う前に、
自分という定義を検証していかねばならない。