『渡来人』
第7回
<古墳時代の渡来人>
年代的には3世紀の前半に前方後円墳がつくられ始め、3世紀中頃には箸墓古墳がつくられます。大体、このころを古墳時代の始めとしています。646年に実効性は疑われているが薄葬令が出され、大型の前方後円墳がつくられなくなり、707年に文武天皇が火葬され、この天皇陵の八角墳を最後に古墳がつくられなくなりました。
次の飛鳥時代は、蘇我氏が飛鳥の地で政治を主導的におこなった時期がその始めとみられるので、7世紀の中頃まで古墳時代と飛鳥時代が重複します。
すなわち、古墳時代は3世紀中頃~7世紀中頃となりますが、ここでは、6世紀末までの古墳時代を見て行きます。
<古墳時代の渡来人の時代区分>
古墳時代の渡来時期を2つに区分。
第Ⅰ期(3世紀~5世紀)
吉野ケ里遺跡の最盛期が西暦200年代前半とみられます。
邪馬台国の卑弥呼があらわれ、魏に使者を送ったのが239年です。
また『魏志倭人伝』の東夷伝に、邪馬台国について書かれたのも3世紀のこのころです。
「空白の4世紀」といわれている間に、「倭の五王」「七支刀」「広開土王」のイベントがありました。
朝鮮半島では争乱の最中でした。高句麗が4世紀末から5世紀にかけて好太王のもとで全盛期を形成し、南下して朝鮮半島北部を領有しました。中国の設置した帯方郡(現在のソウル付近)は、313年に高句麗の支配下に組み込まれました。このころの朝鮮半島の南部は、高句麗・新羅・百済の「三国時代」となっていました。一方、半島南側先端の弁韓は、4世紀後半になっても小国家分立の状況が続き伽耶と称されていました。 伽耶は、562年に最後に残った大伽耶国が新羅によって滅ぼされました。
この戦乱の中、さまざまな理由でやって来た渡来人たちは、優越感から中国系と称し(実際は朝鮮半島出身者)、漢人(あやひと)と呼ばれました。5~6世紀のころの渡来人は漢・魏を源流とする古い楽浪文化を伝え、大陸の学芸・技術をもって倭国の朝廷で一定の世襲職の地位を得ました。渡来系氏族の中でも最も歴史が古い西文(かわちのふみ)氏、秦(はた)氏、東漢(やまとのあや)氏などは、この時期勃興した渡来系氏族です。その中の代表的な一群は文筆を専門とする諸氏で、彼らは史(ふひと)の姓(かばね)を持ち、史部流(ふひとべりゅう)の文章を駆使して記録、徴税、出納、外交その他の政策に携わりました。文字の使用は、大和国家の行政技術と各種の文化を飛躍的に発達させることになり、それらの活動のほとんどは、渡来人たちの独占するところでした。大陸系の進んだ各種の生産技術なども渡来人たちの専業でした。やがて雄略朝のころに東漢氏が渡来人たちを統率する地位を与えられて勢力を発展させました。これらの初期の渡来人は百済、新羅、任那(加羅)などの朝鮮各地から来た人々ですが、その中には前漢以来の朝鮮の楽浪郡や帯方郡に来ていた中国人の子孫がいて、そのもたらした文化も主として漢・魏を源流とする大陸文化だったとみられます。
第Ⅱ期(5世紀から6世紀末)
このころやってきた渡来人は、「今来漢人、新漢人(いまきのあやひと)」とよばれる中国の南朝文化の影響を受けた百済人や任那人が多かった。「いまき」は新参の意です。
いわゆる「倭の五王」の南朝との友好に伴って中国から直接に渡来する人、さらに6世紀中ごろ以後になると高句麗との関係が好転したために、北朝系統の文化を持った高句麗人などもそれに加わるようになりました。
5世紀後半頃、今来漢人を東漢直掬(やまとのあやのあたいつか)に管轄させたという記述があります。
東漢氏は百済から渡来した錦織(にしごり)・鞍作(くらつくり)・金作(かなつくり)の諸氏を配下にし、製鉄・武器生産・機織りなどをおこないました。
・513年、段楊爾(だんように)ら五経博士が百済から渡来してきた。『易経』・『詩経』・『春秋』・『礼記』の五経を講じ儒教を伝えた。
・522年、 司馬達等(しばだっと)が渡来してきた。司馬達等は飛鳥の坂田原の私宅で仏像を礼拝した(『扶桑略記』)司馬達等の孫が鞍作鳥(止利仏師)で、その子孫が鞍作氏だ。
・554年、医博士・易博士・暦博士が渡来してきた。
列島内には古墳時代の渡来人が生活した痕跡がみられます。
そのひとつに奈良県の高取町に所在する市尾(いちお)カンデ遺跡があげられます。
2018年11月27日、奈良県高取町教育委員会が、大陸から来た渡来人の重要施設とみられる国内最大級の「大壁(おおかべ)建物」跡(東西約14.5m、南北約13m)が見つかった、と発表しました。建築年代は柱穴から出土した土器などから4世紀末~5世紀初めと推定され、日本で最古かつ最大の大壁建物跡の可能性もあります。朝鮮半島に由来するとされる大壁建物は、方形状の溝の中に多くの柱を立て、土などを塗って壁をつくり建築した住居です。この一帯は渡来系集団の拠点とされ、5世紀後半~8世紀末の朝鮮半島式の15棟の大壁建物や堀立柱建物8棟、跡床暖房装置「オンドル」を備えた棟を含めて約40棟の跡が見られます。
現場は東漢氏(やまとのあやうじ)など渡来人の居住地とされる県中部地域の一角でした。
『日本書紀』には、応神朝に東漢氏の祖先が来朝したとの記述があり、今回の成果との関連性が注目されています。
<古墳時代の渡来人によってもたらされた高度な技術>
古墳時代の中ごろに訪れた渡来人たちは多くの高度な技術を伝えました。「設計・土木工事」「金属加工」「養蚕・織物」「須恵器」「仏教や文字」などです。
この頃から知識人や渡来人の中には、本国から派遣という形で倭国で仕事をした後、帰ってしまう一時的渡来人が増えたようです。
●古墳の築造
巨大古墳は、古墳中期(5世紀)ごろに巨大な権力と優れた土木技術によってつくられました。古墳の技術は、土の運搬・盛土、方位・距離・角度などの決定、土工量・労働量等の算定、鉄器の導入などです。こうした大規模で高度な技術は大国中国以外では考えられません。おそらく中国の帯方郡からの渡来人が主導したと思われます。弥生墳丘墓と箸墓古墳を比較すると、建造水準が全くといっていいほど質的に異なっています。すなわち、弥生墳丘墓と箸墓古墳の建造者は違う集団であるといえます。
設計技術
設計段階における高度な技術の正確な左右対称形(シンメトリック)は、弥生時代には存在しませんでした。
地質的に堅固な場所の選定、巨大な重量を支えるための構造、斜面の崩れを防ぐための段盛りの安息角度、斜面は葺石と呼ばれる大きな礫でがっしりと覆われています。
測量技術
築造に先立ち、実際に地面に輪郭を描いたが、測量のための杭と縄による区割りでした。水平面測量は溝や木槽に水を張って求めました。角度は底辺と高さからなる三角形により求めました。長さの単位は、大人が両手を広げた長さ(尋)を基本にしていました。
墳丘構築技術
土を水平に何層も積み重ねる(段築)は、紫禁城や秦の始皇帝陵などをつくった中国の伝統技法です。粘土、砂、土を重ねることにより水の浸透を防ぎ、斜面が崩れるのをおさえました。
掘削には鋤と鍬が使われたものと思われます。木製のもののほかに鉄製のものもかなり混じっていました。 土の運搬には、負子やもっこを使ったものと思われます。石棺の運搬には「修羅(しゅら)」といわれる“そり”が用いられました。
埋葬儀式
木簡に玉、金属の宝飾品を埋納することは、それまでの倭国にはなく、大陸から伝わった風習・儀礼でした。
横穴式石室は、中国の漢代のものが発達した大陸系の墓制であり、朝鮮を通過して倭国に伝えられたものです。具体的には、高句麗の影響が5世紀頃に百済や伽耶諸国を経由して倭国にも伝播したとみられます。主に6世紀から7世紀の古墳で盛んに造られました。
奈良県の石舞台古墳のような巨石を用いるものが典型的です。
●須恵器(すえき)
須恵器は古墳時代の中ごろからみられる青灰色の土器で、渡来人が持っていた技術を用いてつくられました。須恵器の起源は朝鮮半島(特に南部の伽耶)とされ、轆轤(ろくろ)を使って土器の形をつくり、窯に入れて焼きあげていました。窯の中で焼かれるので、1,100度以上の高温で還元焔焼成されることで強く焼締まり、従来の土器以上の硬度を得ました。『日本書紀』には、百済などからの渡来人が製作したとの記述がある一方、垂仁天皇の時代に新羅王子 天日矛(アメノヒボコ)とその従者として須恵器の工人がやってきたとも記されています。
すなわち、この技術は百済から伽耶を経て倭国に伝えられたと考えられています。
『魏志倭人伝』には、弥生時代の倭国については「馬なし」と記述されています。
4世紀の終わり頃、倭が高句麗と戦いを交えましたが、その中で高句麗の騎馬戦力の強さに触れ、戦いに馬を使うことを知ったと考えられます。したがって、倭国における馬の使用と乗馬は、戦いの手段、軍備の一部として始まったようです。
日本列島に「馬」が登場するのは、古墳時代の中ごろ(5世紀の初め)といわれています。根拠の一つが、古墳の馬具などの装飾品です。また、この頃から馬型埴輪が古墳に置かれるようになりましたが、埴輪の馬にも馬具が付けられています。馬具は5世紀頃にはまだ少なく、6~7世紀になると増えてきます。倭国に乗馬の風習が伝わってからおよそ1世紀を経たころから、急速に乗馬が広まっていきました。騎馬戦力をもつ軍備が次第に整えられていったのだろうと考えられます。そしてそこには中国や朝鮮半島からやってきた渡来人たちが大いに関わっていました。
馬の交配・出産・育成は、専門の技術と経験が無ければできません。最新の科学分析(ストロンチウムの同位体比)によって馬の生産・飼育実態がわかってきました。朝鮮半島から渡ってきた馬は、5世紀のうちに東日本へと拡散しました。馬の飼育に適した東日本の火山灰草原で生産・育成された後、畿内に移され、そこで大切に飼育管理されました。
●装飾具
古墳時代の馬の使用と乗馬の様子をうかがい知ることはできませんが、古墳に納められた金・銀で飾られた「装飾馬具」は、倭国での馬の使用と乗馬の様子を語ってくれます。最も古い5世紀はじめ頃の馬具は、近畿地方を中心に出土しています。「鏡板(かがみいた)」や「杏葉(ぎょうよう)」と呼ばれる飾り板をもち、前方後円墳など権力者の古墳から多く出土します。
この馬具の黄色い丸で囲まれた部分の光っているものは「金」です。今でいうところの「金メッキ」です。渡来人たちの持っていた技術の高さがみられる装飾品です。
<伝説的な渡来人>
3世紀後半~4世紀前半、この時期に伝説的な渡来人がいます。
ひとりはツヌガアラシト、もうひとりはアメノヒボコです。
● ツヌガアラシト
『日本書紀』垂仁の条にはこう記されています。
第十代 崇神天皇の世(3世紀後半~4世紀前半、古墳時代)に、“額に角のある人”が船に乗って越国の笥飯(けひ)の浦に渡来してきた。笥飯の浦というのは今の気比(けひ)海岸あたりです。
ツヌガアラシトは、「都怒我阿羅斯等」と書き、『日本書紀』に伝わる古代朝鮮の人物で加羅国王の王子という。“額に角がある”というのは、角のある冠か兜をかぶっていたと考えられます。額に角があったことから角額(つのぬか)と呼び、これが縮まって角鹿(つのが)となり、その後 和銅6年に敦賀(つるが)という字に改められたといいます。
”都怒賀”が日本に来ての名で、”阿羅斯等”が彼の国での称であろうとされています。阿羅は半島の南部にあった安羅(あら)ではないかとの見方もあります。
敦賀湾からほど近くに、赤い両部鳥居(四脚造り)のある氣比神宮(けひじんぐう)があります。氣比神宮は越前一之宮の北陸総鎮守で『古事記』『日本書紀』にも早くから登場する古社です。
境内には摂社の角鹿神社(つぬがじんじゃ)があります。氣比神宮の社伝『氣比宮社記』によると、ツヌガアラシトが祭政を治め政務を執りおこなった政所(まんどころ)の跡に祀ったのが角鹿神社です。朝鮮半島南部から敦賀周辺への相次ぐ渡来人の来訪と定着が示唆されています。敦賀地方には都怒我阿羅斯等、天日槍をはじめ渡来系の神を祀っている神社や、新羅、伽耶にちなんだ地名や習慣などが多々見受けられます。
● アメノヒボコ
アメノヒボコは、『日本書紀』では「天日槍」、『古事記』では「天之日矛」と書かれており、古代朝鮮の人物で新羅の王子といわれています。『日本書紀』では、垂仁天皇3年3月条において天日槍が播磨→近江→若狭→但馬と遍歴し、最後、船に乗って但馬の国にやってきたとされています。『播磨国風土記』では、客神(外来神)の天日槍命が、韓の国から海を渡って播磨国の宍粟邑(しさわのむら)に渡来してきました。宇頭川(揖保川・林田川の合流点付近)の川辺を宿所とし、そののち、伊都志(出石)の土地を自分のものとしたと記されています。
アメノヒボコに関わる神社としては、但馬国一宮の出石神社(兵庫県豊岡市出石町宮内)が知られています。現在では、アメノヒボコが創建した八種神宝の神霊が「伊豆志八前大神」として祀られるとともに、アメノヒボコの神霊が併せ祀られています。
のちのちアメノヒボコの子孫に田道間守(たじまのもり)がいたといわれています。田道間守は、垂仁天皇の命で唐・天竺をさまよい、ついに常世国に至り「非時香果」を得て帰国しました。あの世とこの世を行き来できる人間、という説話で有名です。「非時香果」とは、一年中実り芳香を放つ果実の意味で今の橘(たちばな)のことといわれています。
ヤマト王権が屯倉(みやけ)経営を行う6世紀以後に出石神社奉斎氏族が三宅氏を称し始めたとされています。アメノヒボコ―田道間守は三宅連(みやけのむらじ)の先祖ということになります。
アメノヒボコ伝説は『日本書紀』『古事記』のうちで代表的な渡来伝承になりますが、一般には1人の歴史上の人物の説話ではなく、朝鮮半島の渡来人集団をアメノヒボコという始祖神に象徴した説話ではないかとも考えられています。「アメノヒボコ(天日槍/天之日矛)」の名称自体も日本名(もしくは新羅名)であり、出石地域を中心とする朝鮮渡来系一族(出石族)が奉斎した「日矛/日槍」を人格化したことに由来する意見もあります。この氏族の渡来の時期は定かでなく、出石神社が弥生遺跡の中心地に位置することや蹴裂による開拓伝承の存在から農耕伝来の時期とする説がある一方、『日本書紀』の「陶人」という記述から須恵器生産の始まる5世紀以降と推測する説があります。また、アメノヒボコの伝承地では鉄文化との関わりが見られることから、農耕・須恵器・製鉄技術伝来の伝承を背景に見る説もあります。
『日本書紀』に記される播磨→近江→若狭→但馬という遍歴は、渡来人集団の移動または分布を反映するといわれています。
『古事記』では、比売碁曾社(比売許曾神社)の由来が天日槍と阿加流比売神の伝承として記述されますが、『日本書紀』では垂仁天皇2年条の注において都怒我阿羅斯等(ツヌガノアラヒト)とその妻の伝承として記述されています。すなわち、ツヌガアラシト伝承とアメノヒボコ伝説とは、同工異曲のため同一の神に関する伝承と見られています。「天日槍(アメノヒボコ)」の名称自体についても、「ツヌガ(角干:新羅の最高官位)アラシト(日の御子の名)」の日本名になるという説もあります。
<古墳時代の渡来人の遺伝子>
2021年9月、金沢大学などの研究グループは遺跡から出土した人骨のゲノム解析から「現代日本人は大陸から渡ってきた3つの集団を祖先に持つ」と発表し、「三重構造モデル」を提唱しています。
1. 縄文人の祖先集団は、2万~1万5000年前に大陸の集団(基層集団)から分かれて渡来して1000人ほどの小集団を形成していたことが分かった。
2. 弥生時代には中国東北部の遼河流域など北東アジアに起源をもつ集団が渡来し、縄文人と混血していることも確認できた。

古墳時代には弥生人が持っていない特徴を持つ東アジアの集団が渡来し、その度に混血があったと推定できたといわれます。
そして、現代日本人と遺伝的な特徴がほぼ一致することも判明しました。
この研究成果は、大陸の集団から分かれた縄文人が暮らしている日本に、弥生時代と古墳時代の2段階にわたって大陸から遺伝的に異なる集団が流入したことを示唆しているといわれます。
研究グループは、従来の「二重構造モデル」に対して、新たに「三重構造モデル」を提唱しました。現代日本人につながる過程は、弥生時代で止まっておらず、古墳時代まで延びることがわかりました。すなわち、日本人のルーツは、古墳時代になって大陸からやってきた古墳人が加わることで、現代につながる祖先集団が初めて誕生したことを示唆しています。
縄文時代から現代に至るまでの日本人ゲノムの変遷を示すグラフ。
本州での現代日本人集団は古墳時代に形成された3つの祖先から成る三重構造を維持しています。(金沢大学などの研究グループ)
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次回は第8回「日本人の成立」
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(担当H)


















