『渡来人』
第6回
<弥生人はどこから?>
現代日本人のルーツをめぐっては後期旧石器時代に日本列島に住み着いた縄文人と、朝鮮半島から稲作を携えて渡来した弥生時代の渡来人が混ざって成立したとする「二重構造モデル」が定説となっている。
最近の説として、弥生時代には三系統の弥生人がいたといわれている。
①在来系(縄文系)弥生人:縄文人の血を引く弥生人。アワ・キビ栽培、石器や土偶など縄文時代の特有の文化を引き継いでいた。弥生時代に消滅していった。
②渡来系弥生人:当時、大陸から渡来して来た弥生人。稲作技術、青銅・鉄器、墳墓文化などを持ち込んだ
③混合弥生人:①と②が交じり合った弥生人。稲作技術の高度化、祭祀青銅器、製鉄などを持ち込んだ。
ただ、弥生時代の渡来人のルーツはよく分かっていなかった。
弥生時代の人骨を、ゲノム解析したところ、弥生人のゲノムには縄文系、東アジア系(中国中央部、朝鮮半島、日本列島)、北東アジア系(モンゴル高原、中国東北部)という3つの成分があり、現代日本人と似ていることが分かった。
<国立民族博物館 弥生時代年表>
ここでも、弥生時代は紀元前10世紀後半~紀元後250年ごろとします。
<弥生時代 早期>(紀元前10世紀後半~前9世紀末)
稲作の伝来期である
倭人の原郷は、大阪教育大学の鳥越憲三郎氏の実地調査などによれば江南に求めることができる。彼らは、山東半島~朝鮮半島西南部に渡り、水稲文化を持って北部九州・山口県西部に渡来したといえる。
稲作の伝来は、江南地方から直接日本列島に伝わったという説と朝鮮半島経由で伝わったという説がある。また、弥生人にも2系統あり、最初は、長河南部の江南人が渡来し稲作を広め、次に北方モンゴロイド系が中国東北部→朝鮮半島北部→朝鮮半島南部から青銅器・鉄器文化を携えて渡来したとする説が有力になりつつある。
さらに、2003年、国立歴史民俗博物館を中心とした研究グループが、土器に付いている炭化物(お焦げ)について、炭素14年代測定法で分析したところ、「水田稲作の始まりは、現在言われているよりも500年ぐらい古く、紀元前10世紀ぐらいに始まっていたのではないか」ということを学会で発表した。
弥生の始まりで、整備された水田や、木製の農具、石包丁や石鎌などの収穫具、木器や板・矢板を作る工具、紡織具、有柄式や有茎石の磨製石剣、磨製石鏃、金属器、支石墓・箱式石棺墓・木棺墓、環溝集落等が一斉にあらわれた。有柄式石剣や抉入石斧、南方式支石墓かや、朝鮮南部の無文土器も伝わった。
無文土器(むもんどき)とは、朝鮮半島における青銅器時代(無文土器時代)の指標となる土器。土器の表面に施文がほとんど行われず、無文のものが多いため無文土器と呼ぶ。
日本の弥生文化成立に深く関係し、前期の無文土器は、北部九州、山口で出土している。後期の無文土器は、北部九州をはじめとして日本列島各地の弥生時代の遺跡から出土し、吉野ヶ里遺跡でも朝鮮系無文土器が多く出土している。朝鮮において、無文土器時代の開始は水稲作の開始時期とほぼ一致する。このことから、朝鮮に長江文明由来の水稲作をもたらした渡来人が、無文土器の担い手であった可能性が考えられる。
支石墓(しせきぼ)は、上の大きな平たい石を、小石で支える墓だ。朝鮮北部の卓子(テーブル)型の支石墓は日本列島には無く、朝鮮南部に広く分布する碁盤型の支石墓が佐賀県と福岡県玄界灘沿岸に存在する。墓はやはり渡来人の祖国の様式で営まれる。
環濠や井戸も、朝鮮南部の無文土器時代中期の集落で、稲作文化と同時に大陸から伝来し、列島東部へ波及したと考えられている。環溝(かんこう)集落は、環濠(かんごう)よりは小規模で、今のところ、弥生時代でもっとも古い遺跡は早期のもので、北部九州の玄界灘沿岸部にある福岡県粕屋町の江辻遺跡である。幅1m、深さ0.7m曲線を描く溝がみとめられ、その内側に朝鮮半島の竪穴住居跡と類似する形態の住居跡や、梁間一間で桁行の長い掘立柱建物跡などが集中して配置されていた。環溝は内外いずれかに残土を積み上げた土塁を伴っていたと推測され、防御の側面が強い。
縄文人は大頭の四角顔で彫りが深い顔立ちである。身長は160㎝以下だが、体は筋肉質でがっちりしていた。毛深く、歯は固いものを噛んでいたため摩耗が激しかった。東南アジア系。
弥生人は面長でのっぺりした顔に切れ長の目を持っていた。身長は163㎝前後でだが胴長短足だった。朝鮮半島系。
渡来してから、ごく狭い地域に集中して住み、人口が増加してそこから遠賀川式土器を携えて遺伝子が拡散したのだろう。DNA遺伝子の多様性から、渡来は一度限りではなく、渡来文化の受容は早期全体に渡ると見られる。
早期の時期に、朝鮮から渡って来た人々(無文土器人)だけの集落はなく、どこでも縄文的要素と渡来的要素が共存し、縄文人と渡来人が平和的に共存していたことになる。
福岡県新町支石墓から出た人骨は極めて縄文的で、文化と形質が一致しないが、渡来人集団の規模はとても小さく、縄文人の受容・適応力が高かった事が窺える。
政治的には未成熟で、まだ首長の政治権力は発達していない。
<弥生時代 前期>(紀元前9世紀末~前4世後半)
青銅器の伝来期である。
朝鮮の細方銅剣・銅矛・銅戈や多鈕細文鏡(たちゆうさいもんきょう)が本格的に流入し定着する。
弥生時代前期末から中期になると、朝鮮同様、九州地方で銅剣・銅矛・銅戈などの青銅器を特定首長層の墳墓群に集中して副葬するようになる。これらの銅製武器は、出現した時から首長層と完全に結びついており、墓に副葬され集落などの日常生活の場からは発掘されない。単独の支石墓や有力集団の方形周溝墓もみられ、一定の階層構造は存在していた。この時期の朝鮮では既に、政治的社会が形成されていた。
この頃から、多くの渡来人が、港の建設や国の交易に参加する等、勢力を拡大していた。逆に、対岸の朝鮮でも、弥生土器が発見されている。弥生人が朝鮮に渡っており、居住していたようだ。この時期、日本と朝鮮の両地域の人々が互いに交流していたのだ。
方形周溝墓(ほうけいしゅうこうぼ)という弥生時代前期初頭の墓が、福岡県東小田峰遺跡でみられる。この墓制は、朝鮮半島に大量にみられ、支石墓と同じく中国には見られないものなので、朝鮮半島南部から伝えられたものと考えられている。これは弥生人が中国長江地域ではなく朝鮮半島から移住したことを証明している。墓の存在は、渡来人の故郷をあらわしている。
前500年頃(弥生時代前期)から呉越戦争の混乱を避けて、「呉越の民」と呼ばれる交易民が北九州各地に渡来した。
BC(紀元前)473年、春秋時代の末、呉は越によって滅ぼされた。このときに、呉の国の越人たちは朝鮮半島に亡命し、さらに日本列島へ渡ったと思われる。九州で組織的で大規模な水田跡が見つかっていることから、呉人がBC5世紀頃、長江文明の象徴でもある水耕稲作技術を日本列島に伝えたとされているが、BC5世紀には既に日本列島では稲作は行われており、彼らによってさらに技術的に進歩したと考えられる。また、彼らは造船技術や航海技術に長けており、このころから北九州と朝鮮半島との交易が盛んになった。
BC334年ごろには、今度は、越が楚によって滅ぼされた。このときにも越人が渡来してきた。彼らは対馬暖流に乗り日本海を北上してきて北陸あたりに上陸した。古来より北陸地方は、「こし」越・古志・高志と言われてきた。律令制度では越国(越後・越中・越前)として画定された。
「臥薪嘗胆」「美人の計」「会稽の恥」「呉越同舟」等々、現在の日本においても故事成語の発端ともいうべき物語がある。
時が経ち、渡来人がもたらしたモノ・技・思考が風土と融和しながら、長い年月を費やして広まった。同時期、筑紫・出雲・丹後・北陸・大和地方において、渡来人たちが豪族となって力を持ち始めた。
<弥生時代 中期>(紀元前4世後半~前1世紀)
鉄器の伝来期である。
弥生時代中期の佐賀県三津永田遺跡と山口県土井ヶ浜遺跡の弥生人に近い形態とDNAを持った人骨が中国江南で発見された。1994年、九州大学の中橋孝博氏は、長江江南の揚州市の前漢墓から発掘された骨のミトコンドリアDNAの分析で、北部九州弥生人と同じ塩基配列を持つ個体が春秋時代の遺跡で見つかったという。新モンゴロイド的特徴を持った集団が江南にもいたことになる。この発見で、弥生人は中国江南に原郷を持つ集団である可能性が出てきた。
1999年、東京国立博物館で江蘇省の墓から出土した春秋時代末の人骨と、福岡山口両県で出土した渡来系弥生人と縄文人の人骨と比較した結果、春秋時代人と前漢時代人は弥生人と酷似していた。
このように、日本列島や朝鮮半島への漢民族の渡来は幾次にもわたっていた。
2024年、東邦大学の水野文月講師と東京大学の大橋順教授らは、約2300年前(弥生時代中期)の弥生時代の人骨のDNAの解読に成功した。東アジア系と北東アジア系の2系統のDNAを併せ持つ人々が弥生時代に朝鮮半島から日本列島に渡ってきて、縄文人と混ざり合って現代日本人の祖先になったと分析している。
現代日本人のルーツをめぐっては、後期旧石器時代に日本列島に住み着いた縄文人と、弥生時代の渡来人が混ざって成立したとする「二重構造モデル」が定説となっていた。
ただ、弥生時代の渡来人のルーツはよく分かっていなかった。
研究チームは山口県の土井ケ浜遺跡で見つかった約2300年前の弥生時代中期の人骨からDNAを取り出し、ゲノム(全遺伝情報)を解読した。縄文人や現代日本人などのゲノムとともに詳しく解析したところ、弥生人のゲノムには縄文系、東アジア系、北東アジア系という3つの成分があり、現代日本人と似ていることが分かった。
これまで、現代日本人の東アジア系の成分は古墳時代以降の渡来人の影響が大きいとする研究もあったが、今回の分析により、弥生人が既に東アジア系の成分を持っていたことが判明した。弥生の渡来人が東アジア系と北東アジア系を併せ持つ人々だったと考えれる。
原三国時代の弁韓・辰韓では鉄生産が盛んで、大量の鍛造鉄器や鋳造鉄器が作られていた。
「魏志弁辰伝」には、「『弁辰の』国々から鉄を算出する。韓族・歳族・倭族が、みな鉄を取っている。」と記されている。
かなりの鉄製品が出る壱岐の原の辻やカラカミ遺跡も、遺跡全体に散漫に分布し、楽浪の使節が持ち込むか、あるいは海洋民の交易による集積であることを示している。
中国前漢の銅銭が、朝鮮の無文土器に大量に入れられて日本に持ってこられた。山口県沖ノ山遺跡の116点以上や、韓国巨文島の980点も考え合わせると、日韓の海村ネットワーク世界では中国銭貨を使って鉄の交易があったとみられる。
この時期の日朝交流は、対馬での日常交流、海村での交易、伊都国の国邑(三雲遺跡)を主体とした首長層の政治的交渉という三層構造であった。
さらに、唐古遺跡で発見された中国風の楼閣絵画などからすると、北部九州だけでなく、他の地域政権も直接的にせよ間接的にせよ楽浪郡と関わり始めていた。
北部九州地方の甕棺墓に副葬された中国鏡で、前漢鏡が発見されるのは弥生中期の甕棺で、この頃から北部九州地方でそれまで優勢だった朝鮮半島製の青銅器に代わって中国・前漢の青銅器や鉄器が多く出土するようになる。 これは、前漢の武帝がBC(紀元前)108年に朝鮮半島に前漢の出先機関として楽浪郡など三郡を置いたことによると考えられている。このことから北部九州で前漢鏡を副葬する甕棺の時代が、だいたい紀元前108年頃より少し新しい時代(弥生中期末)と判断されてきた。
<弥生時代 後期>(紀元前1世後半~3世紀中頃)
BC108年に中国前漢が朝鮮半島北部を征服し、楽浪郡といわれる直轄領を置いた。この楽浪郡を通して、日本列島に中国文化が入ってきた。
しかし、2世紀末から漢が衰退し始め、184年に黄巾の乱といわれる農民の反乱がおきる。各地でも有力豪族が勢力を競い合い、280年の西晋の中国統一まで100年余り戦乱が多発する三国時代に突入する。
その戦火を逃れようと大量の難民が、朝鮮半島を通り蓬莱の国日本列島に押し寄せた。
この時の大きな技術革新は、鉄の武器、特に鏃(やじり)である。そのため、戦いは一層悲惨なものとなっていった。
弥生後期になると、楽浪土器・三韓土器、或いはそれらの模倣土器が山陰・東瀬戸内や近畿でも出る点で、特に三韓後期に属する例が多い。
また、河内の土で作った日常炊飯用の赤焼土器鉢は渡来韓人の存在を推測させる。
これは、新たに近畿や東瀬戸内の政権が中国・朝鮮と直接交渉するようになり、渡来人が交渉の役割を果たしていたと考えられる。これから古墳時代に向い、ますます渡来人の存在が大きくなっていった。
弥生時代の人々は、近隣地域を行き来するための川や沼、湖などの運行には縄文時代以来の丸木舟を、遠方への航海には弥生時代に登場した準構造船を利用していた。このことは、各地の古墳から出土した船形埴輪からわかる。渡来人たちは、このような船に乗ってはるばるやってきたのである。
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(担当H)
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