『蘇我馬子』
第2回
「蘇我氏の系統」
甘樫丘
第2回 蘇我氏の系統
蘇我氏については不明なところが多く、その具体的な出自・系統が論争になる。
『古事記』などの伝えるところでは、蘇我氏の始祖(氏祖)は、一応は武内宿禰(たけのうちのすくね)(写真)となっている。第8代孝元天皇の三世孫で五代にわたり神功皇后や天皇に仕えたという。
しかし、孝元天皇や武内宿禰の実在性は、今日では極めて薄い。
武内宿禰の息子であるとされている蘇我石川宿禰(いしかわのすくね)が蘇我家の初代当主となる。
このあたりから実質性が増してくる。
石川宿禰の名の石川は、河内国の石川郡にも大和の高市郡にもあって定かではない。
石川宿禰の子供が蘇我満智(そがのまち)だ。
満智は5世紀の雄略朝に、現在の財務大臣に当たる「三蔵検校」に就任していて、朝廷の蔵の管理にあたっていた。当然、実質的業務は渡来人が行っていたので、渡来人との関係は深かっただろう。
そして、蘇我満智の子供が蘇我韓子(そがのからこ)だ。
『日本書紀』によると、雄略9年(465年)に雄略天皇の命令で、韓子ら4人の将軍の新羅征討軍が派遣された。征討軍は新羅王を敗走に追い込むものの、その後の戦いで苦戦を強いられた上に、仲間割れから蘇我韓子は味方に殺害されたという伝承がある。
蘇我韓子の子供が蘇我高麗(そがのこま)だ。
別名は蘇我馬背(そがのうませ)。母が高麗(高句麗)人だったので、高麗と呼ばれたとする説があるが根拠はない。また高麗は『記紀』には記載がない。
そして、蘇我高麗の子供が蘇我稻目(そがのいなめ)とされている。蘇我一族の繁栄を導いた始祖(氏祖)だ。
この稻目の代になって、蘇我氏は歴史の表舞台に登場してくる。『古事記』に登場するのはこの稻目だけで、その後三代(馬子・蝦夷・入鹿)は『日本書紀』にのみ登場する。
稻目は、宣化元年(536年)に大臣(おおおみ)の地位につき、欽明31年(570年)に亡くなるまで、次の欽明朝においてもこの地位にとどまっており、大伴氏や物部氏とともに、長期にわたって政権の中枢にいた。
大和王権下において、有力な豪族たちの集団を「氏(うじ)」といい、「氏上(うじがみ)」(一族の首長)を中心としてまとまっていた。また、氏上は大和王権の構成員であり、それぞれの地位に応じて「臣(おみ)」「連(むらじ)」「宿禰(すくね)」「造(みやっこ)」というような「姓(かばね)」を授けられていた。これを「氏姓制度」という。そして、最も力のある豪族には「大臣(おおおみ)」と「大連(おおむらじ)」という位を授けられていた。財政や外交を担当していたのが「大臣」の蘇我稻目で、軍事や裁判を担当していたのが「大連」の物部尾輿(もののべのおこし)だった。
当時の倭国の政治を執っていたのは天皇(大王)ではなく、大臣・大連とその下の大夫(たいふ)などの重臣たちが行っていた。つまり大王の地位は各地域の首長から構成される連合政権の盟主に過ぎなかったのだ。天皇が独裁的に政治を執るようになったのは天智天皇以降である。
それまでの天皇は、神祇の最高司祭者に過ぎず、実力はなかったがまわりから崇拝され権威はあったと思われる。
それが証拠に、後々起こる崇仏抗争や天皇後継者争いで、天皇(大王)は決断することができず右往左往するばかりだった。
稻目を始め蘇我氏が勢力を伸ばしたのは、彼らが財政を握っていた大臣だったからという説もある。すなわち、当時は算術や文字を駆使して財政の帳簿を付ける技術は渡来人でしかなく、蘇我氏四代が有能な渡来人を配下に置いて最高責任者の大臣だったのだ。すなわち、不正をチェックする者など誰もおらず、財政を自在に操(あやつ)れたのである。さらに言うなら、横領で私腹を肥やしたということになる。しかし当時は、現代ほどそれが罪だという意識は低かっただろう。お互い、役得は当然のものとみなされていたと想像できる。
蘇我稻目は、その経緯は分からないが二人の娘(堅塩媛(かたしひめ)、小姉君(おあねぎみ))を欽明天皇の后(きさき)とし、天皇の外戚としての地位を確固たるものにした。これにより2つの蘇我氏系嫡流を創出し、稻目を外祖父にもつ皇子・皇女は全部で18人、うち皇子は11人に上った。この中から用明、崇峻、推古の3人が帝位に就いた。まさに「蘇我氏親族王権」と言える。
このようにして得た外戚の立場が、蘇我氏の権力の基礎となった。(第3回)
屯倉(みやけ)の管理もその実績の一つである。稻目は吉備の5郡に白猪(しらい)、次いで備前に児島、さらに大和・紀伊にも屯倉を置いて、朝廷の財政的・政治的な力を強固なものとした。屯倉とは一般的には朝廷の直轄地とされているが、米蔵、土地、領民、役所、軍事拠点、地方組織など様々な意味合いがある。屯倉がいつ頃から設置されたかは諸説あるが、大王の権力が強くなる5世紀以後の仁徳のころからではないかと言われている。
曾祖父とされる財務大臣の満智と同様に、稻目もまた半島からの渡来人やその氏族と密接な関係をもっていた。高度な技術や知識を持つ彼らは、財政と外交の両面で不可欠な存在であった。渡来した知識人や技術者たちは漢氏(あやうじ)の統率下に入り、それを稻目が支配していた。(第5回)
宣化3年(538年)、百済の聖明王から仏像や経典,仏具などが献上された。これが世にいう仏教伝来(仏教公伝)である(552年説もある)。欽明天皇のご下問(かもん)に対し、稻目は「諸外国がすべて仏教を受容する中で、日本だけが拒絶するのは不当です。」と奏上した。
『日本書紀』によると、この頃の朝廷内では廃仏論一色に染まっており、仏教推進論者はすでに晩年であった蘇我稻目ただ独りだった。いかに強大な勢力を持つ稻目といえども、圧倒的な多数派の前に動きを封じられていた。それでも稻目はその後も仏教の保護に力を注いで、日本の仏教の広まりを始めた人物であった。(第4回)
屯倉を拡大し、娘たちを皇族に嫁がせ、渡来系氏族を優遇し、仏教を自らの勢力拡大に結び付けるところなどは、稻目の感覚の鋭さと狡猾さを物語っている。
息子の馬子が活躍する素地を築いたのは、蘇我稻目であったと言うことができる。
「蘇我氏はもともとは渡来人ではなかったか」とよく言われる。
ひとつには、蘇我氏が満智—韓子—高麗と高句麗や朝鮮半島を由来とさせる名前が登場するためと考えられる。しかし、母方が高句麗や百済系であったため、名前がそれらに因(ちな)んでいるとも言われる。
また、渡来人を臣下にして様々な政策や戦略を打ち立てたことが、もともと渡来人だからと言われる。確かに蘇我氏は、満智・稻目の時代から渡来人と密接な関係で勢力を伸ばしてきた。しかし、関係が深いからということで祖先が渡来人だとは言い切れない。
また、大陸文化の仏教を熱心に広めようとしたことも渡来人だからこそと言われる。蘇我氏が何故仏教の興隆を二代三代に渡って推し進めたのか、信仰心の問題でもあり専門家の間でも定かではない。しかし、そのことが渡来人だからと断定も出来ない。
蘇我氏が最終的に根拠地とした飛鳥は、もともとは東漢氏(やまとのあやし)という百済からの渡来人たちが多く住み着いていた土地だった。このことも、蘇我氏が渡来人と言われる所以(ゆえん)だろうが、そのことが渡来人だからと言える証拠はない。
これらの状況から、蘇我氏が渡来系であるという可能性はゼロではないと考えられる。
何か蘇我氏について朝鮮半島からの渡来の資料が出てくれば・・・・。
ただ蘇我氏に渡来人の血統が加わった可能性は大いにあるだろう。
それでも、今のところ渡来系氏族だと決めつける説得力のある痕跡がないのだ。
奈良県文化財保存課の坂靖(ばん・やすし)氏は、「5~6世紀頃、百済の全羅道地域(朝鮮半島南西部突端)から人々が盛んに渡ってきた。飛鳥の出土土器を見ると、全羅道とそっくりな土器が多い。住むことになった飛鳥地域は、当時は湿地帯で生活しにくく開発も進んでいなかった。しかし、こうした不便な土地を渡来人たちが、大陸の先進技術を生かして開発した。その中で統率力をもったのが蘇我氏だった。だから蘇我氏は百済系の渡来人である。」と推測する。
冒頭の家系図から読み取れるのは、蘇我氏は伝説の人物を始祖(氏祖)に持ち、長い歴史を持つ由緒正しい血筋の一族であり、渡来人とも縁がある力を持った一族だということになる。
しかし実際は逆に、その名誉のために箔付けの由来のついたルーツを捏造したのだろう。
古代の日本、とくに6世紀の大和朝廷においては、長年の由緒正しき系統が重視され、戦国時代を思わせる急激な成り上がりや下剋上などありえなかった。
蘇我氏の発祥の地は定かではないが、葛城氏の流れを汲(く)んで、稻目の時代に葛城の地(写真)から大和の曽我地方に移貫したと、確証はないが一般的には言われている。
初代当主の蘇我石川宿禰の時代に、その名の石川は、河内国の石川郡にも大和の高市郡にもあって定かではない。
葛城氏は5世紀を通じて大王家のもっとも重要な婚族であり、天皇家(大王家)外戚として巨大な勢力を有していた。現在、葛城と言えば御所市から大和高田市あたりを指すが、当時は今の御所市から北に広陵町・王寺町までが葛城氏の領域だった。
しかし、蘇我氏が葛城氏の傘下にいた豪族の一つだったという文献史料はない。
後々、推古32年(624年)に馬子は、元は蘇我氏の本居であったとして、皇室の領地となっていた葛城県の割譲を推古天皇に願い出た。(第7回)
また、後々蘇我蝦夷が葛城に祖廟を建てている。
このことからも、葛城氏と縁のある葛城地域出身と考えられる所以(ゆえん)だ。
『扶桑略記』によれば、幼少期の馬子は、母系により葛城氏の血脈を受け継ぐ男子ということで、「葛城馬子」と名乗っていたという。また、『日本書紀』および『聖徳太子伝暦』に、「蘇我葛木臣」という言葉が見られる。
その氏名(うじな)から、畝傍山の北の大和国高市郡曽我(現在の奈良県橿原市曽我町)辺りが勢力地とする可能性が高い。宗我坐宗我都比古神社(そがにいますそがつひこじんじゃ)(写真)や今井町にある入鹿神社、曽我川(写真)など蘇我氏に関係ありそうな名が今でも残っている。
畝傍山の北に居を構えていた蘇我氏は、勢力を伸ばしつつ曽我川に沿って南下していく。そして新たな本拠地としたのが飛鳥の地(写真)であった。
稻目・馬子・蝦夷・入鹿の蘇我氏4代が飛鳥に拠点をおき、渡来人集団を主導しながら、政権の中心にあったことは確かだ。
飛鳥(写真)は5世紀後半ごろから、高市郡檜隈郷・今来郡一帯に東漢氏(倭漢氏)(やまとのあやうじ)という百済からの渡来人たちが多く住み着いていた土地だった。高取町の清水谷遺跡からは、5世紀後半のオンドルを備えた大壁作りの建物跡と朝鮮風の陶質土器や韓式土器も見つかった。その少し後、6世紀半ばから後半にかけて、稻目・馬子・蝦夷・入鹿の4代の蘇我氏がこの地に進出し、渡来人と深くつながり支配下に置くようになった。そして、その先進的・開明的な思考や技術を活用して、東漢氏の手腕で飛鳥の地を大規模開発し、そこに天皇(大王)を招き入れた。飛鳥時代のはじまりである。蝦夷・入鹿は甘樫丘(あまかしのおか)(写真)に軍事要塞のごとくの館を建て、蘇我氏の絶頂期を謳歌した。
渡来系集団の東漢氏はまた軍事氏族としての面も持っていて、蘇我氏の私兵として結ばれていた。後々、馬子の指示で崇峻を暗殺したのは、この集団の東漢直駒であった。(第7回)
当時、渡来人たちは瀬戸内海経由で難波に着き、山を越えて大和へと入ってきた。大和への入り口でもあった飛鳥は重要な場所となっていった。
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次回 第3回 「天皇家との姻戚」
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(担当 H)












