『聖徳太子』 第12回 聖徳太子の死と墓 | 奈良の鹿たち

奈良の鹿たち

悠々自適のシニアたちです

 

『聖徳太子』

第12回

聖徳太子の死と墓

 

叡福寺 

 

謎多き聖徳太子の死の真相

文献で知られる厩戸皇子の死に係る出来事は次の通り。

· 621年(推古29年)12月21日、穴穂部間人皇女 崩御。

(天寿国繡帳、『上宮聖徳法王帝説』)(法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘では12月の崩御)

· 622年(推古30年)2月21日、膳部菩岐々美郎女 薨去。

(法隆寺金堂釈迦三尊像光背銘、『上宮聖徳法王帝説』)

聖徳太子 没年

①621年(推古29年)2月5日説(『日本書紀』)

②622年(法興32年)2月21日説(国宝・法隆寺釈迦三尊像光背銘)

③622年(推古30年)2月22日説(『上宮聖徳法王帝説』『聖徳太子伝私記』)

ほとんどの学者は③の説を採り、『日本書紀』の記事は誤りだとする。

『日本書紀』に書かれた没年のほうが間違いだなんて、いったいどういうことなのだろう。

 

『日本書紀』(読み下し文)聖徳太子薨去

『日本書紀』によると、621年(推古29年)2月、聖徳太子が斑鳩宮で没したとき、人々は大いに悲しみ、太陽と月は光を失い、天地は崩れ、これから先、誰を頼りにすればよいのだろう、といったという。また、聖徳太子の師であった慧慈(えじ)は母国の高句麗に帰っていたが、聖徳太子の死を聞いてもう生きていても仕方ないと嘆き、来年の聖徳太子の命日に必ず死ぬと誓って、その通りに亡くなったという。

 

死亡年が621年(推古29年)622年(推古30年)の1年も違った二つの史料がある。

法隆寺金堂の釈迦三尊像光背銘によると、621年(推古29年)12月21日に聖徳太子の母である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)が亡くなり、翌推古30年正月22日に聖徳太子が病にかかり、次いで妃の膳部菩岐々美郎女(かしわでのほききみのいらつめ)も倒れたという。そして、「聖徳太子と膳部菩岐々美郎女が病気になり、釈迦像を造像し病気が治ることを願った」という趣旨の記載があります。2月21日に妃・膳部菩岐々美郎女が没し、翌日に聖徳太子も亡くなったとされる。享年49歳。このように、聖徳太子、母、妃と相次いで病にかかり、亡くなっているところから、当時流行していた伝染病の天然痘によるものではないかともいわれている。

『日本書紀』が、皆の嘆きを詳しく記していていながら皇族家族が相次いで亡くなる異常さを示していないのは、これまた、おかしいと思うのは誰しもだろう。

『上宮聖徳法王帝説』は、太子の死になんらかの疑いがあり、秘密が隠されていると暗示しているようである。 また、太子とその母は、まるで約束をしていたかのように死んでしまった、というのである。

また、ある史料には、吐血しながら悲惨な死を迎えたとしている。

さらに、太子信仰の人の死亡日時が、前述のように1年もずれて2つある。

死因は何であったかというと、不明としか答えようがない。

何かあったのだろう。しかし、それ以上は、推測に過ぎない。

そのため、多くの説が生まれ、現在も実際の死因については謎のままとなっている。

暗殺説や自殺説、心中説などがよく言われている。どれも根拠がなく、聖徳太子の死をドラマチックに仕立てたもののようだが、誰も否定も肯定も出来ない。

あれほど偉大だったとされている人の死が分からないなんて、「聖徳太子は偉かった」どころか、何かと問題の多い人物だったのだ。

 

 

聖徳太子の墓

叡福寺と叡福寺北古墳

聖徳太子の墓とされる古墳は、大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺にあるとされている。

寺伝では推古天皇による聖徳太子墓守護のための開基で、奈良時代724年(神亀元年)に聖武天皇の勅願によって伽藍が整備されたという。

史実としては、寺伝以外に確たるものがなく不明である。

九条家本『諸寺縁起集』(鎌倉年代成立)には、「治安四年六月十四日記す、聖徳太子の墓所を訪ねることが出来ない。墓の所在が不明となっている。」とある。聖徳太子墓そのものが11世紀はじめ(平安時代)にはわからなくなっていたという。これにより、平安時代 1024年(治安四年)には叡福寺はまだ創建されていなかったことが分かる。

当寺院の創建は、中世の太子信仰の高まった時代前後ではないかと考えられる。

境内から採集される瓦などからも、当寺院の創建は平安後期ではないかと見られる。

そうなら、聖徳太子の墓ではないことになる。

 

叡福寺は「太子御記文」という碑文のある大理石を所蔵している。「太子御記文」とは、聖徳太子が書かれとされる予言文書である。「吾が入滅以後四百三十余歳に及び、此の記文が出現するや、その時の国王・大臣は寺塔を発起し、仏法を願求していること」とある。さらに、御記文の上石文には「今年歳次辛巳、河内国石川郡磯長の里に、最も優れ称美に足りる地があり」と記されていて、故に墓所と定めた、ということである。

「太子御記文」にある「今年歳次辛巳」とは、621年(推古29年)の辛巳の年で、聖徳太子が薨去した年にあたる。御記文が発見された1054年(天喜2年)は、聖徳太子が薨去してから433年であり、御記文の「吾が入滅以後四百三十余歳に及び、此の記文が出現するや」と全く一致している。余りにも出来すぎた話で、これは全くの偽物であることは明らかだ。叡福寺も恥ずかしくて、表に出せないのだろう。「太子信仰」の華やかなりし頃の、作り放題の作為が行われたのだ。

経緯はともかく、聖徳太子墓が叡福寺古墳であると比定された年代は、「太子信仰」の盛んな平安時代の中頃のことと考えられる。

 

宮内庁により「磯長墓(しながのはか)」として第31代用明天皇皇子・第33代推古天皇皇太子の聖徳太子(厩戸皇子)の墓に治定されている。しかし、宮内庁により治定されているが、実は聖徳太子のこの墓が、宮内庁には記録が残されていない「不存在」となっている。つまり、この聖徳太子の墓は、宮内庁の記録としては、正式に墓になっていないということだ。

「宮内庁の言う『不存在』が本当だとしたら、聖徳太子の墓は、宮内庁の認めたものではないということになる。しかし実際には宮内庁が管理している。不思議な話だ。

 

叡福寺北古墳(えいふくじきたこふん)は、大阪府南河内郡太子町太子の叡福寺にある古墳で、後期・終末期の円墳である。築造時期は、古墳時代終末期・飛鳥時代の7世紀後半頃と推定される。被葬者は、宮内庁では聖徳太子(厩戸皇子、622年薨去)に治定されている。

太子墓は径50m、高さ10mほどの円墳で、内部は精巧な切石を用いた横穴式石室だ。「岩屋山式の切石造り両袖式」石室と呼ばれる。この石室の最深部に、太子の生母である穴穂部間人皇后の石棺、前面右側に太子、左側に妃の膳部菩岐々美郎女の乾漆棺が安置されていると伝えられている。3人の棺が納められていることから、「三骨一廟」と呼ばれている。

しかし、横向き棺は石棺だといわれているが、写真でも分かる通り、石棺にしてはくり抜きが浅く、とても遺体を置く場所とは考えられず、棺を一時安置するための棺台だと考えられる。

ゆえに三骨一廟は成立しないという説もある。

果たしてこの円墳が伝承どおり、聖徳太子の墳墓であるのかどうかであるが、「岩屋山式の切石造り両袖式」石室の築造時期を、皇子の死から半世紀下る7世紀後半頃に位置づけられる、とすると、太子の没年が621年又は622年(7世紀前半)であることから「北古墳」は太子の陵墓ではないことになる。

厩戸皇子の墓について、『日本書紀』では「磯長陵」に葬ったと見えるが、合葬の旨の記載はない。『延喜式』でも、遠墓の「磯長墓」として記載され、河内国石川郡の所在とするが、こちらにも合葬の旨の記載はない。

 

『古事談』・『太子伝私記』から、次のように考えられる。

平安時代1053年(天喜元年)に河内国石川郡の磯長谷に私堂を建てた僧・忠禅は、近くにある古墳の石室を発見した。石室は磨き上げた切石造りで、三基の棺があることから、忠禅はこの古墳が聖徳太子廟であると断定した。そこで、此の地に聖徳太子の墓前寺を建立しようと、大理石に国王・大臣が寺塔を発起するようにとのニセの銘文を刻んで埋め、翌年の9月に掘り出して、「太子御記文」が出土したと、ことの次第を四天王寺に届け出た。四天王寺から奏上のあつた朝廷は、「太子御記文」については四天王寺と法隆寺に調べさせた。四天王寺も法隆寺も「太子御記文」を本物とし治定した。四天王寺と法隆寺は、忠禅の画策を寺の繁栄のために利用したが、忠禅がのさばることを恐れ、理由をつけて投獄させた。

仏法界とは思えない虚偽欺瞞に彩られた作事である。

叡福寺が創建されたのは、その後のことである。

どうやら叡福寺は、聖徳太子の墓ではないようである。

 

さらに、誰しもが不思議に思うことは、推古朝の中心地・飛鳥に当時の天皇の墓はなく、蘇我馬子(石舞台古墳)や稲目(都塚古墳?)・蝦夷(小山田古墳?)・入鹿(菖蒲池古墳?)の墓は、飛鳥のど真ん中にある。用明・崇峻・推古・さらに聖徳太子の墓は、西の山を越えた河内にある。これは『日本書紀』の記述以上に動かすことの出来ない事実である。本当のところ、誰が権力者・大王だったのか?

 

 

 

====================

次回は 第13回 「蘇我馬子」

 

 

(担当 H)

====================