10月某日、Mac音家

東京、某所


ごちゃごちゃとしたビル群から少し距離を置いた、閑静な住宅街の一角。

いわゆる『セレブ』たちの住む家の群れのなかに、やや目立つ程度にはしっかりとした構えの家がある。

ユニークかつモダンで無駄のない設計の一軒家で、プール付きの庭がある程度には大きい。芝生もよく手入れされていて、見ていて気持ちのよい外観となっている。


誰の家だろうと外壁に掛けられているりんごの形をした表札を見ると—そこには、デザイン性を感じられるレタリングで『Mac音』の文字が。


東京、Mac音家。


この話は、この家で起きた珍事件の物語—


ーーーーーーーー

「ななな、ななななな……」

Mac音家、リビング

窓から溢れんばかりの光が降り注ぐ、白を基調としたデザインの居間。

スタイリッシュかつふかふかしているソファーに斬新だが機能性に優れている机と、家主のこだわりが見え隠れする家具が配置されている。

そろそろ午前が終わろうとしている、休日だ。例のごとく家主である父は出張のため、家族揃って出かけることができない。だからダイニングで朝食をとったあと、大抵少女たちはリビングで昼まで過ごす。

「ななな、ななななな……」

「ページワン!」

「なんだと!?」

現在、ソファー付近ではココと黒ココがトランプに興じている。(もっぱらページワンだ。黒ココにとっては瞬発力命のスピードの方がやりやすいのだが、ココがあまりにもとろいため勝負にならない。)

ソファーの上では朝食のフレンチトーストを食べ過ぎてしまったちびナナが寝ている。あまりにも静かに寝るため一瞬ひやりとするが、大抵杞憂に終わるのでいまでは気にしないことになっている。

そして、ソファーよりも北側に歩いたところにある、小さな棚の前—そこに、硬直したナナがいた。

「ななな、ななななな……」

余程ショックを受けたのか、五分ほど前からそこを動こうとしない。

彼女の瞳からは普段の快活さの代わりにどうしようもない不安が窺え、青ざめた肌からは『赤点をとった学生』が見える。

「はい、あがりー」

「くそっ。また負けた。なんでこんなに強いんだ……」

そんな妹を知らずに、呑気にトランプをする姉二人。
「ななな、ななななな……」

「んーとぉ、経験の差じゃない?」

「双子なのに……」

勝ち誇ったように、それでものんびりと言うココと、悔しさが隠しきれていない黒ココ。

そんな二人の空気を、轟音がつんざく


ぐぎゅるるるるる……


沈黙。黒ココは笑いを堪えるようにしてココを見つめると、盛大に腹を鳴らした片割れは肩を縮めながら

「……そろそろ、ごはんねー」

「……そう、だな」

言って、黒ココは時計を見た。現在時刻、午前11時45分。基本7時起床のMac音家だ、腹が減るのも無理はない。

黒ココは立ち上がり、何が食いたいとリビングにいる者たちに尋ねた。威勢のいい、「ミートスパゲッティ!」という声を無視し、寝ているちびナナも無視して—

奇妙な言語しか呟いていない、ナナを視界に納める。
「ナナ、あんたは何食べたい?」

「ななな、ななななな……」

目の前の少女、現在コミュニケーション能力0。

そう判断した黒ココは、ため息をつきながらナナの元へ向かった。肩を掴み、諭すような口調をとる。

「ナナ、ナナって。おまえがナナって名前なのはもう知ってるから。そうじゃなくて何が食い、た、い—」
そこまで喋って、黒ココは口を閉じた。

閉じざるをえなかった。

現在、彼女の妹の掌には—一体の、フィギュアが。

メカニックな造型が特徴的の、ロボットだかモビルスーツだかよくわからないがとにかくあるアニメのフィギュア。独特な塗りをしているのにも関わらずバランスがとれているという逸品で、こうしてみても職人の心意気が随所にちりばめられているのがわかる。

……問題点を、早く提示しよう。問題は、そのフィギュアの左腕にあった。

本来ならば稲妻に輝く剣を手にしてある筈である。しかし、今現在そのフィギュアには—剣どころか、左腕そのものが存在していた。
そして、黒ココはナナのもう片方の掌にその左腕がのっているのを確認し—

実の父の言葉を思い出した。

—私が子供の頃にやっていたアニメのフィギュアでね、これは主人公の『稲垣ハヤト ネオ・バトルモード』のものだ。いやぁ、稲妻を放出させるシーンに興奮したものだよ。そのアニメはとても人気でね、遂に製作会社が復刻版のDVDを出したほどなんだ。それで、このフィギュアはDVD予約先着30名にのみ販売された限定モノでね。フィギュア界では有名どころの会社さんの技師さんたちが集結してつくった、まさに『サンダー戦隊ゴロンジャー』の情熱の結晶さ。特に見てごらん、この稲妻の剣。私は特にここの描写が好きでね。どこがというと、ハヤトの生い立ちを語らないといけないかな。ハヤトは早くに御両親を亡くした不幸な子で—


この世には、アルセーヌ・ルパンもハリソン・フォードも手を出してはいけない、禁断の聖域がある。

それは—他人の—特に、男性の—『ロマン』


それを盛大にぶち壊した。
その事実を確認した姉妹は—

「ななな、ななななな……」

「ななな、ななななな……」


「なんじゃこりゃあああああああああああああああ!!」


ゆかいな!Mac音家!!


ーーーーーーーー
「ナン・ジャコリャー?聞かないお料理ねぇ。インド料理かしら」

二人同時に叫んだあと、手持ちぶさたにトランプを繰っていたココが能天気な声をあげた。

そんな双子に業を煮やしたのか、黒ココは硬直からいち早く立ち直り、ココの胸ぐらを掴んだ。

「そんなアホみたいなこと言ってる場合じゃない!—こっち来い」

言われるがままに引っ張られたココも、そこで事態を知ることになる。

「これは……」

いつも笑みを絶やさないココも、今回ばかりは青ざめる。

「………………」

光が降り注いでいる筈のリビングが、追試会場なみのテンションに盛り下がる。
「……ナナちゃん?パパって—いつ帰るっけ?」

「……今日の、夜……」

「………………」

接着剤でガチガチに固めたような表情で、ガチガチな会話をする姉妹。

しかし、状況は変わらず。

………………


沈黙、矢のように肌に突き刺さり

「……ココ。私たちって確か、パスポート持ってたよな?」

「逃げたら駄目よ、クロちゃん。すぐ見つかっちゃうわ」

「いや、これは逃げざるをえないよ……。自分で言うのもなんだけど、見事すぎるもげっぷりで」

姉達の会話に、ナナが冷静に切り返す。

「……でも、仮に逃げたとしても—絶対捕まるぞ。そしたら……」

「パパの料理、おいしかったな……」

ここの世帯主は基本温厚で、忙しいにも関わらず家族サービスを欠かさない。父親の鑑のような人物だ。

そんな父は、たしなめはするが怒ったことはない。冷静な口調で叱ることもあるが、激昂するところなんて、誰もみたことがない。(一度、ちびナナがはずみで眼鏡を割ったことがあったが、その時も心の底から怒っている感じではなかった)

だからこそ、娘達は恐いのだ。—そんな優しい父が怒ったら。疲れて帰宅したところに、宝物にしていたフィギュアが壊れてしまっているのをみたら


普段大人しい人ほど、キレたら恐ろしいと聞く

「………………」

「………………」

逃げるのは駄目。素直に謝るにしても、許してくれるかどうかわからない

残る道は、一つしかなかった。

「……ナナ、アロンアルファ持ってこい」

黒ココは、なんとか絞り出した声でそう告げた。

ーーーーーーーー

果たして、フィギュアの修復に一般的な接着剤が通用するのか?

調べたところででてくるのは専門用語だらけなので、そこは無視することにした。とにかく、いま急がれているのはは左腕をなんとかくっつけること。無駄なことは考えないようにする。(明らかに必要な事項であるが)

そう考えつつ、黒ココはナナの帰りを待っていたのだが—

「持ってきたよ!」

「よし、寄越せ!……?」
げんきよく放り出されたスティックを受けとるが、様子がおかしい。

まず、接着剤にしてはやたら小ぶりだ。細長いものが多いが、この接着剤は市販のものの三分の二程度の背丈がない。

それに、やたら可愛いデザインだ。青りんごがあちらこちらに描かれている。

さらに—これこそが、重要な点であるのだが—前述の通り、スティックなのである。チューブですらない。黒ココが知る限り、接着剤はチューブのものが主流のはずだが—

以上の点から、この接着剤はかなり怪しい。そしてなにより、かなりかしましい雰囲気を醸し出している。いや、かしましいというより、若い。—まるで、女子高生が持っているような—

ボキィ


「私のスティックのりー!!」

ついはずみで接着剤ことのりを折ってしまった黒ココに、批難するような視線を投げるナナ。

そんな彼女に、黒ココは精一杯穏便に(それでも怖い)語りかける。

「……いいか、ナナ。これは遊びじゃあないんだ。事件だ。—何故、アロンアルファを持ってこない?」

ナナ、申し訳なさそうな瞳で

「……だって、なかったんだもん」

「なんでだよ。探せばあるはずなのに」

怪訝そうな口調でそう言う黒ココに対し、白い方のココがやや気まずそうに口を開く。

「……ごめんなさい。私が使っちゃったの……」

「……何に?」

「えっと……お料理に……」

「料理ぃ!?」

「そういやお姉ちゃん、前に殺人的な臭いのするロールキャベツつくってたっけ……」

だって、キャベツがうまく巻けなかったのだもの……と気まずそうに言うココを尻目に、残る二人で対策を考える。
「人の成長期間を短く…。俺とて駆け出しの闇医者だ。そんなことできたらノーベル賞を無数に受賞できるだろう。あわよくばそのお金で無人島を買ってそこに豪邸を建ててセルティと…急に切りやがった」

「ほう。児童の姿に退行してしまった秘書の姿をもとに—。実に興味深いテーマだ。よろしい、力を貸そう。まずその秘書君をアメリカのネブラ本社に預けたまえ。あとは後々研究と解ぼ—なにも自ら切ることはあるまい」

「波江さんには内密で我々ネブラに長音記号2?けどぉ、それって酷くないですかぁ?だって本人に知らせずに投薬実験と解ぼ—切るなんて酷いじゃないですかぁ。オリハラさん、オリハラさーん??」


秘書の波江ちゃん、3


「ここも無理、か…。研究者っていうのはこうも解剖しか脳のない非人道主義だったのか?」

携帯の通話機能を閉じ、溜め息をつく臨也。

「…あなたも同じようなものじゃない」

「失敬な。俺は連中の何倍も人間を愛してる…で、そっちはどう?」

「死ねば元に戻れるみたい。あとは…カルトじみた方法くらいね」

夕暮れの近付いてきた情報屋。

仕事場には情報機器をフル活用して情報収集に挑む臨也と、小さな体で大きな本をなんとか支えながら読んでいる波江の姿があった。
「となると今度は、死んだあとに生き返る方法か…。魔法陣でも描いて聖水ぶちまけりゃなんとかなるか?」

「あなた、そういうオカルト嫌いなんじゃなかったかしら?」

「生首保管してた製薬会社もオカルトだな。…というか波江、それ重くないの?いっぱいいっぱいぶりが可愛いからつい携帯でムービー撮っちゃったわけだけど」

「ときめいて死ね」

こうやってどうでもいい話をしつつ元に戻れる方法を模索し続けて、既に数時間が経過している。波江と謂えどもさすがに焦りを感じるらしく、先程から臨也のあしらい方が残酷さを増してきた。このままではまずい。双方こう認識しているのだが、すればするほど広がるのは不安ばかりで、どうしたもこうしたもない。
「…そろそろ5時か。波江、テレビつけてくれる?」
「6チャンネル?」

「そこ最近報道の質落ちたから7チャンネル。ピタゴラスイッチでも見よう」

臨也に関してかろうじて良いと言える点は、このうまいこと話を核心まで持っていくまいとする話術だろうか。

その気遣いに微妙に感謝しつつ—波江は若干、戸惑いを隠せないでいた。

—藁にでもすがれ、とは言うけれど…

先程言っていたカルト的な方法。その一つに、もしかしたらというものがあった。実際こういう方法で成功した事例はある。しかしお伽噺と疑うような内容で、なんといっても精神的にためらってしまう。

波江は今日何回目か最早わからない溜め息をつき、暫く臨也と一緒にテレビを見ていた。

「アリコリズム体操か…懐かしいな…」

「なにか思い出でも?」

「昔シズちゃんの拳から逃げようとしたらたまたま体制がこの体操になった。新羅には笑われるしあのあと結局殴られそうになるしで…いまでもたまに夢に見るね」

「いい気味ね。…ねえ、あなた」

ワンピースを掴む手に力を込め、意を決したように口を開く波江。

この方法が正しいのかどうか

「お腹、空いてない?」

「…は?」

それがわかるのはあともう数時間、先の話。
ーーーーーーー

「いいかい。包丁を使うときは具材を持つ手を『くまの手』にする。火を使うときにはちゃんと俺に言う。お兄ちゃんとの約束だ」

情報屋、台所

申し訳程度のスペースのそこに—ビデオカメラを構えた臨也とエプロンを着た波江がいた。

「あなた、いい加減そのキャラうざいわよ」

「妹が反抗期だと…!?それもそそる。俺はここで盗撮しておくからこころおきなくつくりたまえ」

料理をつくる、と言ったのは意外なことに波江で、現在彼女は臨也チョイスのくまのアップリケが可愛らしいエプロンを着ている。背丈が足りないので浴室からもってきた椅子のうえに立ち、人参を切っている状態だ。

サクッサクッ

「…手が小さいから、やりにくいわね…」

ザッザッ

サクサク

サササササササササ

トントントントン

ジャー

ボトボト

コトコト

プロ並みの手つきで具材を切り、スパイスを調合して鍋に入れる波江。一応完璧な秘書なので料理くらいできる。その姿はさながら子供シェフといったところか。

「子供のくせにすごく手際がいい…!畜生、ちょっと下手こいて半べそかくというときめきイベントを妄想していたのに!いやしかし旨そうな匂いだ」

臨也も舌を巻くほどの華麗な手捌きで、あっという間にスパイスまでお手製のカレーをつくりあげてみせた。

「さ、できたわよ。…あなた、突っ立ってないでテーブル整えなさい」

何気に冷蔵庫の中身も調味料の位置も知っていた。

臨也はそこまで考え

「…子供女房?」

と呟いたがややこしくなるので波江には伝えないでおいた。

とりあえず卓を整え、波江と一緒にお皿にカレーを盛る。ここでも夫婦共同作業と叫びたかったがやめておいた。

席に着いて、

「「いただきます」」

「…どうかしら?」

「普通に旨い。売れるんじゃないかな。子ども秘書のカレー屋さんで。…いたいいたい脚蹴らない」

お世辞抜きでも波江のカレーは美味だった。スパイスがよく効いていて、まろやかさもある。具材もよく煮込んであって良い。

…だけど。臨也は思う。

—なんでこう、素直じゃないのかなあ

ーーーーーーー
「今日はここに泊まりなよ。夜は変態が多いんだし」
「タクシーでも呼ぶわ。…変態から逃げるために早く帰らないと」

「まるで俺が変態みたいな言い方だね」

「あら?私、なにか間違えたかしら?」

後片付けを終え、悪あがきよろしく再び打開策を模索している波江達。

「ここも無理、か…。やっぱり、ネブラ以外駄目みたいだ」

「メディアに売られて愛想笑い振り撒くのは性に合わないわ」

「それもそうだ—……?」

突然会話を中断し、眉間に手をやる臨也。

そんな彼を見て—

波江は、ひそかに全身を緊張させた。

「…どこか悪いの?」

「いや、大丈夫だ。…おかしいな。…なんか…きゅうに…ねむく…」

バタン

臨也はそのまま体勢を崩し、机に突っ伏した。それと同時に波江も椅子から降り、臨也の元へ行く。

腕を引っ張って頭を出し、頭を動かして顔と向かい合わせになる。皮肉なことに寝ていれば美青年といえなくもない情報屋は、健やかな寝息をたてていた。

「………」

発見その一。意外なことに隈がうっすらある。

「……………」

発見その二。野郎にしては睫毛が長い。

「…………………」

発見その三。寝顔は案外子供っぽい。

…………

………………

初めてのことではない。確かにこいつにするのは初めてだが、同じことは腐るほどやってきたはずだ。

しかし、何故かためらってしまう。心臓は早鐘を打っているし、頬もだんだんと紅潮してきた。

—ええい、こうなれば勢いよ!

波江は首を左右に振り、思いきって目を瞑り顔を臨也に近付けた。このまま事故のようにことを済ませ、なにもなかったかのように後始末をすれば波江はいつの間にか元通りのハッピーエンド。

の、筈だった。

——え?

唇に来るはずだった体温がない。それどころかからだ全体がなにかに包まれているような感じがする。

恐る恐る目を開けると—

「…は?」

波江は臨也の膝に乗っており、臨也の腕がそれを支えていた。勿論、臨也も目を醒ましている。

—嵌められた

そう後悔するよりも早く

「残念でした♪」

強く抱き締められ、乱暴に口付けされた。

暗転。

ーーーーーーー
翌日。情報屋

朝起きると臨也の冬用コート以外は裸でした。

そう書くといかがわしいが、残念なことにそういうアブノーマルなことは起きていない。波江は横に用意されていた、昨日着ていた服を着て仕事場へ出た。—ワンピースではない。タートルネックにミニスカート。いつもの波江の格好である。

「やあやあお姫様。ファーストキスの感想はどうだい?」

「別にあれが始めてではないわ。変態の星の王子様」
臨也は満足そうに笑むと、波江に自分のデスクに座るよう促した。

「しかし、君も案外乙女だ。あんな原始的な方法を取るとは。そのために睡眠薬を混ぜたカレーをご馳走してくれるなんてまったく可愛い妹だ。あ、勿論それはすり替えたんだけど」

「細胞を一定まで緊張させる—もっとも安全な方法でそれをやっただけよ。死にかけるわけにはいかなかったし」

こともなさげに言い、己のパソコンを開いて作業に集中する波江。

そんな秘書の耳朶が少し赤くなっているのを見て—

臨也は再び、満足そうに微笑んだ。
なんだかいろいろきな臭いが、人体実験をしようが生首保管しようが矢霧製薬は一応薬の開発、販売を手掛ける企業だった。ちゃんと人様のための良薬も開発している。

波江が誤って服用した薬もその一つで、ちゃんと調整して国の許可が下りれば奇跡の薬として法外な値段で売り捌けるはずだった。(こういう胡散臭いところが、いかにも矢霧製薬らしい)

しかし奇跡は奇跡。起こらなければ幻だ。無論その調整が滅法難しく、ついに開発チームはその薬の一般化を見送った。薬は倉庫にしまわれ、時期が来ればうまいこと処分されるはずだった。

それがネブラの矢霧製薬買収が決定してから雲行きが怪しくなってしまった。ネブラはアメリカの大手複合企業で、薬関係においてもかなりの力を有しているとされる。しかもその研究と開発を担うチームには—不老不死の研究者がいるとの噂だ。そんな不思議SFトンデモ集団に隠している劇薬のことが見付かればやばい。奴らは絶対にそれを商品化してみせる。波江のプライドは、それを許さなかった。

とまあ、今回の騒動にはこんな背景が潜んでいたわけだが—いまの波江にとっては、全てがどうでもよかった。

—本当に、小さくなってしまうなんて—

服用した薬は、細胞一つ一つを若返らせ臓器の活動を活発化させるものだ。(医療の知識がないのでこれ以上のことは書けない)しかし調整前で得られる効果が過大なため、結果として退化した。こういった具合である。

波江は溜め息をついて、臨也のジャケットのファーを触った。やけに、肌触りがいいので、気に入っている。

現在の彼女は小学生くらいの外見で、『大きく』なってしまった自分の服に着られてるといった風だ。ジャケットは、彼女の状態をみた臨也が放ったものである。まだ少し体温が残っている。いま、この上着の主はここにはいない。幼児化した波江の服を買いに出掛けているのだ。

まず彼は、波江の姿をみて目を丸くした。そしてだんだん耳から顔が赤くなっていったかと思うと—やや乱暴に己のジャケットを波江に放り、少し上擦った声で服を買いに行ってくると告げた。

—あんな奴でも赤面するのね。

その時の臨也を思い出すと、少し可笑しい。まあ子供といえどそのときは肩どころか胸まで丸出しだったから赤面する可能性も考えられるが、奴がここまでウブだったとは。

実際のところ臨也は女性関係に関してはかなり悪どい。よく波江を口説いてはいるが、それも恐らく本心ではないだろう。少なくとも波江はそう考えていた。

しかし、彼女はここでまた誤算した。臨也が波江を愛しているのは本当のことだし—先程の赤面は、彼をさらに間違った方面に目覚めさせた合図だったのだ。

ーーーーーーー
ガチャリ

扉が開く音がした。かと思うと臨也は目の前まで来ていた。やけに真面目な顔をしている。

「服、買ってきてくれたの?」

少したじろきながら訊くと
「………」

無言のまま、やけにでかい紙袋を渡される。見ると、なかにはさらに色んな店の袋が入っている。別々の店でいろいろ買い、いっしょくたに紙袋に入れたらしい。

「こんなにたくさん?まあ、いつ戻れるかわからないから着替えは多いほうがいいんでしょうけど…」

戸惑いながら顔を上げると
「……今日のあいつ、いつも以上に変ね…」

臨也はもういなかった。耳を澄ますと、別の部屋から彼の話し声が聞こえてくる。声が一つだから、おそらく携帯だろう。とにもかくにも、着替えてみなければ始まらない。そう考え、紙袋のなかの服を取り出したのだが—

が—



—?

——!!

ーーーーーーー
「でさあ、この次はどうすればいいの?君の取り巻きの—遊馬崎くんのおかげで服はなんとかなったけど。いやいや、俺の妹はかなり変だったからあてにならな—頼むよドタチン。俺に新しい妹ができたって言ってまともに取り合ってくれたの、君しかいないんだからさあ…って、波江?」

腰のあたりからする気配に気付き、慌てて通話をやめる臨也。

そして最愛の秘書の姿を認め—

まず携帯の機能でパシャリ。

「…なに、やってるの?」
「やばい。これ待ち受けにしよう。いやあ、想像以上じゃないか。可愛いどころじゃない。あれだ、萌え死ぬ」

興奮した面持ちでまくしたてる臨也に若干引きつつも、とりあえず波江は相手の脛を思いっきり蹴った。

「—っ!地味に痛い。けど嬉しい。攻撃をしかけてきたらわざと当たったほうがいいとのことで当たってみたが、存外たまらないぞ、これ。いやしかし俺はマゾじゃ—」

「あんたの変態発言はどうでもいいの。—なんで、あんなふざけた服買ってきたわけ?」

いま波江が着ている服は子供用のワンピース。ストライプが効いている、上品なものだ。合わせに用意されていたニーソックも、一応履いている。—それはそれでいいとして。

「はっはっは。まさかあれらを着てもらおうだなんて思ってもみないさ。ドタチンの子分であるキツネ目君に見繕ってもらったんだけどね?彼はなかなかいいセンスをしている。特にあのスクール水着と猫耳の組み合わせなんて想像して鼻血吹きそうになったよ。その前に不審者がいるってんで職質かけられたんだけど」
「そんな冗談やってる暇あったら、とっとと元に戻れる方法探しなさいよ」

腰に手を当て、しかめっ面で相手を見上げて命令する波江。

それを見た臨也は—

パシャリ。

「……は?」

「ピクチャ貼り付け、メール受信画面っと。いやあ、可愛い。なんだかんだいって俺チョイスの服着てるのも可愛い。これであとチョイスしたカチューシャとランドセルつけてお兄ちゃんと呼んでくれれば完璧だ。なにかが俺のなかで壊れる」

もうこいつだめだ。

波江は再び溜め息をつくと、とりあえず仕事場へと戻った。私用にあてがわれた書棚から医学書など薬に関する資料を捜し、解毒作用のあるものはないか調べるためだ。

とてとてと書棚の前に行く。

存外書棚は大きかった。

背伸びをする。

届かない。

さらに背伸びをする。

届くはずもない。

………

「どれ、お兄ちゃんがとってあげよう。なんなら肩車してあげてもいいよ」

「……上から二段目から全部。あとこの椅子、高くて登れない」

変態に頼らなければいけない自分が不甲斐なくて仕方がなかった。




その日は、朝から頭が痛く、憂鬱とした日だった。

けれど頭痛がこんな事態を招こうなんて、考えるほうが馬鹿なほどありえないことが起きた。そう、まるで陳腐な二次創作の集大成のような、別次元でおこるべきことが。


秘書の波江ちゃん、1


某月某日 情報屋 事務所

「—あいつ、帰ってくるの遅いわね…」

淡々とデスクワークをこなしつつ、波江はふと呟いた。

時は会社だとお昼休み。昼食を買いに出掛けた上司はなかなか帰ってこず、仕方なしに昼食を終え一人先に仕事を始めている形だ。

—また、あのバーテンとリアル鬼ごっこでもしてるのかしら

用がないかぎり池袋には寄らない筈だし、昼食くらい近くのコンビニで買える。しかし時間が時間だ。ひょっとしたら、という可能性もでてくる。

—まあ、私には関係ないし
冷酷なことを考えつつ、雑務を黙々とこなす波江。

最近はやたら近辺がせわしなく動いていたおかげで、あまり休めていない。しかしあの男に貸しをつくるとあとで面倒なので気力で頑張っている形だ。

もとから優秀なため、すでに今日のノルマは終えているのだが—だからといって最愛の弟に想いを馳せていたらなかなか戻ってこれないし、ほかにすることもないしでとりあえず私事に撤している。

いま行っているのは端的に言えば証拠隠滅だ。先日ある用で向かった『旧』矢霧製薬の倉庫。そこに眠っているある危険な薬とそれにまつわる書類を、用事とともに回収したのだ。その書類を現在、シュレッダーにかけている。

それに記されている薬はまだ波江が矢霧製薬にいた時代、首の保存やなんやらでいろいろと研究している間に偶然開発してしまったものだ。平たく言えば法律違反の劇薬。おおげさに言えばなんの保証もない、なにがおこるかわからない未知の薬である。いくらなんでもこれが矢霧製薬を買収したアメリカの企業、ネブラにしれわたるとまずい。なのでこうして全ての証拠を抹消しているのだ。

しかし波江とてさすがに疲れており、いつもより若干作業の手が遅い。(それでも十分早いが)現に少し切れ長の瞳の下には疲労のあとが少々のこっていた。顔色たも若干悪い。しかしそれらの要因は波江の色気を儚い方向へ高めただけで、別段マイナスイメージにはなっていなかった。

しかし、いくら外見にあまり影響がないからといっても体調不良は体調不良。体の危険信号は決して容赦などしない。

十二枚目の書類を始末してしまうとき、不意にそれは訪れた。

「——っ!」

朝から波江を苦しませてきた、重い頭痛。朝はなんとか鎮痛剤を服用してしのげたが、いまになってまたぶり返してきたようだ。こめかみを押さえ、暫し硬直する。

—痛いわね、もう

波江は若干苛立ちつつ、ハンドバッグから鎮静剤のだ。入った小瓶をとりだす。錠剤タイプのもので、水はいらない。だからすぐ服用することが可能だ。手早く四錠ほど服用し、再びシュレッダーに向かう。

ここで彼女は、実に彼女らしかぬミスを犯した。

一つ。体調が悪いのなら後々のためこの段階で臨也の携帯電話に連絡を入れ、すぐにでも帰るべきだったこと。

二つ。彼女がいま服用したのは、似たような外見のまったく別の薬だということ。—完璧な秘書は、自分で考えているよりも疲れていたのである。

そして三つ。これが致命的で—結果として波江の平穏を破る点だ。

波江が服用した薬はまだ試作品で、しかもかなり危険なため市販は無理だろうと考えられていた劇薬。

つまり、彼女は自らが消し去ろうとしていた危険な薬を—自分で飲んでしまったのだ。

波江は急にいままでの倍以上の激しい頭痛を感じ、書類もそのままに倒れ臥してしまった。


ーーーーーーー
「ただいまー。いやあセブンのお握りがどれも旨そうで。波江はどれにする?とりあえず好きそうなの買ってきたけど。ちなみにこのダークネスシーチキンマヨネーズは六個とも俺のだから食べないように—あれ?」

数十分後、情報屋。

やっと上司が帰ってきた。
波江はまだ痛む頭でそう思い、そういえば書類がそのままだったと体を起こす。別に見られても構わない(そもそも専門知識がない限り解読は不可能だろう)が、書類を散らかしたまま寝ていたでは体裁もなにもない。とりあえず、立ち上がろうとしたのだが—

「あれ?波江—?…いないのか?携帯にはなにも来てないけど」

—…なに、これ

着ているセーターの袖がずり落ち、手を隠してしまっているのに気がついた。たくし上げても体に合わず、すぐ落ちてしまう。

それだけではない。見ると、どうやらセーターは体に対しとても大振りで、肩まで襟のなかに入ってしまって収まらない。下着もスカートもそんな状態だ。

これじゃあ、立ち上がるのは無理である。とりあえず臨也が部屋を出るのを待つことにした。見られたは見られたで、服でも買ってきてもらうしかない。何故いきなり服が伸びたかわからないが、波江の脳はさりとて混乱せずそう考えた。

けれど違和感は容赦なしに襲いかかってきた

—なんか部屋、広くなった?

いま波江は自分のデスクの前にちょこんと座っている形だ。それがいつもより
机が大きく見える。波江の道具ではなく、まるで波江が装飾品であるかのような威圧感だ。

それに、なんだか力が入らない。手がちいさい。…周りを観察すればするほど、あからさまな相違点が目に入る。

ちょっと待て。

混乱した頭が推測を始めた瞬間—

「——え?」

ついに波江を捜し当てた臨也が、答えを突き付けてきた。

「波、江?…なんでちっちゃくなってるのさ」
私は別に障害もなにも持っていない健康な子供だったが、少し難儀な特徴を授かっていた。

それは、肌が他人よりもストレスを感じやすいということ。

つまり私は、割りと酷い部類のアトピー患者だった。勿論症状を和らげることは十分可能であるし、一番みられる顔に被害がそこまで及んでいなかったから、ぱっと見で人が敬遠するほどのものではない。

しかし肌は乾き、疼いて、ぼろぼろ欠けた。当時の私が夏服を着れば、かける言葉を失う人が多分出てくる。

腕の間接はこれまでの傷痕が残って腫れているし、手首からそこにかけて鱗のような瘡蓋が這っていた部分もあった。背中やお尻が変色している。ほとんど痕跡がなくなったいま思うと、あの頃は多感で大変だった。

フリルがついた肌着を嫌い、かわりにひんやりとする夏用のものを年中愛用した。丹念に保湿剤を入浴後に塗り、ハウスダストアレルギーのため部屋はまめに掃除していた。からだが温もったら痒くなるので、湯船にはまったく浸からなかった。しかし、私がいくら気を付けても体はがさがさになっていく。

保湿剤の塗り方がなっていなかったのだろうと思う。しかし原因はほかにもあった。私は臆病者でへんなところで敏感で、皆が感じるところでひどく鈍感だったのだ。

痒くてたまらない。不潔にしているわけではないのに、この疼きはなんなのだろう。関節が痒い。肩甲骨が動かしにくい。お気に入りの服に血がつく。

私はうんざりしていた。そしてそんなうんざりが少しずつ変わっていくのが、中学生のころだった。

ーーーーー

私の枯渇がピークに達していたころ、丁度始業式が始まった。中学生二年生といえば生意気盛りで、やっぱりというかなんというか、早速式をボイコットしている子もいた。

そういう行為ほど迷惑なものはない。—私の痒みはこういったどうしようもなく腹の立つような、しかし諦めも混じっているような空気に敏感だったのだ。

案の定背中が猛烈に疼いた。急に熱を持って、いまにも掻きむしりたい気分になる。

しかし式の途中でそんな醜態を晒しては駄目だ。結局我慢せざるを得なくなり、拳をぎゅっと作って耐える。

痒い痒い痒い。校長の話は長い。不景気だのなんだのいろいろとうるさい。そんなに贅沢のできる世の中が良いのなら、金持ちの国に媚びでも売るか亡命すればいいんだ。

いつしかそんな暴論まで思い付くほど、私はストレスの真っ只中にいた。処方された薬を早く塗らないと。しかし効いているかどうか私にもわからない。症状はこれ以上悪くはなくなったが、よくもならないのだ。
唇を噛み締める。眉間に皺が寄る。ここまで校長の話に不快感を示している生徒もそうそういないだろう。なんとも滑稽な話だ。

周りの風景が霞む。黒色の生徒の群が、ただの黒色になりつつある。校長なんてマッチ棒だ。彼の言葉は私の鼓膜を擽らない。

私の異変に気づかないくらいだから、ひょっとしたら本当にマッチ棒なのかもしれない。じゃあ周りの先生はなんなのだ。立ってる棒切れか。面白い話だ。棒が授業を教える学校なんて。
私の瞳はだんだんと気を失いつつあった。故に思考も滅茶苦茶だ。

もう諦めて掻いてやろうか。そう思いセーラー服に手をかけた途端、

「ちょっとあなた。—大丈夫?顔色悪いわよ」

棒の群の一本が急に肉付けられ、教師となってこちらに駆け付けてきた。


乾いた躯1、『散る』


「あ、よーちゃん。……大丈夫?」

教室に戻ると、幼馴染みの梅子ちゃんがとてとてと近づいてくる。小学校からの付き合いで、一年生の時はクラスが離れてしまったけれど今年は一緒でよかった。

「うん、大丈夫」

私よりも背の低い梅子ちゃんはそう聞くや否や花が咲くように笑んだ。私と違って素直な良い子である。

クラスの面子は可もなく不可もなく。担任も同様だ。私はこういったイベントに関しては無関心だった。誰と一緒のクラスになろうが二学年の日々は始まるからだ。しかし体育祭の応援には長袖のジャージを着つつ全力を尽くす。大人になったいまでは、よくわからない心情だ。

「心配したんだよ?急に先生に連れていかれて。薬、塗ったの?」

まだ馴れ合いの空気の濃い環境で、彼女は良い意味で浮いている。下手に空気を読まないところがとても助かっている。

結局あのあと見知らぬ教師に連れられ保健室まで行った。そこで常に持ち歩いている保湿剤を塗る。しばらくちくちくとする刺激に耐えた後、もうしばらく再発しないことを確認してから新しい教室へと急いだのであった。

女の先生は顔中に包帯を巻いていたが、話してみると存外気さくであった。顔を知らなかったのであるから、新任の人だろう。

「…すごい」

自分一人では渇きに喘いでいる背中の世話を仕切れない。

だから先生に手伝ってもらったわけなのだが、彼女は私の背中を見るやそう口にした。

「お恥ずかしい話です。自業自得で気分が悪くなってしまうなんて」

「自分の意思で彫ったの?痛かったでしょう。こんな獣は、からだのなかで暴れるから。でもいまどき偉いわね。自らを犠牲にして育ててるなんて」

へんなからかい方をする先生だ。私は別に、刺青をするような不良ではないのだけれど。

私とて首が動くことくらい知っている。鏡越しに己の背中を見るくらい容易だ。勿論そこには被災地のような惨状になっている皮膚が広がっているだけなのだが。

「すみません。私、本とかあまり読まなくて」

「あら、自分じゃ見れないのね。間抜けな学生さん」
彼女の指は滑らかに動き、私の干ばつ地帯を潤していく。熱を持って暴れだしているところが、指が触れたとたん静まるのがわかる。塗り薬の感触が心地良い。それどころか、とても尊い水を与えられているような錯覚さえする。

「こんなちんけなものじゃ鎮まらないわよ。…一応、紋様描いといたからしばらく収まるでしょうけど」

先生は私の背中を掌で軽く叩いた。

そこはもう、大分静かになっていたのである。

「へえ。随分と変わった先生なのね」

梅子ちゃんにそのことを話すと、彼女は不思議そうに瞬きした。こういうとき露骨に気味悪がらないところが、私にとってとてもやりやすいところでもある。

「うん。なんてったって顔面包帯だからね。失礼だけれど、すぐ記憶に残っちゃうわ」

「体育の曽根崎よりも?」
「あれはゴリラだもん。記憶に残らない人は病院に行ったほうが良いわ」

くだらない話で盛り上がっていると、がらりと引き戸が開いて空気が冷え込む。授業が眠いと評判の教師は、年季の入った声で席につけとせかした。


ーーーーー

始業式のあとはオリエンテーションと掃除だけしてお開きだ。部活組はせかせかと部活へ急ぎ、帰宅組はのんびり帰路に着く。

私は後者なので、のろのろと通学鞄を手に教室を出る。明日から休み明けテストだから少し憂鬱だ。勉強は苦手だ。良い陽気のなか考えることではないが、抜けるような青空を見ているとどうしてもそう思ってしまう。

痒みは殆ど引いた。稀に感じる清々しさだ。変なことを言っていた先生だけれど、案外良い先生なのかもしれない。

そんなことを考えながら歩いていると、いつも通る桜の木の前に立っていた女の人が急に話しかけてきた。一本だけ、ぽつんと花を咲かせている桜で、その風流な姿はとても美しい。

女の人はさっき会った先生だった。顔に包帯を巻いてあるから、すぐにわかる。彼女は道に迷ったらしかった。

「ごめんなさいね。…ここに来たばかりで」

「いえいえ。構いませんよ。あとはパン屋の角を曲がって真っ直ぐ進んだら急に道が開く筈です。そこまで出たら目と鼻の先ですから」

駅へ行く道だった。新任の人だから、まだ土地勘が沸かないのも納得できる。

先生は私の言葉を一つ一つ丁寧に拾い上げていった。布に覆われた顔でまめに頷く。しかしその動作はどこかぎこちなく、私に保湿剤を塗ってくれたときの滑らかさは感じられなかった。
首まで怪我をしてしまっているのだろうか。タートルネックのセーターを着ているし。

そんなことを思いつつ道案内を終え、立ち去ろうとした時だった。先生が私を呼び止めた。

「……何かご用ですか」

「失礼だけれど…あなたのその炎症、全身に…?」

私の手首を指差して言う。そこは焼けただれたみたいに腫れて、様々な吹き出物ができていた。—開放的になるとすぐこれだ。日本が肌を見せない文化の国だとよかったのに。

しかし言われるのは慣れているので、別段不快感も覚えずはいと答えた。

「そう……。顔にでていなくてよかったわね。女の子ですもの」

先生はそう言うと、悲しそうに快晴の空を見上げた。
桜の薄桃と鮮やかな水色がよくマッチしている。まさに春、というやつだ。桜ははらはらと花弁を散らしている。

不思議な花である。桜を見ると、つくづくそう思う。その愛らしい花弁が欠け散る様が一番美しいなんて。私なんて、欠けずにいられることさえもが夢物語のような体なのに、綺麗とは誰も言わないし自分でも思わない。

「…ちょっと、昔を思い出しちゃったみたい。ごめんなさい、いきなり付き合わせちゃって」

先生は思い付いたようにこちら側に振り向き、お詫びにと飴をくれた。淡い色をした包み紙にくるまれている。口に入れると、春の味がした。

ーーーーー

私は奇妙な者との邂逅が一等多かったような気がする。しかしそのたび私は未知との出会いを許さず、あくまでも自分の思い描く世界の住人として理解不能の存在を理論的に無理矢理結びつけていた。

だから渇いていたのかもしれない。変化を望まない日常。私は幽霊が来ようが地震が来ようが、私であり続けたのだ。

つぎの場面に出てくるめばるさんという人は、当時の私にとってはお節介で迷惑。でも優しくて頼れる隣人にしか過ぎなかった。

とでも記せばまるで彼が人外であると言っているものだが、実際はわからない。
そう、いまの私には知る術はないのだ。めばるさんの不思議な魅力のある笑み、言葉の端々から伝わる不気味さ。その全ては、いまとなっては思い出のなかでしか生きていない。

しかし頑なに自分で在り続けようとした私に粘り強く付き合ってくれたのがめばるさんだ。彼のしたかったことは、いまではよくわかる。いまだからわかると書いた方が語弊がないかもしれない。

何はともあれ、私とめばるさんとの付き合いは長い。その辺りを踏まえて読んでいただきたい。