その日は、朝から頭が痛く、憂鬱とした日だった。

けれど頭痛がこんな事態を招こうなんて、考えるほうが馬鹿なほどありえないことが起きた。そう、まるで陳腐な二次創作の集大成のような、別次元でおこるべきことが。


秘書の波江ちゃん、1


某月某日 情報屋 事務所

「—あいつ、帰ってくるの遅いわね…」

淡々とデスクワークをこなしつつ、波江はふと呟いた。

時は会社だとお昼休み。昼食を買いに出掛けた上司はなかなか帰ってこず、仕方なしに昼食を終え一人先に仕事を始めている形だ。

—また、あのバーテンとリアル鬼ごっこでもしてるのかしら

用がないかぎり池袋には寄らない筈だし、昼食くらい近くのコンビニで買える。しかし時間が時間だ。ひょっとしたら、という可能性もでてくる。

—まあ、私には関係ないし
冷酷なことを考えつつ、雑務を黙々とこなす波江。

最近はやたら近辺がせわしなく動いていたおかげで、あまり休めていない。しかしあの男に貸しをつくるとあとで面倒なので気力で頑張っている形だ。

もとから優秀なため、すでに今日のノルマは終えているのだが—だからといって最愛の弟に想いを馳せていたらなかなか戻ってこれないし、ほかにすることもないしでとりあえず私事に撤している。

いま行っているのは端的に言えば証拠隠滅だ。先日ある用で向かった『旧』矢霧製薬の倉庫。そこに眠っているある危険な薬とそれにまつわる書類を、用事とともに回収したのだ。その書類を現在、シュレッダーにかけている。

それに記されている薬はまだ波江が矢霧製薬にいた時代、首の保存やなんやらでいろいろと研究している間に偶然開発してしまったものだ。平たく言えば法律違反の劇薬。おおげさに言えばなんの保証もない、なにがおこるかわからない未知の薬である。いくらなんでもこれが矢霧製薬を買収したアメリカの企業、ネブラにしれわたるとまずい。なのでこうして全ての証拠を抹消しているのだ。

しかし波江とてさすがに疲れており、いつもより若干作業の手が遅い。(それでも十分早いが)現に少し切れ長の瞳の下には疲労のあとが少々のこっていた。顔色たも若干悪い。しかしそれらの要因は波江の色気を儚い方向へ高めただけで、別段マイナスイメージにはなっていなかった。

しかし、いくら外見にあまり影響がないからといっても体調不良は体調不良。体の危険信号は決して容赦などしない。

十二枚目の書類を始末してしまうとき、不意にそれは訪れた。

「——っ!」

朝から波江を苦しませてきた、重い頭痛。朝はなんとか鎮痛剤を服用してしのげたが、いまになってまたぶり返してきたようだ。こめかみを押さえ、暫し硬直する。

—痛いわね、もう

波江は若干苛立ちつつ、ハンドバッグから鎮静剤のだ。入った小瓶をとりだす。錠剤タイプのもので、水はいらない。だからすぐ服用することが可能だ。手早く四錠ほど服用し、再びシュレッダーに向かう。

ここで彼女は、実に彼女らしかぬミスを犯した。

一つ。体調が悪いのなら後々のためこの段階で臨也の携帯電話に連絡を入れ、すぐにでも帰るべきだったこと。

二つ。彼女がいま服用したのは、似たような外見のまったく別の薬だということ。—完璧な秘書は、自分で考えているよりも疲れていたのである。

そして三つ。これが致命的で—結果として波江の平穏を破る点だ。

波江が服用した薬はまだ試作品で、しかもかなり危険なため市販は無理だろうと考えられていた劇薬。

つまり、彼女は自らが消し去ろうとしていた危険な薬を—自分で飲んでしまったのだ。

波江は急にいままでの倍以上の激しい頭痛を感じ、書類もそのままに倒れ臥してしまった。


ーーーーーーー
「ただいまー。いやあセブンのお握りがどれも旨そうで。波江はどれにする?とりあえず好きそうなの買ってきたけど。ちなみにこのダークネスシーチキンマヨネーズは六個とも俺のだから食べないように—あれ?」

数十分後、情報屋。

やっと上司が帰ってきた。
波江はまだ痛む頭でそう思い、そういえば書類がそのままだったと体を起こす。別に見られても構わない(そもそも専門知識がない限り解読は不可能だろう)が、書類を散らかしたまま寝ていたでは体裁もなにもない。とりあえず、立ち上がろうとしたのだが—

「あれ?波江—?…いないのか?携帯にはなにも来てないけど」

—…なに、これ

着ているセーターの袖がずり落ち、手を隠してしまっているのに気がついた。たくし上げても体に合わず、すぐ落ちてしまう。

それだけではない。見ると、どうやらセーターは体に対しとても大振りで、肩まで襟のなかに入ってしまって収まらない。下着もスカートもそんな状態だ。

これじゃあ、立ち上がるのは無理である。とりあえず臨也が部屋を出るのを待つことにした。見られたは見られたで、服でも買ってきてもらうしかない。何故いきなり服が伸びたかわからないが、波江の脳はさりとて混乱せずそう考えた。

けれど違和感は容赦なしに襲いかかってきた

—なんか部屋、広くなった?

いま波江は自分のデスクの前にちょこんと座っている形だ。それがいつもより
机が大きく見える。波江の道具ではなく、まるで波江が装飾品であるかのような威圧感だ。

それに、なんだか力が入らない。手がちいさい。…周りを観察すればするほど、あからさまな相違点が目に入る。

ちょっと待て。

混乱した頭が推測を始めた瞬間—

「——え?」

ついに波江を捜し当てた臨也が、答えを突き付けてきた。

「波、江?…なんでちっちゃくなってるのさ」