『蘇我馬子』
第1回
「蘇我馬子とは?」
蘇我馬子
第1回 蘇我馬子とは?
ヤマト朝廷が成立する前の6世紀中頃の日本(ヤマト)(『日本書紀』の表現)は、大王(おおきみ)(天皇)を中心に複数の豪族の代表者による合議で政治がなされていた。
有力豪族は天皇の前に出られるという意味で大夫(まへつきみ)と呼ばれ、中でも大臣(おおおみ)と大連(おおむらじ)は、朝廷内で最高の地位だった。
その大臣を長年務めていたのが蘇我氏で、大連は物部氏が担っていた。
歴代蘇我氏のなかでも、際立った権勢を誇ったのが蘇我馬子だ。(第7回)
●『日本書紀』では「ヤマト」を日本と表現している。
●この時代にはまだ「天皇」という呼び名はなく、実際には「大王・大君」と呼ばれていたらしい。後に『日本書紀』が、「天皇」に書き換えたと考えられる。
<蘇我馬子の年表>
蘇我馬子は、宣化・欽明時代の大臣であった蘇我稻目の長男だ。
敏達元年(572年)の敏達天皇の即位時に、わずか20歳そこそこで父より大臣の地位を受け継いだ。その後、敏達・用明・崇峻・推古の4代の天皇に仕え、55年間という長期にわたって国を動かした。(第2回)
6世紀末に豪族間で仏教を巡る対立(崇仏抗争)が勃発し、物部氏との戦い(丁未の変)に勝利した蘇我馬子は強大な権力を持つことになった。(第6回)
姪(めい)にあたる推古天皇の時代には、朝廷で天皇にも劣らない揺るぎない権力を誇った。(第7回)
『扶桑略記』(ふそうりゃっき)によると、欽明12年(551年)に生まれ、推古34年(626年)に76歳で亡くなったという。76歳という年齢は当時ではかなりの長寿といえよう。
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(担当 H)




